このカクテルを、君と。

目が覚めても拭いきれないこの喪失感。
隣で眠る冬眞さんの手を持ち上げ、私の頬に添える。
その温かさが私を落ち着かせてくれるから。
冬眞さんは気づいてないかもしれないけど。
愛を知らない私なりの最大の甘え方なんだよ。

「…んぅ…、」

冬眞さんが身じろぎして、
私を探すように腕を伸ばす。
そして、私を抱きしめた。深く。確かめるように。
冬眞さんの香りが私を包み込み、その寝息が私の呼吸を誘う。

冬眞さんの肩に顔を埋め。
背中に手を回す。
小さく息を吸って。
「…すき、」
寝てたら、言えるのに。

「…うん、ぼく…、も…」
「…ぇ、」
その言葉に思わず胸が跳ねる。
寝言、だよね…?

冬眞さんの手が私の髪に触れ、
「…んぅむ…、」
眠ったまま。
もっと深く抱き寄せられる。

ピンポーン、と。
虚しく機械音が部屋に響き渡る。

「…冬眞さん?」
声をかけても、
「…あとごふん…、」
全く起きる気配がない。
誰だろう…とベッドから起き上がり、リビングに行くと、
「あ、薫さんおっはよー!」
と高瀬さんが、いる。

きなこは私に気がつくと抱っこしてと言わんばかりに足にすがりつく。

「…冬眞さんそっくり…」
きなこを抱っこすると
「逆にこっちの猫ちゃんは薫さんそっくりだよ?」
と言われ、
「ねー、かわいいねー」
と高瀬さんが手を伸ばすと、不服そうな顔をしながらも、逃げずに撫でられている。
やがてテーブルから離れ窓辺に乗り、外を眺めていた。

「…もぅ、朝からうるさい…」
と冬眞さんが、背後から私を抱きしめる。

「あっ冬眞おはよー」
「お前なんでいんだよ…」
と私を抱きしめる力をより強くする。
「んー、なんとなく?」

「なんとなくで来んなよ帰れ」
と突き放しても仲は良いらしくて。

「おい冬眞そっち!」
「今やってるよ!」

ソファに二人ならんで。
騒ぎながらゲームをして。

私は完全に蚊帳の外。


洗濯を回して。畳んで。
洗い物をして。
気づけば家のことをほとんど一人でやっていた。

リビングに戻ろうと寝室のドアノブを握った時。
「お前薫さんにお母さんみたいなことさせて何も思わないのかよ」
「思わないわけないだろ」 
二人の声が聞こえる。

「…」

「申し訳ないと思ってる。ただ僕は家事できないから…」
「食器洗いと目玉焼きしかできないくせに」
「洗濯もできるし、もう…、」

お母さん、って…私みたいな人ってこと…?
ってことは…、家事する…、人…

そうなんだ…

へなへなと寝室に座り込むと、歩み寄ってきたこむぎを撫で、その可愛さに心を打ち抜かれる。

目と目があった瞬間。
「だいすき」
「だいすきだよ、」
と言いたくなる。

なんて、こむぎには言えるのにね。
こむぎはゴロゴロと喉を鳴らし、私の手に甘える。

「…ほんとに、だいすきなのに…っ、」

なんで伝えられないの…
私のこの気持ちは偽物なの…?
私の涙がこむぎに落ち、びっくりさせてしまい、どこかに行ってしまった。

…嫌われちゃったかな、

涙をそっと拭った。

「…んー?」
というリビングから聞こえた、冬眞さんの猫撫で声。
「…ちょ、引っ張らないでよ、」
という声とともに、冬眞さんが寝室に顔を出す。

冬眞さんのズボンの裾を、こむぎが引っ張ってきたらしい。
「大丈夫?どこか痛い?」
私が首を振るとこむぎはさっきと同じように、私の膝に乗り、手に頬を擦り寄せ。

私の目をじっと見つめた。

「…」

“だいすき”
なんて、冬眞さんの前で言えないよ…

ー

薫さんの隣に座ると、気づけば薫さんの頭に手が伸びていて。

「なぁ冬眞ー!」
とリビングから高瀬の呼ぶ声が聞こえ。
「今むりー」
と返事をしておく。

薫さんは何も言わず、部屋に嗚咽ばかりが響く。
「どうしたんですか、」
と涙を拭うも、ただ首を振るだけ。
きっとなにかあったのだろうとそっと抱きしめ、背中をさする。

「なぁとうm」
と高瀬が寝室を覗きに来る。

「…」

「あっ、ごめん」
と気まずそうに、そっとドアを閉めた。
「ごめんね、うるさいやつで…」
と言うと首を振り、こむぎを撫でた。

なにがこんなに薫さんを苦しませているんだろう。
理由も聞けず。
他の方法も思いつかず。

そのまま30分くらい。
ふたりでぼーっとした。

沈黙は不思議と気まずくはなくて。

泣き止んで落ち着きを取り戻してきた薫さんは、
「…ごめんなさい、」
とうつむきがちに言った。

「…いや、全然大丈夫です」
「そういや、朝ごはん…というか、昼ですけど…、どうしますか?ウーバーします?」
と聞くと小さく頷き、顔が髪で隠れた。
アプリを開いて、どれがいいですか?と見せると、僕の床についた手に手を重ね、画面を覗き込んだ。

夢中にスクロールしていたのか、気づけば肩が触れていた。
「…私、これ…」
と指したのは、うどん。
「わかりました」
なやんでいると、ふと画面に流れてきた親子丼が目につく。

タップすると、
「…おいしそ、」
と薫さんが呟く。
「食べます?」
「…少し、」
注文確定をしようとすると、
「んじゃあ俺ハンバーガー!」
とドアを勢いよく開けて高瀬が寝室に乗り込んでくる。
「ん?」
「え、ハンバーガー…」
「誰も頼むって言ってない」
とあっさり注文確定を押す。

「なぁんでよ」
「帰れもう」
「そんなぁ、薫さぁ~ん」
と高瀬が泣きつくと、薫さんの表情はピクリとも動かなかった。
「あっすいません帰ります」
とリビングに戻り、
「じゃ」
とだけ言い残して帰っていった。

玄関のドアが閉まる音だけが部屋に残った。

やがてウーバーが届き、ダイニングにふたりで向かい合って座る。

「…いただきます、」
「うん、いただきます」
「親子丼先食べていいですよ」
と親子丼を差し出し、
「…おいし、」
薫さんのその表情を見届け、空腹から親子丼を一口食べると
「え、おいしい」
と普通に感動する。

薫さんは幸せそうに麺をすすっていて。
きつねを小さな口でかじっている。
頬は赤く染まり。
暑いのか髪を耳にかけた。

その仕草が妙に目に焼き付いて、思わず見入ってしまう。

「薫さんってほんと幸せそうに食べますよね」
「…そう、ですか…?」

僕でいいのかな。
幸せにできてるのかな。

答えなんて、まだ分からない。
でも、君がそんな顔で笑うなら。
今日くらいは、それでいいや。

ー

夕方、ソファでのんびり一緒にテレビを見ていて。
お酒飲みたいなぁ、なんて考えていて。

「…あっ、」
と薫さんが声を上げた。

「どうかしました…?」

「ヨーグルトリキュール、買ったんですよ」

ヨーグルトリキュール、って…

「…あぁ…!」

あの時の…!

「飲みます?」
「えっ飲みたいです」
薫さんはソファから立ち上がり、冷蔵庫を開けた。

たしかに、中に見慣れぬ瓶がある。

「そのままでも、カクテルでも飲めますよ」
「…じゃあ、薫さんのおすすめで…」
と言うと器用に瓶を開け、グラスを取り出すと、氷をグラスに入れ、ヨーグルトリキュールを注いだ。
冷蔵庫から取り出した炭酸水を、1つのグラスに同じように注ぎ、そっと、一周混ぜた。
「どうぞ」
と炭酸水入りのグラスを渡される。

ふたりでソファに戻り、
「かんぱい」
とグラスを鳴らす。
「んぅ~、おいしい…」
と既に頬が赤い、薫さん。

僕もグラスを傾け口にそそぐと、口いっぱいにヨーグルト風味が広がり、その甘さに頬が緩む。

「薫さんの、なんですか?」
「これはロックですね」
「ロック?」
「氷だけで飲む飲み方です」
「へぇー、」

一口嗜み、僕にその身を擦り寄せると、
「…ふぁ…ぁ、」
とあくびをした。


「…そういえば薫さんって」
薫さんにずっと聞いてみたいことがあって。
「どうやってバーテンダーになったんですか?そういう学校とかあるんですか?」

「…」
薫さんは、迷った末、口を開いた。

「…長く、なりますよ」

ー

当時15歳だった私は、慣れない一人暮らしに苦労していた。

広すぎる1LDKの10帖のリビング。
異常なほど静かで。

好きな時間に家を出られる。
好きな時間に寝られる。

それが、私の中で違和感でしかなかった。

ある日、蛇口から水が出なくて。
コンロの火がつかなくて。

水道局に、ガス会社に、電話してみたら。
『支払い期間が過ぎているので_』
お金は、誠が払ってくれる約束だった。
収入がない私にはそれに頼るしか選択肢がなかった。

『お父さんかお母さんに相談してみて』
周りの大人は、そんなことを容易く言う。
私は、そのたびに適当に返事をしてその場を去ることしかできなかった。

深夜2時。

一人で町を出歩く。
宛先もなく。
そのまま朝になっててもいい。
石を蹴って、古びた看板を見上げる。
ふらふらと歩いて、いつか帰ろうって思って。

そんなことをしているからか、ドンッと誰かにぶつかり、
「ごめんなさい」
と謝ったところで、
「君、かわいいね?」
と言われる。

派手な髪。
ピアス。

「まー着いてこいよ」
当時の私は、断る理由なんて持ち合わせていなくて。

「そういや、名前は?」
「…リサです」

どうにでもなれ、とついていくと、雫さん、という人に出逢った。
「いいね、バーテンダーでもキャバ嬢行けると思うよ。」
かきあげられた、青色の長い髪。
青いタイトな服。
長いネイル。
柑橘の香り。

事情を話すと、
「明日からここで働きな。住み込みで。部屋やるから荷物まとめて」
と家まで送り返された。

これが、私の歴史の1ページ目。

昼間は学校。
放課後から21時までバーで修行。

初期装備は雫さんのお下がりのスーツとエプロン。
住むところは雫さんの家。

一年目

営業やホールの基礎からフルーツのカットやお酒の基礎。

二年目に差し掛かろうとしたある日。

雫さんの家で朝ごはんを食べていると
「リサの誕生日知らないから初めてうちに来た日を誕生日と仮定して、」
となにかを背中に隠しながら近寄ってくる。

「誕生日おめでとう」
と小さな箱を渡される。
その箱には小さなフルーツナイフが入っていて。名前が彫ってある。
これが、私の初めての誕生日だった。
それから当たり前のように雫さんとの日々は続いて。

接客の基礎やマナー。
フルーツのカットの幅。

そして3年目。

「誕生日おめでとう」
と言われ、年月の早さを思い知る。

もらったのは、スプーンだった。

普通にカレーを食べていたら、笑われて。
どうやらバースプーンというやつで、カクテルをかき混ぜる物らしい。

「スプーンじゃないんですか、」
「まぁスプーンなんだけどね、笑」

彼氏に振られた次の日。
逃げるようにりんごとレモンを切った。

「待ってなにこれ」
という雫さんの声の方に顔を向けると、山積みになった切られたりんごとレモンがある。
「何個切ったん」
「6個ずつです」

「切りすぎ。食材には限度があるし、無理に今日たくさんやってもうまくなるわけじゃない。」
とだけ言われて肩に手を置かれる。
「…はい」

カウンターに立って、無心でノンアルカクテルを作る練習をしていたら。
奥の棚のシロップに手を伸ばして肘がグラスにぶつかった、次の瞬間。

パリン!

という音。
足下のガラス片。
店にいる全員の視線。
誰もなにも言わない。
その沈黙が恐怖以外のなんでもなくて。
途端に息が苦しくなってしまって、視界がぼんやりとしていく。

ひたすら謝って。
店にいる全員に。泣きながら掠れた声で謝って。
騒ぎに気づいた雫さんが私を裏へ連れた。

「今日はもう帰れ、二度とそんな顔するんじゃないよ」
とだけ伝えて私に家の鍵を渡した。

その日の夜は、ベッドでただひたすら泣くことしかできなかった。
明日には本気で出て行けと言われるんじゃないかとびくびくしていたが、
「おはよ。」
雫さんはなにも変わらず、全くそんなことはなかった。


四年目

「誕生日おめでとう」
と革靴をもらった。

そして
「今日は店は休みます」
と前代未聞のことを言い出した。
ヘルメットを被せられ、バイクに乗ったかと思えば、白い外観の建物についた。

「みことー、こいつカットとカラー」
と私を置いて中に入っていった。
慌ててついていくと、椅子があり、髪を切られている。
席に着き、気づいたら髪が赤くなっていて。
「どう?ワインレッド。私のデータ上黒髪は売れないんだよ」
と自信満々に言われる。
「えっ、」
鏡の中の自分は、どこか別世界からやってきた人みたいで。

「なにこれ…」
明日から学校どうしたらいいの?
たしかに校則的にはなにもないんだけど…
周りは就活か進学でこぞって黒髪に戻してるのに卒業してからじゃだめだったの…?

そして迎えた高校の卒業式。
雫さんに代わりに来てほしいと頼んだが絶対泣くからキャンセル、と言われてしまった。
ちなみに赤髪の卒業生は私しかいなかった。

「はい卒業おめでとー。」
と同じように箱を渡される。
「なにこれ、財布?」
「名刺入れだよ。本革だから大事にしてよ。」

早くも5年目

「恒例の、誕生日おめでとう」
ともらったのはハイヒールで。

ついにお酒を作る練習を始めて。

ジントニック
モスコミュール
スクリュードライバー

雫さんと作り、何度も試作をした。

初めてお客様に指名されてカクテルをお出ししたとき。
カウンターから表情を観察していたら。
そのお客様がこちらを見た。

これは、呼ばれてるのか…?

恐る恐る席に近づくと、
「ここまでバランスが悪い酒は初めてだ」
とだけ言われた。
「すみません、作り直します」
「何度作ったって同じだろう。違う人に頼む」

そんな…っ、
悔しさで涙が滲んで。必死に抑え込む。
「教わってる人呼んできて」
と言われ、裏に呼びに行くと、ここで待ってて、と言われ。

泣きながらドアの隙間から雫さんの様子を見ると、頭を下げていて、申し訳なさでいっぱいになる。
私は、もしかしたらバーテンダーに向いてないのかもしれない。
帰り道に、雫さんは歩きながら言った。

「あの人は、偉い人で。いつもああやって新人を見かけると指名して。」
「そしてどこが悪いって的確に指摘する。今回もちゃんとリサの弱点を付かれてた。」
「でも、5年目にしてはうまい。5年でこれは努力を惜しまないと辿り着かない。とも言ってた。」
「あんたはよくやってるよ。自信持ちな。あの人に潰される人何人も見てきたんだからね」
と私の頭をわしゃわしゃと撫でた。

20歳の誕生日

深夜。店でカクテルの仕込みをしていると、
「誕生日おめでとう」
と雫さんが現れる。

時計を見るとちょうど0時をまわったところだった。

「ありがとうございます」

「今年はこれだよ」
と恒例の白い箱を渡される。

「シェイカー、ですか。」
名前入りの。
「そう。今日からバーテンダーだからね。」
「今日からカウンターに立ってもらうよ。それにしたがってこれ、」
とエプロンのポケットからなにかが出てくる。

“リサ”

琥珀の店員さん全員がつけている、名札。

「そして、ジンで乾杯しよう」
と瓶を渡される。

グラスを取り出すと、ポンッとコルクを引き抜き、シュワシュワと音を立てながら注がれていく。

「乾杯」

コン、というグラスの音。

「なんでジンを選んだかわかる?」
「…ジンを使ったカクテルが多いから」
「正解」
「じゃあ、記念すべき一口目、どうぞ?」
と言われ、グラスの中のジンと向き合う。

無色透明の、ぱっと見、水同然なそれは、顔に近づけると木のような、雨の降ったあとの土みたいな香りがする。

恐る恐る、一口。
飲み込んだ途端、喉が焼け、ひりつく。

思わずシンクに吐き出してしまい、咳が止まらなくなり、ひりついた喉が熱を増す。

「大丈夫?」

「はい、」
「どんな味がした?」
「苦かったです」
「うん。それで?」
と聞かれたところで再び咳が止まらなくなる。

「喉が…っ、」
「うん、味はどう?」
と水を差し出されながら聞かれる。

「雨の後の、森みたいな…、カブトムシがいる木みたいな…」
「うん。いいね。」

「ただ…、1つ懸念点があるとすれば」
と人差し指を目の前に掲げた。
「お前酒弱いだろ」
「えっ、」
思わぬ言葉に目を開く。
「まともに一口も飲んでないのに咳込んで、真っ赤になって。」
「…それ、ってバーテンダーとしてどうなんですか…?」
「関係ない。バーテンダーは飲むのが仕事じゃなくて、提供するのが仕事だから」
「飲めなくてもお客様を笑顔にすることはできるし、そっちのほうが超大事。」

バーにある一通りのお酒の試飲をして、味と名前が一致したところで、桃を渡された。

「なんですか?」
「好きに作りな。ただレシピは見ちゃだめ。桃に合いそうなカクテルに乗せるか入れるかしな」
とだけ言い作業台に寄りかかり、腕を組みながら俯瞰していた。


はたまた別の日。

「ほら来た。何飲みそう?」
「…スプリッツァー?」
「ちがう。あの人はジントニックだよ。ほらね」

毎日お客様を一人ずつ観察して、当たったことは一度もない。



そんな日々が続いて気づけば3年経っていて。


「何飲みそう?」
「ハイボール…」
「私も思った」

「ほらなんか話しな」
「…えぇっ…と…」


とある日。

「リサ、好きなようにしな」
とだけ言われ、カウンターに一人で立たされる。

「…えっ、と…、何を飲みますか…?」
「そうだな、おまかせする」

50代くらいの、おじ様。
既婚者。
優しそう。
「果物は、なにがお好きですか…?」
「雑談はいいから、飲ませてくださいな」
まさかのノーヒント…
今まで好きな果物くらいは聞いて作ってたのに…

甘すぎるのも人による。
私みたいにひどく弱いかもしれない。
この時間的に食後かもしれないし…

「…こちら、梅酒ロックです…」
と不安混じりに差し出す。
そっと受け取ると、一口流し込んだ。
「…あぁ、こんなに美味しい梅酒は久しぶりだ…」
と感動したのかハンカチを取り出して涙を拭っている。
「妻が昔よく作ってた梅酒によく似てる…」
と終始涙を流し続け、飲み終わる頃には
「ありがとう、ほんとうにありがとう」
とやや強引に握手をされ、そのシワの温かみに気がつく。

お見送りをしてから、裏にいた雫さんに声をかけた。

「ん。合格。」
と言われる。
「今日まで、8年。」
と肩に手を置かれる。
「長かったねぇ。」
と言われ、初めて誰かに抱きしめられた。

「あの時は中学生だったね。ひよっ子で。夜の世界に紛れ込んじゃったみたいな顔して。すっかり住人になって。」

周りから鼻をすする音が聞こえてくる。
「立派な1人前だよ。このまま店に残って働いてもいいし、自分で店を作ってもいい。好きにしな。」

「…リサは私の誇りだよ。」
そう言われ、途端に目頭が熱くなる。

「ありがとう…っ、ございます…」
涙混じりに返すと
「バースプーンでカレー食べてた奴がこんなになるなんて…」
と背中を叩かれる。
「やめてくださいよ…」
泣きながら、笑って。

私は第二の家、“琥珀”に別れを告げ_なかった。
こんな私が一人で店なんて開けると思わなかったから。

カウンターでお酒を作って。提供して。
こんな日々が続くのかな、とぼんやり考えていたとき。

「リサ、留学行ってきな」
と名刺サイズの紙を渡される。
「なんですかこのお店」
「行けば分かる。とりま客として行ってきな」

“Caramel”

地図を頼りに歩いていたらその看板を見つけた。

「ここだ…」

レトロを感じさせる赤い錆びたドア。
そっと押すと、キィという音がなる。
「いらっしゃいませ」
と黒いスーツ姿の男性に声をかけられる。

「…リサ?」
「…えっ、?」
はじめましての人に、名前が知られてるなんて驚きでしかなくて。
「俺だよ、結構前に雫ねーちゃんのとこ連れてったじゃん」

派手な髮。
黒いスーツ。
目立つ八重歯。

「…あぁ…!」
「知らぬ間にすげぇ大人になってんな」
と口元を押さえる。

「俺、黒江」
と名刺を差し出される。

「今日一人?」
「そうです…」
「じゃあこっち来な」
と席を案内される。
ふかふかのソファに背を預けると、
「今日はこの子。なんでも質問してやって」
と赤いドレスの女の子がやって来る。

「こんばんは。初めてですよね?」
「…あっ、はい…」
と隣に座るなり
「えっ髪色めっちゃかわいい~!!」
と目を輝かせて褒めてくれる。

「ありがとうございます…」
私の視線が凛さんに触れると、それに気がついたのか
「あの子は何年もトップ取り続けてて。」
憧れのような輝く目ではなかった。
周りの人の視線が自然と向いていて。
あぁ、これがトップなんだ。
と思わせるなにかがあった。

「ちなみになんのお仕事してるの?」
「一応、バーで働いてて…」
「えっバーテンダー!?そんな頭の良い仕事、私には無理だなぁ」
この距離感。
絶え間なく続く会話。
無駄に明るいテンション。

疲れるなぁ…。

人に揉まれて、へとへとで。
やっと終わったと思ったら出口で黒江さんに捕まって。

「ねーちゃん家送ってく。待ってて」
とだけ言って裏に消えてしまう。
私はドアの横でぼんやり立っていると、
「黒江と知り合いなんですか?」
と声をかけられ、顔を上げると、凛さんがいた。

「…まぁ一応、というか…」
「黒江、すごい人気なんですよ。悲鳴上がるくらいの」
「あの人なにしてるんですか?」
「ホストですよ。」
「えっ…?」
たしかにチャラさはあるけれど、ホストってもっと遊び人で、女の子を騙して、お金のことしか考えてない人ばかりだと思っていた。

「なんか派手な普通の人っぽいですよね、笑」
と口を抑えて微笑む自然に出てきたその笑顔に。
思わず羨ましさを覚える。

「ほいリサ行くぞ」
と背後から声をかけられ、振り返る。
「凛はどうする?」
「私は…」
と周りを見渡し、苦笑いで
「今日は遠慮しておきます」
と眉を下げて言った。

「そうか。またなにかされてるのなら言えよ」
「はい」
と私に手を振ってくれた。
「じゃあ」
とドアをくぐるところで、
「あ、忘れ物した。ちょっと待ってろ」
と私を置いて店に戻って行った。

先に外に出て、蝉の声に耳を傾けていると、
「あんた何者よ」
とショートの金髪の女性に声をかけられる。
服装的にキャストさんだろうか。

「…えっ、と…」
「黒江と仲良さそうじゃない。」
会ったの2回目なのに…

「黒江は私の_」
「おい麗奈」
背後から黒江さんの低い声が地を掠める。

「勝手なこと言うなよ。俺はいつお前のものになった。リサもう行こう」
とあくびをしながら歩き出した。

ー

真っ暗な窓の向こう側を眺めて、なにも話さずに、雫さんの家についていた。

「ありがとうございました」
とブリキの非常階段を登る。
「ねーちゃんまだこんなとこ住んでんのか」
と辺りを見渡しながらミシミシ音を立ててついてくる。

ドアを開けると、
「ん、おけーり」
とソファでくつろいでいる雫さんがいる。
「あ、陸。久しぶりじゃん」
と黒江さんを見るなり手を上げる。

「ん、ねーちゃんも相変わらず」
と黒江さんはキッチンに入り冷蔵庫を漁り始める。
「お、ラッキー。」
たまごプリンを手にとってキッチンのシンクに寄りかかり、スプーンでプリンを食べている。

「うま、てか母さんの仏壇模様替えした?」
雫さんが黙り、テレビの音がよく聞こえる。
「そう、少しね。」

「お母さんは今のうちらを見てどう思うだろうね」
途端に気まずくなってしまい、
「私、お風呂行ってきます…」
と逃げ出すようにリビングを出た。

その廊下で、二人の声が聞こえてしまう。
「俺がいなければ、母さんは生きてたのかもな。」

ー

それから、Caramelでの日々が始まった。

「今日から1週間お世話になります、リサです」
「研修は俺が担当する、周りは関与しないように」
と黒江さんが私の横に立つ。

「バイト?」
と昨日対応してくれた赤いドレスの女の子が声をかけてくる。
「あ、えっと…、キャバクラの世界も学んだ方が良いと言われて…」
「そう。」
とあっさりと冷たい反応をされる。

「ここはそんなにいいところじゃないよ」
と裏へ行ってしまう。

他のキャストさんもどこか冷めた目をしていた。

三番席のバッシングをしていると、
「リサ、フリーの人いける?」
と黒江さんに声をかけられる。
「はい」
「じゃあ七番席よろしく」
と言われ、裏で身なりを整えてから向かうと、20代くらいの若い男性がいた。

黒髪で、長めの前髪。
「こんばんは。」
ソファの隣に腰掛けると、
「はぁ、」
とため息をつかれる。

「お疲れですか」
と空になったコップにお冷を注ぎ、軽く滑らせる。
「…先輩に無理やり連れてこられただけだから、無理して営業顔しなくていいですよ…」

「僕はキャバクラなんて趣味じゃない。」
と水を流し込むように飲み込む。
「そうなんですね…」
こういう場合、どうしたらいいのだろう。

黒江さんの方を見ると、がんばって、とジェスチャーをされる。

「仕事が、うまく行ってなくて…搾取されてるような…頑張ってるのに、報われなくて、成果が出てる感覚がなくて…」
「もっと頑張らなきゃいけないのに。頑張る意味がわからなくて…休んだら、もっと報われなくなる…」

「どうしても走り続けてたら、ペースが落ちるものですよね。」

学生時代の持久走がものすごく辛かったのをぼんやりと思い出す。
休みたい、立ち止まりたい。
一度しっかり深呼吸をしたい。
でも、立ち止まったら、もう走れないんじゃないかって。走る気力がさらになくなってしまうんじゃないかって。
そういう気持ちもわかる。

持久走は競技だけれど。
そこに辿り着くまでのタイムで戦うものだけれど。
一度家に帰って寝ていいのならみんな…少なくとも私だったらそうする。

「休んでも、いいんじゃないんですか。休んでる間に、逃げずに、いつか再び仕事に戻る。その前提で。ぼんやりソファでだらける日があったっていいんじゃないですか」

「…すみません、出しゃばったこと言って」
今までの自分が恥ずかしくなり、膝の上で組んだ手に視線を向ける。

「…いえ、少し楽になったような気がします」
「…そうですか」

ー

七番席のお客様をお見送りして、黒江さんのところに行き、指示をもらう。

「リサ、いい感じ。あの客入ってきた時は顔暗かったけど、帰る時はかなり朗らかになってたよ。その調子。もうすぐ五番席に違う客来るから七番席バッシングして待機」

七番席のテーブルを拭いて、ソファで一息ついていると、
「まじで気取ってるとしか思えないよね」
と少し先の席でキャバ嬢同士が誰かの陰口を言っている。

黒江さんもそれに気がついたみたいで。
話すなら裏で話せと無理やり追い返している。
そのうちの一人が
「じゃあ黒江さんも一緒に行きましょうよ♡」
と黒江さんの腕に抱きつき、色気を使っている。

「俺は忙しいんだ、後にしてくれ」
と振りほどき、逃げるようにカウンターに戻って行った。
「ちぇ。つまんねーの。凛が脅してるに決まってるよ」

脅し…

ふと五番席にお客様が座るのが見えて、慌てて接客についた。
40代くらいで。
スーツを着ている。

「今日は新しい子を発掘しようと、お任せにしてみたんだけど。新入りの子?」

「はじめまして、リサと申します」
と隣に座ると、
「へぇー、美人って感じだね」
と腰に手を回され、抱き寄せられる。
「えっ、」
「キャバクラではこのくらい普通だよ」
と耳元で囁かれる。

「今日は僕の相手よろしくね?」
次の瞬間、お客様越しに、天井が見えて。

押し倒されてると理解した頃には、首元を押さえられた。
「ほら。息できないでしょ」
目がチカチカとして、必死にその手をどかそうとする。

息を吸っても、吸えなくて、喉からヒュッと変な音が鳴る。

このまま、死ぬのかな。

気を失いそうになったところで喉元を解放されるも、うまく息ができなくて、ソファから転げ落ち、その反動でテーブルの上のグラスが傾き、目の前に落ちてくる。

思わずぎゅっと目を瞑り、パリン、という音で意識が遠のくのがわかった。

「次やったら出禁っていいましたよね、横川さん」
と真っ暗な中で黒江さんの声がはっきりと聞こえた。

…

目の前の暗闇が晴れると、私は見慣れぬ場所にいた。

「ごめん、俺のせいで…」
という黒江さんの声がカーテンの向こう側から聞こえる。

「そう、もう出禁にしたんだけど」
と足音と共にカーテンの隙間から黒江さんが現れる。

「俺の不注意で。防げた事故だと思うんです、すいません本当に」
と言いながらベッド横の椅子に座り、
「はい、失礼します」
と電話を切り、一息ついた。
「ねーちゃん怖えよぉ」
と肩をがっくりと落とす。

「…ここ、どこなんですか」

「ん、病院。」

数分後、先生が来た。質問に答え、軽く診察をされた。
「幸い、目に大きな傷はないですね。顔の傷も深くなく、縫合は不要。ただし首の圧迫があったので、しばらく経過観察しましょう」
と告げられた。

先生から帰宅許可が出たところで黒江さんは電話をかけた。
「ねーちゃん今から帰るね」 
『何言ってんの、出張だけど』
「聞いてねぇよ」
『言ったよ、てことでリサをよろしくね』
と一方的に切られたのか、
「…まじかよ」
呆れたようにスマホをポケットにしまった。

「…じゃあ俺ん家行くか」

ー

「おじゃまします…」
雫さんの家よりも綺麗めで。

白と黒が基調の黒江さんらしさを感じる部屋だった。

「座って」
と言われ腰を下ろすとソファの柔らかさに驚く。

「ありがとうございます…」
「悪かったな。怪我させちまって」
と向かいに座るなりシュークリー厶を袋から取り出す。

「…いえ」
「ちゃんと見とくべきだった。悪ぃ。」
とシュークリームを頬張り、口元にカスタードがつく。

「横川さんが腰に手を当ててるのは気づいてた。あれくらいは本当によくあるから、慣れてほしい、ってのもあった」
指で口元を拭うと、その指を舐めていた。

「…明日からは裏方をやってほしい。内容は明日説明する。ねーちゃんには俺から話しとくよ。」

「…すみません、」
「謝ることはねぇよ。完全に店側の責任。リサは自分の店出す予定とかあんの?」
「今のところは、ないですよ」
「そうか。リサにはリサにしか開けない店があると思うけどな。」

「…例えば、どんなのですか?」
「例えば…知る人ぞ知る系の。キャストももう一人しかいない、とかで。ふらりと来た人に合わせてお酒を作る、って感じ」

「ま、琥珀もいい店だし。無理に飛び出す必要はないと思うけど」
とあくびをした。

「…てかリサって本名じゃないんだな」
と言われドキリとする。

「…どうして…、」
「保険証に名前書いてあった。返された時に見ちゃって、すまない」
「…いえ、」

「まぁ源氏名みたいなやつでいんじゃね?知らんけど。」
「黒江さんも源氏名なんですか」
「いや本名だよ。黒江が名字で下の名前は陸。」
「えっ」
「だからねーちゃんは黒江穏空」
「しずく…」
「そう。なんか字は違うらしいけど。」
「俺風呂入って寝るから適当にソファでも寝ときな」
と立ち上がりシュークリームのゴミを回収してリビングから出て行った。

ー

翌朝

黒江さんの愛車でスーパーに連れてきてもらった。
入口に入るなり、スーパーについているパン屋さんを見て、
「え、俺このパン好きなんだよね」
となにかを手に取っている。

「クリームチーズベリーパン」
というやつらしい。

編まれたような白い生地からベリーの紫色がところどころはみ出している。

黒江さんについていきながら自分の買い物を済ませる。
黒江さんはプリンやエクレアをカゴに入れている。

「まだなにか買うものある?」
「…私はもう大丈夫です、」
「おけ、会計してくる」
とポケットから財布を取り出し、歩き始める。

「あっお金…」
と声をかけると
「いいよ、どうせねーちゃんの食費だしあとで請求しとく」
と再び歩き始めてしまう。

「…ありがとう、ございます…」
その後ろ姿に置いていかれないようについていく。
レジに着くと、黒江さんを見る若い女性の店員さんやお客さんの頬が、なんとなく赤い気がする。

「なーリサポイントカード持ってる?」
と声をかけられ、
「あっありますよ」
と財布からカードを取り出す。
「お、せんきゅ。」
と二本の指で挟むように受け取ると、そのまま店員さんに渡り、私の下へ戻ってきた。

「あの人イケメンじゃない…!?」
という声がたしかに聞こえた。

視界の端でチラ見すると、高校生くらいの女の子二人がいた。
「リサ」
既に出口付近に立っている黒江さんに呼ばれ、思わず駆け寄る。
黒江さんのもとに辿り着いたところで、何も言わずに歩きだし、袋を漁ったかと思えば、
「パンあげる」
とクリームチーズベリーパンを差し出される。

「えっ、でも…」
「おいしいから。ほら」
とぐいぐい押され、受け取るしかできなくなってしまう。

「ありがとう、ございます…」
「ねーちゃんに取られないようにしろよ」
と荷物を車の後部座席に乗せた。
それぞれが車内の席につき、エンジンをかけたかと思えば、
「俺行きたいところあるんだけど、いい?」