目が覚めると、ため息とともにだるさが襲ってくる。
頭痛も、耳鳴りも、酷だ。
そうだ、薬飲まなかったから…
ふと枕元に薬のポーチとラップがかけられた水が置いてあることに気がつく。
「…」
あんなにひどいことしたのに。
大人しくその優しさに甘えて、薬を飲んだ。
そしてそのまま、意識が途切れた。
ー
夕方。
体がだいぶ楽になって、今度こそ薫さんに謝ろうと、リビングに行った。
“え!帰ってくるのはやい!おかえりなさい…!”
“一緒に映画とか見たいです…!”
“あと私冬眞さんとお昼食べたいです…!”
薫さんがやりたいことをあんなに露わにするの、滅多にないのに。
勇気を出して言ってくれたのかもしれないのに。
「薫さん…?」
電気はついているけど、薫さんはいない。
ダイニングテーブルの上に、薫さんのスマホと一緒に、メモが。
『少しの間家出します』
「…っ、はぁ!?」
家出…!?
帽子を深く被って適当にマスクをつけて外に飛び出す。
もう次期暗くなる。
そんな中一人で歩いていて昨日みたいに元彼に絡まれたら。
考えるだけで嫌だ。
近所の公園。いない。
スーパー。いない。
もう、あそこだけか…
僕が初めて薫さんに逢った場所。
スマホでライトをつけて、とぼとぼとその道を歩く。
『Ortus』
看板の横の洒落たドアを押すも、鍵がかかっているのか開かない。
ノックをしても、声をかけても反応はなさそう。
「…」
どこに行っちゃったの…
辺りはすっかり暗くなって、春先とは言えどかなり冷え込む。
「今日はとくに寒いな…」
探しに行きたいけど、もう当てがない。
帰ってくることを願うしかない。
悔しさが滲む中、来た道を足元を照らしながら戻っていく。
段々と道行く人は減っていばかりで。
僕の心も空白ばかりが大きくなっていく。
マンションのエントランスが妙に暗くて、家でも一人だと思うと心が沈んで仕方がない。
下ばかり見て、自分の部屋に向かう。
一番奥の…
「…え?」
ドアの横に、蹲っている人がいる。
綺麗な艶髪。
雪のように白い肌。
薫さんだ。
慌てて駆け寄り、自分の息が上がっていたことに気がつく。
「ずっと…、ここにいたんですか…、」
「…家のなかに、Ortusの鍵忘れちゃって…。」
極端に小さな声。
僕じゃなかったら聞き逃してたんじゃないかって。
「…よかった、」
と膝から崩れ落ち、抱きしめた。
「誘拐とか、されてるんじゃないかって…心配だったんですよ」
「僕、全然薫さんの逃避先知らなくて…もう、薫さんに会えないんじゃなかって、」
「…ごめんなさい」
か細い、弱々しい掠れ声。
「あ、いや…」
薫さんから離れて、ちゃんと向き合う。
僕も、伝えなきゃいけないことがあるから。
「僕も、悪かったです…。体調悪くて、自分のことで精一杯になっちゃって、」
「気持ちを無視しちゃった面があって…、」
肩に手を置いて、慰めるように言葉を考える。
一呼吸すると、背後に人の気配がある。
その影は、非常階段の脇に逃げていった。
誰かに見られた。
「薫さん、中に入りましょう」
手を引き、先に薫さんを玄関に入れ、
週刊誌じゃないといいんだけど…。
とため息をつきながらドアを閉めた。
今の状況、撮られたらかなりまずい。
誤解を生みすぎる。
「…薫さん、今すぐ荷物まとめられますか」
「今晩中にここを出ます。記者は待ってくれないので」
と寝室に走り、荷物をスーツケースに詰める。
手をせかせかと動かしながら、リビングに移動したところで事務所に連絡する。
『もしもし』
「週刊誌に撮られたかも」
『はぁ!?』
「自宅前、同居してる女性と話してたら後ろに誰かいて。」
『なんで家の前で話すんだよ…』
「今すぐここから出られるように準備してる」
『了解。二人でバラバラに高瀬の家にでも行こう』
「いや、それはできない。今は二人じゃないと」
『二人でまた撮られるかもしれないんだぞ』
「じゃあ薫さんを一人にしろって言うのかよ」
『…先に薫さんを高瀬の家に行かせろ。そのかわり冬眞は別ルート。迎えを手配しておく、二人分。』
「あの…冬眞さん…」
と廊下から薫さんが現れ、
「準備できた?」
と電話に声が入らないようにテーブルの上に画面を伏せる。
「私、なにか迷惑をかけていたら、ごめんなさい…」
小さな薫さんが、いつもに増して小さく見える。
「大丈夫。このあと、高瀬の家に、行ってもらう。」
震える薫さんの肩を抱き寄せ、腕をなでる。
「これ、僕の帽子。」
と深く被せる。
「行ったことないところに、一人で行くの、すごく不安だと思うんだけど、許してね。」
頷くたびに、帽子を直している姿が可愛い。
『迎え手配した。今外には誰もいない。』
「じゃあ、高瀬の家でね。」
いってらっしゃいのキス、ってことで。
頬に軽くキスをする。
『いいぞ。』
小さく会釈をして、振り返ることなく玄関を出ていった。
『どういう関係なんだよ』
「ただの客と、バーテンダー。」
『本当は?』
「…僕の片思い」
ー
「…元気?じゃないよね、」
高瀬さんのお宅にお邪魔するなり、そう言われる。
靴を脱ぎ、気まずさを感じながらも向かい合うようにダイニングに座る。
「事情は聞いた?」
首を振りながら俯くと、冬眞さんの帽子で視界が埋まる。
かぶり直して、安定するところを探す。
「そっか。」
「なにか温かいの飲む?」
と聞かれ、首を振る間もなく、高瀬さんはキッチンに行ってしまった。
「はい、どーぞ」
と温かいお茶が出てくる。
「冬眞とはどう?」
「…それなりです」
「そっかそっか」
と目をそらしてお茶を飲んでいる。
「なにかテレビ見る?」
「映画とか?」
首を降ると、高瀬さんは困ったように眉を下げた。
自身のスマホを操作して、スピーカーに音楽をかけ始めた。そして
「…俺、奥の部屋いるから、困ったら声かけて」
とだけ言い残した。
ー
きなこを撫でていると、
『もう行ける?』
と言われ、
「うん。」
きなことこむぎにそれぞれまたね、と告げて、玄関を出る。
エントランスを出て、見慣れた黒い車に乗り込む。
見慣れた街も、どこか薄暗く見えて。
この世界に僕はひとりだけなんじゃないかって。
スマホを開くも、その眩しさに思わず目を細める。
僕はこの先どうなるんだろうか。
先の見えないこの世の中で、薫さんを守ることもできずに…
震えた手を握りしめ、爪が手のひらに食い込む。
ふと顔を上げれば、見慣れた高瀬のマンションがある。
エントランスをくぐり、エレベーターに乗り、高瀬の部屋の玄関に倒れ込むと、慣れた香りのなかに薫さんの香りが混じっている。
胸が苦しくて。
うまく息を吸うことができなくて。
頭痛がひどい…
薬が、切れたのか
ぼんやりとしたまま鞄に手を伸ばす。
投げ出されたその鞄は僕の手では届かなかった。
「薫さん…、たすけて…っ、」
目の前のリビングの木製のドアに声をかけるも、反応がない。
「薫、さん…」
「冬眞…?」
いつもより青ざめた顔の、高瀬が廊下から顔を出した。
「聞こえてる…?大丈夫、?」
としゃがみ込み、僕の肩を叩く。
「一旦座れる?」
高瀬に手を貸してもらい、視界がぐらりと揺れる。
「…たか…っ、」
鞄を指し、薬を飲みたいと伝える。
「あ、薬持ってるの?」
頷くと、鞄を渡される。
高瀬は、きっと水を汲みに行った。
「高瀬さん…?」
と声が聞こえたかと思えば、僕の、大好きな…
「薫、さん…」
目元まで帽子を被っているその姿は、不安が隠しきれずにいる。
「よかった…、無事みたいだね…」
と、一息安堵をする。
「大丈夫ですか…?」
と言いながらも、自身の手を握り、震えていた。
手を取ってほしくて。
薫さんだけが欲しくて。
手を伸ばそうと、
「はい、冬眞」
高瀬が、水を汲んだコップを持ってきた。
僕の手は、大人しくそのコップを受け取った。
薫さんに目を向けた時には既にその姿はなかった。
ー
落ち着かない高瀬さんの家。
私が今何をしているかも、なぜここに来るよう言われたのかも、何も、わからない。
冬眞さんにキスされた頬の感覚だけが残っている。
玄関から高瀬さんの声が聞こえ、リビングのドアを開け、玄関を覗いた。
でも、そこにいたのは高瀬さんではなく、壁にもたれかかった、息が上がっている冬眞さんだった。
「よかった…、無事みたいだね…」
その吐く息は、普段とは比べ物にならないほど弱々しくて。
伸ばそうとした手を、もう一方の手で押さえる。
掠れる、冬眞さんの声。
今にも涙が溢れそうな、何かを訴える目。
冬眞さんが何かを言いかけたとき、
「はい、冬眞」
と高瀬さんが玄関にやってくる。
水の入ったコップを持って。
私は背を向けてリビングに戻り、窓に手を当てた。
玄関のあの空間に、私は必要ない気がして。
自分の感情も、わからなくて。
なにもかも、なくなればいいのに、って思ってしまって。
目頭が熱くなり、自分の弱さに気がつく。
窓を開け、春の風が髪を撫でる。
どこからか感じる、桜の香り。
パラペットの上に組んだ腕を乗せ、その清々しさに目を閉じた。
私は、ここにいていいのか、つくづくわからなくなる。
なにが冬眞さんの役に立っているのか、なにをできているのか。
「どうすれば、いい…?」
誰かに聞いているわけでもないけど。
なんとなく返事が分かる気がして。
背中に、慣れた温かみを感じる。
「…薫さんは、僕のそばにいてくれるだけでいいんですよ」
耳によく馴染む、その声。
何も言えずにいると、髪を撫でられ。
頬にキスをされる。
「僕は、薫さんが思ってもいない程、薫さんのことが大好きなんですよ」
やがて離れ、私の隣に立つと、
「僕は、後悔なんてしてない。薫さんと一緒に住んでることも、今こうして、2人でいることも。」
と震えた手を肩に添えられながら言われる。
「僕に振り回されることも多いし、周りの目を気にすることも、多いと思うの。…でも、それでも…、僕の側にいてほしいな…なんて、ね」
ー
“芸能人失格”
“期待して損した”
“女がいる芸能人なんて推せない”
“素直に聴けなくなった”
『〈スクープ〉シンガーソングライター・桐生冬眞 自宅前で一般女性を介抱。』
「…」
“あの女まじない”
“許せない”
“ムカつく”
“どこの誰か突き止めてやる”
そんな暴言のなかに、一つ、目を奪う声があった。
“この女の子に桐生さんが支えられて、活動を続けられていたというなら、私は感謝しかない。我らが桐生冬眞を支えてくれて、ありがとう”
そんなこと、ない…
むしろ私が支えられてる側で、なにもかも施してもらって…
薄暗いリビングから、冬眞さんの部屋のドアを眺める。
軽くノックをしても、
「…冬眞さん、」
声をかけても、反応はない。
ドアに耳を当てると、パソコンのキーボードのカタカタという音がする。
生きては…いそう、だね…
「…冬眞、さん…?出かけてくるよ、?」
「冬眞さん、」
今日も、反応なし。
電話も、メッセージも、繋がらない。
着信拒否されてるのか、ブロックされてるのか。
冬眞さんが、私を必要としてくれているのかも、わからない。
ご飯を作って、冬眞さんの部屋のドアの横のテーブルに置いて。
一人リビングでご飯を食べて。
ふと置いたご飯を見ると空のお皿に代わっている。
「…」
私の生活には、すっかり彩りがなくなってしまった。
家で人と喋ることはないし。
テレビを見ることもない。
好きだった本も読めなくなって。
珈琲も一人だと美味しくない。
市販のお酒を飲んで泥酔してみたり。
意味もなくもう一つのグラスにワインを注いで、コン、とグラス同士で音を鳴らしてみたり。
たまにはカップラーメンを食べてみたり。
丸一日何も食べなかったり。
ー
「薫、元気ないでしょ。珈琲でも飲みなよ」
と澪がマグカップを手にし、注ごうとしてくれる。
「…ごめん、今気分じゃない…」
珈琲さえも、最近苦手になりつつある。
休憩室で、澪と意味もない会話をするのが、今の私の救いだったりする。
「あの、」
と、バイトの高校生が休憩室を訪ねてくる。
「神崎さんを探しているというお客さんが…」
「え、誰だろう…」
休憩室を出て、姿勢を低くし、隙間からその姿を覗く。
目が合うと、
「あ、薫さんやっほー」
と呑気に手を振ってくる。
「高瀬さん…」
ー
着替えて席に高瀬さんを迎えに行くと、じゃあ行こうか、と飲んでいたカップコーヒーを手に取った。
駐車場についていくと
「ほいほい乗った乗った~」
と後部座席のドアを開けてくださる。
「…ありがとうございます」
高瀬さんの愛車、らしい。
「冬眞は元気?」
「…会ってないです」
「会ってない、って同棲解消した?」
バックミラー越しに目が合う。
「部屋から、出てこなくて…」
「あれまぁ。」
「私、避けられてるとしか思えなくて…」
「出かける前に必ず、出かけるねって声をかけるんですけど、帰ってくると、洗い物してあったり、2匹に餌やってあったりして」
「でも、部屋に声をかけても返事はなくて、」
「…私が、仕事奪っちゃって…、なのに…私だけが今まで通り暮らして、私なんか要らないんじゃないかって思う日が増えて…段々生きる気力も…」
「薫さんは一人じゃない。俺でも、あのカフェのお友達でも、薫さんを心配してるのは一緒だと思うよ。」
運転席から、わざわざ振り返って、私と目を合わせてくれる。
「ね?なんでも話していいんだよ。」
「じゃあ着いたから、今日は一旦お別れ。帰れそう?」
と窓の外を指す。
たしかに見慣れた駐車場だけれど…
「…帰りたく、ない…です…っ、」
今の苦しみを言語化したら、家に帰ると私の中の孤独が大きくなっていくことに気がついてしまった。
「…忘れたい、冬眞さんのこと忘れたい…、たすけて…」
「えっちょ、ちょっと待って、落ち着こ?ね?」
「…やだ…っ、ひとりにしないで…、」
溢れ出る感情が、何ていう名前なのか、はたまた名前があるのかも知らない。
高瀬さんは誰かに電話をかけた。
「おい冬眞。」
今まで聞いたことのない低い声。
冬眞さん、に…
電話、出るんじゃん…
やっぱり着信拒否されてるんじゃ…
「お前言ったよな、薫さんと結婚したい、って。絶対幸せにする、って」
そんなこと、言ってたの…?
「いいのかよ、幸せにするどころか不安にさせて苦しめてどうするんだよ」
「冬眞の他にも薫さんを大事にしたいって思う人が現れるかもしれない。いつまでも甘えんなよ」
「薫さんはめげずに冬眞に声をかけてる。なのにお前が歩み寄らずに、薫さんの努力を無駄にしてどうすんだよ」
「は?電話代われ?直接会って言えよ馬鹿」
と一方的に電話を切っていた。
「ごめんね、怖がらせたよね」
「…いえ、」
「一応言っておくけど、薫さんが、冬眞の家に住み続ける義務も必ず冬眞を選ばなきゃいけない義務もない。」
「薫さんには、冬眞を切り捨てる権利がある。」
「…はい」
私には、冬眞さんしかいない、そう、思っていたけれど…
「ごめん、独りにさせちゃうかもだけど、冬眞があの態度取り続けるなら言って?今度は直接殴りかかりに行く」
「…ありがとうございます」
「じゃあ、また」
静かに車を降りて、部屋に向かった。
玄関のドアの前で、深呼吸をする。
もし、変わっていなかったら、このまま自責が止まらなかったら、私のためにも、出ていこう。
それはどんなに苦しい決意でも、私の中の決意はできてしまった。
決行できるかは、別として…
「…」
変わっていてほしい。出ていきたくない。
冬眞さんとまた一緒に笑っていたいだけなのに
入る勇気だけがなくて、
ドアの前で立ち往生すること、一分。
目の前のドアが、開いた。
「うぉ…っ、薫、さん…」
お気に入りのブランドの帽子。
眼鏡。
これでもかと見開いた目。
いつもの部屋着。
なにも、変わっていない。
私をリビングに招き入れると
「今までずっと、ごめんなさい」
と俯きがちに言った。
2人の間に、沈黙が落ちる。
ダイニングに向かい合って座って、話そうと口を開けば、お互いにどうぞと譲って。
「俺なにもわかってなくて、薫さんのこと、どうでもいいわけじゃなかったんだけど、自分のことでいっぱいいっぱいで、どうしたらいいか…、それで、心配かけてごめん、本当に…」
「正直、ヘッドホンでノイキャンして無理やり曲作りに集中してた日もあるし、心底静かにしててほしいって思ってた日もあって、無視してれば、集中できるかと思って、無理やり、その…逃げてました…」
「高瀬に言われて気づいたんだ、どこかで、薫さんの存在が当たり前になっていて、ずっと、側にいてくれる気がして、だからって何してもいいわけじゃないのに…ごめんなさい」
机に勢いよく伏せられ、鈍い音がする。
「謝ったって…私の今までの孤独は埋まらないですよ」
その言葉が、諦めた感情と共に溢れる。
「…わかってます」
冬眞さんは、息を吐いて、テーブルから顔を上げた。
額が丸く赤くなっている。
「この1カ月、一度でも私の気持ち考えたことありますか。」
「そんなに私のことをうるさいと思っているのなら、もういいです、」
と立ち上がり、冬眞さんに背を向ける。
「え、いやそれはちが…っ」
と冬眞さんが立ち上がり、椅子が倒れる。
「言ってほしかった。集中したいから静かにしててほしいって。それだけなのに…」
握りしめた拳のなかで、手のひらに爪が食い込んでいく。
「そんなに難しい…?そんなに私駄目だった…?」
振り返ると、冬眞さんは唇を噛んで俯いていた。
「記事の事があってから、自責が止まらなくて、逃げたくて、何度も何度も、ここから出ていこうと思った」
「出ていけば、手放せるんじゃないかって。でも、できなかった。冬眞さんがいたから…私みたいに孤独に侵されてほしくなかったから。守ってくれると思ってたから…」
あの空白の一ヶ月を思い出して、涙が滲む。
「馬鹿なのは、私の方だった」
と冬眞さんに背を向け、ドアに向き合う。
「もう、無理かも」
涙を拭い、ドアを開けようとしたところで
「ちがう、謝りたいんじゃなくて…っ、」
と冬眞さんの手が私の肩を掠める。
「頭冷やしてくる」
やや強引に部屋を出る。
「えっちょ、まってよ…!」
という声を置いて。
ー
『桐生冬眞突然の無期限活動休止を発表』
そのニュースを見たのは、私が澪の家で寝泊まりを始めて、半月の頃だった。
SNSでは心配の声ばかりが上がり、様々な批判や憶測が飛び交った。
主な理由は体調不良。
詳しくは書かれていないが、世の中が話のネタにするには十分らしかった。
「…」
私のせいだ。
私が、逃げてるから…
自己嫌悪に追われ。
廊下に出て高瀬さんに電話をかける。
数コールで久々の高瀬さんの声とつながる。
『もしもし』
「私のせいですよね。ニュース見ました」
『…冬眞も、孤独を罰としては充分なほど抱えてるよ。』
『もう一回、冬眞の元に戻る気はない?』
「…」
『冬眞のために、一回でいいから、会ってあげてほしい。もう二度と会わなくてもいい。もう一回だけ、冬眞と話を。お願い。』
「…もう会わないって決めてたんですよ」
『そう、だよね。そりゃそうか…』
私のことを無視して、どうにでもなれ、と思っていたのも事実。
冬眞さんを独りにしてしまって心配なのも事実。
「…いいですよ」
会ってから、関係を続けるか、縁を切るか、決めよう。
ー
部屋番号を確認して、インターホンを押す。
ここで積み重ねた関係を、切るか、続けるか、決めなくちゃいけない。
『はい』
普段よりも低めの声。
「お久しぶり、です」
『え、か…っ、え、ちょ』
慌てた声。
そして何かを落とした大きな音。
ドアが開き、寝癖姿の、“桐生冬眞”が出てくる。
「ぇ、な、なんで…っ、」
「懇願されたんです、貴方のよく知る、高瀬倫太郎って人に」
「あいつ…、とりあえず入って」
久々に入るその家は、一言で言うなら、荒れていた。
積まれた服。
溜まった埃。
出しっぱなしの薬。
お酒の缶。
「…」
「あっごめん汚くて…薫さん来るなら片付けたのに…」
「すみません、言ってあるのかと…」
冬眞さんはゴミを拾い、ゴミ箱に突っ込んでいる。
その少し痩せたようにも感じるその背中から、背骨が服越しに見える。
クマも、目立っているような気がして。
「…活動再開の目処は立ってないんですか」
「…立ってないよ、活動を医者に止められてる」
「…なんでそんなになるまで…」
「僕が弱みを見せたら、なにもかも、なくなる気がして…」
「私のせい、ですよね」
「いや、薫さんに依存してた僕のせいだよ、」
「療養になんてなってない。生きてる心地がしない。」
はぁ、と珍しく大きなため息。
「…最後に一つだけ、お願いしてもいい…?」
と、ぽつりと口を開いた。
冬眞さんが最後と言うお願いは、“添い寝”だった。
ー
冬眞さんの匂い。
閉め切った埃が混じっている。
「久々に会って、こんなお願いで、ごめん…ただ、側にいてほしいだけなんだ…」
耳元の冬眞さんの息は、妙に掠れていて、体調の悪さが見え隠れしていた。
この関係に名前があれば。
世に伝わっても恥ではないような、れっきとした、名前があれば、こんなに苦しまなくて済んだのかな。
数時間も経てば、冬眞さんから密かに寝息が聞こえてくる。
顔を向けると、安らかな顔をしていて、少しだけ安心する。
私も、最近眠れていなかった分、寝ようかと、ベッドに重く鎮まる。
深呼吸したところで、
「…んぅ、ごめ、っ、なさ…っ、」
冬眞さんが喋りだす。
ひたすら誰かに謝っている、寝言。
「…ぼ、く…のせきにん…っ、です…」
一晩通して、冬眞さんは喋り続けていた。
「…」
私は、何をしていたんだろう。
冬眞さんがこんなになっているとも知らずに。
ー
結局、少ししか眠れず、3時に目が覚めた。
寝顔を一目見て、冬眞さんに背中を向ける。
正直、この関係のままなら、縁を切りたい。
でも、冬眞さんが、まだ私と付き合いたいと思っているかなんて、わからない。
「…んぅむ、」
冬眞さんが身じろぎして、背中に懐かしい温かみを感じる。
後ろから手を回され、鎖骨に手が触れる。
「…」
冬眞さんの寝息が、早朝の部屋によく響く。
“僕…薫さんと…付き合いたいです…”
あの時、付き合ってれば。
過去なんて無視して、無理やり…。
付き合ってしまえばよかったのに。
埃につられてくしゃみをしたところで聞こえた
「…薫、さん…?…起こしちゃいましたよね、」
という背後の声。
「…ずっと、このままなんですか…?」
「…ん?」
寝ぼけた、声。
「…なんていえばいいんですかね…」
今更、冬眞さんのことで傷つきたくない。
「…なんですか?」
「…もう、嫌になった、というか…、」
「嫌?なにがですか、?」
なにが、と言われてしまっては、言葉に詰まる。
喉に引っかかって、発音の仕方を忘れてしまう。
「無理しなくても、のんびり、話せそうな時に…」
「話せなかったから、今こうなってるんですよ…」
両膝を抱え、小さく縮こまる。
「ごめん…僕、さっきからなんのことか全く…、」
「…冬眞さんは、何も思わないんですか」
「何も、って…なににですか、」
「…」
「話したいなら、ちゃんと言ってもらわないと…、わかんないですよ…」
「…このままは、いや…です…っ、」
「あっ、ごめんね…?」
と、鎖骨から手をどかされる。
「あっ…、」
そうじゃ、ない…
「…朝ごはん食べていきますか?」
「…そういうのが、嫌なんですよ…」
「前から、朝ごはんなんて、一緒に食べてたじゃないですか、」
「…そう、ですけど…」
うまく伝わらなくて、言葉は難しいと、改めて感じる。
もう、覚悟決めるしかないよ。薫。
「…付き合、ってないのに…、恋人みたいなこと…して、ずっと、このまま…なら…っ、…縁、切り…たい、です…」
涙が流れ、枕へと染みていく。
「…ぇ、まって…、そんなこと、考えてたの…?」
「…ごめ…っなさ…、私、が…逃げ、てたから…っ、」
「いや…」
「じゃあ、付き合おう。付き合いたい。」
背後から、起き上がる音がする。
こんな姿勢で受けるのは良くないと思い、重い体を持ち上げ、向き合った。
「僕と付き合っていただけませんか」
と、手を差し出される。
その目は、光に溢れて、希望に溢れて、自信に満ちて、真摯な目だった。
「おねがい、しま…す…っ、」
華奢で、骨ばった、小さめな手を、握った。
「ありがとう。今日から薫さんが彼女?いいの?」
「こちらこそ…」
「大好き。大好きだよ」
と抱きしめられ、肩に埋もれる。
少年のように喜ぶ彼は、国民的大スターであることを忘れてはいけない。
「ねっ…、」
と顔を赤くして、私の顔を覗き込んでくる。
「…キス、したい…」
「えっ、」
キ、キス…
「したことあります…?」
小さく首を振ると、
「じゃあ、僕が初めてだ」
と微笑むと、私をそっと抱きしめ、
「目、閉じててくださいね」
と耳元で囁いた。
素直に目を閉じると唇が湿り、温かくなる。
目の前に、冬眞さんのまつ毛。
唇が離れれば、お互い何も言えず、顔ばかりが赤くなっていった。
ー
薫さんが、かの、じょ…
目玉焼きを箸で割き、口に頬張る姿を見てつくづく思う。
美人だなぁ…
「…はい?」
なんですか?といいたげな顔を上げる。
「あっいや」
え、聞こえてた…?
「何か言いました?」
「いえ特に…」
と自分の味噌汁を覗き込む。
「…本当に僕でいいんですか、」
味噌汁から目を離さないまま、聞いてみる。
「…冬眞さん“が”いいんですよ…」
僕“が”いい…
「冬眞さんこそ、私でいいんですか…?」
「いやいや、僕には良すぎるから…」
と言ったところではっとする。
「お互い様、ですよ…」
という薫さんは、目を逸らして、箸先を眺めていた。
ー
翌日
『…はぁ!?あの流れで付き合うことあるの!?』
高瀬さんに報告の電話をすると、思わず顔をしかめたくなる声量が飛んでくる。
「そうなんですよ…」
「向こうから付き合おう、って言ってくださったので、」
『冬眞良かったなぁ…』
と、向こうからすすり泣く声と、リビングからガタッと音が聞こえた。
「あ、冬眞さんが…」
『そーか、付き合ったのか、』
「あの、そろそろ…」
『あんなに何度も自分のこと思いやって付き合えた、って凄く』
「誰と電話してんの?男の声が聞こえる」
と冬眞さんが眉にしわを寄せ顔を出す。
「あっ、ごめんなさ…っ、」
「どこのどいつだよ、スマホ貸せ」
とやや強引に奪われ、成す術がなくなってしまう。
「は?高瀬?」
冬眞さんの顔がみるみる曇っていく。
その顔を見るのが怖くなってしまって。
私の中の闇の渦ばかりが大きくなっていく。
冬眞さんの声も、高瀬さんの声も、何も聞こえなくて。
私の耳の奥の甲高い音だけが響いている。
そのなかに、消えかけていた誠の声が耳の中を刺す。
“お前が男に好かれるわけない”
“こんなブサイクが”
“他の男と電話なんて”
「する必要ある?」
その声が、誠の声と重なった。
謝らなきゃ。謝らなきゃ。
頭では、今目の前にいる人が冬眞さんだと分かっているのに、身体だけが過去へ戻っていく。
「…ごめんなさい」
何度謝っても、声が止まらない。
「ごめんなさい…」
冬眞さんの顔を見ても、誰なのか分からなくなる。
「…殺さないで…っ、私を…」
頭痛も、耳鳴りも、酷だ。
そうだ、薬飲まなかったから…
ふと枕元に薬のポーチとラップがかけられた水が置いてあることに気がつく。
「…」
あんなにひどいことしたのに。
大人しくその優しさに甘えて、薬を飲んだ。
そしてそのまま、意識が途切れた。
ー
夕方。
体がだいぶ楽になって、今度こそ薫さんに謝ろうと、リビングに行った。
“え!帰ってくるのはやい!おかえりなさい…!”
“一緒に映画とか見たいです…!”
“あと私冬眞さんとお昼食べたいです…!”
薫さんがやりたいことをあんなに露わにするの、滅多にないのに。
勇気を出して言ってくれたのかもしれないのに。
「薫さん…?」
電気はついているけど、薫さんはいない。
ダイニングテーブルの上に、薫さんのスマホと一緒に、メモが。
『少しの間家出します』
「…っ、はぁ!?」
家出…!?
帽子を深く被って適当にマスクをつけて外に飛び出す。
もう次期暗くなる。
そんな中一人で歩いていて昨日みたいに元彼に絡まれたら。
考えるだけで嫌だ。
近所の公園。いない。
スーパー。いない。
もう、あそこだけか…
僕が初めて薫さんに逢った場所。
スマホでライトをつけて、とぼとぼとその道を歩く。
『Ortus』
看板の横の洒落たドアを押すも、鍵がかかっているのか開かない。
ノックをしても、声をかけても反応はなさそう。
「…」
どこに行っちゃったの…
辺りはすっかり暗くなって、春先とは言えどかなり冷え込む。
「今日はとくに寒いな…」
探しに行きたいけど、もう当てがない。
帰ってくることを願うしかない。
悔しさが滲む中、来た道を足元を照らしながら戻っていく。
段々と道行く人は減っていばかりで。
僕の心も空白ばかりが大きくなっていく。
マンションのエントランスが妙に暗くて、家でも一人だと思うと心が沈んで仕方がない。
下ばかり見て、自分の部屋に向かう。
一番奥の…
「…え?」
ドアの横に、蹲っている人がいる。
綺麗な艶髪。
雪のように白い肌。
薫さんだ。
慌てて駆け寄り、自分の息が上がっていたことに気がつく。
「ずっと…、ここにいたんですか…、」
「…家のなかに、Ortusの鍵忘れちゃって…。」
極端に小さな声。
僕じゃなかったら聞き逃してたんじゃないかって。
「…よかった、」
と膝から崩れ落ち、抱きしめた。
「誘拐とか、されてるんじゃないかって…心配だったんですよ」
「僕、全然薫さんの逃避先知らなくて…もう、薫さんに会えないんじゃなかって、」
「…ごめんなさい」
か細い、弱々しい掠れ声。
「あ、いや…」
薫さんから離れて、ちゃんと向き合う。
僕も、伝えなきゃいけないことがあるから。
「僕も、悪かったです…。体調悪くて、自分のことで精一杯になっちゃって、」
「気持ちを無視しちゃった面があって…、」
肩に手を置いて、慰めるように言葉を考える。
一呼吸すると、背後に人の気配がある。
その影は、非常階段の脇に逃げていった。
誰かに見られた。
「薫さん、中に入りましょう」
手を引き、先に薫さんを玄関に入れ、
週刊誌じゃないといいんだけど…。
とため息をつきながらドアを閉めた。
今の状況、撮られたらかなりまずい。
誤解を生みすぎる。
「…薫さん、今すぐ荷物まとめられますか」
「今晩中にここを出ます。記者は待ってくれないので」
と寝室に走り、荷物をスーツケースに詰める。
手をせかせかと動かしながら、リビングに移動したところで事務所に連絡する。
『もしもし』
「週刊誌に撮られたかも」
『はぁ!?』
「自宅前、同居してる女性と話してたら後ろに誰かいて。」
『なんで家の前で話すんだよ…』
「今すぐここから出られるように準備してる」
『了解。二人でバラバラに高瀬の家にでも行こう』
「いや、それはできない。今は二人じゃないと」
『二人でまた撮られるかもしれないんだぞ』
「じゃあ薫さんを一人にしろって言うのかよ」
『…先に薫さんを高瀬の家に行かせろ。そのかわり冬眞は別ルート。迎えを手配しておく、二人分。』
「あの…冬眞さん…」
と廊下から薫さんが現れ、
「準備できた?」
と電話に声が入らないようにテーブルの上に画面を伏せる。
「私、なにか迷惑をかけていたら、ごめんなさい…」
小さな薫さんが、いつもに増して小さく見える。
「大丈夫。このあと、高瀬の家に、行ってもらう。」
震える薫さんの肩を抱き寄せ、腕をなでる。
「これ、僕の帽子。」
と深く被せる。
「行ったことないところに、一人で行くの、すごく不安だと思うんだけど、許してね。」
頷くたびに、帽子を直している姿が可愛い。
『迎え手配した。今外には誰もいない。』
「じゃあ、高瀬の家でね。」
いってらっしゃいのキス、ってことで。
頬に軽くキスをする。
『いいぞ。』
小さく会釈をして、振り返ることなく玄関を出ていった。
『どういう関係なんだよ』
「ただの客と、バーテンダー。」
『本当は?』
「…僕の片思い」
ー
「…元気?じゃないよね、」
高瀬さんのお宅にお邪魔するなり、そう言われる。
靴を脱ぎ、気まずさを感じながらも向かい合うようにダイニングに座る。
「事情は聞いた?」
首を振りながら俯くと、冬眞さんの帽子で視界が埋まる。
かぶり直して、安定するところを探す。
「そっか。」
「なにか温かいの飲む?」
と聞かれ、首を振る間もなく、高瀬さんはキッチンに行ってしまった。
「はい、どーぞ」
と温かいお茶が出てくる。
「冬眞とはどう?」
「…それなりです」
「そっかそっか」
と目をそらしてお茶を飲んでいる。
「なにかテレビ見る?」
「映画とか?」
首を降ると、高瀬さんは困ったように眉を下げた。
自身のスマホを操作して、スピーカーに音楽をかけ始めた。そして
「…俺、奥の部屋いるから、困ったら声かけて」
とだけ言い残した。
ー
きなこを撫でていると、
『もう行ける?』
と言われ、
「うん。」
きなことこむぎにそれぞれまたね、と告げて、玄関を出る。
エントランスを出て、見慣れた黒い車に乗り込む。
見慣れた街も、どこか薄暗く見えて。
この世界に僕はひとりだけなんじゃないかって。
スマホを開くも、その眩しさに思わず目を細める。
僕はこの先どうなるんだろうか。
先の見えないこの世の中で、薫さんを守ることもできずに…
震えた手を握りしめ、爪が手のひらに食い込む。
ふと顔を上げれば、見慣れた高瀬のマンションがある。
エントランスをくぐり、エレベーターに乗り、高瀬の部屋の玄関に倒れ込むと、慣れた香りのなかに薫さんの香りが混じっている。
胸が苦しくて。
うまく息を吸うことができなくて。
頭痛がひどい…
薬が、切れたのか
ぼんやりとしたまま鞄に手を伸ばす。
投げ出されたその鞄は僕の手では届かなかった。
「薫さん…、たすけて…っ、」
目の前のリビングの木製のドアに声をかけるも、反応がない。
「薫、さん…」
「冬眞…?」
いつもより青ざめた顔の、高瀬が廊下から顔を出した。
「聞こえてる…?大丈夫、?」
としゃがみ込み、僕の肩を叩く。
「一旦座れる?」
高瀬に手を貸してもらい、視界がぐらりと揺れる。
「…たか…っ、」
鞄を指し、薬を飲みたいと伝える。
「あ、薬持ってるの?」
頷くと、鞄を渡される。
高瀬は、きっと水を汲みに行った。
「高瀬さん…?」
と声が聞こえたかと思えば、僕の、大好きな…
「薫、さん…」
目元まで帽子を被っているその姿は、不安が隠しきれずにいる。
「よかった…、無事みたいだね…」
と、一息安堵をする。
「大丈夫ですか…?」
と言いながらも、自身の手を握り、震えていた。
手を取ってほしくて。
薫さんだけが欲しくて。
手を伸ばそうと、
「はい、冬眞」
高瀬が、水を汲んだコップを持ってきた。
僕の手は、大人しくそのコップを受け取った。
薫さんに目を向けた時には既にその姿はなかった。
ー
落ち着かない高瀬さんの家。
私が今何をしているかも、なぜここに来るよう言われたのかも、何も、わからない。
冬眞さんにキスされた頬の感覚だけが残っている。
玄関から高瀬さんの声が聞こえ、リビングのドアを開け、玄関を覗いた。
でも、そこにいたのは高瀬さんではなく、壁にもたれかかった、息が上がっている冬眞さんだった。
「よかった…、無事みたいだね…」
その吐く息は、普段とは比べ物にならないほど弱々しくて。
伸ばそうとした手を、もう一方の手で押さえる。
掠れる、冬眞さんの声。
今にも涙が溢れそうな、何かを訴える目。
冬眞さんが何かを言いかけたとき、
「はい、冬眞」
と高瀬さんが玄関にやってくる。
水の入ったコップを持って。
私は背を向けてリビングに戻り、窓に手を当てた。
玄関のあの空間に、私は必要ない気がして。
自分の感情も、わからなくて。
なにもかも、なくなればいいのに、って思ってしまって。
目頭が熱くなり、自分の弱さに気がつく。
窓を開け、春の風が髪を撫でる。
どこからか感じる、桜の香り。
パラペットの上に組んだ腕を乗せ、その清々しさに目を閉じた。
私は、ここにいていいのか、つくづくわからなくなる。
なにが冬眞さんの役に立っているのか、なにをできているのか。
「どうすれば、いい…?」
誰かに聞いているわけでもないけど。
なんとなく返事が分かる気がして。
背中に、慣れた温かみを感じる。
「…薫さんは、僕のそばにいてくれるだけでいいんですよ」
耳によく馴染む、その声。
何も言えずにいると、髪を撫でられ。
頬にキスをされる。
「僕は、薫さんが思ってもいない程、薫さんのことが大好きなんですよ」
やがて離れ、私の隣に立つと、
「僕は、後悔なんてしてない。薫さんと一緒に住んでることも、今こうして、2人でいることも。」
と震えた手を肩に添えられながら言われる。
「僕に振り回されることも多いし、周りの目を気にすることも、多いと思うの。…でも、それでも…、僕の側にいてほしいな…なんて、ね」
ー
“芸能人失格”
“期待して損した”
“女がいる芸能人なんて推せない”
“素直に聴けなくなった”
『〈スクープ〉シンガーソングライター・桐生冬眞 自宅前で一般女性を介抱。』
「…」
“あの女まじない”
“許せない”
“ムカつく”
“どこの誰か突き止めてやる”
そんな暴言のなかに、一つ、目を奪う声があった。
“この女の子に桐生さんが支えられて、活動を続けられていたというなら、私は感謝しかない。我らが桐生冬眞を支えてくれて、ありがとう”
そんなこと、ない…
むしろ私が支えられてる側で、なにもかも施してもらって…
薄暗いリビングから、冬眞さんの部屋のドアを眺める。
軽くノックをしても、
「…冬眞さん、」
声をかけても、反応はない。
ドアに耳を当てると、パソコンのキーボードのカタカタという音がする。
生きては…いそう、だね…
「…冬眞、さん…?出かけてくるよ、?」
「冬眞さん、」
今日も、反応なし。
電話も、メッセージも、繋がらない。
着信拒否されてるのか、ブロックされてるのか。
冬眞さんが、私を必要としてくれているのかも、わからない。
ご飯を作って、冬眞さんの部屋のドアの横のテーブルに置いて。
一人リビングでご飯を食べて。
ふと置いたご飯を見ると空のお皿に代わっている。
「…」
私の生活には、すっかり彩りがなくなってしまった。
家で人と喋ることはないし。
テレビを見ることもない。
好きだった本も読めなくなって。
珈琲も一人だと美味しくない。
市販のお酒を飲んで泥酔してみたり。
意味もなくもう一つのグラスにワインを注いで、コン、とグラス同士で音を鳴らしてみたり。
たまにはカップラーメンを食べてみたり。
丸一日何も食べなかったり。
ー
「薫、元気ないでしょ。珈琲でも飲みなよ」
と澪がマグカップを手にし、注ごうとしてくれる。
「…ごめん、今気分じゃない…」
珈琲さえも、最近苦手になりつつある。
休憩室で、澪と意味もない会話をするのが、今の私の救いだったりする。
「あの、」
と、バイトの高校生が休憩室を訪ねてくる。
「神崎さんを探しているというお客さんが…」
「え、誰だろう…」
休憩室を出て、姿勢を低くし、隙間からその姿を覗く。
目が合うと、
「あ、薫さんやっほー」
と呑気に手を振ってくる。
「高瀬さん…」
ー
着替えて席に高瀬さんを迎えに行くと、じゃあ行こうか、と飲んでいたカップコーヒーを手に取った。
駐車場についていくと
「ほいほい乗った乗った~」
と後部座席のドアを開けてくださる。
「…ありがとうございます」
高瀬さんの愛車、らしい。
「冬眞は元気?」
「…会ってないです」
「会ってない、って同棲解消した?」
バックミラー越しに目が合う。
「部屋から、出てこなくて…」
「あれまぁ。」
「私、避けられてるとしか思えなくて…」
「出かける前に必ず、出かけるねって声をかけるんですけど、帰ってくると、洗い物してあったり、2匹に餌やってあったりして」
「でも、部屋に声をかけても返事はなくて、」
「…私が、仕事奪っちゃって…、なのに…私だけが今まで通り暮らして、私なんか要らないんじゃないかって思う日が増えて…段々生きる気力も…」
「薫さんは一人じゃない。俺でも、あのカフェのお友達でも、薫さんを心配してるのは一緒だと思うよ。」
運転席から、わざわざ振り返って、私と目を合わせてくれる。
「ね?なんでも話していいんだよ。」
「じゃあ着いたから、今日は一旦お別れ。帰れそう?」
と窓の外を指す。
たしかに見慣れた駐車場だけれど…
「…帰りたく、ない…です…っ、」
今の苦しみを言語化したら、家に帰ると私の中の孤独が大きくなっていくことに気がついてしまった。
「…忘れたい、冬眞さんのこと忘れたい…、たすけて…」
「えっちょ、ちょっと待って、落ち着こ?ね?」
「…やだ…っ、ひとりにしないで…、」
溢れ出る感情が、何ていう名前なのか、はたまた名前があるのかも知らない。
高瀬さんは誰かに電話をかけた。
「おい冬眞。」
今まで聞いたことのない低い声。
冬眞さん、に…
電話、出るんじゃん…
やっぱり着信拒否されてるんじゃ…
「お前言ったよな、薫さんと結婚したい、って。絶対幸せにする、って」
そんなこと、言ってたの…?
「いいのかよ、幸せにするどころか不安にさせて苦しめてどうするんだよ」
「冬眞の他にも薫さんを大事にしたいって思う人が現れるかもしれない。いつまでも甘えんなよ」
「薫さんはめげずに冬眞に声をかけてる。なのにお前が歩み寄らずに、薫さんの努力を無駄にしてどうすんだよ」
「は?電話代われ?直接会って言えよ馬鹿」
と一方的に電話を切っていた。
「ごめんね、怖がらせたよね」
「…いえ、」
「一応言っておくけど、薫さんが、冬眞の家に住み続ける義務も必ず冬眞を選ばなきゃいけない義務もない。」
「薫さんには、冬眞を切り捨てる権利がある。」
「…はい」
私には、冬眞さんしかいない、そう、思っていたけれど…
「ごめん、独りにさせちゃうかもだけど、冬眞があの態度取り続けるなら言って?今度は直接殴りかかりに行く」
「…ありがとうございます」
「じゃあ、また」
静かに車を降りて、部屋に向かった。
玄関のドアの前で、深呼吸をする。
もし、変わっていなかったら、このまま自責が止まらなかったら、私のためにも、出ていこう。
それはどんなに苦しい決意でも、私の中の決意はできてしまった。
決行できるかは、別として…
「…」
変わっていてほしい。出ていきたくない。
冬眞さんとまた一緒に笑っていたいだけなのに
入る勇気だけがなくて、
ドアの前で立ち往生すること、一分。
目の前のドアが、開いた。
「うぉ…っ、薫、さん…」
お気に入りのブランドの帽子。
眼鏡。
これでもかと見開いた目。
いつもの部屋着。
なにも、変わっていない。
私をリビングに招き入れると
「今までずっと、ごめんなさい」
と俯きがちに言った。
2人の間に、沈黙が落ちる。
ダイニングに向かい合って座って、話そうと口を開けば、お互いにどうぞと譲って。
「俺なにもわかってなくて、薫さんのこと、どうでもいいわけじゃなかったんだけど、自分のことでいっぱいいっぱいで、どうしたらいいか…、それで、心配かけてごめん、本当に…」
「正直、ヘッドホンでノイキャンして無理やり曲作りに集中してた日もあるし、心底静かにしててほしいって思ってた日もあって、無視してれば、集中できるかと思って、無理やり、その…逃げてました…」
「高瀬に言われて気づいたんだ、どこかで、薫さんの存在が当たり前になっていて、ずっと、側にいてくれる気がして、だからって何してもいいわけじゃないのに…ごめんなさい」
机に勢いよく伏せられ、鈍い音がする。
「謝ったって…私の今までの孤独は埋まらないですよ」
その言葉が、諦めた感情と共に溢れる。
「…わかってます」
冬眞さんは、息を吐いて、テーブルから顔を上げた。
額が丸く赤くなっている。
「この1カ月、一度でも私の気持ち考えたことありますか。」
「そんなに私のことをうるさいと思っているのなら、もういいです、」
と立ち上がり、冬眞さんに背を向ける。
「え、いやそれはちが…っ」
と冬眞さんが立ち上がり、椅子が倒れる。
「言ってほしかった。集中したいから静かにしててほしいって。それだけなのに…」
握りしめた拳のなかで、手のひらに爪が食い込んでいく。
「そんなに難しい…?そんなに私駄目だった…?」
振り返ると、冬眞さんは唇を噛んで俯いていた。
「記事の事があってから、自責が止まらなくて、逃げたくて、何度も何度も、ここから出ていこうと思った」
「出ていけば、手放せるんじゃないかって。でも、できなかった。冬眞さんがいたから…私みたいに孤独に侵されてほしくなかったから。守ってくれると思ってたから…」
あの空白の一ヶ月を思い出して、涙が滲む。
「馬鹿なのは、私の方だった」
と冬眞さんに背を向け、ドアに向き合う。
「もう、無理かも」
涙を拭い、ドアを開けようとしたところで
「ちがう、謝りたいんじゃなくて…っ、」
と冬眞さんの手が私の肩を掠める。
「頭冷やしてくる」
やや強引に部屋を出る。
「えっちょ、まってよ…!」
という声を置いて。
ー
『桐生冬眞突然の無期限活動休止を発表』
そのニュースを見たのは、私が澪の家で寝泊まりを始めて、半月の頃だった。
SNSでは心配の声ばかりが上がり、様々な批判や憶測が飛び交った。
主な理由は体調不良。
詳しくは書かれていないが、世の中が話のネタにするには十分らしかった。
「…」
私のせいだ。
私が、逃げてるから…
自己嫌悪に追われ。
廊下に出て高瀬さんに電話をかける。
数コールで久々の高瀬さんの声とつながる。
『もしもし』
「私のせいですよね。ニュース見ました」
『…冬眞も、孤独を罰としては充分なほど抱えてるよ。』
『もう一回、冬眞の元に戻る気はない?』
「…」
『冬眞のために、一回でいいから、会ってあげてほしい。もう二度と会わなくてもいい。もう一回だけ、冬眞と話を。お願い。』
「…もう会わないって決めてたんですよ」
『そう、だよね。そりゃそうか…』
私のことを無視して、どうにでもなれ、と思っていたのも事実。
冬眞さんを独りにしてしまって心配なのも事実。
「…いいですよ」
会ってから、関係を続けるか、縁を切るか、決めよう。
ー
部屋番号を確認して、インターホンを押す。
ここで積み重ねた関係を、切るか、続けるか、決めなくちゃいけない。
『はい』
普段よりも低めの声。
「お久しぶり、です」
『え、か…っ、え、ちょ』
慌てた声。
そして何かを落とした大きな音。
ドアが開き、寝癖姿の、“桐生冬眞”が出てくる。
「ぇ、な、なんで…っ、」
「懇願されたんです、貴方のよく知る、高瀬倫太郎って人に」
「あいつ…、とりあえず入って」
久々に入るその家は、一言で言うなら、荒れていた。
積まれた服。
溜まった埃。
出しっぱなしの薬。
お酒の缶。
「…」
「あっごめん汚くて…薫さん来るなら片付けたのに…」
「すみません、言ってあるのかと…」
冬眞さんはゴミを拾い、ゴミ箱に突っ込んでいる。
その少し痩せたようにも感じるその背中から、背骨が服越しに見える。
クマも、目立っているような気がして。
「…活動再開の目処は立ってないんですか」
「…立ってないよ、活動を医者に止められてる」
「…なんでそんなになるまで…」
「僕が弱みを見せたら、なにもかも、なくなる気がして…」
「私のせい、ですよね」
「いや、薫さんに依存してた僕のせいだよ、」
「療養になんてなってない。生きてる心地がしない。」
はぁ、と珍しく大きなため息。
「…最後に一つだけ、お願いしてもいい…?」
と、ぽつりと口を開いた。
冬眞さんが最後と言うお願いは、“添い寝”だった。
ー
冬眞さんの匂い。
閉め切った埃が混じっている。
「久々に会って、こんなお願いで、ごめん…ただ、側にいてほしいだけなんだ…」
耳元の冬眞さんの息は、妙に掠れていて、体調の悪さが見え隠れしていた。
この関係に名前があれば。
世に伝わっても恥ではないような、れっきとした、名前があれば、こんなに苦しまなくて済んだのかな。
数時間も経てば、冬眞さんから密かに寝息が聞こえてくる。
顔を向けると、安らかな顔をしていて、少しだけ安心する。
私も、最近眠れていなかった分、寝ようかと、ベッドに重く鎮まる。
深呼吸したところで、
「…んぅ、ごめ、っ、なさ…っ、」
冬眞さんが喋りだす。
ひたすら誰かに謝っている、寝言。
「…ぼ、く…のせきにん…っ、です…」
一晩通して、冬眞さんは喋り続けていた。
「…」
私は、何をしていたんだろう。
冬眞さんがこんなになっているとも知らずに。
ー
結局、少ししか眠れず、3時に目が覚めた。
寝顔を一目見て、冬眞さんに背中を向ける。
正直、この関係のままなら、縁を切りたい。
でも、冬眞さんが、まだ私と付き合いたいと思っているかなんて、わからない。
「…んぅむ、」
冬眞さんが身じろぎして、背中に懐かしい温かみを感じる。
後ろから手を回され、鎖骨に手が触れる。
「…」
冬眞さんの寝息が、早朝の部屋によく響く。
“僕…薫さんと…付き合いたいです…”
あの時、付き合ってれば。
過去なんて無視して、無理やり…。
付き合ってしまえばよかったのに。
埃につられてくしゃみをしたところで聞こえた
「…薫、さん…?…起こしちゃいましたよね、」
という背後の声。
「…ずっと、このままなんですか…?」
「…ん?」
寝ぼけた、声。
「…なんていえばいいんですかね…」
今更、冬眞さんのことで傷つきたくない。
「…なんですか?」
「…もう、嫌になった、というか…、」
「嫌?なにがですか、?」
なにが、と言われてしまっては、言葉に詰まる。
喉に引っかかって、発音の仕方を忘れてしまう。
「無理しなくても、のんびり、話せそうな時に…」
「話せなかったから、今こうなってるんですよ…」
両膝を抱え、小さく縮こまる。
「ごめん…僕、さっきからなんのことか全く…、」
「…冬眞さんは、何も思わないんですか」
「何も、って…なににですか、」
「…」
「話したいなら、ちゃんと言ってもらわないと…、わかんないですよ…」
「…このままは、いや…です…っ、」
「あっ、ごめんね…?」
と、鎖骨から手をどかされる。
「あっ…、」
そうじゃ、ない…
「…朝ごはん食べていきますか?」
「…そういうのが、嫌なんですよ…」
「前から、朝ごはんなんて、一緒に食べてたじゃないですか、」
「…そう、ですけど…」
うまく伝わらなくて、言葉は難しいと、改めて感じる。
もう、覚悟決めるしかないよ。薫。
「…付き合、ってないのに…、恋人みたいなこと…して、ずっと、このまま…なら…っ、…縁、切り…たい、です…」
涙が流れ、枕へと染みていく。
「…ぇ、まって…、そんなこと、考えてたの…?」
「…ごめ…っなさ…、私、が…逃げ、てたから…っ、」
「いや…」
「じゃあ、付き合おう。付き合いたい。」
背後から、起き上がる音がする。
こんな姿勢で受けるのは良くないと思い、重い体を持ち上げ、向き合った。
「僕と付き合っていただけませんか」
と、手を差し出される。
その目は、光に溢れて、希望に溢れて、自信に満ちて、真摯な目だった。
「おねがい、しま…す…っ、」
華奢で、骨ばった、小さめな手を、握った。
「ありがとう。今日から薫さんが彼女?いいの?」
「こちらこそ…」
「大好き。大好きだよ」
と抱きしめられ、肩に埋もれる。
少年のように喜ぶ彼は、国民的大スターであることを忘れてはいけない。
「ねっ…、」
と顔を赤くして、私の顔を覗き込んでくる。
「…キス、したい…」
「えっ、」
キ、キス…
「したことあります…?」
小さく首を振ると、
「じゃあ、僕が初めてだ」
と微笑むと、私をそっと抱きしめ、
「目、閉じててくださいね」
と耳元で囁いた。
素直に目を閉じると唇が湿り、温かくなる。
目の前に、冬眞さんのまつ毛。
唇が離れれば、お互い何も言えず、顔ばかりが赤くなっていった。
ー
薫さんが、かの、じょ…
目玉焼きを箸で割き、口に頬張る姿を見てつくづく思う。
美人だなぁ…
「…はい?」
なんですか?といいたげな顔を上げる。
「あっいや」
え、聞こえてた…?
「何か言いました?」
「いえ特に…」
と自分の味噌汁を覗き込む。
「…本当に僕でいいんですか、」
味噌汁から目を離さないまま、聞いてみる。
「…冬眞さん“が”いいんですよ…」
僕“が”いい…
「冬眞さんこそ、私でいいんですか…?」
「いやいや、僕には良すぎるから…」
と言ったところではっとする。
「お互い様、ですよ…」
という薫さんは、目を逸らして、箸先を眺めていた。
ー
翌日
『…はぁ!?あの流れで付き合うことあるの!?』
高瀬さんに報告の電話をすると、思わず顔をしかめたくなる声量が飛んでくる。
「そうなんですよ…」
「向こうから付き合おう、って言ってくださったので、」
『冬眞良かったなぁ…』
と、向こうからすすり泣く声と、リビングからガタッと音が聞こえた。
「あ、冬眞さんが…」
『そーか、付き合ったのか、』
「あの、そろそろ…」
『あんなに何度も自分のこと思いやって付き合えた、って凄く』
「誰と電話してんの?男の声が聞こえる」
と冬眞さんが眉にしわを寄せ顔を出す。
「あっ、ごめんなさ…っ、」
「どこのどいつだよ、スマホ貸せ」
とやや強引に奪われ、成す術がなくなってしまう。
「は?高瀬?」
冬眞さんの顔がみるみる曇っていく。
その顔を見るのが怖くなってしまって。
私の中の闇の渦ばかりが大きくなっていく。
冬眞さんの声も、高瀬さんの声も、何も聞こえなくて。
私の耳の奥の甲高い音だけが響いている。
そのなかに、消えかけていた誠の声が耳の中を刺す。
“お前が男に好かれるわけない”
“こんなブサイクが”
“他の男と電話なんて”
「する必要ある?」
その声が、誠の声と重なった。
謝らなきゃ。謝らなきゃ。
頭では、今目の前にいる人が冬眞さんだと分かっているのに、身体だけが過去へ戻っていく。
「…ごめんなさい」
何度謝っても、声が止まらない。
「ごめんなさい…」
冬眞さんの顔を見ても、誰なのか分からなくなる。
「…殺さないで…っ、私を…」

