境界線の向こうに眠る

 楓の言う明るいところは、わたしが想像する明るいところとはまったく違った。静かな港から一変、辺りは派手な灯りに彩られ眩しいくらいに輝いている。右を見ても左を見てもきらびやかで胸がざわめく。ここは高校生が来るような、ううん来ていいような場所じゃない。

 人々は朝とは違う顔を見せ、それぞれの目的地へと歩いている。肩を組み、頬を赤らめながら、車道を我が物顔で歩くサラリーマンに、突然道路に飛び出して来る若者。楓は人々の動きに合わせてハンドルを操作し、ゆっくりとバイクを走らせる。

 ゆっくり景色が流れると、視覚と嗅覚が刺激される。ドレス姿の派手な女性が店の前で客を見送り、賑やかな声が漏れる飲食店の換気扇からは、ひっきりなしに白い煙が出ている。蛍光灯が眩しい店には客が一人も入っておらず、店主が客席に座り野球観戦をしていた。

 食べ物の匂いと香水の甘い匂い、それと人々が出す汗の匂いや煙草の匂い、それらが混ざり合い鬱屈した空気が充満している。きらびやかなのにどこか不穏で危うい。息苦しいのになぜか高揚感が押し寄せてくるここは、不思議な場所だ。

 赤信号で停まると楓に声を掛けた。

「うちら、高校生ってバレないかな?」
「ヘルメットで顔見えないから大丈夫でしょ。どう?夜の繁華街は?」
「目眩がしそう」

楓が大きな声で笑うからつられて笑った。

 繁華街を抜けるとバイクは交通量の少ない郊外へと向かっていく。体の中の空気が入れ替わり、呼吸がしやすくなる。街灯が減り、暗く静かな道路にバイクの音だけが響く。角を曲がり、急な坂を上ると道はどんどん狭くなり、暫くすると駐車できるスペースが現れ、正面にはなにかの施設が建っていた。

 バイクが停車し、ヘルメットを外すと背の高い木々の隙間から夜景が見えた。きっとここは夜景を見るための場所ではないけれど、わたしには十分過ぎるほど綺麗だった。

「うわ、夜景って初めて見た。綺麗だね」
「木が邪魔で見えづらいけどね」

楓は視界を遮る木の前に立つと「ほら」と向こうを指差し、わたしを呼び寄せる。

「あの一番明るいところがさっき俺たちがいた繁華街。もっと高い場所に行けば美月の家の辺りも見えるんだけど、ちょっと時間が掛かるから、そこには今度連れて行くよ」
「楓の家は見える?」

視線の先に橋が見える。絶対に越えてはいけないあの橋は、わたしと楓を隔てる境界線。

「俺の家は、あの橋を越えてすぐのボロアパート。そこに一人で暮らしてる」
「えっ一人で?冗談でしょ?」

楓は設置された柵に両手を置くと、眼前に広がる夜景を見ながらさらりと話した。

「本当。中三の時に母親が癌で死んで、それからずっと一人暮らし」

楓にとって、お母さんの死は、すでに日常の一部になっているようだった。よく、時間が解決するとは言うけど、誰もいない部屋で一人、中学三年生の男の子が、悲しみを抱えながら幾度となく訪れる夜をどうやって乗り越えてきたのだろう。時間が解決したのだとして、それまでの間、楓はなにを考え、どんな風に過ごしていたのだろう。誰か傍にいて支えてくれる人が――いたのだろうか。

「お父さんは?」
「母親が死んでから会ってないよ」
「きょうだいは?」
「俺、一人っ子」
「そうなんだ」

なにか事情があるのは明確で、だからそれ以上のことを訊くのはやめた。

 しばらくの間、静かな時間が流れた。

 夜景の灯りが、憂いも翳りもない綺麗な楓の瞳の中で小さな星のように輝いている。じっと見てしまっていたのだろう。目が合い、慌てて思い付いた質問をぶつけた。

「一人暮らしだからバイト二つもやってるの?」
「正確には三つ?いや、数え切れない」
「数え切れないってどういうこと?」
「美月はバイトしたことある?」

首を横に振るわたしを見て、楓は口角を上げると「バイトデビューおめでとう」とよくわからないことを言う。

「どういうこと?」
「明日、朝九時、今日待ち合わせしたコンビニに集合」
「ちょっと待って、朝九時に集合ってなにするの?」
「バイト手伝ってもらおうかなって」

本当にこの人には驚かされる。なにをどうすればそうなるのかがまったくわからない。だから楽しくて仕方がなくなる。一緒にいたら、知らない景色がたくさん見れるんだろうなと、想像するだけでわくわくする。もう、なにも考えず、頭の中を空っぽにして楓に付いて行ってみたくなる。楓がいればどこにだって行ける気がする。それでも、罪悪感はぬぐい切れない。頭を空っぽになんてできない。楓と一緒にいてもいい理由が――欲しい。

「バイト先にわたしを連れて行ったら怒られるでしょ?それに⋯⋯これ以上楓に関わるわけにはいかないよ」

夜の風が頬を撫で、楓の手が顔に掛かった髪の毛を優しく寄せてくれる。

「美月は俺に関わってなよ」

 夜風と共に空白の時間が流れる。両親を悲しませたくないのに、楓の言葉に心が揺れる。気が付けば毎日楓と顔を合わせている。あの日、もう少し早く商店街に行っていたら。あるいは、もう少し遅く行っていたら。会うことはなかったのに。どうして会ってしまったんだろう。

「なんで楓は東風なんかに入ったの……」
「美月と出会うって知らなかったから」

また、わたしの心を揺らす言葉が返ってくる。

「あの橋を越えることは絶対に許されないんだよ。なのにどうして楓はあの橋の向こうにいるの……」

夜の町に浮かぶ橋、その一本の線は世界を真っ二つに分けるように硬く重く伸びている。

「俺は美月を絶対に危険な目には遭わせないし、悲しませることもしない。辛いことがあったらそれを全部、俺にぶつけていい。どんなものでもひとつ残らず受け取ってやるから。だから美月は俺に関わってなよ」

 月明かりが楓の顔を照らす。真っ直ぐな目がわたしを見ている。もう無理だ――楓と出会う前の世界に戻るなんてできない。

「楓は酷いよ」
「どうして?」
「バイト手伝わせようとしてるから」

楓は、ほっとした表情を浮かべると「バイト代は払うから」と言って笑った。