境界線の向こうに眠る

 今日は朝から母の機嫌を損ねてしまった。朝食を終え、食器を片付けている時のことだった。

「今日は一日図書館で勉強するから」

友達のバイトの手伝いに行くなどと言ったら、母が何を言い出すかわからない。母はわたしが新しいことを始めようとするのが気に入らない。

 お姉ちゃんが亡くなって半年が経とうとしていた頃、バイトがしたいと話したことがあった。バイトしたお金で母になにかプレゼントをして少しでも元気になってもらいたかった。なのに――「外で自由にアルバイトをして好き勝手に生きるつもり?なに一つやりたいことができずに亡くなったお姉ちゃんの気持ちを考えなさい」そんな言葉が返ってきた。

 お姉ちゃんは好奇心旺盛で天真爛漫な人だった。新しいものを見る度に目を輝かせ、気になることがあると誰にでも話し掛けた。お姉ちゃんの中には数えきれない程の夢と希望が詰まっていたに違いない。そう思うと、母の言葉はどこにも引っかかることなくすんなりと入ってきた。けれど、母の本心は別のところにあるように今は感じる。お姉ちゃんを失ったあの日から、一歩も動けないでいる母。わたしが新たになにかを始めると、自分だけが取り残されたような感覚になるのだろう。

「お昼ご飯は?」
「適当にコンビニでパンでも買うよ」

いつも通りに話しているつもりだった。でも、母にはそうは見えないようだった。

「なんか楽しそうね」

それは不機嫌な声だった。うつむいてばかりで顔なんて見ていないのに、こうしてたまに鋭い指摘をしてくる。きまってそれは、わたしにとって楽しみななにかがある時だった。
 
 いつも母に話す時は、気分を害することを言わないように気を付けている。お昼ご飯はと聞かれても、友達と食べるとは答えなかった。楽しんでいるところを想像させるようなことも言わない。母との会話は、会話というよりは、問題を解くような感覚だ。

「図書館で勉強するだけだよ?別にそんなに楽しいことじゃないけどね」

気を付けて発したはずの言葉は不正解だった。

 母はダイニングテーブルに座り、目の前のコーヒーカップを見つめている。さっきわたしが淹れたコーヒーが熱かったらしく、水を足したコーヒーはカップいっぱいに残っている。母はその黒い水面を見つめ、薄く開けた口から言葉を落とした。

「その、別に楽しいことじゃないこともお姉ちゃんにはできなかったのよ」

無機質な声が作り出した重い空気の中で、息苦しさに耐えながら正解の言葉を探す。否定するような物言いは絶対に駄目で、たとえば“そんなつもりで言った訳ではない”などと言ったらまた、言葉が返ってきてしまう。だから、こう言うしかない。

「その通りだね。ごめん」

そう言葉を残すと、なにか言われる前に出掛ける準備を始めた。

 母は何かにつけて“お姉ちゃんのことを忘れたの?”と言った。母の料理をおいしいと笑顔で言った時も、苦手な数学で九十点を取って喜んだ時も、わたしが生きていることを忘れているみたいに、“お姉ちゃんのことを忘れたの?”と突きつけた。

 お姉ちゃんが死んだことは当然、悲しかった。でも、何度も繰り返し突きつけられる言葉によって悲しみの中心が少しずつずれていった。自分の存在意義がわからなくなり、死んだのがお姉ちゃんではなく、わたしだったらよかったのではないか――そう思うようになっていた。次第に、お姉ちゃんが死んで悲しんでいる母を見ても、同じ気持ちで悲しむことができなくなった。今ではもう、お姉ちゃんの死そのものが、悲しいことなのかすらわからない。

「じゃあ、行ってきます」

リビングでテレビを見ている母は「時間まで帰ってきなさい」と遠くを見るような眼差しで言った。

 外に出ると、青空が広がっていた。新鮮な空気を吸い込むと、さっきまでの憂鬱が消えていく。そして、これから楓と会えると思うと、自然と顔が綻んだ。

 コンビニに着くとすでに楓は来ていて、わたしの荷物を見るなり首を傾げた。

「なに持ってきたの?」

リュックの中には教科書が入っている。事情を話すと楓は駅に向かってバイクを走らせた。荷物は一旦駅のコインロッカーに預けることになった。

 日曜日の駅には平日特有の混沌とした様子はなく、改札を抜ける人々の足取りには余裕がある。楓を待たせてはいけないとコインロッカーへと急ぐ途中、笑顔で誰かと話しながらこちらに向かって歩いてくる東条くんを見つけた。隣にいる相手は行き交う人々に隠されて顔が見えない。すれ違う人々の隙間から、一瞬だけ隣の人物の姿が見えた。

 一瞬だった。それでもスローモーションのように時間が流れ、いくつもの光景が目に飛び込んできた。

 東条くんの隣にいたのは西華女子学園の生徒だった。長い黒髪が腰の辺りまである、綺麗な顔をした人だった。そして、二人の手は恋人同士であることを疑う余地もないほど、指と指が隙間なく重なっていた。

 行き交う人々がまた、彼女の姿を消し、二人がわたしの脇を通り過ぎた瞬間、喧騒が一気に戻ってくる。雑踏の中で、わたしは自分が思いのほか冷静でいることに気が付いた。昨日はあんなに辛かったのに、たった一日でこんなにも気持ちが変わったことに驚いている。ただ、がっかりはしている。いっぱい苦しんで、悲しんで、自分の心を費やした人があんな人間だったことに。そして、あんな人に恋をしていた、自分の見る目のなさに。

 荷物を預けると楓の元へと走った。

「お待たせ」

楓はヘルメットを渡す素振りをすることなくじっとわたしを見つめると、「なんかあった?」なんて聞いてくるから驚いてしまう。

「なんで?」
「美月の空気がさっきと違うから」

なにかあったのは確かだけど、今の出来事を楓に話すつもりはなかった。苦しいわけでも、悲しいわけでもない。自分の中で解決できる程度のことだったから。それでも、このわずかな心のもやもやが楓にはわかるのか、次に口にした言葉は「それで、なにがあったの?」だった。

「まったく、楓ってエスパーなの?東条くんがいた。彼女と一緒だったよ」
「はぁ?想像以上に賑やかなやつだな。クズを決める大会に出たら準決勝までは楽勝じゃない?」

楓はヘルメットを差し出すと大袈裟に顔をしかめた。

「その大会開催してよ」

冗談で言った言葉に冗談が返ってくるのは早かった。

「任せとけ」

顔を見合わせて笑い、目的地へと向かった。

 体を抜ける風がとても心地いい。心の片隅にわずかに残るもやもやが吹き飛ばされ、辛い恋が過去になっていく。楓と出会っていなかったら、わたしはまだ、あの恋の中にいたのかもしれない。