聞き慣れたアラームの音。
窓からの日差し。
鳥のさえずり。
「…んぅむ、…」
うっすら目を開け、瞬きを繰り返す。
見慣れない天井。
感じたことのない肌触り。
あ、そうだ冬眞さんの家に…
「はっ、」
慌てて飛び起きた。
胸に乗っていたきなこが慌てて逃げていく。
かけられたブランケット。
白いソファー。
冬眞さんは…いなかった。
キッチンにも、奥の部屋にも。
その代わり、スマホにメッセージが。
『朝早くから仕事に行ってます。家にいてもらって大丈夫です。一人で外に出るときは気をつけてください』
「…」
朝からお仕事…
私はいつも通り8時に起きたのに…
こむぎにも、きなこにも餌があげてある。
こむぎに近寄ろうとするきなこ。
それを警戒するこむぎ。
そっと近寄り、それぞれ撫でた。
「…ふふ、」
どんなになでなでしても、この寂しさは埋まらない訳で。
私は、どうしたらいい?
ここにいる意味は?
胸の痛みを覚えながら、静かにソファーに座る。
無音の、リビング。
私、どうやって暮らしてたんだっけ。
時計の針の音だけが、妙に遠かった。
Ortusも、カフェも、自宅も。
何もかもが遠くて、居場所がなくなったような。
18時。
1日、なにもしなかった。
その事実にため息が溢れる。
その時、ガチャと玄関が開いた音がした。
「冬眞、さん…?」
ソファから立ち上がり、出迎えた。
そこにいたのは、見たことのない女性だった。
「えと、こんにちは…」
「こんにちは…」
「冬眞さんに頼まれて来ました」
その方が言うには、冬眞さんと一緒に住むにあたって自宅に荷物を取りに帰るのではないか、と冬眞さんに頼まれ、迎えにて来くれたらしい。
一緒に車に乗り、
「ここですよね?」
と声をかけられる。
「…ありがとうございます、」
久々に帰ってきたような自宅。
鍵を差し、慎重にドアを開ける。
「どこ行ってたんだよ」
と暗闇から現れた、誠。
「別に」
「あぁ?そんな態度取っていい訳?」
だるそうにそう口にすると、舌打ちをする。
今日は機嫌が悪いのか。
もはや良い日なんてあったっけ。
そそくさとランドリールームに行き、旅行用バッグに服を詰めていく。
洗面所に行こうとしたところで
「どこか行くのかよ!」
と廊下の壁を叩かれ、より掛かるように道を塞がれる。
「ちょ、どいてよ」
いつもみたいに、胸の奥がギュッとする。
「こんな奴にはお仕置きが必要だなぁー」
といやらしい笑みを浮かべた。
「またやってやろうか?アレ。」
頬に手を添えられ、そう言われるだけで、体がビクッと震えたのがわかった。
「今から行く家のやつに電話かけろ」
「はやく!」
と私が怯えるのをわかっていながら壁を破る勢いで叩く。
「はっ、はい…」
ポケットから慌ててスマホを取り出し、間違えないように冬眞さんにかける。
プルルルル
お仕事中。わかってる。ごめんなさい。
『もしもし』
出たのは、高瀬さんだった。
「あ、あのっ、」
『あ、冬眞?今レコ中で』
誠の視線が鋭く刺さる。
「冬眞?あいつの家に行くのかよ」
とさらに不機嫌そうに言った。
全力で首を振った。
こうするしかなかった。
「じゃあなんでこいつに電話かけてんだよ」
「ま、まちがえた…っ、」
「た、高瀬さん…っ、じゃあね、、」
『もしもし?薫さん?』
と冬眞さんの声。
途端に心臓を冷え切った手で握られたような苦しさが走る。
『高瀬から電話代わりました。準備できた?』
「やっぱこいつの家に行くんじゃねぇかよ」
と顎を捕まれ無理やり目を合わせられる。
「金輪際会いたくないって言えよ」
小声でそう囁かれる。
「いや…っ、」
『もしもーし 薫さん?』
なにも聞こえてない、冬眞さん。
誠の力がどんどん強まっていく。
胸が痛い。血の味がする。
霞んでいく視界。
「早く言えよ」
「とう…っま、さん…、あの…」
『うん?』
言えない。言いたくない。
そんな言葉、絶対に言いたくない…っ。
それでも絞り出した言葉は、
「会いたい…」
逃げ場のない圧。
呼吸が止まったような感覚。
冬眞さんに、届いたかな。
“元気でね”
私はその日、花園を見た。
綺麗な、百合畑。
真っ白なワンピースで、草原に寝転がる。
蒼空に手をかざすと、手が透けている。
天から、手が伸びてきた。
私は、すぐわかったよ。
冬眞さんの手だって。
ぎゅっと私の手を握りしめると、もう片方の手で手の甲をさすっている。
触り方が冬眞さんらしくて、笑みがこぼれた。
◇ ◇ ◇
「心外的ストレスと、軽い栄養失調ですね。」
「はぁ、」
何を言われてもピンと来なかった。
だって薫さんは、急に電話をかけてきたかと思えば、『会いたい』って。
そのあと失神して、まだ目が覚めていないなんて。
気づいたのは、高瀬だった。
薫さんの息遣いや、声の違和感。
仕事に追われていた僕は、そこまで細かく聞き取れていなかった。
“少し、男の人の声がする”
と言っていた高瀬の神妙な表情。
その直後に、何かが倒れる音がした。
声をかけても反応がない。
声掛けを続け、数分後、電話から救急隊の人の声がした。
“自宅で倒れていた”
“救急車で運ぶ”
“今から言う病院に来てほしい”
その後は覚えていない。
そして、先生の話を聞いている今に至る。
部屋から出て、無言で薫さんのベッドに向かう。
繋がれた点滴。
ピクリとも変わらない表情。
なんで倒れたの?なんで電話したの?
誰が救急車を呼んだの?
白い華奢な手を見つめ、
「失礼します、」
そっと握りしめ、手の甲を撫でる。
「…」
きっと目が覚める。そう信じていなくちゃ。
いけないのに…
『会いたい…』
掠れた、絞り出したような声が耳から離れなかった。
「冬眞、消灯時間だって」
と高瀬が僕の肩に手を置きながら言う。
「やだ。目が覚めるまで」
僕の手が震えているのを察したのか、
「じゃあ、聞いてくるよ」
と静かに出ていった。
2人きりになった途端、
目からボロボロと涙がこぼれ落ちてくる。
「…なんで」
声にならない声が喉の奥で震える。
なんで僕は気づけなかったんだろう。
なんであの時、もっと耳を澄ませなかったんだろう。
なんで“会いたい”の意味を、
瞬時に理解できなかったんだろう。
「目、覚ましてよ…っ、ねぇ…。」
返事はない。
でも、手の温度は確かにそこにある。
その温度だけが、
今の僕をかろうじて繋ぎ止めている。
「…薫さん」
名前を呼ぶと、
胸の奥がひどく痛んだ。
こんなに近くにいるのに、
こんなに手を握っているのに。
「…お願いだから、」
震える声が、
病室の静けさに吸い込まれていく。
「ひとりにしないでよ…」
誰もいない空間に、声だけが放り投げられた。
◇ ◇ ◇
Ortus。
ドイツ語で夜明け、という意味である。
夜明け。それは、新たな始まりや、希望を意味することがある。
Ortusは、私が私であるための場所だった。
二人でお店を始め、誠から逃れるための場所だった。
大好きなお酒に囲まれて、一人の自分として在れる場所。
今は、そのOrtusに戻る未来すら想像できない。
当たり前が当たり前ではなくなる感覚。
目の前の冬眞さんの手。
優しく、撫でるように、なんとなく、寂しさを感じる。
もう一度、もう一度だけ、冬眞さんに会いたい。
私は静かに、冬眞さんの手を握り返した。
◇ ◇ ◇
夜、というか、もはや夜明け。
いつの間にか、朝4時になっていた。
手を握ったまま眠りについていた僕は、手を握り返される感覚で目が覚めた。
「と…」
と聞こえ、薫さんの顔を見ると、目が薄っすらと開き、苦しそうな表情だった。
「…ぅ、」
慌ててナースコールを押し、頭を撫で、そのまま肩に頭を押し付けた。
すると、頭を、優しくふわっと撫でられた。
「よかった…っ、ほんとに、よかった、」
安堵から漏れた声はなんともだらしなかった。
◇ ◇ ◇
「この回復具合ならあと2日ほどで退院できるでしょう。体力的にも疲労的にも回復のために経過観察といきましょう。」
と、主治医。
「それと、桐生さん。」
突然名前をよばれ、びっくりする。
「はい、」
「桐生さんに用がある、という男性が来ています。ついてきてもらってもいいですか?」
え、誰、だろう…
「じゃあ、薫さん、また」
と手を上げると、消えそうな微笑んだ顔で頷いた。
病室から出て、数メートルの小さな部屋。
「こちらです。では。」
この部屋に…
ノックをして部屋の中に入る。
「お待たせしました。」
「久しぶりだな。」
と 振り返ったのは、誠、だった。
「…」
「お前が薫から離れられないって聞いたからこういう形にしたんだ。」
正直誠に言いたいことは山ほどある。
ぎゅっと拳を握りしめた時、
「今まで悪かったな」
とそっぽを向いて言った。
「え、」
勝手に、もっと罵声を浴びさせられるものかと思っていた。
「やっと、気づいたんだ。おかしいのは、薫でも、お前でもなくて。俺なんだ、って。」
それから、薫さんにどんなことをしてきたのか、全部聞いた。
「俺はもう、薫の視界には入らないようにする。せっかく薫が選んだんだ。大事にしろよ。」
と下を向いたまま、僕の肩に手を置き、部屋を出ていった。
「…」
複雑な事情、か。
一人で背負うにはあまりにも大きすぎる。
大変だったんだろうな。
だからといってしていいことではない。
薫さんには、言わないことにした。
何もない部屋で一人、頭の中を整理するのに時間がかかった。
◇ ◇ ◇
「…」
目の前で泣きじゃくる子供。
俺の昔着ていた服を着て。
なんで泣いているかなんて知らない。
この荒れ果てた部屋を見て俺に呆れたのか。
この家から出たくて仕方がないのか。
それとも、こんな環境に生まれた自分が憎いのか。
だとしたら、俺もお前と同じだよ。
ガチャリ、と玄関のドアが開く音がした。
「泣き止めよ」
なんて言っても意味がないことなんてわかってる。
「なにこの部屋」
入ってきた母親が床に散らかったゴミを蹴り飛ばし、この部屋を一望した。
泣いている薫が気に入らないのか
「だまらっしゃい」
と頬を叩いた。
そんなことで黙るわけがなく、薫はさらに泣き出すばかりだった。
「うるさい子ね。」
と手を振りかざしたのが見えて。
流石に見ていられなくて。
薫と母親の間に割入った。
バシッ
という音が深夜によく響く。
「邪魔するな、これはこいつのためなんだ」
と俺を払い除け、薫に手を上げていた。
母親は、これが世間一般の家庭だ、とよく言う。
じゃあなんで。
クラスの女子は転んだだけで泣くのだろうか。
先生は泣き止ませるために殴らないのだろうか。
俺には理解ができない。
なんで母親に感謝の気持ちを綴れるのか。
なんでクラスの奴は外を走り回るだけで笑えるのか。何が面白いのかもわからない。
ただ、この人生に飽きていたのかもしれない。
◇ ◇ ◇
朝起きたら、お父さんと朝ごはんを作って。
薫に食べさせて。
学校に行って。
宿題をしてなくて怒られて。
友達に放課後公園で遊ぼう、って誘われても、断って。
走って帰って、薫の面倒を見る。
お父さんが帰ってきたら、一緒にご飯を作って食べる。
「薫、おいしいか?」
って。
お父さんが聞くときだけは薫は笑って。
フォークを握りしめて、必死にウィンナーを突き刺す。
お父さんは、薫が喋らないことを気にしている。
世の3歳は、普通におしゃべりするらしい。
意思疎通も取れる。
でも薫は一言も喋らない。
意思表現は泣くか笑うかだけ。
「元気に育てよ」
わしゃわしゃと薫の頭を撫でた。
母親が帰ってくれば、俺と薫は逃げるように部屋に籠る。
次第に2人の怒鳴り合ってる声が聞こえて。
必死に薫の耳を塞ぐ。
「お前が殴るからだろ!?」
「違うわよ!私なりの愛情表現よ!」
薫は何食わぬ顔で積み木で遊び、崩れたら、積む。
「お前の躾が悪い!」
「それはあんたもでしょ!?」
毎日のように物が飛び交い、ひっくり返り、割れ。
そんな毎日が続き。
「今日からお母さんと暮らすんだよ」
その言葉を薫が理解していたかはわからない。
薫には、お父さんが朝仕事に行くみたいに見えたのかもしれない。
笑顔で手を振って。
いつも通り。だったのかもしれない。
「嫌だよ、行かないで!」
泣きながらそう叫んだ、それが俺の最後の抵抗だった。
「俺も連れてってよ!」
「そうしたいところだが、それはできない。」
俺の前にしゃがみ込み、俺の頭を撫でた。
「元気でな。薫を頼んだよ。」
そう言ったきり。
振り返らず車に乗り。
行ってしまった。
それから薫は毎日のように泣いていた。
母親も帰ってこなくなった。
部屋は荒れ、お父さんに教わった料理の仕方で食い繋いで。
それでも薫が泣き止むことはなくて。
「うるせぇよっ!」
そこから俺は、変わってしまったのかもしれない。
気がついたら薫の頬に手跡がついていて。
俺の手だと理解するのに時間はかからなかった。
お父さんがいなくなった時間が三年、五年と積み重なるたび、記憶が霞んで、お父さんなりの人格や価値観を俺は理解できていた、していた、つもりだった。
それなのに。
俺の中に巡っていたのは母親の血だった。
俺の中の母親を追い出そうとする度、お父さんがわからなくなっていった。
薫が小学生、中学生、と育っていく度。
喧嘩を繰り返して、余計に黙らせようと殴ってしまって。
働きに出てもうまく行かなくて。
奨学金を借りて、大学に行くことにした。
それは俺のキャリアアップのためでもあって、薫と距離を置くという建前だった。
寮に住み込んで、働いて、勉強して。
その間薫は一人暮らしで学校に通っていた。
やっと定期テストが終わってポストに山ほど溜まっていた封筒を開封すると、支払いの催促状がほとんどだった。
薫が住んでる家の。
ガスに、電気に、水道に、こんなに溜まっていたら止まってるに違いない、と、慌てて薫の様子を見に行った。
インターホンを押しても出なくて。
合鍵で開けて入ったら。
中はもぬけの殻だった。
人が住んでいる形跡も、気配もない。
冷蔵庫や洗濯機はコンセントが抜かれていて、ドライヤーも、ベッドもあるけれど埃が溜まっている。
服や靴、美容品だけが消えていた。
どこに…?
事故?
母親が連れて行った?
俺から、逃げた?
◇ ◇ ◇
「薫さん」
と呼びかけながら病室に戻ると、微笑んで迎えてくれる。
「誠でした。」
と言うと、不安そうな顔をする。
静かに席に座り、
「大丈夫です。なにもありませんでした」
目を見て伝えると、足の上で握っていた拳にそっと手を添えてくれた。
「こんなの、バレますよね、笑」
勘付かれないように作り笑顔をするのだが、
「…ごめ、なさい…」
と掠れた声で謝らせてしまった。
「…大丈夫です。」
なぜか、薫さんを安心させるための言葉が思い浮かばなかった。
◇ ◇ ◇
初めての入院がこんな形になるとは。
いつも通り8時に起きて、昼間は一人でテレビを見る。
凛さんや澪が来てくれることもあった。
でも冬眞さんは、来てない。
「…」
突然、涙が止まらなくなる日があった。
理由もわからない。
泣いている感覚もない。
ただ、布団に雫が落ちていく。
その時、仕事を抜けてきたのか、マスクに、サングラスをした冬眞さんが病室に入ってきた。
冬眞さん…
心配してくれてる。
泣き止まなきゃ。
しっかりしなきゃ。
なにも言えず、おまけに手も振り払ってしまった。
絶対、迷惑かけてる…。
こむぎも、きなこもいるのに、一人で…
私、なにしてるんだろう。
迷惑をかけないことに一生懸命で、たしかにごはん食べられてないけど…、
はやく、退院しなきゃなのに
「ゆっくり、薫さんのペースでいきましょ」
いい訳ないじゃん。そんなの。
私ばっかり、わがままで、
迷惑かけて、負担になって。
◇ ◇ ◇
「明日には、退院できそうですね。体力も戻ってきて、かなり落ち着きが見られますし。」
と、主治医。
てかなんで僕が親族扱いされてるんだろうか。
僕でいいのか?
「あの、なんで僕が親族扱いなんですか?」
耐えきれず、聞いてしまった。
「え?」
なんでそんなこと聞くんだよ、と言いたげな表情だな。
「神崎さんのお兄さんが、緊急連絡先及び医療上の意思確認を桐生さんにお願いしたいと申し出がありました」
「は?」
「関係性は恋人だとお聞きしましたが」
「いえ、」
いや、否定するのも変か?
でも付き合ってないよ???
「僕の、片思いです…」
なに言ってんだよ。
「あっ、そうなんですね…」
気まず…っ!!
◇ ◇ ◇
次の日の、病院までの道のり。
運転する高瀬が一言。
「冬眞ってさ、いつ告白するの?」
「ングッ ゲホッゴホッ」
飲んでいたお茶が気管に入ってしまったではないか。
「は、はぁ、なんて?笑」
恥ずかしさなのか、聞こえなかったふりをすると、
「告白だよ。こ・く・は・く」
にやにやとしたその殴りたくなる顔をバックっミラー越しに向けてくる。
「もう薫さんなしじゃ生きられないくせに」
「うるさいっ!」
認めたくなんて、なかった。
「じゃあ俺車で待ってるから。」
と言ってサングラスをかけていた。
今日、曇りなのに。
病室にノックをして入ると、
「あ、冬眞さん」
と振り返りざまにふわりと広がるワンピースの裾。
「準備できました?」
「はい!」
と久々に見た、笑顔。
よかった、なんか泣きそう…
「いきましょ!」
と旅行用バッグを持って僕に近づいてくる。
「荷物、持ちます」
「ありがとうございます!」
二人で並んで廊下を歩く。
なんか、今日テンション高くてかわいい…
え、俺今かわいいって思った?
「冬眞さん?」
「…はい?」
「聞いてました?」
え、何か話してた?まじ?
「聞いてません、でした…」
と足元を眺める。
「やっぱり。」
「すいません…」
「もう一度お願いします…」
顔を上げて薫さんの方を見ると、
「えー、どうしよっかなー」
と顎に指を添え、考える素振りをしている。
「冬眞さん?」
「はいっ」
「…ふふ、」
口元を押さえ、いつもの薫さんの笑い方をする。
聞き逃すまいと耳に全集中している、のに。
「ぼーっとしてたからちょっかいかけただけです笑」
胸になにかが刺さったような感覚。
それくらい、僕はダメージを食らったのだろう。
「だって今日の冬眞さん変なんですもん」
「え、そう…ですか?」
と思い返しながら病院の自動ドアをくぐった。
春の風が桜の花びらを連れてきて、薫さんのつむじについた。
「あ、」
「綺麗…」
そう無意識に言いながら手を伸ばしていた。
…俺今なにか言った?
というか、なに、その表情…
今までにないくらい顔も耳も赤くて、そっぽを向いている。
「あっ、あれ、高瀬さんですか?」
と薫さんが指した先に車に乗ってサングラスをしている高瀬がたしかにいた。
「いきましょ」
と薫さんは高瀬に手を振りながら歩き出した。
◇ ◇ ◇
無事に家に到着し、リビングのドアを開けると、きなこが飛び出してきて、撫でて!と飛び跳ねてくる。
存分に撫で、抱え、リビングに入ったところで
「これ、僕からのささやかな退院祝いです」
「え、なんですか?」
その声が嬉しそうで、
期待してるみたいで、
渡してよかったと心から思った。
「開けてみてください」
気に入ってくれるかな。つけてくれるかな。
「色も可愛くて、いい香りって話題なんです」
本当は、
“あなたに似合うと思ったから”
なんて言えるわけがない。
「つけてみてもいいですか?」
その言葉に、
胸が一瞬だけ鳴った。
「もちろん。」
薫さんがリップを塗る。
その仕草は綺麗すぎた。
「え、すごいいい香りですね!嗅いでみてください!」
袖を引っ張られた瞬間、
心臓が跳ねた。
え、近い_
背伸びされて、
唇が俺の顔に近づいてくる。
甘い香りがふわっと広がって、
頭が真っ白になった。
「え…っ、ちょ…」
思わず口を押さえてそっぽを向く。
これ以上見てたら、本当に理性が飛ぶ。
耳が熱い。
顔も熱い。
隠せてない。
「そんなことされたら、キスしますよ?」
本音が漏れた。
止められなかった。
薫さんの目が大きく揺れる。
「え、えぇっ!?」
可愛い。
そんな反応されたら余計に。
「別に、唇じゃなくてリップを近づければいいじゃないですか」
そう言いながら、
本当は、
“さり気なくキスしてしまえばよかった”
なんて、思ってしまった。
「いい、ですよ?」
「僕がだめです。まだ、責任取れないので。」
ちゃんと、取るつもりではある。
その初心な揺れ動く黒い瞳に、きちんと目を合わせる。
「どんなに冗談でも、この状態で、キスしていいなんて言っちゃだめです。とくに付き合ってない男とは。とくにです。」
と言うと、しゅんとした表情を見せ、途端に申し訳なさが走った。
「失礼します」
そっと抱きしめ、
「ごめんなさい、キツく言い過ぎました。」
と頭を撫でる。
「私こそごめんなさい…冬眞さんのことなにもわからずで、そんなに嫌がられるなんて…っ、」
と泣きそうな声で言われる。
「怖いんです。」
抱きしめる力を、壊さないように、少しだけ、強くする。
「怖い…、?」
「僕自身が怖いんです。」
やがて薫さんは裾をつかみ、僕の肩に頭を預けてくれた。
すると、きなこが構えと言わんばかりに僕の足にすがりついた。
◇ ◇ ◇
薫さんはお風呂に入り、
「あがりましたー」
と薫さんが頭にタオルを巻いた状態でリビングにやってくる。
僕の隣に座ると、なんの番組ですか?とテレビを興味を持っている。
この番組に僕が映ることはないだろうけど、知られたら、なにかが、崩れるような気がして怖かった。
ぼんやりとテレビを眺め、正体がバレるのはいつだろうと考えていた。
薫さんの様子見期間と、引っ越し先の手配が終わるまで、仕事のことで迷惑をかけることが多いはずだ。
長くて、3ヶ月と見積もっている。
僕の願望を入れたら、少なくとも3ヶ月は一緒に住みたい。
言うべきか、言わないべきか。
この状況こそが、信頼に傷をつけるのでは。
「冬眞さん?」
「…はい?」
考え事をしていると、顔を覗き込むように薫さんに呼ばれた。
「スマホ鳴ってますよ」
と僕のスマホを指す。
うそ、鳴ってた?
「私、髪の毛乾かしてきますね。」
とタオルをくるくるとほどきながら脱衣所に行った。
◇ ◇ ◇
今まで浮かれすぎてた。
しかも電話の名前見た。
誰かも聞かない。
どんな関係かも聞かない。
内容も聞かない。
戻ったら不機嫌になっているかもしれない。
いつの間にか髪が乾いてしまった。
この状況では、ここにいる意味がない。
「電話終わり…ました、?」
と違和感を覚えさせないように、いつも通り。
冬眞さんは一瞬不思議な顔をしたあと、
「はい。大丈夫でした」
と言った。
冬眞さんの座る席の右斜め前に座り、目線を合わせないようにする。
心臓が刺され、リップを塗る。
落ち着こう…
「なにか、その…」
と声をかけられる。
びっくりして、リップを落としてしまう。
気づかれる前に、拾う…っ、
“他人に物は拾わせない”
一目散に手を伸ばした。
でも転がったリップは、すぐに冬眞さんの手が拾った。
「ごめんなさい!」
と冬眞さんの手からリップを奪う。
「…え、」
なんて言えば…
「やっぱりそのリップ、すごく似合いますね」
開いた口が塞がらない、とはこういうことか。
喉が乾く、息をしている感覚がする。
「あれ、僕なにか変なこといいました?」
「…いえ、」
やっぱり、冬眞さんは冬眞さんだ。
想定できる行動とはちがう行動をしてくる。
誠じゃない。見れば分かる。なのに…
「失礼なことして、すみませんでした」
ゆっくりと頭を下げた。
「え?なにが?」
突然頭が真っ白になり、なにから話せばいいのかもわからなくなってしまった。
だから、一言一句、ドライヤーをしながら考えていたことを、全部、話した。
途中、言葉が詰まっても、冬眞さんは席に座ったまま、顎も掴まず、手もあげず、遮らず、否定もせず、真剣に聞いてくれた。
「…っていう経緯で、先ほどのような行動を取っていました。」
話し終わったあとの沈黙。
「…薫さん、」
なんで、冬眞さんがそんなに悲しそうな表情するの?
「僕じゃ、だめですか…?」
なにを、言っているんだ…?
◇ 次の一杯 ◇
「僕、不眠なんです。」
