境界線の向こうに眠る

 学校を出ると、昨日借りた傘を返しに商店街へと向かった。頭の中は東条くんのことでいっぱいだ。まさか、あんなことを言われるなんて思ってもみなかった。玲香ちゃんに正直に話さなかったことを後悔しながらも、心はどこか浮ついている。後悔と嬉しさが入り混じっていて複雑だ。

 商店街に着くと、楓のいる青果店を真っすぐに目指す。今日は金曜日ということもあってか、いつも以上に人が多い。行き交う人の間を縫うように歩を進めると、青果店の前には人だかりができていた。

「いらっしゃいませ!金曜限定夕方のタイムセール、梨三個で四五〇円、トマト一皿二五〇円、ブドウ、カキ、きのこ類全部表示価格より一〇〇円引き」
「トマトもらおうかしら」
「わたしは梨で」

中を覗くと、お客さんの対応に追われている楓の姿が見えた。

「ちょっとお兄ちゃん、ブドウもう少し安くならないの?」
「これはちょっと房が小さいから、更に五〇円引きでどう?」

お客さんがお金を渡すと楓は計算機を使うことなくお釣りを渡す。商品を袋に入れる間にも次の注文が入り、お釣りを渡そうとすれば、別のお客さんから「これください」と声が飛んでくる。そのやり取りがたった数分の間に何度も行われる。わたしなら絶対にパニックになってしまいそうな状況を、楓はなんなく、しかもお客さんと会話をしながらこなしている。いつの間にかその光景に目が釘付けになっていた。

「はい、三二〇円のお釣り、ありがとうございます!」
「お兄ちゃん、今日もさすがだね!仕事ができて笑顔も素敵だし最高だよ、うちの息子に欲しいね!あっ孫か!」

おばあさんはしゃがれた声で笑うと、笑顔で楓に手を振る。楓もまた、人懐っこい笑顔を浮かべて手を振り返す。それからも、楓はたくさんの人に声を掛けられていた。それは、野菜や果物の話だけではない。

「お兄ちゃん、髪の毛の色、青とかにしてみたら似合うんじゃない?」
「青はね、残念ながら友達でやってるやつがいるの」
「じゃあ、ピンクは?」
「ここにある果物より目立つのはちょっと」

笑い声が上がる。みんな楓に興味があって、一言でもいいから言葉を交わしたいようだった。

「はーい!タイムセール終了五分前!残りわずか」

やがて店先のセール品はなくなり、辺りは静かになる。邪魔にならないよう少し離れた場所で待っていたわたしが店の前に行くと、Tシャツの胸元を指で掴み、パタパタと体の中に涼しい空気を送り込んでいる楓と目が合った。

「暗算、凄いね」
「もしかしてずっと前からいた?」
「ううん、少し前から」

そんな会話をしていると、奥からおじさんが出てきて「いいよ、今日はもう上がって」そう言って楓に封筒を渡した。楓は受け取った封筒をわたしに見せると「臨時収入入った、どこに行く?」と当たり前に言う。

「えっどこって⋯⋯」
「カバン取ってくるから待ってて」

傘を受け取る前に奥に行ってしまわれてはここで待っているしかない。楓を待つ間、わたしの頭の中は東条くんのことでいっぱいで、このことを楓に話したらどんな言葉が返ってくるだろう。なんて考えていた。

 楓はお店から出てくると、わたしの手から傘を取り上げ「雨、降ってきそうだから持っていこう」と目的地も言わずに歩き出す。

「どこに行くの?」
「ここ出て右に曲がってすぐのところにある、年季の入った喫茶店。そこのおばちゃん、うちの店のお客さんでね」

 商店街を出て右に曲がると楓の言うように、年季の入った喫茶店があった。色あせた看板には【雪月花】と書いてある。まったく中が見えない木製のドアは、初めてだと開けるのにかなり勇気がいる。

 楓がドアを開けるとカランとドアベルが鳴り、中に入るとコーヒーの香りに混じって、長い年月を重ねた木の匂いが漂ってくる。飴色に艶めくテーブルに、暖色のストライプ柄の布が張られた椅子、琥珀色のペンダントライト、まるで昭和から時間ごと取り残されたようだった。

 カウンターの中にいた中年女性は楓を見るなり“いらっしゃい”ではなく“おかえり”と言うと、その笑顔はわたしにも向けられた。

 楓は立ったまま、カウンターの上にメニューを広げた。

「美月、飲み物どうする?」

一番上にあったブレンドコーヒーを指差すと楓は「大人だね、俺はメロンソーダ」そう言って、奥のテーブル席を指差した。

「先に座ってて」
「うん」

 少しすると、楓は運んできた水をわたしの前に置き、「美月って何年生?」そんなことを尋ねてきた。そういえば、お互いの年齢も知らなかったことに気がつく。

「高二。楓は?」
「高三」
「えっ先輩だ、楓くん、さん⋯⋯」
「いらないよ」
「でも、先輩⋯⋯」
「部活じゃないんだから。そういえば美月は部活入ってるの?」
「うん、バスケ部」

楓は「どおりでリンゴキャッチするの上手だったわけか」と片手でリンゴを掴む仕草をした。

 飲み物が運ばれてくると、楓は「ベル鳴らしてくれたら取に行くから」と店主に話す。

「ありがとう」そう言って戻っていく店主の歩き姿は、体のどこかをかばっている様子だった。

 コーヒーを一口飲むと、今日の出来事を楓に話そうと「あのね」と切り出した。玲香ちゃんのことも東条くんのことも知らない楓になら、気軽に話せる気がした。

 わたしの口からはすらすらと言葉が出ていたと思う。でも、自分がどんな風に話していたのかは思い出せない。いつも人の顔色を窺っている癖に、楓がどんな顔で聞いていたかも思い出せないでいる。きっと、相当浮足立っていたんだ。

「美月、ちょっと待って」

久しぶりに楓の声を聞いた気がした。自分ばかりが話していたことに気が付きはっとして「うん」と小さく頷くと、楓が唐突に結論を口にした。

「そいつ、いいやつじゃないよ」

 この話を聞いたら楓はなんて言うだろうと、話す前に考えていた。いつだって楓は予想だにしないことを言うから。そして、今も。

「なんでそんなことが言えるの、東条くんのこと知らないのに」

つい、口をついて出た言葉は、明らかに変だった。楓が東条くんを知らないのは当然のこと。突っ込まれる前に撤回しなきゃと思うけど、楓はそこには全く触れず、その代わりに核心を突いてきた。

「内緒で付き合おうなんて言うやつが、いいやつな訳がない。友達裏切って自分と付き合えって言ってるようなもんでしょ?」

どうしてわたしはあの時、東条くんの「玲香に内緒で付き合うのはどう?」という言葉を“配慮”と受け取ってしまったのだろう。

 カウンターからベルの音が聞こえ、楓は「ちょっと取ってくる」そう言って席を立った。

 外を見ると、いつの間にか道路は雨に濡れている。傘を差して歩く人々を眺めながら、今の会話を思い出していた。楓の言う通りなのに、東条くんを悪い人だと思いたくない自分がいる。その葛藤に決着がつく前に楓が戻ってきた。

「好きなだけ食べてそいつのこと忘れろ」

テーブルの上に、甘いものが次々と並べられていく。

「えっこんなに頼んだの?」

プリン、チーズケーキ、ガトーショコラにいちごパフェと、テーブルの上には呆れるほどたくさんのスイーツが並んだ。

「よし、食べよう!」

楓はチーズケーキにフォークを刺すと、女子に食べさせるには大き過ぎる量のケーキをすくい「はい」と差し出してくる。

「大き過ぎるし、自分で食べれるし」
「このくらいの量を一気に食べた方が美味しいから、はい」

さらに近づけてきたから観念して口を開けると思い切って頬張った。楓はふっと笑うと突然真顔になり、「好きなやつから付き合いたいって言われて嬉しかったんだよな」と静かに言うとストローに口をつける。

 雨が激しく降りだす。無数の雨粒が窓ガラスを叩き、筋となって流れ落ちる。

「嬉しかったよ……でも、楓の話聞いたらその通りだって。ひとつも反論できないよ」
「あとは美月が決めることだから、これ以上なにも言わないけど、東条くんだけは絶対に!やめとけ」
「最後凄いの言ってくるじゃん」

わたしの言葉に、楓は飲んでいたメロンソーダを吹き出しそうになる。

「今の突っ込み最高!美月って面白いのな」
「面白いのは楓だよ、いつも予想できないことばかり言うの。それだけじゃない、全部、全部、思ってたのと違って裏切られてばっかり」
「それっていい意味で?」
「そう……だと思う」
「じゃあ、連絡先教えて」
「なんで?」
「面白いこと話すから」

もうすでにそれが面白くて、笑いそうになって、“駄目だ”と自分に言い聞かせる。気付けば三日連続で会っている。楓と一緒にいるのが日常になってしまってはまずいと思って席を立った。

「わたし、帰る」
「美月はいつも突然帰ろうとするね。それ、結構びっくりするんだよ。これ食べたら送っていくよ。俺、今日制服じゃないし」
「いや、金髪……あっピアスも」

言われるまで本当に気が付いていなかった様子で「そっか!」と言って、ぱちんと手を鳴らす楓。それが可笑しくて思わず笑った。

 すると、楓はテーブルに頬杖をつき、「やっとその顔が見れた」と嬉しそうにほほ笑んだ。

 帰り道、最後に見た楓の笑顔が頭から離れなかった。母があんな笑顔でわたしを見てくれていた頃を思い出す。もう二度と戻らない時間を思うと涙が溢れ、そしてなぜか、楓に会いたいと思った。