土曜日の今日は家で読書をしたり、来月の中間考査に向けて勉強をしたりして過ごすつもりだった。けれど、昨日の帰宅が十九時半を過ぎたことで、母の機嫌は朝になっても直っていなかった。急遽予定を変更し、部活に行くと言って学校に逃げてきた。
土曜日の部活動は参加者が少なく、練習というよりダラダラと会話をするのがメインだ。部室に向かう途中、ドアが開いたままの男子バスケ部の部室から、自分の名前を呼ぶ声が聞こえてきた。
「それで?美月と付き合うことになったの?」
思わず足を止めると、東条くんの声が聞こえてくる。
「まだ、返事もらってないけどね」
内緒で付き合おうと言っていたのに、東条くんが部員たちに話していることに違和感を覚えた。
「当然オッケーするでしょ。ていうか、なんで美月なの?あいつ地味でパッとしないし、絶対に玲香の方がいいでしょ?」
玲香ちゃんの名前が出てきて、この前のことを全部話したのだと知り、複雑な気持ちになる。けれど、それよりも東条くんの答えが気になった。その答えによってはわたしの中でなにかが大きく変化するような気がした。もしかしたら、玲香ちゃんに洗いざらい正直に話して、東条くんの申し出を受け入れることもあり得る。
心臓が止まりそうなくらい緊張していた。固唾を飲み、東条くんの次の言葉を待つ。
「正直、元カノがいい女過ぎて疲れたから地味な女と付き合ってクールダウンしたいんだよね」
しっかり聞こえたはずなのに、すぐには意味を理解できなかった。
部室からは笑い声が聞こえてくる。
「さすが東条、美月と付き合う理由がクールダウンっておもろ」
「今はとりあえず美月と付き合って、体力が回復したら次行こうかなって」
「え~美月ちゃんかわいそう~東条くんひど~い」
一人の男子が女子みたいな話し方でふざけると、部室は笑い声に包まれた。
ようやく内容を理解したわたしは後退りすると、静かに踵を返した。話を聞いていたことがバレるのが嫌だった。きっと、わたしが聞いていたと知ったら場の空気は凍り付く。そんな空気にわたしの方が耐えられない。
廊下の角を曲がると昇降口まで一気に走った。涙で視界が歪んで足がもつれそうになる。血の気が引いて体がぞわぞわする。
部室に響き渡る笑い声の中に東条くんの声も混じっていた。
外に出ると楓の顔が浮かんだ。足は勝手に商店街に向かって走っていた。楓がお店にいるのは平日の夕方。土曜日の今日、楓がそこにいないのはわかっているけど、もしも楓がいたなら、このどうしようもない気持ちをなんとかしてくれるように思えた。
商店街に着き、息を整え青果店の前に行くとおじさんが商品を陳列していた。目が合い、軽く会釈をすると奥の方を覗いてみるけれど、楓の姿はやっぱりない。あきらめて帰ろうとした時、わたしを呼ぶ声が聞こえてきた。
「美月、どうした?」
声の方に目を向けると、そこに楓がいた。わたしの様子を見てなにかを察したのか、すぐに駆け寄ってくる。そして、その手が肩に触れた。
「なにがあった」
楓に会った瞬間、抱え込んでいた思いが胸の奥から溢れ出した。
「楓の言う通りだった。東条くんいい人じゃなかった。わたしと付き合いたいのはクールダウンだって。前の彼女が素敵すぎて疲れたから、だからとりあえず今は、地味なわたしと付き合って、体力が回復したら他に行くんだって。部室でみんなに話してた。笑いながら」
話が終わり沈黙が流れる。今更ながら、バイトの邪魔をしてまで、こんな話をしてしまったことが申し訳なくなった。
「ごめんバイトの邪魔して。わたし、帰る」
すると楓は「ちょっとここで待ってろ。すぐに戻ってくるから」とわたしの肩をそっと二回叩くとお店に入って行った。
きつく締め付けられていた胸の痛みが静かに引いていくのを感じる。優しい手の感触が肩に残っていて、その感触が消える前に楓は戻ってきた。
「行こう」
「バイトは?」
「今日は急遽配達だけ頼まれて。もう終わったよ。これからぱ~っと、どっか遠くに行くのもいいけど、とりあえずすぐそこの公園に行こうか」
「うん⋯」
遊具も砂場もない公園には人影一つなかった。古びたベンチに座ると楓が最初に口を開いた。
「それで、美月はどうするの?」
「月曜日、学校に行ったらはっきりと断るよ」
答えが出たと同時に自分の醜さが露になった。もしかしたら玲香ちゃんを裏切っていたかもしれないのに、今では、東条くんはやめた方がいいなんて、助言しようとしている自分がいる。立場や状況が変わった瞬間、いとも簡単に気持ちがひっくり返った自分に嫌気がさした。
「わたし……最低だ」
そう零した言葉に、風に揺れる木々のざわめきが「そうだ」と言っている。
「どうして美月が最低?」
「東条くんの答えによっては、玲香ちゃんを裏切る可能性だってあったんだ。それなのに、東条くんの答えを聞いた瞬間、今度は玲香ちゃんが心配になって、こんな人と付き合ったら不幸になるって……教えてあげなきゃって……」
「美月は最低じゃないし、玲香ちゃんを裏切ることもしなかったよ」
楓はわかったようにそう話すけど、違う。
「すぐに断らなかった時点で、わたしは玲香ちゃんを裏切ってたんだよ」
楓は間髪入れずに「違うよ」と言って優しい声で話を続けた。
「美月は少しの間休憩しただけだよ」
言っていることがわからず首を傾げた。
「休憩?」
「そう。美月は辛かったんだよ、凄く。玲香ちゃんの気持ちを知って、でも、自分の気持ちが言えなくて。だから東条くんから付き合いたいって言われた時、すぐに断れなかったんだよ。少しの間、嬉しい気持ちでいたかったんだ。それは、美月の中に備わった防衛本能。これ以上辛い気持ちが重なって、心が壊れてしまわないように防衛本能が働いた。ただ、それだけのこと」
季節外れの風鈴の音が聞こえてきた。もう夏は終わったというのに窓辺に置き去りにされ揺れている。お姉ちゃんがいなくなって、母があんな風になってから、わたしの気持ちはあの風鈴のように忘れ去られた。誰もわたしの気持ちになんて寄り添ってはくれなかった。
「だから美月はもう、自分を責めなくていいよ」
防衛本能なんてそんなんじゃないのに、楓だってわかっているのに、わたしの心を守る為にそんな嘘を言っている。
冷え切った胸が温まっていくのを感じる。心の中に陽だまりができて、凍り付いていた感情が動き出す。一緒にいてはいけない人だとわかっているのに、この温かさから離れることができない。
「楓に会いに来て良かった」
素直に言葉が零れて、少ししてから、こんなことを言ってしまって大丈夫かと心配になる。
楓は頬を緩めると胸いっぱいに息を吸い込み空を見上げる。青空の下、金色の髪の毛と綺麗な横顔が光に照らされる。目にかかっていた長い前髪が分かれ、陽射しを受けた目がきらきらと輝く。光はまるで楓が集めたかのように、輪郭を美しく浮かび上がらせていた。その横顔から目が離せずにいると、楓の唇が開く。
「俺と付き合いなよ」
辛い時、最初に浮かんだのは楓の顔だった。この前会ったばかりの東風学園の男子。足を止める理由は十分過ぎるくらいあった筈なのに。今日、わたしは一直線に楓の元へと走っていた。
土曜日の部活動は参加者が少なく、練習というよりダラダラと会話をするのがメインだ。部室に向かう途中、ドアが開いたままの男子バスケ部の部室から、自分の名前を呼ぶ声が聞こえてきた。
「それで?美月と付き合うことになったの?」
思わず足を止めると、東条くんの声が聞こえてくる。
「まだ、返事もらってないけどね」
内緒で付き合おうと言っていたのに、東条くんが部員たちに話していることに違和感を覚えた。
「当然オッケーするでしょ。ていうか、なんで美月なの?あいつ地味でパッとしないし、絶対に玲香の方がいいでしょ?」
玲香ちゃんの名前が出てきて、この前のことを全部話したのだと知り、複雑な気持ちになる。けれど、それよりも東条くんの答えが気になった。その答えによってはわたしの中でなにかが大きく変化するような気がした。もしかしたら、玲香ちゃんに洗いざらい正直に話して、東条くんの申し出を受け入れることもあり得る。
心臓が止まりそうなくらい緊張していた。固唾を飲み、東条くんの次の言葉を待つ。
「正直、元カノがいい女過ぎて疲れたから地味な女と付き合ってクールダウンしたいんだよね」
しっかり聞こえたはずなのに、すぐには意味を理解できなかった。
部室からは笑い声が聞こえてくる。
「さすが東条、美月と付き合う理由がクールダウンっておもろ」
「今はとりあえず美月と付き合って、体力が回復したら次行こうかなって」
「え~美月ちゃんかわいそう~東条くんひど~い」
一人の男子が女子みたいな話し方でふざけると、部室は笑い声に包まれた。
ようやく内容を理解したわたしは後退りすると、静かに踵を返した。話を聞いていたことがバレるのが嫌だった。きっと、わたしが聞いていたと知ったら場の空気は凍り付く。そんな空気にわたしの方が耐えられない。
廊下の角を曲がると昇降口まで一気に走った。涙で視界が歪んで足がもつれそうになる。血の気が引いて体がぞわぞわする。
部室に響き渡る笑い声の中に東条くんの声も混じっていた。
外に出ると楓の顔が浮かんだ。足は勝手に商店街に向かって走っていた。楓がお店にいるのは平日の夕方。土曜日の今日、楓がそこにいないのはわかっているけど、もしも楓がいたなら、このどうしようもない気持ちをなんとかしてくれるように思えた。
商店街に着き、息を整え青果店の前に行くとおじさんが商品を陳列していた。目が合い、軽く会釈をすると奥の方を覗いてみるけれど、楓の姿はやっぱりない。あきらめて帰ろうとした時、わたしを呼ぶ声が聞こえてきた。
「美月、どうした?」
声の方に目を向けると、そこに楓がいた。わたしの様子を見てなにかを察したのか、すぐに駆け寄ってくる。そして、その手が肩に触れた。
「なにがあった」
楓に会った瞬間、抱え込んでいた思いが胸の奥から溢れ出した。
「楓の言う通りだった。東条くんいい人じゃなかった。わたしと付き合いたいのはクールダウンだって。前の彼女が素敵すぎて疲れたから、だからとりあえず今は、地味なわたしと付き合って、体力が回復したら他に行くんだって。部室でみんなに話してた。笑いながら」
話が終わり沈黙が流れる。今更ながら、バイトの邪魔をしてまで、こんな話をしてしまったことが申し訳なくなった。
「ごめんバイトの邪魔して。わたし、帰る」
すると楓は「ちょっとここで待ってろ。すぐに戻ってくるから」とわたしの肩をそっと二回叩くとお店に入って行った。
きつく締め付けられていた胸の痛みが静かに引いていくのを感じる。優しい手の感触が肩に残っていて、その感触が消える前に楓は戻ってきた。
「行こう」
「バイトは?」
「今日は急遽配達だけ頼まれて。もう終わったよ。これからぱ~っと、どっか遠くに行くのもいいけど、とりあえずすぐそこの公園に行こうか」
「うん⋯」
遊具も砂場もない公園には人影一つなかった。古びたベンチに座ると楓が最初に口を開いた。
「それで、美月はどうするの?」
「月曜日、学校に行ったらはっきりと断るよ」
答えが出たと同時に自分の醜さが露になった。もしかしたら玲香ちゃんを裏切っていたかもしれないのに、今では、東条くんはやめた方がいいなんて、助言しようとしている自分がいる。立場や状況が変わった瞬間、いとも簡単に気持ちがひっくり返った自分に嫌気がさした。
「わたし……最低だ」
そう零した言葉に、風に揺れる木々のざわめきが「そうだ」と言っている。
「どうして美月が最低?」
「東条くんの答えによっては、玲香ちゃんを裏切る可能性だってあったんだ。それなのに、東条くんの答えを聞いた瞬間、今度は玲香ちゃんが心配になって、こんな人と付き合ったら不幸になるって……教えてあげなきゃって……」
「美月は最低じゃないし、玲香ちゃんを裏切ることもしなかったよ」
楓はわかったようにそう話すけど、違う。
「すぐに断らなかった時点で、わたしは玲香ちゃんを裏切ってたんだよ」
楓は間髪入れずに「違うよ」と言って優しい声で話を続けた。
「美月は少しの間休憩しただけだよ」
言っていることがわからず首を傾げた。
「休憩?」
「そう。美月は辛かったんだよ、凄く。玲香ちゃんの気持ちを知って、でも、自分の気持ちが言えなくて。だから東条くんから付き合いたいって言われた時、すぐに断れなかったんだよ。少しの間、嬉しい気持ちでいたかったんだ。それは、美月の中に備わった防衛本能。これ以上辛い気持ちが重なって、心が壊れてしまわないように防衛本能が働いた。ただ、それだけのこと」
季節外れの風鈴の音が聞こえてきた。もう夏は終わったというのに窓辺に置き去りにされ揺れている。お姉ちゃんがいなくなって、母があんな風になってから、わたしの気持ちはあの風鈴のように忘れ去られた。誰もわたしの気持ちになんて寄り添ってはくれなかった。
「だから美月はもう、自分を責めなくていいよ」
防衛本能なんてそんなんじゃないのに、楓だってわかっているのに、わたしの心を守る為にそんな嘘を言っている。
冷え切った胸が温まっていくのを感じる。心の中に陽だまりができて、凍り付いていた感情が動き出す。一緒にいてはいけない人だとわかっているのに、この温かさから離れることができない。
「楓に会いに来て良かった」
素直に言葉が零れて、少ししてから、こんなことを言ってしまって大丈夫かと心配になる。
楓は頬を緩めると胸いっぱいに息を吸い込み空を見上げる。青空の下、金色の髪の毛と綺麗な横顔が光に照らされる。目にかかっていた長い前髪が分かれ、陽射しを受けた目がきらきらと輝く。光はまるで楓が集めたかのように、輪郭を美しく浮かび上がらせていた。その横顔から目が離せずにいると、楓の唇が開く。
「俺と付き合いなよ」
辛い時、最初に浮かんだのは楓の顔だった。この前会ったばかりの東風学園の男子。足を止める理由は十分過ぎるくらいあった筈なのに。今日、わたしは一直線に楓の元へと走っていた。

