このカクテルを、君と。

また…、ここ…。
私の上に跨る誠。
右手にはナイフ。

何度も振りかざし、私の耳を掠める。

月が反射したその鋭利な金属は、私の肩を深く掘った。


…


「…んはっ…、はぁ…っ、」

場所は。冬眞さんの寝室。
誠は。この部屋にはいない。
肩は。出血なし。
額に溜まった汗が髪をまとわりつかせる。

音を立てないように、足を床におろし、滑らせるように歩く。

リビングのドアを、息を止めながら開ける。
ダイニングに、その姿はあった。

あの髪。
あの細さ。
あの背中。

冬眞さん、だ。

ダイニングに突っ伏すその姿の右手に、お酒の缶が握られている。
握られているもの以外にも、テーブルの上には、3本、転がっている。
結露して缶が濡れていたり、倒れて中身が出ているあたり、昨晩飲んだのだろうか。
こんなに、4本も…

冬眞さんは、私よりは飲めるけれど、一晩で4本なんて、見たことがない。

「…」

冬眞さん、ってもしかして毎晩こんな…

「…ぁあ゛っ、」
とムクリと起き上がったかと思えば、水を苦しそうに一口飲み、自身の仕事部屋へ行った。

「…」
こんなときも、仕事。

私にできることは。
私にしてもいいことは。

お米を洗い、炊飯器に少し多めの水と共に入れる。
そこに解いた卵を流し入れ、鶏ガラをふりかけ、お粥モードで炊いてみる。

リビングのゴミや服を片付けていると、ピロリロと炊飯音がなる。
小さめのお茶碗にお粥をよそり、スプーンとお水をトレーに乗せ、リビングを後にする。

「…」

また、返事がなかったら。
また、あの日々に戻ってしまうのだろうか。
そんなことも言っていられず、震えた右手で小さく戸を叩く。

「はい、」
ドアの隙間から、冬眞さんの目が現れる。
「…あっ、お粥…作ったん、ですけど…、」
なんて言われるかな。

“キッチン勝手に使うな”
“こんなゴミいらねぇ”

私の顔の次にトレーのお粥を見て、
「…!あ、ありがとう…!」
ほっぺたを赤らめ、私からトレーを受け取った。
ぱっと明るくなったその顔に、ドキっとしてしまう。

「もしよかったら、入りますか…?」
恥ずかしそうに、ドアの向こうに案内してくれる。
ちゃんと案内されたの、初かも、
「…えと、いいんですか…?」
高鳴る胸を押さえて、昂ぶってはいけないと言い聞かせる。

「もちろん」
「じゃあ…?」

相変わらず多いギター。
存在感の大きいパソコン。マイク。
ブランド物のパーカー。

今なら、すべて説明がつく。
冬眞さんの仕事を知る前は趣味だと言い聞かせていたが、改めてこう見ると、趣味の域を超えている。

「いいよ、座って…?」
と布団がやや乱れたベットを指す。
冬眞さんはパソコンの前の椅子に座ると、そっぽを向いて
「昨日の夜、僕が何をしてしまったのか教えてほしい」
と言った。
パソコンの闇の画面に反射する冬眞さんの顔が、やや霞んでいる。
ふかふかなマットレスに沈めるように座り、心を落ち着かせる。
「…冬眞さんは、なにも…」
「いや、絶対僕だよね。僕が来るまで、普通に高瀬と話してたじゃん」

「…また思い出してしまって…」

「…もしかして」
「誠、です…」
と言うと、冬眞さんの目に力がはいるのがわかった。
「…そっか」
考える素振りをしながらお粥を食べ始めると、
「…んま、」
と口元は微笑む。

「はぁー、なんで俺は…」 
両手で顔を包み込むと、
「…ごめんね、本当に…気が利かなくて、自己管理ができてなくて…」
と弱音が溢れ出す。
「…私こそ、勝手に誠と結びつけてしまって…」

「…思い当たる言動、あったりする…?」

あの剣幕。
無理矢理さ。
話を聞いてもらえない雰囲気。

再び、視界の端にナイフが刺さる。

「ごめんなさい…」
思わず出た言葉に、私自身も驚く。
「…いや、悪いのは僕の方で…」
「…もっと、人のせいにするんじゃないんですか」
自分でもなにを言っているのか分からない。

「えっと…?」
「…全部私が悪いみたいに言って…、」
と言っている側から銀色の刃が掠れる。

思わず顔をしかめ、目を瞑る。
肩に出血は、ない。

「…誠の、ストレス発散のおもちゃじゃないのに…」
「そりゃ、そうですよね…」

私の震えた手が、汗ばむ。

「…薫さんが生きていて、本当によかったです」

「生きてて、よかった…?」

“生きてる価値ない”
“さっさと死ね”

「はい。」

顔を上げると、お粥をスプーンですくって口に運んでいる冬眞さんと目が合う。
組んだ手に、液体が落ちる。

「え…っ、ごめん…!」
と慌ててティッシュ箱を渡される。
「…ありがとう、ございます…、」

何度だって、死のうと思ったし。
意味もなく死ぬくらいなら、生きる価値を知りたい。心から生きたいと思ってみたい。

「…私は…っ、このために生きてたんだ…」

冬眞さんは、気まずそうに私を見ると、お粥を口の中に掻き込んだ。

「生きる、価値…」

これが…
私が探し求めていたもの…?

手のひらに、ぽたぽたと涙が落ちていく。
落とさないように。なくさないように。
手をそっと握りしめる。

「薫さん」

私の隣に座ると、ゆっくり口を開いた。
「僕は、機嫌には左右されづらいけど、体調には左右されやすくて、気をつけていても、どうしてもきつく言い過ぎちゃう時がある」

手を握り、しっかりと目を見つめて。
「でも、僕は薫さんを傷つけたいなんて一度も思ってないからね。一輪の花みたいに…、大事にしたいんだよ、」
冬眞さんは私から目を離すと、花瓶に生けてある1輪の白色の霞草を見つめた。

「薫さんに渡したくて、買っておいたんだ」
と言いながら、花瓶から出し、朗らかな顔をする。

再び私の隣に座ると、
「こんな僕だけどよろしくね」
と私の手に霞草を握らせた。

「…えっ、え、はい…、」

ー

薫さんが出ていって、3日目。

1カ月も同居人が無反応で、出てきたかと思えば謝ることしかされなくて。

そりゃ出ていきたくなるよね。
リビングの暗さ。冷たさ。静かさ。
食事はコンビ二かウーバーで。
毎日のようにお酒で溺れて。
洗濯は気が向いたら。
きなことこむぎはソファの下で蹲って。
溜まっていく埃に目を向けるほど余裕はなくて。

ほとんど、僕は無力さに喰われるだけだった。
こんな環境だからか、ついに起き上がることができなくなってしまって。
薫さんに会いたくて会いたくて仕方がなくて。

でもこうなったのは僕のせいで。
ファンのコメントや眼差しがプレッシャーになっていて。
休止すれば回復できるのだろうか。
不安を煽って、すぐに忘れられてしまうのではないか。

何もできない自分が惨めで仕方がなかった。
なにもせずぼーっとして、時計の針だけが耳に入る。

やがて玄関のドアが解錠される音が聞こえ、
「うわ汚っ」
という声も聞こえる。

「冬眞ー?」

無邪気な高瀬の声。
「あ、いたいた」
「冬眞」

肩を叩かれ、引かれ、仰向けにさせられる。
「いける?」
僕を覗き込む、高瀬。

「お前さ、片付け薫さんに頼りすぎだろ…なにこの部屋」
「とりま早く行こ。遅刻する」
と寝室を出ようとする高瀬。

一向に起きようとしない僕が不満なのか、
「なにしてんだよ、遅れてんの、分かるでしょ?」
とやや雑に説得してくる。

「…いかない」
「なんでだよ、今日は気圧も普通だし、割と涼しいよ?体調的には行けるはずでしょ?」

気圧で片付けられる体調の悪さじゃない。
気づいてよ…

「…むり」
高瀬は呆れたようにため息をつくと、マネに電話し始めた。

高瀬の姿が二重に重なり、歪んだ。
電話の内容は、覚えていない。
僕はそのまま、気を失っていた。




目が覚めると病院で。
周りには人がたくさんいて。
高瀬が僕の手を握っていた。

ー

それから、気づいたら退院してて。
活動はドクターストップで休止。

帽子とサングラスで散歩する日々が続いた。

Ortusの前を通ってみたり。
薫さんがよく行く場所を、意味もなく歩いてみたり。
それでも薫さんに会えることはなかった。

もう、諦めるしかないのだろうか。
薫さんから連絡が来ることはないし、僕は連絡できるほど強くはない。
薫さんは、他に好きな人とか、できてるのかな…

今日は薫さんに会いたくなくて。
ここ最近、会っていないけれど。
いつもとは違う散歩ルートにしてみた。

いつもの通りから、一つ裏に行くだけで、人通りが減り、穏やかな商店街になる。

「…綺麗」
という声が聞こえたかと思えば、
振り返った頃には歩き出して、離れて行ってしまった。

あの黒髪。
あのヒール。
あのバッグ。

「…薫、さん…」

薫さんは、なにを見ていたんだろう…

ショーケースに目をやると、豪華という言葉だけでは表しきれないほど美しい、“ウェディングドレス”
白を基調としたその無垢さに、胸元に並べられたダイヤに、散りばめられた白いバラ。

薫さんが着たら、似合うんだろうな…
無意識に出てきたその思考に、心底気持ち悪さを覚える。

薫さんが結婚する人は、どんな人なんだろうか。

僕よりも背が高くて。
有名企業の社長とかで。
堂々と高級ディナーとか行けて。
いつでもどこでも薫さんと手を繋いで歩けて。

僕じゃないほうが、幸せになれるんだろうな…
「彼女さん宛ですか?」
と背後から声をかけられ、驚きと共に振り返る。

向かいの花屋の人らしい。
紺のデニムのエプロンに、メタンのじょうろを持っている。

「…いえ、彼女は…」
薫さんの歩いていった方向に思わず目をやる。
「…あ、どこかで見たことある気がしてたんですけど、もしかして…桐生冬眞さん…?」

「…あ、はい」
「なんかすみません、容易く話しかけてしまって」
よかった、薫さんのことを話す前で…

「活動休止されてるん、でしたっけ」
「…はい」
「大丈夫ですか?聞いても仕方ないか…へへ」
と眉を下げて笑うその顔が、妙に印象的で。

「もしよかったら買って行きますか…?」
「…じゃあ、」
体をその花屋に向け、華やかさの中に、目を惹かれる花があった。

手を伸ばしたそのとき、
「…薫さんみたい…」
思わず名前を出してしまって、慌てて口を塞ぐ。
「白い霞草ですね。花束で主役を支える役で多く用いられますよ。」
なにも聞こえていなかったかのように説明をしてくれる。

「単体で輝いちゃだめなんですか、」
「だめではないですよ。ただどうしても、バラやガーベラ、チューリップには存在感が劣ってしまいます」

薫さんみたいだ…
周りのことばかり気遣って。
存在感を消して。
何でも自分のせいにして。
自分の欲まで殺して。

「…じゃあ、白い霞草ください」
「霞草だけで大丈夫ですか?」

「僕には充分すぎるので。」

ー

最近、冬眞さんが歌を口ずさんでいるのをよく聞く。

Xにポストしていたり、インスタライブをしたり。
私でもなんとなく、活気が戻ったのが分かる。
なにかと埋もれがちな霞草を、私にくださった。
その意図が、冬眞さんらしくて、微笑んでしまう。

湧き上がる感情が幸せという感情なのかは確信が持てないけれど、なんとなく、嬉しさはある。

花瓶の霞草を撫で、冬眞さんの気持ちが、ほんの少し、わかったような気がしたり。

ー

「薫さんって、普段お酒飲まないですよね」
と酔いかけの冬眞さんに言われ、ドキリとする。

「ま、まぁ…、」
「僕が誘っても、飲んでくれないー」
と子供のように駄々をこねる。

「バーテンダーなんだから、お酒好きなんだと思ってた…」
としゅんとしてしまって、ほんの少し申し訳ない。

「嫌い、ではないですよ」
むしろ好き、なんだけれど…
「じゃあ飲もうよー」
とレモンチューハイの缶を滑らせるように渡される。
「…いえ、遠慮しときます、」
押し返すように滑らせると、
「まぁ、無理強いもよくないか」
と冬眞さんは冷蔵庫にその缶たちをしまった。

「薫さんは、どんなお酒が好きなの?」
ぶどうジュースをワイングラスに注ぎながら聞かれる。

「…」

“バーテンダーなのに”

「…コンプレックスなんです」
ぶどうジュースを口に運ぶ。
その味が、甘いのに、苦い気がして。
「ん?なんの話?」
テレビから顔をこちらに向け無邪気な表情をされる。

「…お酒が飲めないことが、コンプレックスなんです」

「え、これ強くないよ…?全然僕でも飲めるくらいの」
と自身が飲む缶を指し、首を傾げられる。

“飲めない酒を客に出すなんて”

「…」

「いいよ、話して?ほかに話すこともないし」

途中で寝ちゃったらごめんね。てへ、と笑われる。

「…市販で売ってるお酒は、だいたい、飲めなくて…」

「あれま。アレルギーとか?」
「いえ…お酒が、強くて…」

「強い?」

「飲むなら、さらにソーダで割れば、飲めますけど…、」
「なるほどねぇ」

「私みたいな人は、普段からお酒を飲むことを諦めている、というか。選択肢にないんですよ。」
「そんな人達でも、飲めそう、って。アルコールが完全に0でも、お酒を飲んでいる気分になれる、そんなバーがあったらいいな、って」

飲み会で、周りはみんなビールなのに1人だけ烏龍茶。
いつか、飲めないことも個性だと、打ち明けやすい、受け入れてもらえやすい世の中になれば。

「いい。拍手喝采だわこれは」
と一人で手を叩き無駄に大きな音を鳴らしている。

「たまに打ち上げをするんだけど、慣れたように烏龍茶頼んでる人いて。いつもお酒で乾杯してる人を見て、なんとなく羨ましそうに見てるんだよね」

「…それは、可哀想ですね」

「…今度スタッフチームを立ち上げてから3年になるんだよね。」
「3年ですか…」
「で、打ち上げの話が出てるんだ…迷惑かもだけど、Ortusでやってもいいかな…?」

「全然いいですよ。なんなら臨時休業とかにして思いっきり騒ぎまくってもらって」
「僕は行くか迷ってるけど…」
冬眞さんは、スタッフチームを引っ張ってるリーダー的存在で末っ子。
かわいがられているに決まってるいるのに。
「冬眞さんが行かなくて誰が行くんですか、」
「…僕は活動休止してるし…、スタッフから責められそうで…」

ー

冬眞さんが言っていた打ち上げ、というものは思ったよりも近くて。

多くの人数が入れるかつ個室のお店で条件に合うものがなかなか見つからなかったらしい。
おつまみは出せないけれど、持参なら、という条件で、休業日に貸し出しをした。

冬眞さんは、行くのか当日まで迷っていて。
高瀬さんにも背中を押され、途中から行く、と言ったらしいが、本当に行くかは知らない。

私も、店主なのでお酒を出しに行かなければならない。
「私はもう行きますけど、冬眞さんはどうするんですか」
リビングで蹲る彼に、呆れながらも声をかける。
「…ずっとくっついててもいいなら…行く」

ー

Ortusのドアを開けるとその賑やかさに空気が一遍する。

みんなでこんなお菓子持ってきた、こんなつまみ持ってきた、と自慢し合っている。

「今日冬眞はこないんだって?残念だなー」
スタッフの一人がそんな事を言いながらポテトチップスを開ける。

「冬眞さん。」
「わかったよ行くよ…」

冬眞さんが輪に加わると、ぱっと花が咲いたように。
盛り上がりが端から見て分かりやすい。

やがてカウンターの方に歩いてきたかと思えば、
「ビールと、えっと、」
と、注文を取ってきてくれる。



いつも作るお酒の量とは比べ物にならなくて。
トレーに乗せて運んでいくと、
「あら、お偉いべっぴんさんやなぁ」
と嬉しいことを言ってもらえる。
「ありがとうございます。」
と言いながらグラスを一人一人渡していく。

「このあと暇なん?」
「暇?特に用事は…」
「ね、薫さん」
冬眞さんに裾を引っ張られ、ジェスチャーで隣に座れと言ってくる。

「なんですか?」
隣に座ると、
「このポテチすごい美味しいから食べてほしい」
と、箸で摘んだポテトチップスを私の口元に運んでくる。

「あ、ありがとうございます」
そのポテトチップスを手で受け取り、口に運んだ。
「ん!たしかに、辛味と旨味のバランスが絶妙で、ずっと食べたくなるやつですね…!」
と、思った感想をそのまま伝えたのに。

「…そうじゃない」
と拗ねられてしまう。

「薫さん髪綺麗すぎるね、あとでヘアケア教えてもらおうよ」
端のほうの、女性スタッフさん。
「彼氏いるのかな、あの顔が彼女だったら幸せすぎる」
という男性の声。

「ね!冬眞!俺も薫さんの隣座りたい!」
と、はっちゃけた高瀬さんの声。

「もー!なんなんだよ!みんなして薫さん取ろうとして!」
冬眞さんが突然立ち上がり、一同の視線を浴びる。

「えっ、ちょ…、冬眞さん…」
「俺の彼女だからな!?ぜっったいあげない!」
「えっ、」

冬眞さんは膨れながら座り込むと、スプリッツァーを飲み干した。

スタッフさん達は、いまいち飲み込めていないようで。
「彼女?」
目を丸くして隣の人と目を合わせ合い、
「なんだ彼女か~」
「早く言えよ!」
「わんちゃん狙うところだったじゃないか~!」
場は一気に和み、冬眞さんの頭をわしゃわしゃと撫で回すどこからか伸びてきたその手を不機嫌そうな顔で無邪気に笑いながらはねのけている。

自慢のお酒は大好評で。
またOrtusでやりたい、という声を多くいただいた。

「ありがとうございます、」

冬眞さんが話していたお酒が飲めない方かはわからないけれど、初めてこういった場でお酒が飲めた、嬉しかった、と言ってくださった方がいた。

「そのための、Ortusなので」

ー

家に帰り、どっと疲れに襲われる。
二人してソファに沈みきって、立てなくなってしまう。

「薫さん、今日は本当にありがとう」
本当に、いい会だった。
スタッフ同士の指揮も高まって。

「冬眞さんこそ、いい機会をありがとうござい
ました」
と小さくあくびをした。
僕の方に体を擦り寄せると、肩に頭を乗せた。
腕を肩に回すと、満足気に微笑む。
「…かわいい、」
と耳元で囁くと、見事に真っ赤に染まって、申し訳ないけれど面白くなってしまう。

「キス、してもいいかな、?」
僕はこんなにもキス魔だったのか、と少し驚きがある。

その染まった頬のまま、
「…いいですよ?」
と僕の目を見て、首を傾げて。
薫さんの髪を耳にかけ、その頬に手を当てる。

ふわりとその唇をあてがい、離す頃には僕の方が真っ赤で、心臓の音がうるさくて仕方がない。

忘れようとすればするほど、数秒前の薫さんを思い出してしまって。引くどころがさらに熱を帯びてしまう。
「ふふ、」
ここぞとばかりに薫さんが抱きついてくる。

ほんの少しのアルコールの香り。

「薫さん、お酒飲んでます…?」

抱きついたまま、上目遣いで
「えへ、バレました?」
と笑った。

甘くて。無防備で。大胆で。

「ほん…っと、無理だから…!」

お酒飲むとこんなにかわいいの?
心臓は一向に鳴り止む気配がないし、視界がぐるぐるとして、微笑む薫さんの頬を、思わず掴んでしまう。

「とぉましゃん、?」
「…こうなったの、薫さんのせいだからね?」
「…ごめゅなさ…っ、」

「あぁいや…、」
慌てて手を離し、抱きしめる。
泣かせるつもりなんてなかった。

「ごめんね、」
「いぇ…、少しびっくりしてしまって…」
と目に溜まった涙を拭いながら微笑んでくれた。
背中をぽんぽんと撫で、薫さんの肩に顔を埋めると、フローラルな香りのなかに、お酒の香りが混じっている。

「ふふ、そんなに嗅がれたら恥ずかしいです…」
こうして、のんびりいちゃついて、深夜2時。
溶けていくその時間に身を預ければ、余韻ばかりが響いて、僕の中心に薫さんがいることを改めて思い知る。

僕は、今までで、一番。
今この瞬間が幸せだよ。

ー

朝起きると、その温かさに甘えていた。
ソファに並んで座り。
手を握られ、肩に腕を回され、頭を冬眞さんの肩に乗せていた。

ブランケットが温かさを閉じ込め、顔まで覆うと冬眞さんの香りが眠気を誘う。

時刻は9時23分。

活動休止中、私と、“同棲”を始めて、こうして9時台まで寝ることも多くなっていた。

私が目が覚めたことに気がついたのか、こむぎときなこがここぞとソファに乗ってくる。

そろそろ朝ごはんの準備をしようと、冬眞さんの長い前髪をかき上げ、その広いおでこに軽くキスをしてみる。

「ふっ、朝から中々かわいいことしますね」
「…あぇ、」

冬眞さんの表情をみれば、私を少し馬鹿にして。誑かしている。

「…起きてたんですか」
「うん。ずっとね、笑」
と言いながら私の手首を掴む。
そのまま押し倒され、視界が冬眞さんで埋まる。

「ちょ…、」
顔を近づけられ、
「静かに」
熱を帯びた息がくすぐったい。

胸板が触れて、頬に手を添えられる。
なにか始まる、と悟り目をぎゅっと瞑ったところで

「なんてね、」
と冬眞さんはふっと笑い、立ち上がり伸びをした。

「さて朝ごはんつーくろー」
とキッチンに歩いていった。

本当になにかされるかと思った…
高鳴るその心臓のせいで、立ち上がれなんてしなかった。

「年上を弄ぶなんていい度胸ですね?」
悔しさなのか、心臓を押さえながら、そんな強がったことを言ってしまう。

「ふふ、そんなこと言ってられるのも今のうちですよ?笑」
とキッチンから声が聞こえてくる。

「んなっ…」
「あれです。男子が好きな子をからかいたくなっちゃう、あれですよ笑」
「キュートアグレッション…」
「そうそれ、よく知ってますね」

やっと落ち着いて、ソファから体を起こし、キッチンに向かう。
デニムのエプロンの冬眞さんが目玉焼きを焼いている。

「僕も小さい頃はよくしてたなぁ。好きな子の教科書盗っちゃったりね」
ダイニングに目玉焼きを並べながら、頬を染めて座る。
「冬眞さんにもそんな時期があったなんて、笑」

「はずかし笑」
目玉焼きにかけるためにソースに手を伸ばすと、冬眞さんの手も同時に伸びてきて、思わず手が触れる。
「あっ、」
「お先どうぞ?笑」

「冬眞さんいつもソースじゃないですよね?笑」
「あぁ、薫さんがいつもソースだからたべてみたくて、笑」

「なんですか、それ笑」
そんななんでもない時間が、幸せだったりする。

ー

冬眞さんが出かけたいところがあるらしくて。
デートも兼ねて行こう、って話になって。

紺のワンピースに、白い羽織。
白いシュシュと、サンダルを合わせ。
サングラスをかければ、かなり夏っぽい。

「ん、行けそう?」
寝室に顔を出した冬眞さんは白基調のアロハシャツで、サングラスがよく似合う。

「え、おしゃれ!かわいい!」
と犬のように飛びついてくる。
「…ありがとう、ございます」
「いいね、流石薫さん。相変わらず綺麗だなぁ…」
と黄昏れながらふらふらとリビングに戻っていった。

冬眞さんは、かわいいと同じくらい、綺麗と言ってくれる。
普段はかわいいで、こうして背伸びをすると、綺麗とその違いを言葉にしてくれる。
私は、かっこいいも、好きも言えたことがない。

付き合えて嬉しい、なんて、毎日のように思っているのに、言うタイミングがわからない。
いざ言おうとすると喉に引っかかり、結局飲み込んでしまう。

申し訳ない。
それが今の一番の気持ち。

ー

車に乗り込むと、そのシートの熱さに太ももが焼ける。

「あっつ…」
「もう夏かぁー。」

涼しくなってきたところで
「よし、行こうか」
とハンドルを握り、立体駐車場を一つ一つ下っていく。
「何気に久しぶりだね、あのペットショップ以来か…」
と言われ、たしかに、と思う。

あのときは、まだ出会いたてで。
有名人なんて知らずに。
サングラスが好きなんだろうと、勝手に思っていた。
あんなに人を信じない私が短時間であそこまで心を開いた、というのはもはや奇跡なのではないか。

「ここだけの話、僕あの頃から薫さんのこと好きだったんだよね」

「…えっ、」
あの頃から…って、出会って2カ月とか…!?
えっ、そんな軽
「決して軽いとかは思わないで?笑」

口角を上げながら、涼しげな顔をしてハンドルに右手を乗せている。
「あんな早さで一目惚れするなんて、僕自身も驚きで…」
と頭の後ろを手で撫でる。

「ごめん、今相当キモいこと言ってる…」
「いえ…、」

“一目惚れ”

「…」
「私の好きなところは顔ってことですか?」
「あっいやそんな意味じゃないよ!?」
「顔もそうだけど…、お酒をつくる手つきとか、話し方とか。雰囲気とか。」

襟足をくるくると指で巻いている。
「あっここ、」
と人通りの少ない商店街の端に車を停めたかと思えば、
「薫さんも来ますか?」
と誘われる。
「はい、」
ドアを開けて手を引いてもらうと、手を繋いだまま、歩き始めた。

「冬眞、さん…っ、」
前は、小指だけつないだことあるけど…っ、

「んー?」
恋人繋ぎだよね、これ。
熱を帯びたその指は絡まり、深く溝に入り込む。
少し歩くと、花屋さんが見えてくる。

「こんにちは、無事仲直りできました、」
と誰かに微笑んでいる。
奥を覗くと、かわいい、デニムエプロンの店員さんがいる。
「それはよかったです、彼女さんですか?」
「はい。」
「こんにちは…」

冬眞さん、女性の知り合いいたんだ…

そういえばこの反対側のお店、ウェディングドレスが…

“SOLD OUT”

「…!」

なくなってる…

白くて、おしゃれで。
全体的に白のバラの模様がついていて、たしか胸には光り輝く宝石がたくさん…

いつか結婚が決まったら来てみたいと思っていたのに。

「薫さん、行きましょう」
と言った彼の右手には霞草が握られている。
「…はい、」

とぼとぼ、冬眞さんの後を追い、車に乗り込んだ。

冬眞さんはあの店員さんに会釈をしてから車を発進させ、鼻歌を歌い始めた。
「あ、うちの親が野菜取りに来い、って言っててさ、ついでに寄ってもいい?」
「…はい?」
うちの親?ついで?寄ってく?

「まぁ、ついでに挨拶してく?くらいだけど」
と期待したように笑みを浮かべる。
「えっえ…っ、えぁ…、」
そんな、早く言ってよ!!

冬眞さんは相変わらず涼し気な顔で運転している。

「そりゃもちろん無理に、とは言わないけど」
私の方を見て、そう言ってくれる。
「でも…」
目が行ってほしそうなんだよね…

「無理に、とは言わないよ?」
その言葉が途端に信じられなくなってしまって。

「…わかりました」
断ったら、なにもかもが、粉になるような気がして。
「そう。ありがとう」
と口角を上げ、スピードを上げた。

ー

雑談も忘れて。
ドライブを楽しむことすら考えられなくて。
ただひたすら冬眞さんの話と鼻歌を聞いて。
冬眞さんは、何にそんなに喜んでいるんだろう。

気づけば見慣れぬ田舎道にいて。
「ついたよ」
と言われる。

冬眞さんはスタスタと歩きだし、細かい砂利が音を立て、私を引き連れる。
私が隣にいることを確認して、インターホンを押し、ドアを開けた。

「ただーいまー!」
その無邪気な声に、胸をえぐられる。
靴を脱ぎ捨て駆け出すと、奥から
「あら冬眞おかえり~」
と母親らしき声が聞こえる。

「帰ってきたのか、久しぶりだな」
新聞の音と、父親らしき声。
「ね、5年ぶりとか?」
その馴染んだ声は、私の前にいるときとは別物。

「忙しいだろう、よく帰ってきてくれた」
「今は、まぁ、休止してるからね」
「冬眞、ちゃんと玄関のドア閉めなさいよ、熱風が入って…」

とリビングのドアから女性が現れる。
ショートの、黒髪の。

似てる。

「あらあら、冬眞と来たの?」
口に手を当て、目を丸くして近づいてくる。
「…いえ、私、車で待ってますね…」
玄関のドアを閉め、冬眞さんの愛車に戻る。

冬眞さんに、家族がいないはずが、なかった。
勝手に、期待してたんだ。

冬眞さんも、私と、実は私と、同じ状況だったら…って。車のドアの音が、やけに大きく響く。

冬眞さんには家族がいる。
当たり前のことに、何ショックを受けてるんだろう…

数分して、砂利の音が聞こえてくる。
運転席側のドアが開いて、
「暑くない?」
という声とともに、エンジンの音が聞こえる。

「同情でもしにきたんですか」
「同情?なんで?」
ただ暑いと思って、とエアコンの風を強めている。

「うちの親が何か言ったならごめんね?もう少し話して来るから暑かったら中入ってきてね?」

「…はい」
あの和に混ざる気なんて、さらさらない。
そんな権利すら、私は持ち合わせていない。

窓から見えた抱きしめられる冬眞さんが、何度も何度もリピートされて。

車の中から窓の方を見れば、お煎餅を食べながら大爆笑している。

「…」

家族の前で、笑えるんだ…
「大丈夫そう?」
といつの間にか冬眞さんがいて。

「本気で馬鹿にしてるんですか」
ただの見せつけにしか見えなくなってしまって。

「なにを?車の中って暑いからさ、」
運転席に乗り込み、エアコンの風に手のひらをかざしている。
「うちの親、心配してるよ?今日は特に暑いから…」

「なにがしたいんですか」
「なにが、って…さっきからどうしたの?」

熱でもある?と首筋に手を伸ばされ、

「さわるなっ!」
つい、その手を払ってしまう。

自分が怖くて。
自分のなかの欲望が制御できなくて。
幼い私が、冬眞さんを許していない。

「え、なんでよ…、僕なにかした?」
冬眞さんは赤くなった手首を押さえ、虚しそうに眉をひそめた。
そして何も言わずに車を降りていった。

「…」

幼少期にできた深い深い傷。
その傷は、表面は綺麗でも、傷を完全に忘れられていたわけではなかった。

日が沈みかけてきて。
捨てられるかもしれないと本気で思い始めた。

冬眞さんに、手を上げてしまった。
冬眞さんは、一度もしたことがなかった。

私がどんなにうるさくても落ち着かなくても、手を上げずに、背中を撫でてくれてた。


再び砂利の音が聞こえてきて。

「冬眞、いつでも帰ってこいよ」
「待ってるからね、さみしくなったらおいでね」
と抱きしめ合っている。
ため息をつきながら目を逸らす。

「よし、お待たせ、」
と野菜の入った袋を後部座席に置いている。
「じゃあね、二人とも元気でね」
と手を振り、運転席に座った。

「さっきは、ごめんね…?」
100%私が悪いのに。
冬眞さんに謝る理由なんてないのに。
「…いえ、」

車を発進させると、私の、私自身への呆れが顔を出す。

「…生きてる世界が違うんだ…、下劣な私がいていい場所じゃない、」
自分に言い聞かせたその呟いただけの言葉を、

「そんなことないよ?」
運悪く、冬眞さんが拾ってしまった。

「…」

そんなことある。
そんなことしかない。
「私の、なにを知ってるの?なにも知らないくせに、なんでそんなこと言えるの?」

「なんで、って、僕の中でそれだけは確信できるから」
「たしかに僕は薫さんのなにも知らない。考え方も、価値観も、家庭環境も。」

ほらね。

「だって、話してくれないから。知ってるわけないじゃん。だから何?」

珍しく、威圧的な言い方をしてくる。

「私には、今日の冬眞さんが私を馬鹿にしてるようにしか、見えなかった。」
「はぁ?」
「目の前で山のようにある大金をちらつかされて。ばら撒いて楽しそうにしてる。そしてわざわざ私の様子を見に来た。」

「なんの話?」
「そんなところを見たら、自慢されてるようにしか思えない」
「自慢じゃないよ、心配だったから」

「それが嫌だったの!羨ましくて仕方がないのに、なんでもない顔して近づいてきてさ、そんなの家族がいない私に当てつけしてるみたいじゃん!」
と久々に大声を出したところで

「家族、いないの…?」
冬眞さんの掠れた声が妙に胸に響いた。

ほら、なにも知らない。
貴方は、なにも知らなかった。
私の過去も、傷も、生きてきた世界も。
その初心な黒い瞳は沈み、同情の眼をする。

「ごめん、本当にごめん、今やっと理解ができた」
と額に手を当て、ハンドルに突っ伏している。

「おかえり、って言ってほしかった。名前を呼んでほしかった。抱きしめてほしかった。それだけなのに…」
顔を覆うと、醜いほどに涙が流れ出てくる。
シートベルトを外し、何も言わずに抱きしめてくれる。
「羨ましかった…私が持っていないものを綺麗に、全部、理想的な形で持ってたから…」

「ごめん、本当にごめん。誠のことを考えたら納得もできるはずなのに、なんで僕は…」
後ろからクラクションを鳴らされ、慌てて車を動かす。
やがてどこかに駐車すると、口を開いた。

「バーのことも、誠も、元彼も、全部一人で背負って、生きてたんだよね…?」

冬眞さんの言葉が、いつも以上に胸に広がる。
冬眞さんしか知らない、治療薬があるみたいに。

でも私は、良くも悪くも歪んでいる私は、
「私を捨てるなら、今ですよ、」
その言葉を素直に受け取れなかった。

そんな言葉に冬眞さんは
「捨てるつもりなんて、ないよ。僕は薫さんの不器用な好意が好きだよ…?」
と私の手を取った。
「そんな…」
どうして冬眞さんは、私を選ぶんだろう。
コンプレックスの塊の私に、好きになれそうなところなんてないのに。

「…冬眞さんは、いいですよね。5年経っても、帰れる、帰っていい場所がある。」
「私には、物心ついたら、そんな場所は存在していなかった。知っていたのは名前だけ。」

「“家族”というものの存在が、いまいち信じられてなかった。」
「なのに。目の前に実物が存在してしまった。」

「…」

誠はいつも出かけていた。
早朝から、深夜まで。

誠は大学に入ってから、寮生活を始めて。
私は初めて一人暮らしを始めた。
それが、中学生のとき。

電気は止まるし。水道も止まるし。
中学生だからなのか、会社や局に電話しても、対応してもらえなかった。

そして。

“君、可愛いね?”

この一言で、人生が変わるなんて思いもしなかった。

ー

「大人の世界へようこそ」
銀の八重歯がよく目立つ。

20代らしい見た目の、スーツの男性。

「ふぅん?君中学生?そこら辺遊び回ってる大学生かと思ったよ、笑」

ゲラゲラと笑いながら叩くその手に、光り輝く指輪が多くはまっている。

「お酒に興味ある?」
「…未成年なので」
「ま、ついてこいよ。こんな深夜に中学生が一人なんて、なんか事情があんだろ」

手のひらを上に向け指を往復させた。
薄暗い裏路地。
人影なんて、一つもない。

「そういや、名前は?」
「…リサです」

煙草を足で踏み潰し揉み消すと、たどり着いたドアを開けた。

「ねーちゃん、この子雇ってあげてよ」
と私を指すと、
「あら綺麗ね。どこの夜職やってたの?」
とカウンターからでてきた青髪の女性。

露出が多いそのタイトな服は、目のやり場がない。
「やっぱ大人に見えるよな、」
「うっそ未成年?うけるんだけど笑」
「いいね、人気出そうな顔してる。キャバ嬢でもバーテンダーでも行けると思うよ」

そう言って私の眼を覗き込むと、ニヒルに笑った。