境界線の向こうに眠る

 わたしの住む町には、大きな噴水広場がある。その広場を中心に、西に西華女子学園、南に南泉高校、北にわたしが通う北翠高校、そして東に東風学園がある。東風学園だけは、大きな橋を渡った先にある。そんな東風学園がある橋の向こう側は“奈落街(ならくがい)”と呼ばれていて、わたしたちの町とは別世界のように扱われていた。

 多くの親は、子供たちだけで橋の向こうに行くことを許していない。言うまでもなく、うちも例外ではない。お姉ちゃんがあんなことになる前から“橋の向こうには行くな”という鉄の掟があった。それなのに、お姉ちゃんは東風の男子が運転するバイクの後ろに乗って、そして、事故に遭って死んだ。

 両親は、東風の生徒に無理やりバイクで連れ去られたのだと言っていた。わたしも、お姉ちゃんが東風の生徒と関わる筈がないと思っている。けれど、お姉ちゃんが東風の男子と一緒にいた理由も、どこへ向かっていたのかも、二人がどういう関係だったのかもわからない。わかっているのはお姉ちゃんが死んだのがわたしの誕生日の前日だったということだけで、あとはすべて憶測に過ぎない。
 
 お姉ちゃんが高校に入学した頃、奈落街がどれだけ危険な場所かを教える為、一度だけ両親はわたし達姉妹を車に乗せ、橋の向こうに連れて行った。初めて見る知らない場所に怖いと思いつつも、少しわくわくしていたのを覚えている。橋を渡り、少しすると何棟も立ち並ぶ灰色の古びた集合住宅が見え、父が指を差した。

「ほら、酷い落書きがあるだろ」

正体のわからない黒いシミが広がる灰色の建物の壁には、落書きが縦横無尽に踊っていた。スプレーで描かれた色褪せた建物とは不釣り合いなカラフルで雑な絵が、窓に掛かったカーテンなどでわずかに感じる生命の気配を希薄にしていた。車が狭い路地に入っていくと看板に【酒・たばこ】と書かれた小さな商店があり、自動販売機の前ではバイクにまたがった若者が煙草を吸いながら談笑していた。車がゆっくりと彼らの脇を通ると、その視線が一斉にこちらへと向いた。煙草の煙の奥に見えた鋭い目が怖くてわたしは下を向いて、お姉ちゃんの手を握るとその場を通り過ぎるのを静かに待った。

 目に映るものすべてに生気を感じなかった。色褪せた古いビルの看板は割れていて、ひびが入った窓はガムテープで修復されていた。閉店した店のシャッターには当たり前のように落書きがあって、その前には酒に酔った老人が歩道に足を放り投げて座っていた。
至る所に転がる空き缶や折れた傘、煙草の吸殻は、町の一部となって馴染んでいた。

「楓は、橋の向こうに住んでるの?」

橋の向こうに住んでいる人が、皆、東風学園に通っているわけではない。橋の向こうから北翠高校に通っている生徒もいる。ただ、橋の向こうに住んでいて、しかも東風学園となると、正真正銘というか、筋金入りのというか――。

「そうだけど」

その答えに、がっかりしている自分がいた。楓が東風学園という時点で、十分関わってはいけない相手。さらに橋の向こうに住んでいると知ってしまえば、今こうして一緒にいることに、もう酌量の余地はない。

「やっぱり、楓はあっちの人なんだね……」

つい、そんなことを言ってしまう。

それでも、楓は顔色一つ変えることなく明るい声で「あっちでは眠るだけ」と言う。

「眠るだけ?」
「そっ、俺、バイトで忙しいから家には寝に帰るだけなの」
「学校には行かないの?」
「自慢じゃないけどほぼ皆勤賞。しかも、遅刻も早退もしない」

楓の言っていることが冗談ではなく本当ならば、東風学園に真面目に通っている生徒というアンバランスがなんだか可笑しい。

「東風にはまともな人、ひとりもいないって噂だよ。喧嘩して、カツアゲして、先生殴って。そんな人ばかりなんでしょ?」
「だから東風のやつとは付き合えないって?」
「親にバレたら勘当されるよ」

楓の声のトーンが、初めて低くなった。

「東風にいいイメージなんてあるわけないもんね。確かにヤバいやつばっかだし」
「楓も……そうなの?」
「別に殴りたいやついないし、バイトしてるから金はあるし、教師の言うことは正しいと思ってる」
「それでも、楓とは付き合えないよ。両親が悲しむから」

 お姉ちゃんのことは話さなかった。ただ、お姉ちゃんをバイクの後ろに乗せていた五十川琉依(いらがわるい)と楓は同級生で、だからあのバイク事故のことを知らない筈がない。楓に訊けば、なにかわかるかもしれないけど、自分の家族に起きた出来事を話せば、今よりも関わりが深くなってしまう気がした。

楓は「わかった」と爽やかに言うと、「ところで」と話を続ける。

「明日学校休みだし、夜どっか行こうよ」

たった今、振られた人とは思えない程明るい顔で、当たり前に誘って来る楓に言葉が出ない。

「えっと、俺これからもう一つのバイト先に行かなきゃだから、二十時でどう?あっ、美月の家ってどの辺?迎えに行くよ。そういえば連絡先も交換してなかったね、教えてくれる?」

ポケットからスマホを取り出す楓を止めた。

「ちょっと待って」
「ん?」

なにもわかっていない顔で首を傾げる楓を見て改めて思う。この人はわたしが出会ったことのないタイプの男子だ。

「そもそも、うちの門限は十九時半だからそんな時間に家を出るなんて無理。それと、話聞いてた?東風の男子と関わるのは両親に禁止されてるの。こうして今、話しているのだって本当は駄目なんだよ」

「門限は破る為にある訳だし、今、一緒にいるのはたしか……美月が俺に会いに来たからじゃなかった?」

ぐうの音も出ない。楓が得意気な笑顔でわたしを見ている。

「それはそうなんだけど。でも!門限は破る為にある訳じゃないよ」
「十九時半まで家に帰ってそれから家を出るんだから門限は守ってるよ」

そんな屁理屈がまかり通るなら世も末だ。楓は能天気な笑顔を浮かべると「夜は楽しいよ」と言って目を細めた。

 お姉ちゃんのことがある前からうちは、他の家と比べて門限は早い方だった。それでも、高校になってからの門限は二十一時になり、中学の頃から一時間半も伸びたことに喜んでいた。ところが、それから数日後、お姉ちゃんはあの事故に遭った。そして、わたしの門限は、十九時半に戻された。友達と遊んでいる時も、いつも一番先に帰るのはわたし。翌日、わたしが帰ったあとの出来事でみんなが盛り上がっていると、自分がいなくなってからの方が楽しいことが起きているように思えた。

「楽しそうだね……」

 商店街も、噴水広場も、夜には知らない色に変わる。乏しい想像でしかないのに、それでも胸が躍った。

「夜の海って行ったことある?」
「ない」
「マジかよ!学校は?」
「ある訳ないよ」
「コンビニくらいはあるでしょ?」
「ううん」
「いろんな場所見せてやりたいな美月に」

 風が木々を揺らし、乾いた落ち葉が風にさらわれ遠くに連れ去られていく。家族を裏切ることになる。だから、これ以上一緒にいることはできない。でも、楓が勝手にわたしを連れ去るなら――それは仕方のないこと。わたしのせいじゃない。

「楓のせいにしてもいいなら」

少しの沈黙のあと、言葉の意味を理解した楓が笑う。

「今日の夜、美月は家を抜け出す。それは俺のせいであって、美月の意志ではない。だから両親との約束を破ったことにはならない」
「そう」
「上等!」

 静かな公園に、わたしたちの笑い声が響いた。

 連絡先を交換すると、楓が「じゃあ、後で」そう言って、わたしの頭を両手で包み込む。突然のことに息が止まり、声が出せずただ頷いた。

 帰り道、とんでもない約束をしてしまったことに気持ちがざわめく。あれほど関わってはいけないと思っていたのに、夜、家を抜け出して楓に会う約束をするなんてどうかしている。良心の呵責に押しつぶされそうな心を救う為に“楓のせい”と呪文のように唱えた。