伯母の十七歳

 待ち合わせ場所に着くと、宮瀬はもう駅前の時計台の下に立っていた。
「早いね」
 声をかけると、宮瀬は腕時計に目を落として、それから顔を上げた。
「紬も」
「私は五分前」
「それを早いって言うんだよ」
 そう言って笑う宮瀬につられて、私も少しだけ笑った。
 家を出る前、私は何度も鏡の前に立っていた。
 選んだ服を着替えて、髪を直して、また悩んで。
 別に、特別な日じゃない。
 ただ宮瀬と出かけるだけだ。
 そう思っていたのに、どうしてこんなに落ち着かないのか、自分でも分からなかった。
「じゃあ行くか」
 宮瀬の声に、私は小さくうなずいた。
 あの日、カセットテープを聞いたあと、片付けの目的も忘れて私たちは部屋中を捜し始めた。理由は覚えていないけれど、何となく、気まずかったからかもしれない。
 木彫りのパンダを見つけて笑ったり、昔の戦隊ヒーローの玩具を見つけた宮瀬は、なぜか真剣な顔で必殺技のポーズを決めていた。
「……何してるの」
「確認」
「何の?」
「当時の子どもたちが本当にこれで遊んでいたのか」
「絶対、今考えたでしょ」
 そんなくだらないやり取りをしているうちに、さっきまで胸に引っかかっていた重さが少しずつ薄れていった。
 伯母が集めてきたものを一つ見つけるたびに、「この人は、こんなものまで持ち帰ったんだ」と笑えてしまう。片付けはまるで進まなかったけれど、それでも悪くない時間だった。
 日が沈んできて、そろそろ帰宅しようとした、そんな時だった。
「あれ?」
 本棚のいちばん下の段に押し込まれていた古い箱を引き出そうとした宮瀬が、手を止めた。
「どうしたの?」
「なんか、引っかかってる」
 二人で箱を持ち上げると、その奥から黄ばんだ葉書が一枚、長いあいだ誰にも触れられなかったように、音もなく滑り落ちた。
「葉書……?」
 私が拾い上げると、長い年月を経た紙はわずかに反っていて、指先にざらりとした感触が残った。表には、伯母の旧姓と、この家の住所が記されている。消印はかすれ、いつ投函されたものなのか判然としない。裏には一枚の写真が印刷され、その余白には、ただ一文だけが残されていた。

ーー同じ月を見上げているなら、それだけで私は十分です。

 差出人の欄には、神谷文義という名前と住所が記されている。
「そんなに遠くないな」
 住所をのぞき込んでいた宮瀬が、静かに言った。
 私は返事をせず、葉書を握りしめていた。
 葉書に書かれた住所を、もう一度見つめる。
「……行ってみたい」
 翌日、私たちは葉書の住所へ向かった。



 電車を乗り継いで、一時間ほど。
 窓の外の景色は少しずつ変わり、見慣れた街並みはいつの間にか住宅地へと移っていた。
 葉書に書かれた住所の最寄り駅は、私たちが暮らす町よりもずっと静かだった。
 改札を出ても、人影はまばらで交通量は少ない。
「こっち」
 宮瀬がスマートフォンの画面を見ながら言った。画面に表示された地図には、現在地から目的地までの道が青い線で示されていた。あまりにも簡単だった。昔の人なら、きっと何度も道を尋ねたり、紙の地図を広げたりしながら向かった場所なのに。今は、指先一つで知らない場所まで連れて行ってくれる。
 便利だと思う。けれど、その便利さの中に、どこか置いていかれたような感覚があった。この場所まで来るために、伯母や母はどんな道を歩いたのだろう。今の私たちは、青い線の通りに進めば迷うことはない。けれど、伯母が残したものの中にあった迷いや時間までは、どんな地図にも表示されない。
 私は手の中の葉書を見つめた。
 何十年も前に、誰かが誰かを想って書いた一枚の紙。そこに残された文字だけが、今も消えずに私をこの場所まで連れてきている。それは、どんな地図よりも確かな道しるべだった。
 見知らぬ公園を曲がり、住宅街の奥へ進む。
 道の両側には、低い塀に囲まれた家々が並んでいた。どの家にも、それぞれの時間が静かに流れているようだった。庭先に置かれた自転車、風に揺れる洗濯物、軒下に並ぶ植木鉢。誰かにとっては何気ない日常の景色が、私にはひどく遠いものに感じられた。
 古い家と新しい家が混ざり合う町並みの中で、時間だけがゆっくりと歩いているようだった。
 角を曲がると、一本の細い道の先に、小さな家が見えた。
 手入れされた庭には季節の花が咲き、玄関脇には古びた郵便受けが置かれている。何十年もの間、誰かの便りを受け取り続けてきたのだろう。
 葉書も、もしかしたらこの場所を知っていたのかもしれない。
 私は手の中の一枚を握り直した。
「着いた」
 宮瀬の声が、静かな空気の中に落ちた。
 目の前にあったのは、周囲の家々より少しだけ広い敷地を持つ一軒家だった。
 派手さはない。けれど、どこか目を引く佇まいだった。
 白い壁に大きな窓。庭には無造作に見えて、計算されたように植えられた木々が並んでいる。玄関まで続く小さな石畳には、落ち葉がいくつか残っていた。
 まるで、季節の移り変わりさえも一枚の写真に残そうとしているような家だった。
 窓の向こうには、淡い光の差し込む広い空間が見える。そこに置かれた古い木の机や、壁に立てかけられた額縁が、この家の主がどんな時間を過ごしてきたのかを静かに語っていた。
 写真家なのだと、言われなくても分かる。
 目に見えるものだけではなく、その瞬間にしかない空気まで大切にしてきた人なのだろう。
 手の中の葉書を見つめた私は、ふと駅からここまで、宮瀬とほとんど言葉を交わしていなかったことに気づいた。
 普段なら、誰かと歩いている時に沈黙が続くと、何か話さなければいけないような気がする。相手は退屈していないだろうか。つまらないと思われていないだろうか。そんなことばかり考えて、意味のない話題を探してしまう。
 でも、宮瀬といると、それをしなくてよかった。
 何も話さなくても、隣にいることが許されているような気がした。
「……宮瀬」
 呼ぶと、少し遅れて「ん」と返事が返ってくる。
 それだけだった。
「今日さ」
「うん」
「ありがとう」
 宮瀬は少しだけ目を細めた。
「何が?」
 聞き返されて、私は言葉に詰まった。
 何が、なのだろう。
 ここまで連れてきてくれたこと。何も聞かずに隣を歩いてくれたこと。私が葉書に込められた誰かの想いを追いかける時間を、大切にしてくれたこと。どれも同じくらいありがたかった。
「……何でもない」
 それだけ言うと、宮瀬は笑顔で頷いた。
「……行こっか」
 この先に何が待っているのかは分からない。けれど、不思議と怖くはなかった。
 私は古い門の前に立ちインターホンを押した。少しして、家の中から足音がゆっくりと近づいてくる。そして、扉が開いた。
「……どちら様ですか」

 ※

 人数分の麦茶をテーブルに置く神谷さんは、ゆっくりと椅子へ腰を下ろした。
 私たちを迎え入れてくれたその人は、葉書に書かれていた名前の人物だった。写真で見たことがあるわけではない。けれど、何故だか確信が持てた。
 伯母や母と同じくらいの歳だと思っていたけれど、目の前の神谷さんから感じたのは、年齢よりもずっと静かなものだった。
 白髪が混じった髪。穏やかな表情。長い年月を重ねた人だけが持つ、落ち着いた眼差し。それでも、その瞳の奥には、かつて何かを夢中で追いかけていた頃の面影が残っているように見えた。
 部屋の壁には、いくつもの写真が飾られていた。
 街の風景。
 誰かの笑顔。
 何気ない日常の一瞬。
 どの写真にも、大きな出来事ではなく、その瞬間にしか存在しない時間が閉じ込められていた。
 この人は、失われていくものを大切に拾い集めてきた人なのだと思った。きっと伯母にとって、この一枚はただの葉書ではなかったのだ。何十年経っても消えなかった想いが、この小さな葉書に残されているのだから。
 神谷さんの視線が、私の手元へ落ちる。
「……それ」
 小さく息を飲むようにして、彼は言った。
「まだ、残っていたんですね」
 神谷さんは、しばらく葉書から目を離さなかった。まるで、そこに書かれた文字ではなく、その向こうにいる誰かを見ているようだった。
「あの……初めまして私」
 そう名乗ろうとして、言葉が止まった。何と伝えればいいのか分からなかった。澄子の姪です、と言えばいいのか。登紀子の娘です、と言えばいいのか。
 どちらも間違ってはいない。でも、それだけでは足りない気がした。
「……私、藤原紬といいます」
 結局、出てきたのは自分の名前だけだった。神谷さんは一瞬だけ目を伏せ、それから静かに頷いた。
「……似ていますね」
「誰に、ですか」
 聞いてから、子どもっぽい質問だったと思った。でも神谷さんは笑わなかった。
「両方に」
「両方?」
「澄子さんにも。登紀子さんにも」
 その名前を聞いた瞬間、胸の奥が小さく揺れた。私が写真や話の中でしか知らない二人を、この人は同じ時間の中で見ていた。
「顔ではありません」
 神谷さんは、少し困ったように笑った。
「誰かを大切にする時の目が、似ています……澄子さんも、そういう人でした。よく、人のために動く人でした。困っている人がいれば、自分のことは後回しにする。誰かが笑っていれば、それだけで安心したような顔をする」
 昔を思い出しているように神谷さんは淡々と語り始めた。その話を聞いていると、不思議な感覚になった。それは、私が知らないはずの伯母なのに、どこかで聞いたことがあるような気がした。
「……私、母のことも伯母のことも、あまり知らないんです」
 思わず、そんな言葉をこぼしていた。
「写真の中の母しか知らなくて。どんな声で笑ったのかも、何を考えていたのかも、何も知らないんです」
 言葉にすると、それが思っていたより寂しい。
 十七年間、一緒に暮らしてきたのに、私は母のことを「母」としてしか見ていなかった。一人の女性として意識したことが、一度もない。
 神谷さんはしばらく黙っていた。慰める言葉を探しているようには見えなかった。ただ、昔の自分にも同じ問いを向けているような顔をしていた。
「……そうかもしれません」
 やがて、静かに言った。
「登紀子さんのことを、全部知っている人なんていないと思います」
 私は顔を上げた。
「神谷さんも?」
「はい」
 迷いなく答えた。
「僕も、十七歳の頃の登紀子さんしか知りません。僕が知っている登紀子さんは、よく笑う人でした」
 その声は、懐かしむようでいて、少し寂しかった。
「……でも」
 神谷さんは小さく息を吐いた。
「今の登紀子さんがどんな人なのかは、僕には分かりません。でも、それを知っているのは、あなただけです」
 その一言が、すとん、と私の中に落ちて来た。誰も、一人の人のすべてを知ることなんてできないのかもしれない。
 テーブルの上のグラスで、氷がカラン、と小さく鳴る。静かな音だけが、部屋にゆっくりと広がっていった。神谷さんは目を細め、どこか遠い日を見つめるように微笑んだ。
「登紀子さんはね、澄子さんと本当に仲が良かった」
 その声には、懐かしさが静かに滲んでいた。
「双子だから、というだけじゃありません。何をするにも一緒でした。休み時間も、帰り道も、夏休みも」
 私は、写真の中で肩を寄せ合って笑う二人を思い浮かべる。
「二人とも、よく笑う人でした」
 神谷さんはテーブルの上の写真へ手を伸ばき、そっと持ち上げた。紙の擦れるれる音が耳元まで聞こえてくる。
「懐かしいな」
 写真の端を指先でなぞりながら、小さく笑った。あの日もきっと、こんなふうに笑って二人を見つめていたのだろう。私よりも遠くて、私よりも近い距離で。
「この日は何度も撮り直したんです」
「撮り直した?」
「ええ。澄子さんが笑いすぎて、じっとしてくれなくて。登紀子さんは『もういいよ』って少し困った顔をしていました」
 神谷さんはそこで、ふっと目尻を細めた。それを見ていると、母がこの人に恋心を抱いた理由がわかった気がした。
「この写真……」
「高校二年の夏です。文化祭の準備が終わった帰りでした。夕日がきれいで、せっかくだから撮ろうって。最初は二人とも照れていたんですよ。でも澄子さんが急に登紀子さんの肩を抱いて笑い出して。その瞬間を逃したくなくて、夢中でシャッターを切りました」
 私は思わず息をのんだ。
 写真を撮った人。
 宮瀬に「誰が撮ったんだろうな」と言われてから、ずっと心のどこかに引っ掛かっていた存在が、今、目の前にいる。
 その光景が、目の前に浮かぶようだった。
 蝉の声にうるさいと苛立ちながらも、涼しげに汗を流す制服姿の二人。笑いながら肩を寄せる澄子伯母さんと母。そして、その少し前でカメラを構える神谷さん。その日にはまだ、誰も知らなかったのだろう。この夏が終われば、それぞれ違う未来を歩くことになるなんて。
 神谷さんは写真を大切そうにテーブルへ戻した。
「……僕は」
 少しだけ声が低くなる。
「澄子さんが好きでした」
 私は息を止めた。
 宮瀬も何も言わない。
 静かな部屋に、時計の針だけが時を刻んでいる。
「たぶん、気づかれていたと思います。澄子さんは、人の気持ちに鈍い人じゃありませんでしたから」
「伯母さんは……」
 私は恐る恐る尋ねた。
「何て言ったんですか」
 神谷さんはゆっくりと首を横に振る。
「何も言いませんでした」
 そして、少し間を置いて神谷さんは続けた。
「ただ、『ありがとう』って笑って。それから、『まだ、やりたいことがいっぱいあるの』って。でも僕は、その一言だけで、十分だった」
 伯母は神谷さんを拒んだわけではないのだと思う。誰かを選ばなかったのでもない。ただ、自分の人生を選んだのだ。
 神谷さんは穏やかな表情のまま、窓の外へ目を向けた。つられたように私も見る。
「当時は振られたんだと思っていました。でも、この歳になってようやく分かるんです。澄子さんは、僕じゃなくても、きっと同じ答えを選んでいたんでしょうね」
 窓の向こうで、風に揺れた木の葉が陽を受けてきらりと光った。
「写真を撮るようになったのも、あの頃からでした」
 神谷さんは照れくさそうに笑う。
「何かを残しておきたかったんです。理由なんて、その時は分かりませんでした。ただ、今日が終わってしまうのが惜しくて」
 視線は再びテーブルの写真へ落ちる。
「だから、あの日もシャッターを切りました。二人が笑っている姿を見ていたら、それだけで十分だと思えたんです」
 その言葉に、私はもう一度写真へ目を向けた。写真の中で伯母と母は、肩を寄せ合って笑っている。撮った人は写っていない。けれど、その人がどんな顔でファインダーをのぞいていたのかは、今なら少しだけ分かる気がした。
「澄子さんは、その写真を気に入ってくれていました」
 神谷さんがぽつりと言った。
「『いつか年を取ったら、また見せてね』って」
 そこで小さく笑う。
「結局、僕が持っていた写真は引っ越しの時になくしてしまいました。でも、澄子さんはちゃんと持っていてくれたんですね」
 神谷さんの視線が、葉書へ移る。
「まさか、こんな形で、また会えるとは思いませんでした」
 神谷さんは葉書へ目を落としたまま、しばらく黙っていた。その静かな時間を破ったのは、宮瀬だった。
「もう一つ、お聞きしてもいいですか」
 神谷さんは穏やかに頷く。
「この葉書です。どうして澄子さんに送ったんですか」
 その問いに、神谷さんは少しだけ目を伏せた。
「……ああ」
 懐かしいものを思い出すように、小さく笑う。
「卒業してから、みんなそれぞれ別の道へ進みました。会うことも少なくなって、それでも何年かは年賀状を送り合ったり、ときどき近況を知らせ合ったりしていたんです」
 神谷さんは葉書を指先でそっとなぞる。
「この写真を撮った場所を、久しぶりに訪ねた日がありました。景色はずいぶん変わっていました。でも、夕暮れだけは、あの日と同じ色だった」
 一度、言葉が途切れる。
「その景色を見たら、不思議と澄子さんのことを思い出したんです」
「伯母さんだけを?」
 思わず口にすると、神谷さんは少し困ったように笑った。
「いいえ。登紀子さんのことも思い出しました。でも……書こうと思った相手は、澄子さんでした」
 少し間を置いて、続ける。
「未練がましいですよね」
 その言葉には、照れ隠しのような笑いが混じっていた。
「何十年も前に終わったことなのに、こんなふうに昔の人を思い出して、葉書なんて送るんですから。本当は、返事なんて期待していないつもりでした。ただ……」
 神谷さんは写真を見る。
「あの日の景色を、澄子さんにも見てほしかったんです」
 指先で写真の端をなぞる。
「僕たちが一緒に見た夕焼けが、まだどこかに残っているって。そんなことを伝えたかった」
 私は神谷さんを見れなくなっていた。どんな言葉を投げかけても、彼にできた空洞は埋まらない。ましてや、好きだった人の姪の言葉など、励ましにすらならないだろうと。
「……伯母は、その葉書を大切にしまっていました」
 だから、そう言った。その一言に、神谷さんの動きが止まったり、驚いたように目を見開く。そして、ゆっくりと目を閉じた。
「……そうですか……そうだったんですね」
 嬉しかったのか。切なかったのか。その横顔だけでは、私には分からなかった。
 ただ、その表情には、長い間どこかに置き忘れていたものを、ようやく見つけた人のような静かな安堵が浮かんでいた。
 その瞬間だけ、神谷さんは今の年齢ではなく、あの日、夕暮れの中でカメラを構えていた十七歳の少年に戻ったように見えた。あの日、好きな人の笑顔を残そうとしていた少年が、何十年もの時間を越えて、ようやくその写真の意味を知ったようだった。

 ※

 その夜、母はリビングの明かりをつけたまま、ひとりで古いアルバムを開いていた。大切にしまっていたのだろう。そのアルバムにはシミも傷も見当たらない。
 全部、きちんと片付けて、もう必要ないものみたいにしまってしまう母が、それを見ていたことが、少し意外だった。
「まだ起きてたの」
 頷くだけで、返事をせずに、私は向かいの椅子に座った。
 開かれたアルバムを覗き込むと、そこには私が生まれる前の写真が並んでいた。
 若い母がわたしを抱き上げ、若い父がその隣でほくそ笑む。そして、時々写っている伯母が私と手を繋いでいた。同じ顔をした二人の少女は、写真の中で何度も笑っていた。
「お母さん」
「ん?」
「伯母さんのこと……嫌いだった?」
 言ってから、少し後悔した。もっと他に聞き方があった気がする。でも、母は写真から目を離さないまま、しばらく黙っていた。
「……嫌いだった時期はある」
 胸の奥が少しだけざわついた。やっぱりとも思ったし、まさかとも思った。
「今は?」
 母は小さく笑った。困ったような、寂しいような笑い方だった。
「分からない」
 そして、アルバムのページをそっと撫でる。
「家族って、好きとか嫌いとか、それだけじゃないから」
 その言葉が、すぐには理解できなかった。好きなら大事にする。嫌いなら離れる。私はずっと、そういう単純なものだと思っていた。女子に苦手な人がいれば少しずつ距離と取るし、気になる男子が出来たら、くだらない話で気を引こうとする。皆そうやて上手く立ち回っているのだと。
「澄子はね」
 母が言った。
「私が持てなかったものを持ってた」
 真っ先に思い浮かべたのは、今日会いに行った神谷さんのことだった。母が好きだった人は神谷さんで、神谷さんが恋していた人は伯母で、その伯母が見ていたものは遠い景色で。でも、たぶん母が言っているのは、そんな単純なことではなかった。
「私はね、何かを選ぶ時、いつも誰かのことを考えてた」
「誰かって?」
「お父さんとか、あなたとか。家のこととか。周りの人がどう思うかとか」
 母は少し笑った。
「それが悪いことだとは思ってないよ」
 その声は、言い訳をしているようには聞こえなかった。
「でも澄子は、まず自分に聞いてたんだと思う。自分はどうしたいのかって」
「それが羨ましかったの?」
 聞くと、母は少し考えてから首を横に振った。
「羨ましかったんだと思う。でもね」
 母はアルバムを閉じる。長い間開かれることのなかったページが、名残惜しそうに音を立てて重なった。
「同じものが欲しかったわけじゃないの」
「じゃあ、何?」
「……あの頃の私にも、そういう選び方ができたって知りたかったのかもしれない……もう寝ましょうか」
 立ち上がった母の背中を見ながら、私はさっきの言葉を何度も考えていた。十七歳だった母も、十七歳だった伯母も、きっと迷っていたのだ。迷いながら、それぞれの場所へ歩いていった。