珍しく雨が降り続く日だった。
空気は暗く、雫が傘に当たる音と私の足音が響いている。
雨は嫌いじゃない。
悲劇の主人公になれてるようで、常に明るさを出せない私と、どこが親近感をもっていた。
みゃー、
雨の中に、猫の鳴き声が混ざったような気がした。
思わず足を止めると、足元に段ボールに入っている子猫がいた。
小さい、濡れて、凍えている、三毛猫。
段ボールには、『拾ってください』の文字。
捨て猫、か。
目線を合わせるようにしゃがみ込み、
「ごめんね、私にはどうしようもできないの。」
と伝えた。
マンションはペット禁止。
バーでも飼うことは厳しい。
その初心な瞳に魅了されてしまい、できれば見捨てたくないと強く思ってしまう。
連れて帰ったら、私まで大家さんに捨てられちゃうよ…
静かに段ボールに屋根を作るように傘を置いて、立ち去る時に、鳴き声が聞こえたような気がして。
これは、猫ちゃんのためなんだ…。
振り返ったら…だめだ。
そう言い聞かせないと、足が止まってしまう気がしたから。
みゃ…
と聞こえ、思わず振り返ってしまう。
段ボールから出てきて、必死によろよろと私の後を追っている。
しゃがみ込み手を伸ばすと、私の手に、こて、っと頭を預けた。
そして、そのまま動かなくなってしまった。
どうしよう…
濡れた髪が顔に張り付き、耳に掛け、かき上げたタイミングで、
「え、薫…さん、?」
と聞き覚えのある声がする。
立ち上がり振り返ると、案の定冬眞さんだった。
帽子に、マスクをして傘を差している。
「傘、ないんですか」
と自身の傘に私を入れてくれた。
「つい、忘れてしまって…」
自分でもわかる。違和感しかない苦笑いだ。
「流石に傘なしは体冷えちゃいますよ。僕の家すぐそこなんで、もしよかったら…」
と彼が指した先に大きな高級マンションがあった。
「私が行っていい場所じゃないですよ…、」
と気づいたらそう言っていた。
「僕が来てほしいんです。」
胸に苦しさでもない、見知らぬざわつきを覚えていて。
「…でも、私…そんな…、」
過去の男性のお家に行ったことのある経験と一緒に、芋づるのように思い出したくない過去が掘り起こされる。
「私、男性のお家あまり行ったことなくて…、」
グラスが顔に向かってきて、思わず目を閉じる。
こうして幻覚を見ることにも慣れてしまっていて。
目の前には、雫が垂れるたびに広がる波紋。
未知の部分に自ら踏み込む勇気なんて…ない。
「そうなんですね…無理にとは、言わないですけど」
と目線を伏せた。
「…いい、ですよ…」
◇ ◇ ◇
「ここです」
開いたドアの向こう側は、落ち着いた雰囲気の部屋だった。
「どうぞ?」
入って、いいのかな…
男性の家には行ったことがあるけれど、その大半が誠の家で。
あのいやらしい目つき、触り方、言い方。
ここで、思い出してしまうなんて。
すべてが嫌なのに、嫌だって言えない。逆らえない。逆らったら…
「薫さん?」
名前を呼ばれてハッとする。
誠じゃないのに…。冬眞さんなのに…。
「ごめんなさい、ちょっと…」
と言うと彼は不安そうな顔をして、
「やっぱり、嫌ですよね…、ごめんなさい、強引に連れてきてしまって」
ちょっと待っててくださいと言って彼は中に入っていった。
ドアが閉まる瞬間が、誠に締め出された時のようで、立っているのが辛くなってきて、壁に沿う様にしゃがみこんだ。
「薫さん、?」
彼はすぐに出てきた。
「大丈夫ですか?」
そして頭にタオルをかけてくれた。
「大丈夫、です…。苦しくなってしまって…」
自分でもびっくりするくらい掠れた声だった。
「難しかったら、家まで送りますよ。」
「…すみません、」
自分でもどうしたいのか分からず、謝ることしかできなかった。
震えた手の中で猫ちゃんが震え、自分の無力さに気が付く。
「…怖かったのに、連れてきてしまった僕の責任です」
と唇を噛んだ。
「…立てますか?」
と手を差し伸べてくれた。
小さめではあるけれど、どちらかといえばスラッとした手だった。
手を重ねると、ぐいっと引っ張られ、立ち上がった。
「どうしますか?寒いし、少しだけでも休んでいきますか?」
「…迷惑でないなら…、」
「全然…っ!迷惑だなんてそんな1ミリもないですよ」
「…じゃあ、少しだけ…」
と言うと、中に案内してくれた。
「ここ、座ってください。何か飲みもの持ってきます」
と奥に行ってしまった。
玄関だけでも充分温かく、冬眞さんに誠を重ねた自分を責めた。
貸してもらったタオルで猫ちゃんを包み、少しでも温めようと試みる。
そして自分の髪からぽたぽたと雫が垂れていることに気が付き、持ち合わせていたコームとクリップでひとまとめにし、お団子にした。
やがて奥から、
「お、ここにいたんだねぇ。いい子にしてた?」
という冬眞さんの声が聞こえた。
「おーよしよしよし」
としているあたり、ペットだろうか。
「お待たせしました」
と戻ってきた冬眞さんの手には湯気が立ち上るマグカップ。
そして足元には白とベージュの小型犬がいた。
私を見るなり、怖いのか、冬眞さんの足にスリスリと甘えている。
そんな事を思い返しながらマグカップを受け取ろうとした時、ほんのちょっと指先が彼の指に触れた。
「すごいなぁ、薫さんは…」
と言われ、目線をマグカップから冬眞さんに戻すと、耳が赤くなっている冬眞さんがいた。
「なにがですか、?」
冬眞さんの目線が私のお団子に触り、
「いや、なんでもないです」
と言い口を押さえながら目を逸した。
お団子、変だったかな…
取ろうとすると
「あっ、そのままで大丈夫です。ありがたいので…」
といわれる。
「あ、そうですよね、玄関濡れちゃいますもんね」
と髪から手を離した。
「…さっきは、すみませんでした、。」
心配させてしまって。タオルも貸してもらって。
「私…冬眞さんに、誠を重ねてしまって…、」
冬眞さんが、目を丸くするのがわかった。
「冬眞さんは…ちがうのに…、」
言葉が喉の奥で詰まり、息が震えた。
視界が歪み、自分が泣いていると理解した時には涙が頬を伝っていた。
◇ ◇ ◇
じゃあ、
「僕の家すぐそこなんで…、もし良かったら…」
と少し向こうに見えるマンションを指す。
薫さんは遠慮がちに首を振り、「少し、怖いです」と小さく言った。
それでも、このまま雨の中へ返す方がよほど心配だった。なぜか猫ちゃんを手に乗せているし。
家まで連れて、ドアを開けて入ってもらおうとすると、薫さんは目を伏せて、感情をなくしたような表情をしていて、
「薫さん?」
と呼ぶとハッとしたように不安そうな、切なそうな表情をした。
「ごめんなさい、ちょっと…」
無理に連れて来たことを後悔した。
怖がらせていたのは、確実に僕だったのに。
せめて、風邪を引かないようにタオルを…と思い、抵抗がありながらもほんの少し玄関の外で待っててもらった。
強引に中に入れるのは違うと思ったから。
タオルを持って外に出ると、薫さんは壁に沿うようにしゃがんでいた。
呼吸が浅く、震えている。
「…難しかったら、家まで送りますよ。」
薫さんに無理はしてほしくない。
でも一人で帰って体調を崩してほしくない。
「…怖かったのに、連れてきてしまった僕の責任です。立てますか?」
と手を差し伸べると少し迷ってから手を取ってくれた。
少しだけ、うちに寄ってくれるらしい。
温かいお茶を出したのだが、貸したタオルで猫ちゃんを包んでいて、髪はお団子になっていた。
「すごいなぁ、薫さんは…」
どうしてこんなに僕を虜にするのだろうか。
つい、彼女がお団子を取ろうとするところを止めてしまった。
「…さっきは、すみませんでした…」
とマグカップを覗きながら言われた。
「私…冬眞さんに、誠を重ねてしまって…、」
僕に、誠を?重ね、た…?
じゃあ、僕じゃなかったのか。
「冬眞さんは…ちがうのに…、」
彼女の頬からは綺麗な涙が伝っていた。
今すぐ抱きしめたかった。
「とりあえず、座りましょう?」
と玄関の段差に一緒に座るように促した。
静かに頷くと、僕の隣に座ってくれた。
何も言わず嗚咽ばかり発する彼女に触れずにはいられなくて、冷たい、華奢な白い手を握ろうとした時、彼女が一瞬固くなったのがわかった。
「…っあ、ごめんね…」
彼女なりの防衛なのだろうと感じ、握ろうとした手を引っ込めた。
僕は、何もできないのだろうか。
彼女の息が整ってきた頃、彼女は立ち上がって礼を言い、玄関を出ようとしたので、僕は傘を渡した。たしか、忘れていたはずだから。
「その猫ちゃん、だいぶ弱ってますね」
と言葉にしたところで、胸が痛くなる。
「動物病院行きますか…?すぐ近くにあるので」
僕が飼っている犬、きなこの行きつけである。
病院という言葉に反応したのか、きなこがリビングに走っていった。
薫さんは不安そうに猫ちゃんを眺め、
「一緒に行きますか?」
と聞くと、小さくうなずいた。
車の鍵をリビングに取りに行ったところでついでに服も取ってくる。
「これ、着てください。裾足りないかもしれませんが。」
と僕のズボンとパーカーを差し出す。
「僕のでよければですけど。濡れたままだと冷えちゃうので」
彼女は驚いた顔をしてまじまじと見つめた。
◇ ◇ ◇
「ここです。いつも僕のきなこがお世話になってるんです」
行きつけの動物病院は車で数分だった。
いつもなら歩いていくのだが、今日は薫さんも弱っている猫ちゃんもいるので、車に乗ってもらった。
「あ、桐生さん、お久しぶりですね」
と受付の人に声をかけられる。
「猫ちゃんを診ていただけますか」
と薫さんが抱える猫ちゃんを見せる。
「はい、大丈夫ですよ。お待ちください」
と診察券だのカルテだの準備していた。
診察の結果、外傷と脱水があるものの、命に別状はないらしい。
座る薫さんの膝の上にタオルに巻かれた猫ちゃんがいる。
「元気そうでよかったですね」
と不安そうに猫ちゃんを見つめる薫さんに声をかけた。
◇ ◇ ◇
「…そうですね」
とふわふわの小さな頭を撫でた。
「しばらくは通院が必要らしいですね。」
ととなりに座る冬眞さん。
これから、引き取ってくれる人を探すか…、
引っ越して、飼うか…。
「…」
どうしよう…凛さん確か猫アレルギーだし…
「…マンションで飼えたらよかったのに…、」
とため息交じりに言ってしまった。
「マンション、ペットだめなんですか」
と冬眞さん。
引っ越すにもそれまでの間…
「僕が預かりましょうか?」
「え、でも…」
「一匹二匹大差ないでしょうし。」
絶対大差あるよね…
「迷惑、ですよね…、?」
「いやいやそんな。大丈夫です。」
「ですが…」
「僕の家の環境のほうがこの子にとってもいいと思うんです」
と私の膝の上の猫ちゃんを優しく撫でた。
「…じゃあ、お願いしてもいいですか…?」
「もちろん。この帰りに買い出し一緒に行きませんか?」
と言われ、本当に預かってくれるんだと実感できた。
動物病院からの帰り道。
降った雨は信じられないほど爽やかな晴れに変わっていた。
冬眞さんの車に乗って近くのペットショップに向かった。
◇ ◇ ◇
店内に入ると、明るい蛍光灯の下に、色とりどりのペット用品が並んでいた。
冬眞さんについて行って、店内を歩き回ったところで
「よし、こんなもんですかね。」
カゴの中は半分ほど埋まっていた。
「じゃあ僕払って来ちゃうので先に車戻っててもらっていいですか?」
と鍵を差し出される。
「、っあ、はい。あとでお金お返ししますね」
受け取りながらそういったのだが、聞こえたのか聞こえてないのか、そのままレジに行ってしまった。
車に着くと後部座席にいる猫ちゃんはまだ眠りについていた。
そっと持ち上げ、助手席座り、膝の上にのせた。
優しく撫でているうちに、
「おまたせしました」
と冬眞さんが車に戻ってくる。
「薫さんのお家まで送って行きましょうか?」
とエンジンをかけながら言われる。
早く決めなければ。
考えようとすればするほど手が震え、思考が停止する。
「薫さん」
ふと、優しい声がした。
「見てください、虹が出てます」
と言われ、顔を上げると、たしかに目の前に虹があった。心の重みがふっとなくなるのを感じた。
冬眞さんに顔を向けると、いつの間にかかけていたサングラスの下から虹を覗き見していた。
「冬眞さんのお家、一緒に行ってもいいですか?」
と呟くと、そう言うと思っていなかったのか、目が丸くなり、ふっと笑ったあと、
「もちろんです」
とサングラスを掛け直した。
車が発進し、
「猫ちゃんの名前どうしますか?」
と聞かれ、少し悩む。
「…」
ふわふわな毛並み。
橙と茶色と、白。
「…こむぎ、とか」
「こむぎ…いいですね、かわいい」
と赤信号なのか手を伸ばして、猫ちゃん…こむぎを、撫でた。
◇ ◇ ◇
緊張しながらついていくといつの間にかドアの前に戻ってきていた。
冬眞さんが荷物を持ったまま静かにドアを開けて、
「どうぞ」
と中に入るように促してくれる。
「おじゃまします…」
恐る恐る玄関に足を踏み入れると、先ほどは目につかなかった棚のピックや薬、眼鏡があった。
猫ちゃんをタオルごと木の床に置こうとしゃがんだとき、ぽろっとなにかが落ちた。
玄関のタイルに音立てて落ちた銀色のそれは、
「GPS…?」
と呟いた冬眞さんは驚きを隠せないようで。
静かに拾い上げ、手の中で観察していた。
「どうしてこんなところに…」
怖くて、声なんかまともに出なかった。
今まで、監視されて…
家とかバレて…
「とりあえず上がりましょう」
と、冬眞さん。
冬眞さんがペットショップで買ったものをリビングに運んでいくのを見ていることしかできなかった。
「立てますか?」
冬眞さんは猫ちゃんを抱えたまま、同じように手を差し伸べてくれた。
「どこでもお好きなところ座ってください」
と案内されたリビングは、とてもと言っていいほど、Ortusと雰囲気が似ていた。
違うところと言えばOrtusの方が薄暗いくらいだ。
明るく、木を基調とした家具に囲まれ、温かみのある雰囲気の中で、猫ちゃんが乗っている白く見た目からふわふわしているソファーが印象的である。
足元に違和感を感じ、目をやると、あのわんころがいた。
たしか、きなこ、って名前だったっけ。
必死に私の足に頬ずりしている。
こんなに愛しいはずの瞬間なのに、胸が痛かった。
どうして私は素直に手を伸ばせないのだろう。
心が震えたままで、見下ろすことしかできなかった。
この世界に一人、取り残されたみたいに。
私は今どんな顔で見下ろしているのだろうか。
冬眞さんはどんな心情でこの瞬間を見るのだろうか。
「犬、苦手ですか?」
と冬眞さんが足元のきなこを撫で、私を見上げながら聞いてきた。
「…いえ、。」
ただ、きなこからも、冬眞さんからも目を逸らすことしかできなかった。
「少し、お話しましょう?」
と言われるがまま、ソファーに座った。
向かいのソファに座った冬眞さんは私にマグカップを差し出した。
しーんと静まり返ったリビング。
冬眞さんは静かにマグカップを口に近づけ、伏し目がちに眼鏡をくいっと上げた。
その仕草が妙に印象的で、目を離せずにいたら、冬眞さんと目が合った。
ふっと微笑んだあと、
「飲まないんですか?」
とマグカップを指される。
「…ぁ、」
湯気が立つマグカップにそっと手を添えた。
揺れ動く水面に、固い表情の私が映っている。
「GPSなんですけど、」
と冬眞さんがぽつりと話し始めた。
「仕掛けるのってすごく難しいんですよね。」
「薫さんに近ければ近いほど仕掛けやすいんですよ。」
「荷物に触ったりしても、近くにいても不自然じゃない人。」
「そして、薫さんを縛っている人。」
「これは、僕が処分しますね。」
とテーブルの隅に置いた。
「…、」
そう言われても、震えが止まらなかった。
体が、私が…、『安心』を拒んでいる。
GPS…
一体誰が…
いつから…?
なんの目的で…?
◇ ◇ ◇
「…んぅ、」
重たい瞼を持ち上げた時、リビングには誰もいなかった。
机の上で組まれた腕。
横には飲みかけの冷めたお茶。
ソファに背を預け背伸びをしたところで頭痛がして、反射でこめかみを押さえた。
「はぁー、」
飲みかけのお茶を飲み干し、連絡が来ていないか確認する。
『奥の部屋で仕事をしているので起きたら連絡ください』
と冬眞さんから2時間前にきていた。
部屋をよく見ると猫ちゃんの生活の準備が整っているではないか。
私2時間以上寝てたんじゃ…
ついでに、誠からも確認する。
『今どこ?』
これは…、あとでいいか。
今返す理由ないし。
とトークを開かずに既読をつけない理由を探していると、
『ねぇここどこ?行ったことないよね?』
とメッセージが足される。
『そこマンションだよね?』
『誰のマンション?』
やばいやばい
てかなんで居場所知って…
と悟った瞬間、インターホンが鳴った。
一度ではなく、3回、5回と数が増していく。
怖い、怖い…助けて…っ、
スマホを放り投げ、耳をふさぎ、
光も入らぬよう目を固く閉じる。
手も体も震える中で聞こえてきたのは
「貴方誰ですか?警察呼びますよ?」
という、冬眞さんの低い声だった。
インターホン越しに言い合い、暗闇の中で響く怒鳴り声。
ひどい耳鳴りがする。
その恐怖をほどいたのはそっと背中に添えられた手だった。
「もう大丈夫です。」
背中や耳元に感じる温もり。
「吸ってー、吐いてー、」
目を開けても意識が朦朧としている感じがする。
「まだぼーっとしますね」
と言いながら優しく背中を撫でてくれる。
耳に入ってくる、優しい、体に染み渡る歌声。
歌のテンポに合わせて背中を触るようにぽんぽんしてくれる。
歌詞が正確に聞き取れない。
それでも、たしかに私の心は和んでいった。
「怖かったですね。」
頷くことしかできず、瞳からでてきた温かいものが頬をボロボロと伝い、手の甲に落ちていった。
「今日はもう、泊まっていってください」
「…え、」
袖で涙を拭き取りながら、冬眞さんの顔を見る。
「大丈夫です。GPSをつけられてた身なんですから、今から帰るほうが危ないでしょう?」
「…でもっ、」
「あ、着替えとかないのか」
「じゃあ、今日は2人で風呂キャンして、明日持ってきて入りましょう?」
「今から一人で入るのも怖いでしょうし」
「なんせ他人の男の家なんでね」
と冗談めかした声で落ち着ける選択を与えてくれる。
「どうですか?共犯です」
とにやりと笑った。
「共犯…」
一人じゃない。
その証明みたいで嬉しかった。
「…賛成です」
◇ ◇ ◇
「一応、このトレーナー貸します。」
と出てきたのはグレーのトレーナーとズボンだった。独特なもちもち生地が心地良い。
「いま着てるのは…濡れた服と一緒に洗濯しちゃうので椅子にかけといてください。」
「何から何までありがとうございます」
「僕は奥の部屋で仕事してから寝るので。ソファでも、寝室でもお好きなところで寝てくださいね」
「はい、おやすみなさい」
「なにかあったら呼んでくださいね」
と言うと、冬眞さんはリビングを後にした。
猫ちゃんと寝たいと考えていたので、着替えた後にリビングのローテーブルをずらし、カーペットの上で寝ることにした。
ふわふわの、触っていて飽きない様な触り心地の良さで、充分に寝られる気がした。
こんな環境でも、私の脳は思考を止めなかった。
GPSこと。誠のこと。Ortusのこと。
すべてがこれからどうなるのか、不安が巡った。
落ち着きあるこの部屋すら、広い部屋に一人であるという状況が、孤独を感じさせる要素としては充分だった。
猫ちゃん…こむぎ、は…ソファの下で蹲ってびくともしない。
冬眞さんはまだ起きてるかな。お仕事してるかな。
そっと起き上がり、教えてもらった奥の部屋に向かった。リビングを出て、音を立てないようにその部屋に向かう。
ほんの少し覗いて、仕事してたら、戻る。それだけ…
ドアノブに手をかけ、慎重に開け始めた時、突然ドアがぐいっと引っ張られ、
「…っ!?」
転ぶ。そう思った途端の
「んわっ!」
という冬眞さんの声。
バランスを崩し、冬眞さんに倒れ込んだ。
肩も服も掴み、冬眞さんのガッチリさを感じてしまい、恥ずかしくなる。
はっ、と反射で慌てて突き放すように離れ、顔や、触れていた胸や腕がじわじわと熱くなる。
「すみません、いると思わなくて」
と伏し目がちに冬眞さんが言う。
「…えっと、その…、」
「怪我、ないですか?」
「はい、大丈夫です」
落ち着きを取り戻してから、段々と部屋の状況が見えてくる。
机の上のパソコン。マイク。
ジンジャーエールのペットボトル。
そして数多くのギター。
椅子にかかったブランド物のパーカー。
「…」
私の知らない、冬眞さんの一面…
これが、仕事…?
「話すには、まだ時間がかかるんです。隠してたみたいで申し訳ないです」
「あ、いえ…」
知らなくても、いっか。
霧が全部晴れたら見えなくていいものまで見えてしまう気がするから。
「なにかご用でしたか?」
「どうしても眠れなくて…。冬眞さん何してるかなって…、」
「そうでしたか。」
と呟いたあと、なにかを考えていた。
「とりあえず、リビングいきます?」
とリビングに行こうとする冬眞さんの背中。
その時私は、無意識に冬眞さんの袖を掴んでいた。
そっと振り返った冬眞さんは、何も言わず、そばに来てくれた。
そんな冬眞さんの顔も見れず、足元ばかりを見ていた。
「失礼します、」
と呟いたあと、頭にそっと手が乗せられ、優しく髪を触るように撫でられる。
「綺麗な髪…」
と目を細めながら息を落とすように呟いていた。
「温かいものでも飲みますか?」
と聞かれ、小さく頷くと視界の髪が揺れる。
「じゃあ、行きましょう」
とゆっくりと歩き出した冬眞さん。
その反動で、つかんでいた袖が離れた。
冬眞さんは何も見ずに、私の手を取った。
彼の耳は赤く、私の鼓動も止まらなかった。
温かい冬眞さんの手は、握りつぶすわけでもなく、そっと、一人じゃないことを証明するには十分だった。
◇ ◇ ◇
ソファに座り、何もせずぼーっとしていると、きなこが膝に乗ってきて、撫でてとおねだりしてくる。撫で方がよくわからず、なぜか羨ましく感じてしまう。
「フォームミルクです、どうぞ」
とマグカップが出てきた。
「お熱いので気をつけてくださいね」
と言いながら隣に座った冬眞さんは、お茶が入ったマグカップを持っている。
一口含むと牛乳の甘い味がする。
優しい、泡の味。
何も考えず、マグカップの中を見つめる。
「 … 」
そしてもう一口。
泡と共に温かい牛乳が流れ込んでくる。
落ち着く。
この4文字以外で表し様がない。
「あの、もしよかったら…、」
と冬眞さんがマグカップを覗きながら声をかけてくる。
「薫さんの引っ越し先が見つかるまで一緒に住みませんか…?」
「えっ、」
思いがけぬ提案に、思考が停止する。
住む?一緒に?
「いやっ、その…僕、仕事で帰るの遅いとかザラにあるし、ついつい部屋で仕事に没頭しちゃう時もあるし…」
私の膝の上のきなこが手の甲を舐めた。
お世話が大変、という意味だろうか。
「病院ではあんなに強がったこと言っちゃって、でも頑張って引き取り先見つけてね、って言うのは無責任な気がして…」
「…いいですよ、」
「えっ、ほんとに…?」
と丸くなった目をこちらに向ける。
その頬が染まりつつあることに、私は気が付かなかった。
「…お世話、全て冬眞さんに任せるわけにいかないですし、できることがあるなら…」
「ありがとうございます」
と口角を上げた。
いつの間にか飲み終わっても尚、マグカップは温かいままだった。
テーブルに置き、そっと背もたれに寄りかかった。
静かな夜だった。
私にとって、初めて寂しくない夜だった。
◇ ◇ ◇
◇ 次の一杯 ◇
「会いたい…」
