伯母の家を片づけることになった日、母は最初に言った。
「写真だけは捨てないで」
私は少し驚いた。
母は伯母のものを、できるだけ早く処分したいように見えたからだ。
窓から差し込む光が、母の輪郭を濃く縁取っていた。私を産んだ人とは思えないほど、美しく見えたのはそのせいかもしれない。
食器も、服も、本も、棚の奥にしまい込まれた小さな置物も、母はひとつずつ手に取っては、淡々と言った。
「これはもう使わない」
「これは古すぎる」
「これは持って帰っても仕方ない」
まるで伯母の七十年を、必要なものと不要なものに分けているように。でも写真だけは違った。
「どうして写真だけ?」
私が訊ねると、母は黙り込んだ。
母が黙る時は、何かを考えている時ではなく、何かを隠そうとしている時だと、ここ最近になってようやく知った。
「昔のものだから」
しばらくして、母はそう答えた。
でも、それが本当の理由ではないことくらい、私にも分かった。それでも、それ以上は聞かなかった。母と伯母の間には、私の知らない何かがある。小さい頃から、なんとなく感じていた。
伯母の話をするとき、母はいつも声が低くなる。怒っているようにも聞こえたし、寂しがっているようにも聞こえた。
伯母は母の双子の姉で、名前は澄子。今年で六十二歳になる。
結婚はしなかった。会社を辞めたと思ったら、ふらっと海外へ行っていたり、何年かぶりに帰ってきたと思えば、今度は陶芸を始めていたりした。
周囲から見れば、きっと自由奔放な人だったのだと思う。でも、母が伯母のことを話すときだけは、いつもの母とは少し違っていた。
まるで、昔置いてきた何かを、まだどこかで抱えているみたいに。
誰かが伯母の話をすると、決まって同じことを言った。
「あの人は自由が好きだから」
そして、少し笑った。
その笑い方が、私は昔から苦手だった。羨ましがっているようにも見えたし、呆れているようにも見えた。どちらなのか分からない、曖昧な笑い。でも、その曖昧さの中に、伯母とは違う生き方をしてきた人たちの気持ちが滲んでいるような気がした。まるで、高校を卒業する頃には、誰もが自分の進む道を決めているみたいに。
私は十七歳だった。あと数か月で、進路を決めなければならない。
教卓の前に立つ先生が口癖のように言っていた。
「自分の人生だから、自分で考えろ」
でも、その後には必ず続きがあった。
「ただ、後悔しない選択をしなさい」
卒業して行った先輩達にも同じ言葉を投げかけてきたのだろう。しかし、そんなものがあるなら、誰も迷わない。私はそう思っていた。でも、口には出さなかった。
大人に反論するとき、私はいつも怖くなる。本当に自分の考えなのか分からなくなるからだ。大人の落ち着いた声を聞いていると、さっきまで確かにあったはずの自分の考えが、急に幼くて間違ったもののように思えてくる。
母も、伯母も、かつては十七歳だった。そんな当たり前のことを、私はまだ知らなかった。
*
伯母の家は、駅から歩いて二十分ほどのところにある古い団地の一室だった。
夏の終わりだった。
蝉の声はまだ途切れることなく響いていたけれど、空の色だけが少しずつ秋へ向かっているような日だった。生ぬるい風が団地の長い廊下を吹き抜け、誰もいない階段の踊り場で、行き場を失ったように一度だけ渦を巻いた。
鍵を回すと、扉は思ったより簡単に開いた。
中には、全くものが動かされてない、時間が止まったような部屋があった。
玄関を上がると、すぐ横に小さな台所がある。その奥には六畳ほどの居間が広がっていて、右手には二階へ続く階段、さらに奥には襖で仕切られた和室が見えた。
築年数の古い団地らしい、少し窮屈な間取り。でも、一人で暮らすには十分な広さだった。
少し黄ばんだカーテン。使いかけの絵の具。窓辺には小さな鉢植えが並び、台所には一人分の食器がきれいに重ねられていた。誰かが突然いなくなったというより、誰かが帰ってくるのを待っているようだった。
「伯母さんって、本当にここに一人で住んでたんだね」
思わず口にすると、母は靴を脱ぎながら静かに答えた。
「そうよ」
「寂しくなかったのかな」
何気なく訊ねたつもりだった。すると母は、少しだけ笑った。
「寂しい人ほど、寂しくないふりが上手なの」
その言葉を聞いたとき、ふと思った。
母も、寂しい人なのかもしれない。でも、そんなことを聞けるほど私は大人ではなかった。
母は居間の隅に積んであった段ボールを引き寄せ、折り畳まれていた箱を手際よく広げた。ガムテープで底を留める乾いた音が、静かな部屋に響く。その手は、一度も止まらなかった。
「紬、二階お願い」
「ん。分かった」
階段を上がるたび、古い木が小さく軋んだ。
天井の隅から舞い落ちた埃が、夏の日差しの中でゆっくりと揺れている。床が抜けてしまわないか不安になりながら、私は一段ずつ慎重に足を進めた。
踊り場の先に、伯母の部屋の閉じたドアが見えた。近づいてみると、そこにはキャラクターシールがたくさん散りばめられていた。古びた木の扉には似合わないくらい、明るくて、幼い。誰かに縛られることを嫌って、好きな場所へ行き、好きなことをして生きてきた人。
そんな伯母にも、こんなふうに何かを好きだった子どもの頃があったなんて、考えたこともなかった。
ドアを開けると、もっと子どもっぽい部屋が現れると思っていた。
けれど、そこにあったのは、埃と古い紙の匂いだった。
そして、壁を埋め尽くすほど並んだ本棚。
昔の小説。
詩集。
外国語で書かれた本。私には難しすぎて、題名すら読めないものもたくさんあった。
机の上には、異国の街角で買ってきたような古い万年筆が一本置かれていた。使われなくなってからどれくらい経つのだろう。それでも、まだ書けるような気がした。
試してみようと、私はそれを手に取り、近くにあった紙の上へ走らせてみる。でも、インクはもう乾いていた。万年筆は、かすれもしなかった。
「つまんないの」
そう呟いて、今度は机の引き出しを開けると、古い封筒が何枚も重なって入っていた。どれも何度も開け閉めされた跡があり、角が柔らかく擦り切れている。
伯母にも、私の知らない時間があったのだ。
幾つか手に取ると、封筒の下から今度は写真が何枚も現れた。外国車の横でポーズを決めるハットを被った男性だったり、知らない街の石畳を歩く若い女性だったり、ただの犬だったり。その中から私は気になる一枚を取り出した。
今の伯母ではなく、制服を着た女の子だった。肩につかないくらいの短い髪、日に焼けた肌。制服の袖から伸びた細い腕。
その隣に、もう一人いた少女に、私は息を止めた。
たぶん、母だ。若い母。十七歳くらいの母。そう思っているのに、すぐには認められなかった。私の知っている母は、いつも疲れた顔をしていた。家族のために働いて、言いたいことがあっても飲み込んでいるような人だった。でも、写真の中の少女は違った。今の母からは想像できないほど、あどけない顔をしていた。その少女は、伯母と肩を寄せて笑っている。
変な感じがした。自分に少し似ているような気もする。でも、私の知らない顔をしている。写真の中のその子が、今の母と同じ人だとは、すぐには信じられなかった。
写真を裏返すと、そこには鉛筆で文字が書かれていた。
――十七歳の夏。私たちなら、どこへだって行ける気がする。
私は、その続きを探すように写真の裏を何度も見た。でも、それ以上は何も書かれていなかった。ただ、薄くなった文字の下に、小さな線が残っていた。誰かが、途中で消そうとした跡だった。
私は写真をもう一度裏返した。
表。
裏。
また表。
また裏。
どこかに続きがあると思ったのに、痕跡は全く見当たらない。
どうして消したの。誰が消したの。
母?伯母?それとも、二人で?
爪でこすれば浮かび上がるんじゃないかと思った。しかし、指先で何度なぞっても何も出てこない。
「……なんなの」
思わず声が漏れた。
そこに何が書いてあったのか。なぜ母は、この写真を私に見せなかったのか。なぜ母は、伯母を「自由な人」と言う時、少し悲しそうな顔をするのか。
その時の私は、まだ知らなかった。
母と伯母の人生は、別々に始まったのではない。二人は一度、同じ未来を見ていた。そして、どちらか一人だけが、その未来を選んだ。
「写真だけは捨てないで」
私は少し驚いた。
母は伯母のものを、できるだけ早く処分したいように見えたからだ。
窓から差し込む光が、母の輪郭を濃く縁取っていた。私を産んだ人とは思えないほど、美しく見えたのはそのせいかもしれない。
食器も、服も、本も、棚の奥にしまい込まれた小さな置物も、母はひとつずつ手に取っては、淡々と言った。
「これはもう使わない」
「これは古すぎる」
「これは持って帰っても仕方ない」
まるで伯母の七十年を、必要なものと不要なものに分けているように。でも写真だけは違った。
「どうして写真だけ?」
私が訊ねると、母は黙り込んだ。
母が黙る時は、何かを考えている時ではなく、何かを隠そうとしている時だと、ここ最近になってようやく知った。
「昔のものだから」
しばらくして、母はそう答えた。
でも、それが本当の理由ではないことくらい、私にも分かった。それでも、それ以上は聞かなかった。母と伯母の間には、私の知らない何かがある。小さい頃から、なんとなく感じていた。
伯母の話をするとき、母はいつも声が低くなる。怒っているようにも聞こえたし、寂しがっているようにも聞こえた。
伯母は母の双子の姉で、名前は澄子。今年で六十二歳になる。
結婚はしなかった。会社を辞めたと思ったら、ふらっと海外へ行っていたり、何年かぶりに帰ってきたと思えば、今度は陶芸を始めていたりした。
周囲から見れば、きっと自由奔放な人だったのだと思う。でも、母が伯母のことを話すときだけは、いつもの母とは少し違っていた。
まるで、昔置いてきた何かを、まだどこかで抱えているみたいに。
誰かが伯母の話をすると、決まって同じことを言った。
「あの人は自由が好きだから」
そして、少し笑った。
その笑い方が、私は昔から苦手だった。羨ましがっているようにも見えたし、呆れているようにも見えた。どちらなのか分からない、曖昧な笑い。でも、その曖昧さの中に、伯母とは違う生き方をしてきた人たちの気持ちが滲んでいるような気がした。まるで、高校を卒業する頃には、誰もが自分の進む道を決めているみたいに。
私は十七歳だった。あと数か月で、進路を決めなければならない。
教卓の前に立つ先生が口癖のように言っていた。
「自分の人生だから、自分で考えろ」
でも、その後には必ず続きがあった。
「ただ、後悔しない選択をしなさい」
卒業して行った先輩達にも同じ言葉を投げかけてきたのだろう。しかし、そんなものがあるなら、誰も迷わない。私はそう思っていた。でも、口には出さなかった。
大人に反論するとき、私はいつも怖くなる。本当に自分の考えなのか分からなくなるからだ。大人の落ち着いた声を聞いていると、さっきまで確かにあったはずの自分の考えが、急に幼くて間違ったもののように思えてくる。
母も、伯母も、かつては十七歳だった。そんな当たり前のことを、私はまだ知らなかった。
*
伯母の家は、駅から歩いて二十分ほどのところにある古い団地の一室だった。
夏の終わりだった。
蝉の声はまだ途切れることなく響いていたけれど、空の色だけが少しずつ秋へ向かっているような日だった。生ぬるい風が団地の長い廊下を吹き抜け、誰もいない階段の踊り場で、行き場を失ったように一度だけ渦を巻いた。
鍵を回すと、扉は思ったより簡単に開いた。
中には、全くものが動かされてない、時間が止まったような部屋があった。
玄関を上がると、すぐ横に小さな台所がある。その奥には六畳ほどの居間が広がっていて、右手には二階へ続く階段、さらに奥には襖で仕切られた和室が見えた。
築年数の古い団地らしい、少し窮屈な間取り。でも、一人で暮らすには十分な広さだった。
少し黄ばんだカーテン。使いかけの絵の具。窓辺には小さな鉢植えが並び、台所には一人分の食器がきれいに重ねられていた。誰かが突然いなくなったというより、誰かが帰ってくるのを待っているようだった。
「伯母さんって、本当にここに一人で住んでたんだね」
思わず口にすると、母は靴を脱ぎながら静かに答えた。
「そうよ」
「寂しくなかったのかな」
何気なく訊ねたつもりだった。すると母は、少しだけ笑った。
「寂しい人ほど、寂しくないふりが上手なの」
その言葉を聞いたとき、ふと思った。
母も、寂しい人なのかもしれない。でも、そんなことを聞けるほど私は大人ではなかった。
母は居間の隅に積んであった段ボールを引き寄せ、折り畳まれていた箱を手際よく広げた。ガムテープで底を留める乾いた音が、静かな部屋に響く。その手は、一度も止まらなかった。
「紬、二階お願い」
「ん。分かった」
階段を上がるたび、古い木が小さく軋んだ。
天井の隅から舞い落ちた埃が、夏の日差しの中でゆっくりと揺れている。床が抜けてしまわないか不安になりながら、私は一段ずつ慎重に足を進めた。
踊り場の先に、伯母の部屋の閉じたドアが見えた。近づいてみると、そこにはキャラクターシールがたくさん散りばめられていた。古びた木の扉には似合わないくらい、明るくて、幼い。誰かに縛られることを嫌って、好きな場所へ行き、好きなことをして生きてきた人。
そんな伯母にも、こんなふうに何かを好きだった子どもの頃があったなんて、考えたこともなかった。
ドアを開けると、もっと子どもっぽい部屋が現れると思っていた。
けれど、そこにあったのは、埃と古い紙の匂いだった。
そして、壁を埋め尽くすほど並んだ本棚。
昔の小説。
詩集。
外国語で書かれた本。私には難しすぎて、題名すら読めないものもたくさんあった。
机の上には、異国の街角で買ってきたような古い万年筆が一本置かれていた。使われなくなってからどれくらい経つのだろう。それでも、まだ書けるような気がした。
試してみようと、私はそれを手に取り、近くにあった紙の上へ走らせてみる。でも、インクはもう乾いていた。万年筆は、かすれもしなかった。
「つまんないの」
そう呟いて、今度は机の引き出しを開けると、古い封筒が何枚も重なって入っていた。どれも何度も開け閉めされた跡があり、角が柔らかく擦り切れている。
伯母にも、私の知らない時間があったのだ。
幾つか手に取ると、封筒の下から今度は写真が何枚も現れた。外国車の横でポーズを決めるハットを被った男性だったり、知らない街の石畳を歩く若い女性だったり、ただの犬だったり。その中から私は気になる一枚を取り出した。
今の伯母ではなく、制服を着た女の子だった。肩につかないくらいの短い髪、日に焼けた肌。制服の袖から伸びた細い腕。
その隣に、もう一人いた少女に、私は息を止めた。
たぶん、母だ。若い母。十七歳くらいの母。そう思っているのに、すぐには認められなかった。私の知っている母は、いつも疲れた顔をしていた。家族のために働いて、言いたいことがあっても飲み込んでいるような人だった。でも、写真の中の少女は違った。今の母からは想像できないほど、あどけない顔をしていた。その少女は、伯母と肩を寄せて笑っている。
変な感じがした。自分に少し似ているような気もする。でも、私の知らない顔をしている。写真の中のその子が、今の母と同じ人だとは、すぐには信じられなかった。
写真を裏返すと、そこには鉛筆で文字が書かれていた。
――十七歳の夏。私たちなら、どこへだって行ける気がする。
私は、その続きを探すように写真の裏を何度も見た。でも、それ以上は何も書かれていなかった。ただ、薄くなった文字の下に、小さな線が残っていた。誰かが、途中で消そうとした跡だった。
私は写真をもう一度裏返した。
表。
裏。
また表。
また裏。
どこかに続きがあると思ったのに、痕跡は全く見当たらない。
どうして消したの。誰が消したの。
母?伯母?それとも、二人で?
爪でこすれば浮かび上がるんじゃないかと思った。しかし、指先で何度なぞっても何も出てこない。
「……なんなの」
思わず声が漏れた。
そこに何が書いてあったのか。なぜ母は、この写真を私に見せなかったのか。なぜ母は、伯母を「自由な人」と言う時、少し悲しそうな顔をするのか。
その時の私は、まだ知らなかった。
母と伯母の人生は、別々に始まったのではない。二人は一度、同じ未来を見ていた。そして、どちらか一人だけが、その未来を選んだ。


