写真を母に見せたのは、その日の夕方だった。見せるつもりはなかったけれど、隠していることがあると知ってしまうと、その隠し方まで気になってしまう。元の場所に戻して、見なかったことにすればいい。それが一番簡単だ。なのに私は、母のところへ向かっていた。何を聞きたいのか、自分でもよく分からないまま。
階段を降りると、母は一階の台所で伯母の食器を新聞紙に包んでいた。
「お母さん」
私が呼ぶと、母は振り向いた。
「なに?」
私は写真を差し出した。母はそれを見た瞬間、新聞紙を折る手を止めた。その一瞬を私は見逃さなかった。母は驚いたわけじゃない。思い出したのだ。そんな顔をしていた。
「どこにあったの」
「二階の机」
「そう」
母は写真を受け取らなかった。行き場をなくした写真を、新聞紙の上にそっと置くと、母はしばらくそれを見降ろしていた。手を伸ばすことも、目をそらすこともせずに。
やがて、小さく息をつく。
「昔の写真って、変ね」
その声は、私に向けたものというより、写真の中の誰かに話しかけているようだった。
「何が?」
「この子、本当に私だったのかなって、そう思うの」
母の言いたいことが、わかる気がする。写真の中の少女は、確かに母だ。でも、私の知っている母ではない。笑い方も違うし、髪型も違う。きっと、声だって違ったのだろう。何より、まだ何も知らない顔をしている。
「二人で出ていく予定だったって、書いてあるけど」
私は写真の裏に残された文字を見ながら言った。
「どこに行くつもりだったの?」
意地悪な質問をしたと自分でも思う。聞いてはいけないことを聞いている。でも、もう知ってしまった。母と伯母が、昔は同じ未来を見ていたことを。
母はすぐには答えなかった。写真を見つめたまま、指先だけがわずかに動く。まるで、何十年も前の記憶を探しているみたいに。
「遠くよ」
「遠く、って」
「遠いところに行けば、何かが変わると思ってたのよ」
母は笑った。でも、その笑い方は懐かしんでいるというより、自分自身を少し馬鹿にしているようだった。
「何になりたかったの?」
私が聞くと、母は眉を少し動かした。
「何が?」
「お母さんも、伯母さんみたいに、何かやりたかったんじゃないの?」
言ったあと、母の顔が少しだけ固くなったのをみて、少し後悔した。
「人はね」
けれど、母は食器を包みながら続ける。
「やりたいことだけで生きられるほど、簡単じゃないの」
母は写真から目を離さないまま、小さく笑った。
「……あの日、行っていたら、あなたはいなかったかもね」
私は返事ができなかった。「そんなこといわれても」と喉元まで出かかったが、母はもう何も言わず、新聞紙で食器を包み始めていた。
*
翌日の学校では、何度も意識が途切れそうになった。
伯母の部屋から持ち帰った写真がなぜか気になって、何度も見ていたからだ。写真の中の母は、私が知らない人だった。それが不思議だった。母にも、私にも、お互いが知らない時間がある。当然のことなのに、今まで考えたことがなかった。
「紬」
昼休み、机に突っ伏していると、後ろから宮瀬が声をかけてきた。
「何」
「いや、なんか今日変だから」
「いつも変ってこと?」
「そうじゃなくて……」
彼とは高校に入ってから、なぜかよく話すようになった。特別仲がいいわけではない。毎日連絡を取るわけでもない。でも、気づくと近くにいる。そういう人だった。
「進路、もう決めた?」
宮瀬が聞いた。
「まだ」
「珍しい」
「何が?」
「紬って、全部決めてるタイプだと思ってた」
「そんなことない」
「あるよ。紬ってさ、やりたいことを探すより、嫌じゃないものを探してる感じする」
反論しようとして、言葉が止まった。私は今まで、一度でも「何をしたいか」で選んだことがあっただろうか。先輩に誘われたバイトが一週間と持たなかったことも、宮瀬は知っている。
最初は楽しかった。新しいことを始めた自分が、少しだけ大人になった気がした。でも、慣れてくると「向いてないかも」という気持ちばかりが大きくなった。続ける理由より、辞める理由の方が簡単に見つかった。そして今も、進路を考えながら「やりたいこと」じゃなくて「失敗しなさそうなもの」を探している。そのことを認めるのが、悔しかった。
「……あ、違う。今の言い方だと悪く聞こえるな……否定したいわけじゃない。えっと、選び方の話で……。いや、これも違う。今の言い直してもいい?」
怒ったように見えたのか、宮瀬は珍しく慌てた。いつもは人のことを簡単に言い当てるくせに、こういう時だけ不器用だ。
「でも、褒めてもないよね」
「うん。たぶん俺、こういうの言うの下手なんだ。ごめん」
素直に謝られると、逆に困る。こういうところが、この人の変なところだった。普通なら「そんなことないよ」と否定する。でも宮瀬は、伝えたいことより、伝わり方のほうを気にしているみたいだった。その距離感は、嫌いじゃない。
「俺、間違える方が怖いけどな」
「え?」
「相手を分かったつもりになること」
宮瀬は机の木目を見ながら言った。
「ちゃんと伝わってるって思ってても、全然違うことってあるじゃん」
その言葉に、写真の中で笑う母の顔が浮かんだ。母は、あの夏を間違いだったと思っているのだろうか。ふと、そのことを誰かに聞いてほしくなった。
見せるつもりなんてなかった。
母のことを知らない人に、この写真を見せる理由なんてないと思っていた。なのに。
気づけば私は鞄に手を入れていた。写真の角が指先に触れる。
母にも聞けなかったことを、宮瀬に見せてどうする。そう思うのに、私は写真を机の上へ置いていた。
「これ……母」
宮瀬は少しだけ驚いた顔をした。
「見てもいい?」
「うん」
許可をもらってから、宮瀬は両手で写真を受け取る。
「……へえ。若いね」
「十七歳くらい」
「似てる」
「どっちに?」
「……あ。今の『似てる』だと、お母さんと紬が似てるって意味にも聞こえるな」
「違うの?」
「違わないけど。なんか、笑った時の雰囲気が、同じなんだよね」
なにそれ。そう言い返すそうにもどこか照れくさくて、誤魔化すように私は写真を取り返そうとし手を伸ばした。
「あ、ごめん」
宮瀬は写真の端をそっと持ち替えた。
「折れそうだったから」
その扱い方が、意外だった。もっと雑に見ていると思っていたのに。
「いいよ別に。結構年季入ってるし」
「いや、大事なものなんだろ」
返事の代わりに、私は写真へ視線を落とす。私にとってはただの古い写真のはずだった。でも、宮瀬に言われて初めて思った。これは、伯母にとっては大切なものだったのかもしれない。封筒にの下に隠すように置かれていたこの写真を、どんな気持ちで残していたのか。本人に聞ける日は、あるのだろうか。
「……これ。この写真さ」
宮瀬は一度、裏側を確認した。それから表に戻し、写真を光に透かすように少し傾ける。
「誰が撮ったんだろうな」
私は動きを止めた。確かにそうだ。そんなこと、一度も考えたことがなかった。セルフタイマーなんて、当時は簡単じゃない。この瞬間を残そうと思った誰かがいた。二人の前に立って、二人の笑顔を見て、シャッターを押した人がいる。
チャイムが鳴った。私は写真をしまうことも忘れたまま、その一言だけが頭の中で何度も繰り返されていた。
――写真を撮った人。
母でも、伯母でもない、もう一人。私は、その人のことをも、その人がこの写真を撮った理由も何も知らない。
*
その夜、伯母の部屋にあった本棚の本を一冊ずつ抜いていると、一番奥で何かが指先に当たった。
引き出してみると、掌に収まるほどのクッキー缶があった。
何度も開け閉めされたのか、蓋の縁だけが擦れている。表面の絵柄も色褪せていて、どう見ても古い。それなのに、缶だけは不思議なくらい綺麗なままだ。
伯母が、こんなものを大切にしてたなんて、なんだか意外だった。どうせ中には裁縫道具でも入っているんだろうと思って、蓋を開けた。でも、入っていたのはどれも同じような白いラベルが貼られているカセットテープだった。
一九九八年八月十二日。一九九八年八月十三日。一九九八年八月十四日……。
まるで、誰かが忘れないように日付だけが、几帳面に書かれていた。指を折って数えると、その年は母たちが十七歳だった。
再生機は古いものしかなかったが、伯母の部屋の棚に一台だけ残っていた。母は写真だけは捨てないでと言った。でも、テープのことは何も言わなかった。聞いてしまえば、もう知らなかった頃には戻れない。人の過去を勝手に聞いていいのか、しばらく動けなかった。でも、それより強い気持ちがあった。母が話そうとしない夏を、知りたかった。
日付順に並べられていたカセットの一番上にあったものを手に取った。。入れて再生ボタンを押すが、聞こえたのは、ザーッという雑音だった。
「……なんだ。壊れているのか」
溜息が出た。でも、残念ではなくて。むしろ、少しだけ安心していた。これでよかったのかもしれない。人の過去を勝手に知ろうだなんて、やっぱり間違っていた。
そう考えて、停止ボタンに指を伸ばしたその時、かすかな笑い声が聞こえた。誰かが、すぐ近くで笑ったような声だった。
『あ、あー……これちゃんと録音できてるのかな。もしもーし、聞こえてる?』
若い声。誰の声かすぐ分かった。伯母の声だ。
『えっと…………ねえほら、登紀子も何か喋ってよ』
少し間があった。そして、もうひとつの声が聞こえた。
『嫌だよ。恥ずかしいし。お姉ちゃんが録ろうって言ったんじゃん』
母の声だった。
『だって、あとで聞いたら面白そうじゃない?』
『絶対聞かないでしょ』
『聞くよ』
『嘘だね』
『嘘じゃないって』
二人の笑い声が重なった。私は思わず息を止めた。母の笑い声を、私は知らなかった。家で聞く母の笑い声は、もっと小さい。誰かに気を遣うみたいに、途中で消えてしまうような笑い方だった。
でも、テープの向こうにいる母は違った。無垢な少女の声だった。
『じゃあ。今日から、えー。私たちの二人の記録をこれに残そうと思います』
『何の記録?』
『何でもいいの。こういうのは雰囲気だから』
テープの向こうで、澄子が笑った。
その笑い声は、今の私が知っている伯母の声とは少し違っていた。
もっと幼くて、もっと無邪気だった。
『じゃあさ』
『なに?』
『登紀子って、好きな人とかいるの?』
『……急に何?』
『別に。気になっただけ』
『いないよ』
『ほんとに?』
『ほんと』
『神谷くんは?』
その名前が出た途端、テープの向こうが静かになった。
ほんの一秒にも満たない沈黙だったのに、不思議なくらい長く感じる。
『……なんでそこで神谷くんなの』
『だって、この前も一緒に帰ってたじゃん』
『あれは駅まで一緒だっただけ』
『ふーん』
『その「ふーん」やめて』
『図書室でも隣にいたし』
『偶然』
『文化祭の準備も一緒だったよね』
『それもたまたま』
『そんなに偶然って重なるんだ』
『……お姉ちゃん』
『はい』
『絶対、面白がってるでしょ』
『ちょっとだけ』
『もう』
『で、どうなの』
『どうって?』
『好きなの?神谷くんのこと』
『……分かんない』
『分かんないんだ』
『だって、そういうの考えたことないし』
『ほんとに?』
『ほんと』
『顔、見えないけど赤くなってるでしょ』
『なってない!』
堪えきれなくなったように、ぶはっ。と澄子が吹き出した。
『かわいいなあ』
『もう、お姉ちゃん嫌い』
『はいはい、ごめんごめん』
二人の笑い声が重なった。
私は思わず口元を押さえた。
母にも、こんなふうに照れることがあったんだ。
好きな人の名前をからかわれて、言い返せなくなって、姉に笑われる。
そんな、ごく普通の女子高生だった。
知らなかった。
私の中の母は、最初から母だった。
誰かを好きになって、誰かの名前を意識して、友達と笑っていた頃なんて、一度も想像したことがなかった。
神谷。
初めて聞く名前だった。同級生なのだろうか。写真を撮った人だろうか。それとも、ただ姉妹がからかいの種にしていただけの男の子なのか。分からない。でも、一度耳に入ってしまった名前は、妙に引っ掛かった。
『じゃあ、お姉ちゃんは?』
笑いがおさまった頃、登紀子が少しだけ優しい声で言った。
『私?』
『好きな人いないの?』
『私はいいの』
『またそれ』
『今は恋愛より、行ってみたい場所のほうが多いから』
『変なの』
『よく言われる』
『お姉ちゃんって、ほんと変』
『知ってる』
二人の笑い声が重なった。
その笑い声は、蝉の鳴き声に溶けるように少しずつ遠ざかっていく。
その直後、ガタン、と何かを動かす音がした。
『やばい。お母さんだ』
『止めて、止めて』
そこで、カチッ、と小さな音がしてテープが途切れた。
部屋に静けさが戻る。
私はしばらく、停止したカセットデッキを見つめていた。
母にも、こんな時間があったんだ。誰かにからかわれて、照れて、言い返して。好きな人の名前を出されただけで、声が少し揺れるような、そんな普通の女の子だった時間が。
私の知っている母は、いつも母だった。家族のために動いて、余計なことは言わなくて、何かを諦めたように笑う人だった。でも、テープの向こうにいたのは違う。十七歳くらいの登紀子は、まだ何者でもなくて。これから先に何が待っているのかも知らなくて。ただ、姉と一緒に笑いながら、遠い未来を夢見ていた。
澄子さんも、母も。きっとあの頃は、同じ景色を見ていたのだと思う。知らない場所へ行きたい。もっと広い世界を見てみたい。そんな気持ちを、二人とも同じように抱えていた。
それなのに。
いつからか、二人の道は別れてしまった。
どうしてそうなったのか。
何が二人の間にあったのか。
私には、まだ分からない。ただ一つだけ分かった。母の人生は、最初から決められていたものじゃなかったのだ。このテープの中には、私の知らない母がいた。
階段を降りると、母は一階の台所で伯母の食器を新聞紙に包んでいた。
「お母さん」
私が呼ぶと、母は振り向いた。
「なに?」
私は写真を差し出した。母はそれを見た瞬間、新聞紙を折る手を止めた。その一瞬を私は見逃さなかった。母は驚いたわけじゃない。思い出したのだ。そんな顔をしていた。
「どこにあったの」
「二階の机」
「そう」
母は写真を受け取らなかった。行き場をなくした写真を、新聞紙の上にそっと置くと、母はしばらくそれを見降ろしていた。手を伸ばすことも、目をそらすこともせずに。
やがて、小さく息をつく。
「昔の写真って、変ね」
その声は、私に向けたものというより、写真の中の誰かに話しかけているようだった。
「何が?」
「この子、本当に私だったのかなって、そう思うの」
母の言いたいことが、わかる気がする。写真の中の少女は、確かに母だ。でも、私の知っている母ではない。笑い方も違うし、髪型も違う。きっと、声だって違ったのだろう。何より、まだ何も知らない顔をしている。
「二人で出ていく予定だったって、書いてあるけど」
私は写真の裏に残された文字を見ながら言った。
「どこに行くつもりだったの?」
意地悪な質問をしたと自分でも思う。聞いてはいけないことを聞いている。でも、もう知ってしまった。母と伯母が、昔は同じ未来を見ていたことを。
母はすぐには答えなかった。写真を見つめたまま、指先だけがわずかに動く。まるで、何十年も前の記憶を探しているみたいに。
「遠くよ」
「遠く、って」
「遠いところに行けば、何かが変わると思ってたのよ」
母は笑った。でも、その笑い方は懐かしんでいるというより、自分自身を少し馬鹿にしているようだった。
「何になりたかったの?」
私が聞くと、母は眉を少し動かした。
「何が?」
「お母さんも、伯母さんみたいに、何かやりたかったんじゃないの?」
言ったあと、母の顔が少しだけ固くなったのをみて、少し後悔した。
「人はね」
けれど、母は食器を包みながら続ける。
「やりたいことだけで生きられるほど、簡単じゃないの」
母は写真から目を離さないまま、小さく笑った。
「……あの日、行っていたら、あなたはいなかったかもね」
私は返事ができなかった。「そんなこといわれても」と喉元まで出かかったが、母はもう何も言わず、新聞紙で食器を包み始めていた。
*
翌日の学校では、何度も意識が途切れそうになった。
伯母の部屋から持ち帰った写真がなぜか気になって、何度も見ていたからだ。写真の中の母は、私が知らない人だった。それが不思議だった。母にも、私にも、お互いが知らない時間がある。当然のことなのに、今まで考えたことがなかった。
「紬」
昼休み、机に突っ伏していると、後ろから宮瀬が声をかけてきた。
「何」
「いや、なんか今日変だから」
「いつも変ってこと?」
「そうじゃなくて……」
彼とは高校に入ってから、なぜかよく話すようになった。特別仲がいいわけではない。毎日連絡を取るわけでもない。でも、気づくと近くにいる。そういう人だった。
「進路、もう決めた?」
宮瀬が聞いた。
「まだ」
「珍しい」
「何が?」
「紬って、全部決めてるタイプだと思ってた」
「そんなことない」
「あるよ。紬ってさ、やりたいことを探すより、嫌じゃないものを探してる感じする」
反論しようとして、言葉が止まった。私は今まで、一度でも「何をしたいか」で選んだことがあっただろうか。先輩に誘われたバイトが一週間と持たなかったことも、宮瀬は知っている。
最初は楽しかった。新しいことを始めた自分が、少しだけ大人になった気がした。でも、慣れてくると「向いてないかも」という気持ちばかりが大きくなった。続ける理由より、辞める理由の方が簡単に見つかった。そして今も、進路を考えながら「やりたいこと」じゃなくて「失敗しなさそうなもの」を探している。そのことを認めるのが、悔しかった。
「……あ、違う。今の言い方だと悪く聞こえるな……否定したいわけじゃない。えっと、選び方の話で……。いや、これも違う。今の言い直してもいい?」
怒ったように見えたのか、宮瀬は珍しく慌てた。いつもは人のことを簡単に言い当てるくせに、こういう時だけ不器用だ。
「でも、褒めてもないよね」
「うん。たぶん俺、こういうの言うの下手なんだ。ごめん」
素直に謝られると、逆に困る。こういうところが、この人の変なところだった。普通なら「そんなことないよ」と否定する。でも宮瀬は、伝えたいことより、伝わり方のほうを気にしているみたいだった。その距離感は、嫌いじゃない。
「俺、間違える方が怖いけどな」
「え?」
「相手を分かったつもりになること」
宮瀬は机の木目を見ながら言った。
「ちゃんと伝わってるって思ってても、全然違うことってあるじゃん」
その言葉に、写真の中で笑う母の顔が浮かんだ。母は、あの夏を間違いだったと思っているのだろうか。ふと、そのことを誰かに聞いてほしくなった。
見せるつもりなんてなかった。
母のことを知らない人に、この写真を見せる理由なんてないと思っていた。なのに。
気づけば私は鞄に手を入れていた。写真の角が指先に触れる。
母にも聞けなかったことを、宮瀬に見せてどうする。そう思うのに、私は写真を机の上へ置いていた。
「これ……母」
宮瀬は少しだけ驚いた顔をした。
「見てもいい?」
「うん」
許可をもらってから、宮瀬は両手で写真を受け取る。
「……へえ。若いね」
「十七歳くらい」
「似てる」
「どっちに?」
「……あ。今の『似てる』だと、お母さんと紬が似てるって意味にも聞こえるな」
「違うの?」
「違わないけど。なんか、笑った時の雰囲気が、同じなんだよね」
なにそれ。そう言い返すそうにもどこか照れくさくて、誤魔化すように私は写真を取り返そうとし手を伸ばした。
「あ、ごめん」
宮瀬は写真の端をそっと持ち替えた。
「折れそうだったから」
その扱い方が、意外だった。もっと雑に見ていると思っていたのに。
「いいよ別に。結構年季入ってるし」
「いや、大事なものなんだろ」
返事の代わりに、私は写真へ視線を落とす。私にとってはただの古い写真のはずだった。でも、宮瀬に言われて初めて思った。これは、伯母にとっては大切なものだったのかもしれない。封筒にの下に隠すように置かれていたこの写真を、どんな気持ちで残していたのか。本人に聞ける日は、あるのだろうか。
「……これ。この写真さ」
宮瀬は一度、裏側を確認した。それから表に戻し、写真を光に透かすように少し傾ける。
「誰が撮ったんだろうな」
私は動きを止めた。確かにそうだ。そんなこと、一度も考えたことがなかった。セルフタイマーなんて、当時は簡単じゃない。この瞬間を残そうと思った誰かがいた。二人の前に立って、二人の笑顔を見て、シャッターを押した人がいる。
チャイムが鳴った。私は写真をしまうことも忘れたまま、その一言だけが頭の中で何度も繰り返されていた。
――写真を撮った人。
母でも、伯母でもない、もう一人。私は、その人のことをも、その人がこの写真を撮った理由も何も知らない。
*
その夜、伯母の部屋にあった本棚の本を一冊ずつ抜いていると、一番奥で何かが指先に当たった。
引き出してみると、掌に収まるほどのクッキー缶があった。
何度も開け閉めされたのか、蓋の縁だけが擦れている。表面の絵柄も色褪せていて、どう見ても古い。それなのに、缶だけは不思議なくらい綺麗なままだ。
伯母が、こんなものを大切にしてたなんて、なんだか意外だった。どうせ中には裁縫道具でも入っているんだろうと思って、蓋を開けた。でも、入っていたのはどれも同じような白いラベルが貼られているカセットテープだった。
一九九八年八月十二日。一九九八年八月十三日。一九九八年八月十四日……。
まるで、誰かが忘れないように日付だけが、几帳面に書かれていた。指を折って数えると、その年は母たちが十七歳だった。
再生機は古いものしかなかったが、伯母の部屋の棚に一台だけ残っていた。母は写真だけは捨てないでと言った。でも、テープのことは何も言わなかった。聞いてしまえば、もう知らなかった頃には戻れない。人の過去を勝手に聞いていいのか、しばらく動けなかった。でも、それより強い気持ちがあった。母が話そうとしない夏を、知りたかった。
日付順に並べられていたカセットの一番上にあったものを手に取った。。入れて再生ボタンを押すが、聞こえたのは、ザーッという雑音だった。
「……なんだ。壊れているのか」
溜息が出た。でも、残念ではなくて。むしろ、少しだけ安心していた。これでよかったのかもしれない。人の過去を勝手に知ろうだなんて、やっぱり間違っていた。
そう考えて、停止ボタンに指を伸ばしたその時、かすかな笑い声が聞こえた。誰かが、すぐ近くで笑ったような声だった。
『あ、あー……これちゃんと録音できてるのかな。もしもーし、聞こえてる?』
若い声。誰の声かすぐ分かった。伯母の声だ。
『えっと…………ねえほら、登紀子も何か喋ってよ』
少し間があった。そして、もうひとつの声が聞こえた。
『嫌だよ。恥ずかしいし。お姉ちゃんが録ろうって言ったんじゃん』
母の声だった。
『だって、あとで聞いたら面白そうじゃない?』
『絶対聞かないでしょ』
『聞くよ』
『嘘だね』
『嘘じゃないって』
二人の笑い声が重なった。私は思わず息を止めた。母の笑い声を、私は知らなかった。家で聞く母の笑い声は、もっと小さい。誰かに気を遣うみたいに、途中で消えてしまうような笑い方だった。
でも、テープの向こうにいる母は違った。無垢な少女の声だった。
『じゃあ。今日から、えー。私たちの二人の記録をこれに残そうと思います』
『何の記録?』
『何でもいいの。こういうのは雰囲気だから』
テープの向こうで、澄子が笑った。
その笑い声は、今の私が知っている伯母の声とは少し違っていた。
もっと幼くて、もっと無邪気だった。
『じゃあさ』
『なに?』
『登紀子って、好きな人とかいるの?』
『……急に何?』
『別に。気になっただけ』
『いないよ』
『ほんとに?』
『ほんと』
『神谷くんは?』
その名前が出た途端、テープの向こうが静かになった。
ほんの一秒にも満たない沈黙だったのに、不思議なくらい長く感じる。
『……なんでそこで神谷くんなの』
『だって、この前も一緒に帰ってたじゃん』
『あれは駅まで一緒だっただけ』
『ふーん』
『その「ふーん」やめて』
『図書室でも隣にいたし』
『偶然』
『文化祭の準備も一緒だったよね』
『それもたまたま』
『そんなに偶然って重なるんだ』
『……お姉ちゃん』
『はい』
『絶対、面白がってるでしょ』
『ちょっとだけ』
『もう』
『で、どうなの』
『どうって?』
『好きなの?神谷くんのこと』
『……分かんない』
『分かんないんだ』
『だって、そういうの考えたことないし』
『ほんとに?』
『ほんと』
『顔、見えないけど赤くなってるでしょ』
『なってない!』
堪えきれなくなったように、ぶはっ。と澄子が吹き出した。
『かわいいなあ』
『もう、お姉ちゃん嫌い』
『はいはい、ごめんごめん』
二人の笑い声が重なった。
私は思わず口元を押さえた。
母にも、こんなふうに照れることがあったんだ。
好きな人の名前をからかわれて、言い返せなくなって、姉に笑われる。
そんな、ごく普通の女子高生だった。
知らなかった。
私の中の母は、最初から母だった。
誰かを好きになって、誰かの名前を意識して、友達と笑っていた頃なんて、一度も想像したことがなかった。
神谷。
初めて聞く名前だった。同級生なのだろうか。写真を撮った人だろうか。それとも、ただ姉妹がからかいの種にしていただけの男の子なのか。分からない。でも、一度耳に入ってしまった名前は、妙に引っ掛かった。
『じゃあ、お姉ちゃんは?』
笑いがおさまった頃、登紀子が少しだけ優しい声で言った。
『私?』
『好きな人いないの?』
『私はいいの』
『またそれ』
『今は恋愛より、行ってみたい場所のほうが多いから』
『変なの』
『よく言われる』
『お姉ちゃんって、ほんと変』
『知ってる』
二人の笑い声が重なった。
その笑い声は、蝉の鳴き声に溶けるように少しずつ遠ざかっていく。
その直後、ガタン、と何かを動かす音がした。
『やばい。お母さんだ』
『止めて、止めて』
そこで、カチッ、と小さな音がしてテープが途切れた。
部屋に静けさが戻る。
私はしばらく、停止したカセットデッキを見つめていた。
母にも、こんな時間があったんだ。誰かにからかわれて、照れて、言い返して。好きな人の名前を出されただけで、声が少し揺れるような、そんな普通の女の子だった時間が。
私の知っている母は、いつも母だった。家族のために動いて、余計なことは言わなくて、何かを諦めたように笑う人だった。でも、テープの向こうにいたのは違う。十七歳くらいの登紀子は、まだ何者でもなくて。これから先に何が待っているのかも知らなくて。ただ、姉と一緒に笑いながら、遠い未来を夢見ていた。
澄子さんも、母も。きっとあの頃は、同じ景色を見ていたのだと思う。知らない場所へ行きたい。もっと広い世界を見てみたい。そんな気持ちを、二人とも同じように抱えていた。
それなのに。
いつからか、二人の道は別れてしまった。
どうしてそうなったのか。
何が二人の間にあったのか。
私には、まだ分からない。ただ一つだけ分かった。母の人生は、最初から決められていたものじゃなかったのだ。このテープの中には、私の知らない母がいた。


