時間になり、一階に降りた。玄関から靴を取り、座敷へ向かった。静かに戸を開け、慎重に閉める。息を殺し、音を立てないように歩くと、掃き出し窓から外に出た。
道路に出ると一気に胸が高鳴った。夜の匂いも空に浮かぶ月も、ベランダにいても同じ情報が入ってくるのに、地に足がついていると月は一段と輝き夜の匂いは一層濃くなる。
コンビニに着くと駐車場にはバイクが一台と、自転車が数台停まっていて、楓は縁石に座りスマホを弄っていた。
「来たよ」
楓は「待ってる間、美月の顔描いて遊んでた」とスマホの画面を向けてくる。そこには性別すら不明な不格好な顔が描いてあった。
「全然似てないから。楓って絵、下手なんだね」
つい、こんなことを言っても楓は笑っている。もしも、楓以外の東風の人に言ったらどうなるのだろう。ふと、奈落街で見た集合住宅の壁の落書きを思い出していると、ヘルメットを渡された。
「はい、これ被って」
その瞬間、体が強張り、あの事故の現場がフラッシュバックした。
桜が満開の季節だった。スピードを出しすぎたバイクはカーブを曲がり切れず、民家の壁に激突した。翌朝、両親と一緒に事故現場へ行った。すると、民家の壁には、お姉ちゃんが気に入ってよく着ていた、ピンク色のカーディガンが擦れた跡が残っていた。その壁を越えるように伸びた桜の木が、残された跡を覆うように影を落としていた。今でも、同じような壁を見ると、あの日の光景が頭に浮かぶ。以前は、思い出すたびに胸の奥から得体の知れないものが込み上げてきて、悲鳴を上げて泣き出したくなった。でも、今はもう、そんなことは起こらない。乗り越えたわけではない。ただ、自分の存在意義がわからなくなった頃から、お姉ちゃんを失った悲しみが朧気になった。
「バイク、怖い……」
「乗ったことない?」
楓は頷くわたしの頭にヘルメットを被せると紐を調節する。
「美月の頭小さくてサイズ合うのなかったから、新しいの買ってきたんだけど、よかった、ぴったり」
公園で別れ際両手で頭を触ったのはサイズをみていたのだと今、わかった。
「いくらしたの?」
「三万ちょっと」
「えっそんなに!」
三万円もするヘルメットを買ってくれたと知ってしまえばもう、乗車拒否する権利を奪われたも同然だ。楓に言われるままバイクにまたがると、思っていたよりも車体が高く、地面に足が届かない。怖くて思わず楓にしがみついた。
「安全運転で行くから大丈夫」
楓の手が、しがみついているわたしの腕に二度触れた。その直後、バイクが静かに動き出す。道路へ出ると、エンジン音が一段高くなり、車体は一気に加速した。怖くて目をぎゅっと閉じ、楓に回した腕に力を込める。これまで感じたことのない強い風が全身を叩く。浅い呼吸を繰り返しているうちに信号でバイクが止まり、ようやく目を開けた。
そこには、見慣れた街の景色があった。休日に家族とよく訪れたファミレス。父がいつも車に給油していたガソリンスタンド。その向かいにあるメガネ屋には、お姉ちゃんの付き添いで何度か来たことがある。けれど今は、店内の明かりも消えていた。
信号が青に変わる。バイクは再び走り出し、街の明かりの中を駆け抜けていく。景色が次々と後ろへ流れ、夜の向こう側に吸い込まれていく。常に新しい空気が体を満たし、気が付けば強張っていた肩の力は抜け、辺りを見渡す余裕さえ出てきていた。
バイクが信号を曲がると徐々に建物が減っていく。街の中心からどんどん離れ、車通りはほとんどない。街灯の灯りが一定のリズムで視界を横切り、暫くすると潮の匂いが漂ってくる。走るにつれ、その匂いはどんどん濃くなっていく。
楓がバイクを停めたのは砂浜がある海ではなくて港。バイクを降りると楓はわたしのヘルメットを外し、向こうを指差した。
「あれ、工場だよ」
「えっ…あれが工場……」
大きな建物が、色も大きさも異なるさまざまな光に照らされ、暗闇に浮かんでいる。無機質で巨大な建物は近未来的にも、はたまた不気味にも見える。幻想的で綺麗なのに煙突から出ている煙や静けさの中に聞こえてくる機械音が不穏で、じっと見ていると一人取り残されたかのような孤独感にも襲われる。その個性的な美しさから目が離せなかった。
「こんな景色があるなんて……凄いね、夜って。ありがとう楓、わたしをここに連れてきてくれて」
目と耳と心を一気に刺激され、心臓が動いているよりも、呼吸をしているよりも“生きている”という感覚が強調された。
「こんなんで感謝されるとは」
「ううん……凄いよこの景色。久しぶりだよ、こんな気持ちになるの。感動してるのかな」
胸に当てたわたしの手を楓は指差すと「そこ、明日筋肉痛になってたらごめん」なんて言い出すから可笑しくて笑った。
喜怒哀楽の“哀”以外封印していたのだと思う。それは全部、母の神経を逆なでしてしまう感情だから。こんなにも心を動かしてしまって大丈夫なのか不安になる。押さえられていた感情があの煙突から出る煙のようにどんどん大きくなって外へ流れだし、母を傷つけてしまわないか、自分自身を苦しめてしまわないかと心配になった。
どんな顔をしていたのか「大丈夫?」と楓の静かな声が聞こえてくる。返事をする前に「俺に全部ぶつけちゃえば」と楓は言う。「なにを?」と尋ねると楓は空を見上げた。
「俺、ずっと前から美月のこと知ってたよ」
「えっ」
楓はなにかを思い浮かべるように遠くを見つめた。そして、本のページを一枚一枚ゆっくりと捲るように静かに話し始めた。
「あれは去年の夏だったかな。ベランダで女の子が、今にも死んでしまいそうなくらい悲しい顔で空見上げていたんだ。俺はなぜかその子のことをずっと見ていて、声を掛けなきゃって思った時には部屋の中に入ってしまって。次の日、気になってもう一度その子の家に行ってみたけど、部屋の電気が付いているだけで、その姿を見ることはできなかった。それから、その子の家の近くを通る度に見に行ったんだけど、結局一度も見ることはできなかった。あの時なんで声掛けなかったんだろうって、ずっと後悔していて、でも、この前突然その子が目の前に現れたんだ。あの時と同じ顔で。もう、一年も経っているのにちっとも変わっていなかった」
岸壁にぶつかる小さな音が夜に溶けていく。辛いことがあるたびにベランダに出て自分を殺しては、空を見上げていた。
商店街で楓に手を掴まれた時のことを思い出した。あの時、手を掴まれた瞬間に広がった、あの温かさ。あれはずっと、わたしを心配していた楓の手だった。
「家、知っていたのに聞いたの?」
「この話、するつもりなかったから」
「しないでほしかった」
「だよね、ごめん」
気持ちが込み上げてきてコントロールができなかった。
「そんな話聞いたら、わたし楓の傍にいたくなるよ⋯⋯」
つい、口をついて出た言葉を楓は軽く流した。きっとそれは、わたしを困らせないため。
「傍にいなよ。せっかくヘルメットも買ったわけだし」
楓はわたしにヘルメットを被せるとバイクにまたがる。
「一番安いヘルメットでよかったのに」
「命守るものだよ、ケチれないでしょ」
そういう言葉がいちいちわたしの鼓動を乱しているとも知らずに、楓は後ろに乗るように合図をすると「明るいところに行こう」と、エンジンをかけた。
道路に出ると一気に胸が高鳴った。夜の匂いも空に浮かぶ月も、ベランダにいても同じ情報が入ってくるのに、地に足がついていると月は一段と輝き夜の匂いは一層濃くなる。
コンビニに着くと駐車場にはバイクが一台と、自転車が数台停まっていて、楓は縁石に座りスマホを弄っていた。
「来たよ」
楓は「待ってる間、美月の顔描いて遊んでた」とスマホの画面を向けてくる。そこには性別すら不明な不格好な顔が描いてあった。
「全然似てないから。楓って絵、下手なんだね」
つい、こんなことを言っても楓は笑っている。もしも、楓以外の東風の人に言ったらどうなるのだろう。ふと、奈落街で見た集合住宅の壁の落書きを思い出していると、ヘルメットを渡された。
「はい、これ被って」
その瞬間、体が強張り、あの事故の現場がフラッシュバックした。
桜が満開の季節だった。スピードを出しすぎたバイクはカーブを曲がり切れず、民家の壁に激突した。翌朝、両親と一緒に事故現場へ行った。すると、民家の壁には、お姉ちゃんが気に入ってよく着ていた、ピンク色のカーディガンが擦れた跡が残っていた。その壁を越えるように伸びた桜の木が、残された跡を覆うように影を落としていた。今でも、同じような壁を見ると、あの日の光景が頭に浮かぶ。以前は、思い出すたびに胸の奥から得体の知れないものが込み上げてきて、悲鳴を上げて泣き出したくなった。でも、今はもう、そんなことは起こらない。乗り越えたわけではない。ただ、自分の存在意義がわからなくなった頃から、お姉ちゃんを失った悲しみが朧気になった。
「バイク、怖い……」
「乗ったことない?」
楓は頷くわたしの頭にヘルメットを被せると紐を調節する。
「美月の頭小さくてサイズ合うのなかったから、新しいの買ってきたんだけど、よかった、ぴったり」
公園で別れ際両手で頭を触ったのはサイズをみていたのだと今、わかった。
「いくらしたの?」
「三万ちょっと」
「えっそんなに!」
三万円もするヘルメットを買ってくれたと知ってしまえばもう、乗車拒否する権利を奪われたも同然だ。楓に言われるままバイクにまたがると、思っていたよりも車体が高く、地面に足が届かない。怖くて思わず楓にしがみついた。
「安全運転で行くから大丈夫」
楓の手が、しがみついているわたしの腕に二度触れた。その直後、バイクが静かに動き出す。道路へ出ると、エンジン音が一段高くなり、車体は一気に加速した。怖くて目をぎゅっと閉じ、楓に回した腕に力を込める。これまで感じたことのない強い風が全身を叩く。浅い呼吸を繰り返しているうちに信号でバイクが止まり、ようやく目を開けた。
そこには、見慣れた街の景色があった。休日に家族とよく訪れたファミレス。父がいつも車に給油していたガソリンスタンド。その向かいにあるメガネ屋には、お姉ちゃんの付き添いで何度か来たことがある。けれど今は、店内の明かりも消えていた。
信号が青に変わる。バイクは再び走り出し、街の明かりの中を駆け抜けていく。景色が次々と後ろへ流れ、夜の向こう側に吸い込まれていく。常に新しい空気が体を満たし、気が付けば強張っていた肩の力は抜け、辺りを見渡す余裕さえ出てきていた。
バイクが信号を曲がると徐々に建物が減っていく。街の中心からどんどん離れ、車通りはほとんどない。街灯の灯りが一定のリズムで視界を横切り、暫くすると潮の匂いが漂ってくる。走るにつれ、その匂いはどんどん濃くなっていく。
楓がバイクを停めたのは砂浜がある海ではなくて港。バイクを降りると楓はわたしのヘルメットを外し、向こうを指差した。
「あれ、工場だよ」
「えっ…あれが工場……」
大きな建物が、色も大きさも異なるさまざまな光に照らされ、暗闇に浮かんでいる。無機質で巨大な建物は近未来的にも、はたまた不気味にも見える。幻想的で綺麗なのに煙突から出ている煙や静けさの中に聞こえてくる機械音が不穏で、じっと見ていると一人取り残されたかのような孤独感にも襲われる。その個性的な美しさから目が離せなかった。
「こんな景色があるなんて……凄いね、夜って。ありがとう楓、わたしをここに連れてきてくれて」
目と耳と心を一気に刺激され、心臓が動いているよりも、呼吸をしているよりも“生きている”という感覚が強調された。
「こんなんで感謝されるとは」
「ううん……凄いよこの景色。久しぶりだよ、こんな気持ちになるの。感動してるのかな」
胸に当てたわたしの手を楓は指差すと「そこ、明日筋肉痛になってたらごめん」なんて言い出すから可笑しくて笑った。
喜怒哀楽の“哀”以外封印していたのだと思う。それは全部、母の神経を逆なでしてしまう感情だから。こんなにも心を動かしてしまって大丈夫なのか不安になる。押さえられていた感情があの煙突から出る煙のようにどんどん大きくなって外へ流れだし、母を傷つけてしまわないか、自分自身を苦しめてしまわないかと心配になった。
どんな顔をしていたのか「大丈夫?」と楓の静かな声が聞こえてくる。返事をする前に「俺に全部ぶつけちゃえば」と楓は言う。「なにを?」と尋ねると楓は空を見上げた。
「俺、ずっと前から美月のこと知ってたよ」
「えっ」
楓はなにかを思い浮かべるように遠くを見つめた。そして、本のページを一枚一枚ゆっくりと捲るように静かに話し始めた。
「あれは去年の夏だったかな。ベランダで女の子が、今にも死んでしまいそうなくらい悲しい顔で空見上げていたんだ。俺はなぜかその子のことをずっと見ていて、声を掛けなきゃって思った時には部屋の中に入ってしまって。次の日、気になってもう一度その子の家に行ってみたけど、部屋の電気が付いているだけで、その姿を見ることはできなかった。それから、その子の家の近くを通る度に見に行ったんだけど、結局一度も見ることはできなかった。あの時なんで声掛けなかったんだろうって、ずっと後悔していて、でも、この前突然その子が目の前に現れたんだ。あの時と同じ顔で。もう、一年も経っているのにちっとも変わっていなかった」
岸壁にぶつかる小さな音が夜に溶けていく。辛いことがあるたびにベランダに出て自分を殺しては、空を見上げていた。
商店街で楓に手を掴まれた時のことを思い出した。あの時、手を掴まれた瞬間に広がった、あの温かさ。あれはずっと、わたしを心配していた楓の手だった。
「家、知っていたのに聞いたの?」
「この話、するつもりなかったから」
「しないでほしかった」
「だよね、ごめん」
気持ちが込み上げてきてコントロールができなかった。
「そんな話聞いたら、わたし楓の傍にいたくなるよ⋯⋯」
つい、口をついて出た言葉を楓は軽く流した。きっとそれは、わたしを困らせないため。
「傍にいなよ。せっかくヘルメットも買ったわけだし」
楓はわたしにヘルメットを被せるとバイクにまたがる。
「一番安いヘルメットでよかったのに」
「命守るものだよ、ケチれないでしょ」
そういう言葉がいちいちわたしの鼓動を乱しているとも知らずに、楓は後ろに乗るように合図をすると「明るいところに行こう」と、エンジンをかけた。

