次の日の朝、母はいつも通りだった。
卵焼きを焼いて、味噌汁を温め、父さんの分の新聞をテーブルの端に置く。
眠気眼をこすりながら、今日も早いなと思った。私よりも父さんよりも早く起きて、毎日二人分の朝食と弁当を作る。それが母の朝だった。
昨夜テープの向こうで笑っていた十七歳の母と、目の前で黙々と朝食を作る母が、どうしても同じ人だと思えなかった。けれど、その横顔を見ていると、不意にあの笑い声が重なって聞こえてきそうな気もした。
「今日、伯母さんのところ行くの?」
その声で、そんな考えはあっさり消えた。フライパンで油がはねる音と一緒に、いつもの母が朝の台所に戻ってきた。昨日のテープの中で笑っていた少女が、今は目の前で味噌汁を温めている。そのことが、まだうまく現実のものとして受け止められなかった。聞きたいことはたくさんある。でも、母の前にいると、どれも子どもっぽい質問に思えてしまう。だから私は、ただ「うん」と答えた。
父が朝食を食べ終え、家を出るころになってようやく、私は洗面所へ向かった。蛇口をひねると、冷たい水が指先に触れた。その感覚で、少しだけ頭が現実に戻ってくる。
母は、いる。ずっといなかったわけじゃない。毎朝起きて、台所に立って、父のお弁当を作って、私に「早くしなさい」と声をかける。そんな当たり前の母が、今もここにいる。
なのに、昨日聞いた声が頭から離れなかった。
まだ幼さの残る笑い声。誰かに向かって話しかける声。そこにいたのは、母になる前のひとりの少女だった。
蛇口から勢いよく出る水を、私はただぼんやりと眺めていた。
リビングへ戻ると、テーブルの上には私の分の朝食が置かれていた。「いただきます」も言わずに朝食に手を付ける私を、母が咎めたことは一度もない。そのことになぜか今、無性に腹が立った。十七年間も一緒に生活していたのに、私は母のことを何も知らない。いや、知ろうともしなかった。
だから、聞こうと思った。
あの夏のことを。
伯母さんは、最後にどんな顔をしていたのか。
母は、あの日のことをどれくらい覚えているのか。
どうして、今まで何も話してくれなかったのか。
「お母さん」
私は箸を置いた。母は味噌汁のお椀を持ったまま、こちらを見る。
「なに」
「伯母さん……」
そこまで言って、言葉が止まった。
聞きたいことは、たくさんあった。でも、どれも簡単に聞いてはいけない気がした。昔のことだから、と片づけられるほど軽いものではないことを、昨日のテープが教えてくれたから。
「……伯母さん、どんな人だった?」
結局、出てきたのはそんな質問だった。母は少し驚いたように瞬きをした。
「どんな人って」
「私、あんまり知らないから」
そう言うと、母はすぐには答えなかった。味噌汁のお椀をテーブルに置いて、少しだけ視線を落とす。その横顔は、いつもの母の顔だった。でも、昨日までとは違って見えた。私が知らなかった時間を持っている人の顔だった。
「澄子はね、昔から、どこにいるのか分からない人だった」
母のその言い方が、どこか優しく感じた。
「どういう意味?」
「そのままの意味。じっとしていられない人だったの。家にいると思ったら、急にいなくなってたりして」
「急に?」
「そう。学校帰りに知らない駅で降りて、そのまま町を歩き回ってたり。知らない人と仲良くなって、何時間も話を聞いて帰ってきたり」
その話をする母の声は、呆れているようでいて、どこか楽しそうだった。
「……それ、今とあんまり変わらないね」
思わず言うと、母は一瞬だけ目を丸くして、それから笑った。
その笑い方に、私は少し驚いた。
昨日、テープの中で聞いた笑い声と似ていた。
ほんの一瞬だけ、十七歳の母が戻ってきたみたいだった。
「そうね。変わらなかったのかも。でも、それってたぶん、澄子だけじゃなかったんだと思う」
「え?」
「おばあちゃんね、昔、東京の大学に行ったの」
初めて聞く話だった。
祖母が東京にいたことも、大学に通っていたことも知らなかった。
「おばあちゃんが?」
「うん。あの頃のこの辺じゃ、女の人が地元を離れて大学に行くなんて、今よりずっと珍しかったから」
母は遠くを見るような目をした。
「だから、澄子はおばあちゃんに似たんだと思う」
「お母さんも、行きたかった?」
口にした瞬間、しまったと思った。聞いてはいけないことだったのかもしれない。昔の後悔を、勝手に掘り返されたと思うかもしれない。でも、母は怒らなかった。しばらく黙って、味噌汁の湯気を見ていた。
「……そうね」
小さな声だった。
「行きたかったよ」
母は言った。
「知らない場所で暮らしてみたかった。違う人たちに会ってみたかった」
初めて聞く母の本音に胸の奥が詰まる。母は、もっと簡単に否定すると思っていた。「そんなこと考えたことない」とか。「昔の話だから」とか。
そうやって、いつものように笑って終わらせると思っていた。
「じゃあ……」
喉の奥が詰まる。
「なんで行かなかったの?」
母は少し笑った。
「怖かったんじゃないかな」
「怖かった?」
「うん」
母は頷く。
「澄子ほど、勇気がなかったかな」
母は、自分を責めているようには見えなかった。ただ、昔の自分を静かに振り返っているだけだった。
「でもね、後悔してるわけじゃないよ」
私は何も言わず、母の次の言葉を待った。
「紬がいるから」
その瞬間、胸が痛んだ。嬉しいはずなのに、苦しかった。私がいるから。母が選ばなかったものの中に、私がいるような気がした。
「……ごめん」
気づいたら、そんな言葉が出ていた。
母は目を瞬いた。
「何が?」
「分からないけど……」
自分でも何を謝っているのか分からなかった。
東京へ行かなかったこと。
澄子伯母さんと違う道を選んだこと。
その理由の一つに、自分がいること。
全部が混ざって、上手く言葉にできない。そんな私を母は少し困ったように笑った。
「紬」
声が少しだけ低くなった母は困ったように笑った。
「それは違うよ」
「でも……」
「紬が生まれたことと、私が行かなかったことは、同じじゃない」
その言葉に、私は顔を上げた。
「私はね、あの時、自分で選んだの」
母は静かに言った。
「もちろん、迷ったよ。怖かったし。澄子みたいに迷わず進める人を羨ましいと思ったこともある」
母は少し笑った。
「でも、誰かのせいにしたら、あの頃の私がかわいそうでしょう」
「……」
「十七歳の私は、十七歳なりに考えて決めたんだから」
その言葉を聞いて、なぜか目頭が熱くなった。母は夢を諦めた人ではなかった。ただ、別のものを選んだ人だった。そして、その道の先に私がいた。
それは、私が背負わなければいけない罪ではなくて。母が自分で歩いてきた人生の一部だった。
「澄子伯母さんは……後悔してたのかな」
母はすぐには答えずに窓の外を見る。私もそれを追うように目を向けると、夏の終わりの空は、あの日のテープの向こうにあった空と同じ色をしている気がした。
「どうかな」
母は言った。
「澄子は、後悔してても言わない人だったから」
「強いね」
そういうと、母は首を横に振った。
「強かったんじゃなくて」
少し間を置いて。
「弱いところを、見せる相手が少なかったのかもしれない」
その言葉が、静かに残った。
自由で強い人。私はずっと、伯母をそういう人だと思っていた。でも、本当は違ったのかもしれない。迷わなかったんじゃない。迷ったまま、歩いていただけなのかもしれない。
*
伯母の家へ向かう途中、宮瀬からメッセージが届いた。
『今日、学校休むの?』
画面を見つめたまま、私は少しだけ指を止めた。
今日は平日だった。本当なら、今ごろ私は学校へ向かっているはずだった。でも、伯母の家へ行くと言った私に、母は何も言わなかった。学校を休むことも、理由を聞くこともなく、ただ「行ってきたら」それだけだった。
まるで、私が伯母の家へ何かを探しに行くことを、母は最初から分かっていたみたいだった。
私は短く打ち込む。
『伯母さんの家に行く』
送信して間もなく、返信が届く。
『そうなんだ』
そのあと、もう一通。
『俺も、一緒に行っていいかな?』
思わず画面を見返した。
どうして。その一言が喉まで出かかった。宮瀬は伯母のことをほとんど知らないはずだ。私だって、つい最近まで知らなかったくらいなのだから。
しばらく迷ってから、私は返信した。
『なんで?』
既読はすぐについた。
『一人で行くのかなって思って』
それだけだった。答えになっているようで、どこかはぐらかされたような返事だった。私は画面を見つめたまま、小さく息をつく。たぶん宮瀬は、私が学校を休んでまで伯母の家へ向かう理由を聞きたいわけじゃない。聞かずに、そばにいようとしている。そんな気がした。
少しだけ迷ってから、私は指を動かした。
『うん』
送信すると、またすぐに返事が届く。
『駅で待ってる』
短い一文だった。私はスマートフォンを鞄にしまい、駅へ向かって歩き出す。
通りを歩く学生たちとすれ違うたびに、小さな罪悪感が浮かんだ。今ごろ、教室では朝のホームルームが始まっている頃だろう。なのに私は、制服も着ずに、伯母の家へ向かっていることに、どこかで楽しんでいた。いつもと違う場所へ向かうこと。誰かに決められた一日ではなく、自分で選んだ場所へ向かっていること。それが、思っていたより新鮮だった。
空は高く澄んでいた。蝉の声は相変わらず賑やかなのに、風だけが少しだけ涼しくなっている。夏が終わろうとしていることを、身体のほうが先に知っているようだった。
改札を抜けると、宮瀬はベンチに座っていた。
私に気づくと立ち上がり、小さく手を挙げる。
「おはよう」
「……おはよう」
制服姿ではない私たちは、いつもの朝の流れから外れてしまったように見えた。平日の朝に制服も着ずに歩いていることが、急に悪いことをしているような気になってくる。誰かに声をかけられたら、どう説明すればいいのだろう。そんな私の心配など気にも留めないように、宮瀬は「行こうか」とだけ言って歩き始めた。
どうして来たのか。どうして一緒に行きたいと思ったのか。聞こうと思えば聞けた。でも、その背中を見ていると、今は、その理由を考えなくてもいいと思えた。
宮瀬が隣を歩いている。それだけで、伯母の家までの道が、少しだけ短く感じられた。
周りの騒音はみるみるうちに減っていった。さっきまであった朝特有の騒がしさが消えると、隣を歩く宮瀬の足音と、自分の足音だけが静かな道に響いているようだった。
宮瀬との沈黙は、別段気まずくはなかった。むしろ、心地良いとさえ思えた。だから、その静けさを破るように宮瀬が口を開いたとき、少しだけ驚いた。
「紬の将来の夢って、なに?」
「考えたことなかった」
責められると思ったわけではないのに、なぜか少しだけ申し訳ない気持ちになった。でも、宮瀬はあっさりと言った。
「俺も」
そこで宮瀬は口を閉じた。さっきまでは沈黙が心地良いと思っていたのに、どうしてだろう。今の沈黙は、少しだけ落ち着かなかった。
何か答えなければいけないと思った。でも、考えても考えても、私の中からは何も出てこなかった。
「……考えとかないとなのかもね」
しばらくして、宮瀬がぽつりと言った。
けれど、すぐに小さく首を振る。
「いや。違ったかも。今の言い直してもいい?」
「……うん」
「考えなきゃ、じゃなくて。考えてみたい、なのかもね」
その言葉は、不思議なくらいすんなり胸に入ってきた。
また、沈黙が出来てしまった。
でも、これは嫌じゃない方の沈黙だった。
*
何度も来たことがある場所なのに、今日は少し違って見えた。
前に来たときは、ただ古い団地の一室だと思っただけだった。片付けをしなければならない場所。伯母が最後まで暮らしていた場所。それ以上の意味なんて、考えたこともなかった。
「ここ?」
隣を歩いていた宮瀬が、少しだけ声を落とした。
「うん」
宮瀬は部屋の前に立ったまま、表札を見上げていた。そこに書かれた「藤原」の文字を、しばらく眺めていた。
「……入る?」
私がそう聞くと、宮瀬は少し遅れて頷いた。
鞄から鍵を取り出した。小さな金属音が、静かな廊下に響く。鍵穴に差し込んで回すと、少し引っかかるような感触があった。扉を押すと古い蝶番が、低い音を立てる。
中から流れてきたのは、埃っぽい空気ではなかった。母と片付けていたはずなのに、この部屋はまだ誰かを待っている。
「……怖い?」
不意に宮瀬が言った。
「え」
「なんとなく」
私は顔を上げる。
宮瀬はいつものように穏やかな顔をしていた。からかっているわけでも、気を遣いすぎているわけでもない。ただ、そこにあるものをそのまま見ているような目だった。
「別に」
反射的に否定する。けれど、自分でも分かるくらい声に力がなかった。
宮瀬は少しだけ笑った。
「そっか」
否定を追及しない。そこが、宮瀬らしいと思った。
きっと、他の誰かだったら、きっと「分かりやすい嘘つくな」と言うだろう。
そう考えてから、なぜか少しだけ笑いそうになった。
「……何?」
「いや」
宮瀬が不思議そうに見る。
「宮瀬って、本当に変わってるなと思って」
予想外の言葉だったのか、宮瀬は少しだけ眉をひそめた。
「どこが」
「普通だったら、知らない親戚の昔のことなんて、ここまで気にしないと思う」
宮瀬は少しだけ考えるように黙った。
「そうかな」
「そうだと思う」
「……そうかもね」
そう言って、宮瀬は先に三和土で靴を脱ぎ、「お邪魔します」と部屋へ入っていった。
*
私たちは、昨日のカセットの続きを聞くことにした。
宮瀬は前回のテープを聞いていない。それでもいいのかと尋ねると、宮瀬は少し首を傾げて言った。
「紬が聞きたいなら、それでいいんじゃない」
やっぱり、宮瀬は宮瀬だなと思った。
自分が知りたいからではなく、私が知りたいと思っていることだから、そこにいる。私も、ただ、あの声の続きを聞かなければいけない気がしていた。
昨日聞いたのは、十七歳の母と伯母が笑っていた時間だった。
でも、あの後に何かがあった。母が行かなかった理由。
伯母が一人で遠くへ行った理由。
二人が同じ未来を見ていたのに、別々の道を歩くことになった理由。それが、まだどこかに残っている
「カセットって、どこ?」
宮瀬が部屋を見回しながら聞く。
「缶の中」
「缶?」
「クッキーの缶」
「ああ」
宮瀬は頷いた。
「そういうところに大事なもの入れる人、いるよね」
「伯母さん、そういうタイプだったのかな」
「紬はどう思う?」
急に聞かれて、私は少し困った。
「分からないけど……たぶん、隠すのが下手な人だったのかも」
「隠すのが?」
「大事なもの」
写真も。カセットも。きっと本人は隠していたつもりだったのだろう。でも、本当に忘れてほしいものなら、もっと簡単な場所に捨てていたはずだ。残している時点で、どこかで誰かに見つけてほしかったのかもしれない。
私は机の横に置かれたクッキー缶を開けて、昨日聞いたカセットの次の日付のものを取り出す。
「昨日の続きって、それ?」
「たぶん」
カセットデッキに入れる。
再生ボタンを押した。
最初に聞こえたのは、昨日と同じようなザーッという雑音だった。
遠くで何かが擦れるような音がする。
しばらくすると、ぼやけていた音が少しずつ輪郭を持ち始めた。
誰かが息を吸う音。
椅子が動く音。
そして――
聞き覚えのある声が、テープの向こうから流れてきた。
『……録れてるかな』
小さな声が聞こえて、私は思わず顔を上げた。
伯母の声。
『お姉ちゃん、近すぎ』
母の声。胸の奥がざわつく。昨日と同じだった。でも、少しだけ二人の声が近く感じる。まるで、本当に隣にいるみたいだった。
『だって、こうでもしないと、またお母さんにうるさいって怒られちゃう』
『そうだけどー……あれは、怖かったね』
『うん。鬼だった』
二人の笑い声を私は黙ったまま聞いていた。宮瀬も何も言わない。ただ、少し離れた場所で一緒に聞いている。
『それで?今日はどこ行ってたの?』
母が言った。
『海』
『また?』
『またって言わないでよ。夏なんだから』
『でも、宿題終わってないじゃん』
『そんなの後でいいじゃん。登紀子は真面目すぎるんだよ』
『そうかな』
『そうだよ』
『もう知らないよ?お母さんに怒られるのは澄子だから』
『え』
『いつも私まで巻き込まれるから』
『ひどい』
二人の笑い声が重なる。
『登紀子って、たまにお母さんみたいになるよね』
『え』
『真面目で、心配性で』
『悪口?』
『違う違う。褒めてる』
『今の言い方、絶対褒めてない』
『でも、そういうところ好きだよ』
その言葉に、母が少し黙る。
今なら分かる。
きっと、こういう何気ない言葉を、二人は何度も交わしていたのだ。
『登紀子はさ』
『ん?』
『将来どうするの?』
『急だね』
『だって、もう十七だよ』
『んー……私は……』
少しだけ、テープに沈黙が流れる。
『普通に大学行って、普通に働いて、普通に暮らす』
『登紀子らしい』
『何それ』
『褒めてる』
『絶対違う』
二人の笑い声が入る。私はその声を聞きながら、胸が苦しくなって思わず目を閉じた。この頃の二人は、本当に未来が続いていくと思っていたのだろう。ずっと隣にいることも。同じ場所にいることも。疑わなかったのだろう。
『ねえ、登紀子』
『なに?』
『約束して』
『何を?』
『ずっと友達でいて』
一瞬、音が遠くなった気がした。
『何それ』
母が笑う。
『姉妹なのに』
『でも、約束』
『……うん』
少し照れたような声だった。
『約束する』
その言葉の後、二人はしばらく黙っていた。
ザーッという雑音だけが流れる。
私は、なぜかその沈黙を聞き逃してはいけない気がした。
何か大事なことが、この間に残っている気がした。
卵焼きを焼いて、味噌汁を温め、父さんの分の新聞をテーブルの端に置く。
眠気眼をこすりながら、今日も早いなと思った。私よりも父さんよりも早く起きて、毎日二人分の朝食と弁当を作る。それが母の朝だった。
昨夜テープの向こうで笑っていた十七歳の母と、目の前で黙々と朝食を作る母が、どうしても同じ人だと思えなかった。けれど、その横顔を見ていると、不意にあの笑い声が重なって聞こえてきそうな気もした。
「今日、伯母さんのところ行くの?」
その声で、そんな考えはあっさり消えた。フライパンで油がはねる音と一緒に、いつもの母が朝の台所に戻ってきた。昨日のテープの中で笑っていた少女が、今は目の前で味噌汁を温めている。そのことが、まだうまく現実のものとして受け止められなかった。聞きたいことはたくさんある。でも、母の前にいると、どれも子どもっぽい質問に思えてしまう。だから私は、ただ「うん」と答えた。
父が朝食を食べ終え、家を出るころになってようやく、私は洗面所へ向かった。蛇口をひねると、冷たい水が指先に触れた。その感覚で、少しだけ頭が現実に戻ってくる。
母は、いる。ずっといなかったわけじゃない。毎朝起きて、台所に立って、父のお弁当を作って、私に「早くしなさい」と声をかける。そんな当たり前の母が、今もここにいる。
なのに、昨日聞いた声が頭から離れなかった。
まだ幼さの残る笑い声。誰かに向かって話しかける声。そこにいたのは、母になる前のひとりの少女だった。
蛇口から勢いよく出る水を、私はただぼんやりと眺めていた。
リビングへ戻ると、テーブルの上には私の分の朝食が置かれていた。「いただきます」も言わずに朝食に手を付ける私を、母が咎めたことは一度もない。そのことになぜか今、無性に腹が立った。十七年間も一緒に生活していたのに、私は母のことを何も知らない。いや、知ろうともしなかった。
だから、聞こうと思った。
あの夏のことを。
伯母さんは、最後にどんな顔をしていたのか。
母は、あの日のことをどれくらい覚えているのか。
どうして、今まで何も話してくれなかったのか。
「お母さん」
私は箸を置いた。母は味噌汁のお椀を持ったまま、こちらを見る。
「なに」
「伯母さん……」
そこまで言って、言葉が止まった。
聞きたいことは、たくさんあった。でも、どれも簡単に聞いてはいけない気がした。昔のことだから、と片づけられるほど軽いものではないことを、昨日のテープが教えてくれたから。
「……伯母さん、どんな人だった?」
結局、出てきたのはそんな質問だった。母は少し驚いたように瞬きをした。
「どんな人って」
「私、あんまり知らないから」
そう言うと、母はすぐには答えなかった。味噌汁のお椀をテーブルに置いて、少しだけ視線を落とす。その横顔は、いつもの母の顔だった。でも、昨日までとは違って見えた。私が知らなかった時間を持っている人の顔だった。
「澄子はね、昔から、どこにいるのか分からない人だった」
母のその言い方が、どこか優しく感じた。
「どういう意味?」
「そのままの意味。じっとしていられない人だったの。家にいると思ったら、急にいなくなってたりして」
「急に?」
「そう。学校帰りに知らない駅で降りて、そのまま町を歩き回ってたり。知らない人と仲良くなって、何時間も話を聞いて帰ってきたり」
その話をする母の声は、呆れているようでいて、どこか楽しそうだった。
「……それ、今とあんまり変わらないね」
思わず言うと、母は一瞬だけ目を丸くして、それから笑った。
その笑い方に、私は少し驚いた。
昨日、テープの中で聞いた笑い声と似ていた。
ほんの一瞬だけ、十七歳の母が戻ってきたみたいだった。
「そうね。変わらなかったのかも。でも、それってたぶん、澄子だけじゃなかったんだと思う」
「え?」
「おばあちゃんね、昔、東京の大学に行ったの」
初めて聞く話だった。
祖母が東京にいたことも、大学に通っていたことも知らなかった。
「おばあちゃんが?」
「うん。あの頃のこの辺じゃ、女の人が地元を離れて大学に行くなんて、今よりずっと珍しかったから」
母は遠くを見るような目をした。
「だから、澄子はおばあちゃんに似たんだと思う」
「お母さんも、行きたかった?」
口にした瞬間、しまったと思った。聞いてはいけないことだったのかもしれない。昔の後悔を、勝手に掘り返されたと思うかもしれない。でも、母は怒らなかった。しばらく黙って、味噌汁の湯気を見ていた。
「……そうね」
小さな声だった。
「行きたかったよ」
母は言った。
「知らない場所で暮らしてみたかった。違う人たちに会ってみたかった」
初めて聞く母の本音に胸の奥が詰まる。母は、もっと簡単に否定すると思っていた。「そんなこと考えたことない」とか。「昔の話だから」とか。
そうやって、いつものように笑って終わらせると思っていた。
「じゃあ……」
喉の奥が詰まる。
「なんで行かなかったの?」
母は少し笑った。
「怖かったんじゃないかな」
「怖かった?」
「うん」
母は頷く。
「澄子ほど、勇気がなかったかな」
母は、自分を責めているようには見えなかった。ただ、昔の自分を静かに振り返っているだけだった。
「でもね、後悔してるわけじゃないよ」
私は何も言わず、母の次の言葉を待った。
「紬がいるから」
その瞬間、胸が痛んだ。嬉しいはずなのに、苦しかった。私がいるから。母が選ばなかったものの中に、私がいるような気がした。
「……ごめん」
気づいたら、そんな言葉が出ていた。
母は目を瞬いた。
「何が?」
「分からないけど……」
自分でも何を謝っているのか分からなかった。
東京へ行かなかったこと。
澄子伯母さんと違う道を選んだこと。
その理由の一つに、自分がいること。
全部が混ざって、上手く言葉にできない。そんな私を母は少し困ったように笑った。
「紬」
声が少しだけ低くなった母は困ったように笑った。
「それは違うよ」
「でも……」
「紬が生まれたことと、私が行かなかったことは、同じじゃない」
その言葉に、私は顔を上げた。
「私はね、あの時、自分で選んだの」
母は静かに言った。
「もちろん、迷ったよ。怖かったし。澄子みたいに迷わず進める人を羨ましいと思ったこともある」
母は少し笑った。
「でも、誰かのせいにしたら、あの頃の私がかわいそうでしょう」
「……」
「十七歳の私は、十七歳なりに考えて決めたんだから」
その言葉を聞いて、なぜか目頭が熱くなった。母は夢を諦めた人ではなかった。ただ、別のものを選んだ人だった。そして、その道の先に私がいた。
それは、私が背負わなければいけない罪ではなくて。母が自分で歩いてきた人生の一部だった。
「澄子伯母さんは……後悔してたのかな」
母はすぐには答えずに窓の外を見る。私もそれを追うように目を向けると、夏の終わりの空は、あの日のテープの向こうにあった空と同じ色をしている気がした。
「どうかな」
母は言った。
「澄子は、後悔してても言わない人だったから」
「強いね」
そういうと、母は首を横に振った。
「強かったんじゃなくて」
少し間を置いて。
「弱いところを、見せる相手が少なかったのかもしれない」
その言葉が、静かに残った。
自由で強い人。私はずっと、伯母をそういう人だと思っていた。でも、本当は違ったのかもしれない。迷わなかったんじゃない。迷ったまま、歩いていただけなのかもしれない。
*
伯母の家へ向かう途中、宮瀬からメッセージが届いた。
『今日、学校休むの?』
画面を見つめたまま、私は少しだけ指を止めた。
今日は平日だった。本当なら、今ごろ私は学校へ向かっているはずだった。でも、伯母の家へ行くと言った私に、母は何も言わなかった。学校を休むことも、理由を聞くこともなく、ただ「行ってきたら」それだけだった。
まるで、私が伯母の家へ何かを探しに行くことを、母は最初から分かっていたみたいだった。
私は短く打ち込む。
『伯母さんの家に行く』
送信して間もなく、返信が届く。
『そうなんだ』
そのあと、もう一通。
『俺も、一緒に行っていいかな?』
思わず画面を見返した。
どうして。その一言が喉まで出かかった。宮瀬は伯母のことをほとんど知らないはずだ。私だって、つい最近まで知らなかったくらいなのだから。
しばらく迷ってから、私は返信した。
『なんで?』
既読はすぐについた。
『一人で行くのかなって思って』
それだけだった。答えになっているようで、どこかはぐらかされたような返事だった。私は画面を見つめたまま、小さく息をつく。たぶん宮瀬は、私が学校を休んでまで伯母の家へ向かう理由を聞きたいわけじゃない。聞かずに、そばにいようとしている。そんな気がした。
少しだけ迷ってから、私は指を動かした。
『うん』
送信すると、またすぐに返事が届く。
『駅で待ってる』
短い一文だった。私はスマートフォンを鞄にしまい、駅へ向かって歩き出す。
通りを歩く学生たちとすれ違うたびに、小さな罪悪感が浮かんだ。今ごろ、教室では朝のホームルームが始まっている頃だろう。なのに私は、制服も着ずに、伯母の家へ向かっていることに、どこかで楽しんでいた。いつもと違う場所へ向かうこと。誰かに決められた一日ではなく、自分で選んだ場所へ向かっていること。それが、思っていたより新鮮だった。
空は高く澄んでいた。蝉の声は相変わらず賑やかなのに、風だけが少しだけ涼しくなっている。夏が終わろうとしていることを、身体のほうが先に知っているようだった。
改札を抜けると、宮瀬はベンチに座っていた。
私に気づくと立ち上がり、小さく手を挙げる。
「おはよう」
「……おはよう」
制服姿ではない私たちは、いつもの朝の流れから外れてしまったように見えた。平日の朝に制服も着ずに歩いていることが、急に悪いことをしているような気になってくる。誰かに声をかけられたら、どう説明すればいいのだろう。そんな私の心配など気にも留めないように、宮瀬は「行こうか」とだけ言って歩き始めた。
どうして来たのか。どうして一緒に行きたいと思ったのか。聞こうと思えば聞けた。でも、その背中を見ていると、今は、その理由を考えなくてもいいと思えた。
宮瀬が隣を歩いている。それだけで、伯母の家までの道が、少しだけ短く感じられた。
周りの騒音はみるみるうちに減っていった。さっきまであった朝特有の騒がしさが消えると、隣を歩く宮瀬の足音と、自分の足音だけが静かな道に響いているようだった。
宮瀬との沈黙は、別段気まずくはなかった。むしろ、心地良いとさえ思えた。だから、その静けさを破るように宮瀬が口を開いたとき、少しだけ驚いた。
「紬の将来の夢って、なに?」
「考えたことなかった」
責められると思ったわけではないのに、なぜか少しだけ申し訳ない気持ちになった。でも、宮瀬はあっさりと言った。
「俺も」
そこで宮瀬は口を閉じた。さっきまでは沈黙が心地良いと思っていたのに、どうしてだろう。今の沈黙は、少しだけ落ち着かなかった。
何か答えなければいけないと思った。でも、考えても考えても、私の中からは何も出てこなかった。
「……考えとかないとなのかもね」
しばらくして、宮瀬がぽつりと言った。
けれど、すぐに小さく首を振る。
「いや。違ったかも。今の言い直してもいい?」
「……うん」
「考えなきゃ、じゃなくて。考えてみたい、なのかもね」
その言葉は、不思議なくらいすんなり胸に入ってきた。
また、沈黙が出来てしまった。
でも、これは嫌じゃない方の沈黙だった。
*
何度も来たことがある場所なのに、今日は少し違って見えた。
前に来たときは、ただ古い団地の一室だと思っただけだった。片付けをしなければならない場所。伯母が最後まで暮らしていた場所。それ以上の意味なんて、考えたこともなかった。
「ここ?」
隣を歩いていた宮瀬が、少しだけ声を落とした。
「うん」
宮瀬は部屋の前に立ったまま、表札を見上げていた。そこに書かれた「藤原」の文字を、しばらく眺めていた。
「……入る?」
私がそう聞くと、宮瀬は少し遅れて頷いた。
鞄から鍵を取り出した。小さな金属音が、静かな廊下に響く。鍵穴に差し込んで回すと、少し引っかかるような感触があった。扉を押すと古い蝶番が、低い音を立てる。
中から流れてきたのは、埃っぽい空気ではなかった。母と片付けていたはずなのに、この部屋はまだ誰かを待っている。
「……怖い?」
不意に宮瀬が言った。
「え」
「なんとなく」
私は顔を上げる。
宮瀬はいつものように穏やかな顔をしていた。からかっているわけでも、気を遣いすぎているわけでもない。ただ、そこにあるものをそのまま見ているような目だった。
「別に」
反射的に否定する。けれど、自分でも分かるくらい声に力がなかった。
宮瀬は少しだけ笑った。
「そっか」
否定を追及しない。そこが、宮瀬らしいと思った。
きっと、他の誰かだったら、きっと「分かりやすい嘘つくな」と言うだろう。
そう考えてから、なぜか少しだけ笑いそうになった。
「……何?」
「いや」
宮瀬が不思議そうに見る。
「宮瀬って、本当に変わってるなと思って」
予想外の言葉だったのか、宮瀬は少しだけ眉をひそめた。
「どこが」
「普通だったら、知らない親戚の昔のことなんて、ここまで気にしないと思う」
宮瀬は少しだけ考えるように黙った。
「そうかな」
「そうだと思う」
「……そうかもね」
そう言って、宮瀬は先に三和土で靴を脱ぎ、「お邪魔します」と部屋へ入っていった。
*
私たちは、昨日のカセットの続きを聞くことにした。
宮瀬は前回のテープを聞いていない。それでもいいのかと尋ねると、宮瀬は少し首を傾げて言った。
「紬が聞きたいなら、それでいいんじゃない」
やっぱり、宮瀬は宮瀬だなと思った。
自分が知りたいからではなく、私が知りたいと思っていることだから、そこにいる。私も、ただ、あの声の続きを聞かなければいけない気がしていた。
昨日聞いたのは、十七歳の母と伯母が笑っていた時間だった。
でも、あの後に何かがあった。母が行かなかった理由。
伯母が一人で遠くへ行った理由。
二人が同じ未来を見ていたのに、別々の道を歩くことになった理由。それが、まだどこかに残っている
「カセットって、どこ?」
宮瀬が部屋を見回しながら聞く。
「缶の中」
「缶?」
「クッキーの缶」
「ああ」
宮瀬は頷いた。
「そういうところに大事なもの入れる人、いるよね」
「伯母さん、そういうタイプだったのかな」
「紬はどう思う?」
急に聞かれて、私は少し困った。
「分からないけど……たぶん、隠すのが下手な人だったのかも」
「隠すのが?」
「大事なもの」
写真も。カセットも。きっと本人は隠していたつもりだったのだろう。でも、本当に忘れてほしいものなら、もっと簡単な場所に捨てていたはずだ。残している時点で、どこかで誰かに見つけてほしかったのかもしれない。
私は机の横に置かれたクッキー缶を開けて、昨日聞いたカセットの次の日付のものを取り出す。
「昨日の続きって、それ?」
「たぶん」
カセットデッキに入れる。
再生ボタンを押した。
最初に聞こえたのは、昨日と同じようなザーッという雑音だった。
遠くで何かが擦れるような音がする。
しばらくすると、ぼやけていた音が少しずつ輪郭を持ち始めた。
誰かが息を吸う音。
椅子が動く音。
そして――
聞き覚えのある声が、テープの向こうから流れてきた。
『……録れてるかな』
小さな声が聞こえて、私は思わず顔を上げた。
伯母の声。
『お姉ちゃん、近すぎ』
母の声。胸の奥がざわつく。昨日と同じだった。でも、少しだけ二人の声が近く感じる。まるで、本当に隣にいるみたいだった。
『だって、こうでもしないと、またお母さんにうるさいって怒られちゃう』
『そうだけどー……あれは、怖かったね』
『うん。鬼だった』
二人の笑い声を私は黙ったまま聞いていた。宮瀬も何も言わない。ただ、少し離れた場所で一緒に聞いている。
『それで?今日はどこ行ってたの?』
母が言った。
『海』
『また?』
『またって言わないでよ。夏なんだから』
『でも、宿題終わってないじゃん』
『そんなの後でいいじゃん。登紀子は真面目すぎるんだよ』
『そうかな』
『そうだよ』
『もう知らないよ?お母さんに怒られるのは澄子だから』
『え』
『いつも私まで巻き込まれるから』
『ひどい』
二人の笑い声が重なる。
『登紀子って、たまにお母さんみたいになるよね』
『え』
『真面目で、心配性で』
『悪口?』
『違う違う。褒めてる』
『今の言い方、絶対褒めてない』
『でも、そういうところ好きだよ』
その言葉に、母が少し黙る。
今なら分かる。
きっと、こういう何気ない言葉を、二人は何度も交わしていたのだ。
『登紀子はさ』
『ん?』
『将来どうするの?』
『急だね』
『だって、もう十七だよ』
『んー……私は……』
少しだけ、テープに沈黙が流れる。
『普通に大学行って、普通に働いて、普通に暮らす』
『登紀子らしい』
『何それ』
『褒めてる』
『絶対違う』
二人の笑い声が入る。私はその声を聞きながら、胸が苦しくなって思わず目を閉じた。この頃の二人は、本当に未来が続いていくと思っていたのだろう。ずっと隣にいることも。同じ場所にいることも。疑わなかったのだろう。
『ねえ、登紀子』
『なに?』
『約束して』
『何を?』
『ずっと友達でいて』
一瞬、音が遠くなった気がした。
『何それ』
母が笑う。
『姉妹なのに』
『でも、約束』
『……うん』
少し照れたような声だった。
『約束する』
その言葉の後、二人はしばらく黙っていた。
ザーッという雑音だけが流れる。
私は、なぜかその沈黙を聞き逃してはいけない気がした。
何か大事なことが、この間に残っている気がした。


