このカクテルを、君と。

なんとなく、制作に息詰まっていた。
メロディも歌詞も浮かんでくるのに、何故か気に入らない。

珍しくジンジャーエールも飲み飽きて、時刻はちょうど25時を回ったところだった。

散歩にでも行こうかな。

なんとなく、ふとそう感じて、眼鏡と、マスクをした。

玄関の外に出ると、冬の寒さで凍えた空気で身が締まっていくみたいで、気持ちが良い。

透ける白い吐息が存在価値を問いている。

真横を、腕を組み合った男女が通り過ぎ、
「カシオレおいしかったね〜」
「あそこのお酒は何でもおいしいよね」
と幸せそうに笑う。

お酒…

寄ってみようかな。

『Ortus』と書かれた看板の横の洒落たドアを開け、中に入った。

「こんばんは」
と出迎えてくれたのは、一言で言うならば美女だった。腰近くまで届くその艶のある黒髪は、店の暖色のライトに反射し、色気を感じさせた。

「カウンターへどうぞ」
と誰もいないカウンターを指した。

ウイスキーを彷彿とさせる薄暗い暖色のライト。
高級感のある木目のカウンター。
隠れ家のような赤いレンガ仕立ての壁。

奥のテーブル席には関係は分からないが男女が座っており、ほんの少し話し声が聞こえる。

おとなしくカウンターに座ると、出迎えてくれた彼女はカウンター越しに「店主の薫です」と教えてくれた。

「お決まりですか?」
耳に馴染むいい声。

「えっ…と、」
メニューかなにかでてくるのかと思っていた僕は、返事をするまでに時間がかかった。

澄ました顔で彼女に見つめられてしまっては、
「お酒、あんまり飲まなくて…」
弱々しい声しか出なかった。

恥ずかしいあまりで。
どんな反応をされるだろうと怖気づいていたのだが、
「そうなんですね」
反応は思っていたよりも冷淡だった。

それから、普段お酒を飲むシーン。
好みの飲み物。果物を聞かれ、それぞれ、一人、ジンジャーエール、みかん、と答えると

「わかりました」

“直感”で、僕の好きそうなお酒がわかった、と言うのだ。

彼女はグラスに氷と潰したみかんを入れ、白ワインと炭酸水をゆっくり注ぎ、そしてレモンの皮を添えた。

その慣れた手つきに、無駄のない作業の仕方に、いつの間にか魅了されていた。

そして一回だけ、静かにマドラーで混ぜたあと、僕の目の前に静かに置いた。

「甘めの、スプリッツァーです。」

甘めの、ということは本来は甘くないのだろうか。という疑問が浮かぶ。

「いただきます」
グラスを軽く持ち上げ、口をつけた。

口に広がる爽やかさと甘さが、一気に懐に落ちていった。
飲んだことのない爽快感。
みかんの甘酸っぱさと白ワインの軽い酸味が溶け合い、ふわっとみかんの香りが舞い戻ってくる。

じっと淡い橙色のグラスを見ていると、
「どうですか…?」
僕の目を覗き込むその表情が、眉がほんの少し寄っていた。

「すごく、好みです。ありがとうございます」
思わず笑みが溢れ、つられてもう一口その風味を味わう。

「よかったです」
とほんの少し口角が上がった後、静かに氷を割り始め、ガリガリと綺麗な立方体に削っていた。

外見は、僕よりも、少し年上だろうか。

物事を見る冷めた目つき。
圧倒的な表情の少なさ。

氷を削る。
フルーツを切る。
グラスに注ぐ。

…若い、のに。
長年立ち続けたようなその立ち振る舞い。


この出会いが、僕の人生を、存在ごと掬い上げてくれるような、そんな大きな出来事のはじまりだったなんて。

呑気にお酒を飲んでいた僕は想像もしていなかった。


◇ ◇ ◇


ドアが開く音がしたので、そちらに目を向けると、黒髪の、眼鏡とマスクをした男性だった。

凛さんは接客中だったので、
「こんばんは」
と、申し訳なさを覚えながら、私が出迎えた。

もしこのお客様が凛さん目当ての方だったら、悪い気持ちが少なからずあった。

おひとり様だったので、カウンターに案内をした。
彼は店内を静かに見回した後、落ち着かなそうにカウンターに座った。

お聞きになった好みで、“甘め”のスプリッツァーを作ることにした。
本来は辛口で痺れがあるお酒なのだが、今回は白ワインを甘めの白ワインに変更し、みかんを加えたことで、“甘め”になっている。

初めて試みたアレンジで、ひっくり返されるかひやひやしたのだが、気に入ってくれたようだ。

彼越しに奥のソファで凛さんが頬を赤くしてお客様と明るくお喋りをしている姿が見える。

彼女だったら、彼を楽しませることができたのだろうか。


◇ ◇ ◇


店内には凛さんと二人きり。
静かにグラスを洗いながら、新たな組み合わせを考える。

スプリッツァーにみかん、か。
果物を入れることはよくあるが、みかんは初めてだった。

スプリッツァーの仲間でみかんが合いそうなもの…

ふと思い立った。

リモンチェッロ・スプリッツにみかんを入れたらどうだろうか。
定番はレモンだけれどみかんにしたらどうなるのだろうか。

静かに洗い終えたグラスを置き、手を拭った後、ポケットに入ったメモにアイデアを綴っておいた。

久々に掻きて立てられるその好奇心に、胸の高まりを押さえられない。

「薫さん、さっきの人って…」
と凛さんが不審なものを見る目で駆け寄ってくる。

さっきの人?
みかん好きな人のこと?

「なんですか?」

「薫さん知らないんですか…!?」
「えっ、と…?」


◇ ◇ ◇


それから数日、メモは開くことなく、エプロンに入っているままだった。

洗い物をしながら、せめて、自分で飲めればなぁ。なんて、考える。

どうしても口の中が痒くなってしまい、お酒を味わうどころではないのだ。

白サングリアにみかんって美味しいって聞いたことあるけど、どうなんだろう…。

みかんとオレンジじゃ全然違うし…

やがて客席の方から、
「何かお悩みですか〜?薫さん」
と、凛さんが駆け寄ってくる。

「みかんってどう思う?」
と聞いてみると、
「今度はみかんですか、笑。薫さんはみかん以外はほとんど尽くしてますもんね。」
と眩しいほどの笑顔を向けられる。
「そんなことないよ、笑。」

まだまだ開拓できていない果物やお酒もあるし。その事実があっても凛さんが私を褒めてくれるのは、いい関係を築けている証なのだろう。


◇ ◇ ◇


私は朝が苦手である。
そんなこと重々自覚しているが、今日はすっきりとした朝を迎えられた。

頭上から降り注ぐ天の恵み。
右手のサイドテーブルにはカクテルの案や、充電されたスマホがある。
その向こう側に勉強机があり、今までの積み重ねとも言えるノートが積んである。

今日はOrtusはお休み。

その代わり休みの日や午前中は友達のカフェでアルバイトをする。

お酒も好きだが、珈琲も好きであり、彼女、澪のお店の珈琲は別格である。

「薫?キリマンジャロブラックで」
その明るさは凛さんと似た天性の人たらし。
「おっけー」
私もその明るさは、私までも笑顔にしてくれる。


◇ ◇ ◇


バイトが終わったら、Ortusをオープンする。

ふと試しにみかんを食べてみる。

「…っう、」
痒い。口の中をチクチクと刺され、逃げるように水で口をゆすぐ。

「こんばんは〜」
というお客様を出迎える凛さんの声が聞こえ、慌てて口元を拭う。

「テーブルか、カウンターか、どちらになさいますか?」
両方空席なため、凛さんが聞いている。

「あ…えっと、」
と戸惑っている彼と目が合った。

あ、みかんの…。

ポケットのメモを見ると、試したいアレンジは山程あった。

できればカウンターに来てほしい、そんな願望が私の中で少なからずあった。

「カウンター、で。」
と微笑んだ彼はカウンターに座った。

「みかんのアレンジを開拓したいんですけど…お好きな感じに合わせるので、その…」
「ふふっ、なんでも飲みますよ」
と首を傾け表情が綻んだのがなんとなくわかった。
「あ、ありがとうございます」

やっと、やっとできる…!

メモに書き留めたアイデアが報われるようで、胸が高鳴るのが収まらなかった。

「全力でお作りしますね…!」
なんて、普段の私では絶対に言わないことが口から溢れた。

冷蔵庫からみかん詰めの瓶を取り出し、グラスに入れていく。

みかんの甘さに負けないように、氷を多めに入れ、リモンチェッロを注ぎ、白ワインを注ぐ。

最後に一回混ぜ、ほんの気持ちのみかんをトッピングする。

「どうぞ、リモンチェッロ・スプリッツです」
と彼の目の前に差し出し、感じたことのない緊張に駆られる。

そっと、グラスを持ち上げ、一口。
「…!」
彼が驚いたような顔をする。
「どうですか…?」
指が握っているメモの角に食い込む。

彼がこちらを見て、
「みかんの甘さがふわっと、こう、香るような、すごくおいしいです」
と手を香りに見立て感動を共有してくださる。
「ほんとですか、!」

手汗でペンが滑らないように気をつけながら慌ててメモに残す。

「よかったです、ほんとに」
メモを胸に抱えながら言う。

「お役に立てて光栄です」
「私みかん食べられないんです…」
「僕でよければ全然飲みますよ」
と言いグラスを持ち上げ一口飲んだ。

「ほんとにありがとうございます」
「あぁいやそんな、薫さんのお酒が美味しいので。好きなお酒も特にないし。」
と、柔らかく笑った。

その時、ドアが開いた音がした。
「あ、誠さん」
と凛さんがいつもの癖なのか駆け寄る。

「よ、薫。」
と手を上げ、私に近づくといつもと同じように私の腰に手を当て
「テキーラショックくれ」
と注文をされる。

ジョッキにテキーラを注ぎ、ライムを添える。
「…どうぞ。」
と手渡しする。

「今日家行っていい?」
「いや…」
「おっけー、飲んだら先行ってるわ」
「あ、ちょ…」
手を伸ばして引き止めるが、振り返ることなく、凛さんが座るテーブル席に行ってしまった。

いつもそうだ。誠は私のことになると強引で、距離感がおかしくなる。腰に手を当ててくるのも、ただ流すしかなくなっていた。
その“いつも”に慣れつつあり、嫌だと言えない自分が嫌だった。

諦めてキッチンに戻るタイミングでみかんの彼と目が合う。
けれどすぐに逸らされた。

「…」

キッチンにいるのが気まずくて、食品棚の整理をしながら新たなアレンジを考えていた。

ふとキッチンに戻った時には彼はおらず、空のグラスとお金だけがあった。


◇ ◇ ◇


最近、お酒に興味を持つようになった。
きっかけは明らかにあのお店、Ortusである。

手当たり次第コンビニでお酒を買って、好みのお酒を粗探ししていた。

でも心のどこかで、お酒に興味を持てば薫さんと色んな話ができるのではないかと思っていた。

そう、完全に僕の一目惚れである。

ケアが行き届いている、あの髪、あの手。
そして無駄のない手つき。


どうしても薫さんの姿、お酒の味が忘れられなくて、数日ぶりに訪れた。

店の雰囲気やBGMを楽しみながらお酒を少しずつ飲み進め、お酒の量が半分を過ぎた頃。

「よ、薫。」
と、誠という男の人が現れた。
馴れ馴れしく薫さんに近づいた後、慣れた手つきで薫さんの腰に手を当てた。

薫さんが一瞬、固まったのを見逃さなかった。

その表情見て、嫌がってるって気が付かないのかな。




一人思考を巡らせていると薫さんと目が合い、反射で逸らしてしまった。

戸惑いながらも自分が踏み込んではいけない場所、と割り切った。

あの距離感を見た後では、気まずく、財布から適当にお札を出し、グラスを上に乗せた。

そしてそのまま店を出た。

あの一瞬の顔が、妙に頭から離れなかった。


◇ ◇ ◇


裏の勝手口の鍵を開け、冷たいドアノブを回して開けた。

壁についたスイッチを押すと天井のランプがじんわり暖色に発光する。

ワインレッドのような赤レンガの壁。
アンティークを感じさせる木製のカウンター。

布巾を手にし、テーブルとカウンターを拭いているうちに
「薫さんこんばんは〜」
と凛さんが凍えながら入ってくる。
「こんばんは。」

グラスを磨き、氷を割って削っていると、
「こんばんは〜羽鳥さん」
と彼女がお客様に対して駆け寄っていく。

「こんばんは、凛ちゃん。いつもの頼むよ」

「もちろんです」
凛さんが席に案内してる間に角砂糖にビターズを数滴垂らし、少量のソーダで馴染ませる。

大きめの氷を入れ、バーボンをゆっくり注ぐ。

オレンジを添えれば、深い琥珀色がランプの光を受けて静かに輝いた。

「お待たせしました。オールドファッションドです。」
と羽鳥さんの元に運んでいく。


私は基本的にお客様の相手はしない。
その点、凛さんには助かっている。
明るく、人懐っこく、お客さんはすぐ凛さんの虜になる。

きっと凛さんの生まれもった才能なのだと思う。


「こんばんは〜」
とお客様が現れたと思えば、以前も来てくださった男女のお客様だった。

「薫さん、カルーアミルクと、カシオレお願いします」
とカウンターに女性を先に座らせながら、男性が注文をされる。

「あ、でも寒いよね…」
と男性が呟いた。
よく見ると女性の手指は赤く悴んでいる。

「温かいものもございますよ」

そう提案して、二人分のグラスを温めた。
カルーアミルクにはシナモンを、カシスオレンジには温めたオレンジジュースを合わせる。

「どうぞ。」
「わぁ〜美味しそう…!」

「僕らバー巡りが趣味なんですけど、やっぱりここに来てからどうしても味が忘れられなくて…笑」

「そうなんですね。」

それ以上何を返せばいいのかわからなかった。

私はとことん会話が苦手だ。
こんなことがあって〜。と言われても、そうなんだ。くらいにしか思わず、会話を広げることもうまくリアクションを取ることもできない。

だからか、昔からの友達には、浮気しなさそう、だとか言われる。

しないんじゃなくてできないんだよね。
彼氏も、浮気相手も。


◇ ◇ ◇


お酒爆買いして、馬鹿だよなぁ。好み探しも飽きた。

薫さんと誠さんの姿が離れない。
二人っきりの空間にいる薫さんと誠が無駄に想像できてしまって嫌になる。

「、はぁ…」

広すぎるリビングのこたつに突っ伏する。

久々に恋愛したと思ったらこれかよ…。

どういう関係なのかな…。
彼氏だったりして…。

親友の高瀬が、勝手にキッチンからポテチを持ってきて
「あらあら冬眞くんやけ酒ですかぁ?」
と僕の手に握られたお酒の缶を見て言った。

「うるさい」
と味もまともに気にせず口にお酒を流し込む。

高瀬は高校からの仲で今はスタッフとして僕の活動を支えてくれている。


高瀬が隣に座ると思い出したように
「なーこのOrtusって店知ってる?」
とマップが表示されたスマホを見せる。
「…知ってる」
「まじ!?俺こういうおしゃれな店行ってみたくてさ」とレビューや口コミをスクロールして、ふぅん、と呟いた。

僕は「勝手に行けよ」と立ち上がり缶を潰しながらそう言い放った。

薫さんにも高瀬にも悪いが、もう行くつもりはない。

行くなら、勝手に行けばいい。
一緒に行こう、なんて言えなかった。


◇ ◇ ◇


昼間、仕事前にカフェに寄る。
なんとなく、コーヒーが飲みたかったから。

「こんにちは。本日のコーヒーいかがですか?」
と店員さんがメニューを差し出す。

その声が、妙に耳に残る。
「何のコーヒーですか?」
「本日はキリマンジャロです」

どこかでこの声を聞いた気がする。
そう思った途端、
「薫、今日はブラジル」
と通りすがりの女性が訂正した。
「あっ、ブラジルです」
と頬を赤らめ恥ずかしそうに言った。

「薫、?」
「はい、神崎薫と申します」
と不思議そうな顔をされる。

「…」
そう言われれば顔が似てるかも。
でも、いつも下ろしているはずの髪が高く結ばれていて。
「今日は髪、縛ってるんですね」
メニューを見ながら、そう、無意識に言っていた。
「えっと、お会いしたことありましたっけ」
と肩をすくめた。

「たぶん、人違いです…。」
慌てて目線をメニューに戻す。

このカフェにいる訳がないんだから。
何期待してんだよ、俺。

「ブラジルコーヒーとえっと、」
何かみかんを…
「みかんのパイ、ください」
メニューの中で見つけた唯一のみかんを頼んでみる。


「ごめんなさい、気づかずに…。髪型がちがうと…笑」
口元に手を当てて笑っていた。
その姿を見て、胸がキュンっと跳ねるのがわかった。

やっぱ薫さんだったのか。

「ブラジルコーヒーとみかんのパイで大丈夫ですか?」
とレジに打ち込んでいる。
「あ、はい」
と返事し、カードで支払った直後に
「どうぞ。お熱いので気をつけてくださいね」
と蓋つきの紙コップを渡された。

車の中でポニーテールの薫さんを思い出しながら口に流し込む。

もう会わないって決めてたのにな。
会わなければ、こんな気持ちにならなくて済んだ。
…でも。
会えて、嬉しかった。
その気持ちを認めた瞬間、誠の顔が浮かんだ。
薫さんには、誠がいる。
やっぱりこれ以上は近づいちゃいけない。

思い出したくないのに、
薫さんの腰に当てられたあの手が、
ずっと頭から離れなかった。


◇ ◇ ◇


買い出しに行こうとOrtusの前を通り過ぎると、

「…まだやってないんじゃね」
「…じゃあ帰ろ。」
「…えー待ってようよー。」

ドアの前で男性が2人、話している。

「…っあ、」

一人の男性と、目が合った。

みかんの…。

そういえば、私、彼の何も知らないな。

名前も、職業も、何も。

「…こんばんは、」
なんて声をかければいいのか分からず、なんとなく挨拶した。
「よかったら、入りますか…?」
今日は、ほんとはお休みなんだけど…。
来たいと思っていただけたのなら。

鍵を開け、ドアを開けると
「へぇーサイトで見た通りだ…!」
と見渡し、目を輝かせている。

「そうだよ。誰が偽画像あげるんだよ」
テンションが高い、クールな彼と、塩対応のみかんの彼。

「すげぇー、おしゃれっすね。こだわってるんですか?」
と聞かれる。
「あ、はい。一応。」
そのチャラさが傷を掠める。

「カウンター、どうぞ。」

みかんの彼は慣れたように座り、クールな彼はは店内を見回しながら座った。

「冬眞っていつも何飲むんですか?」
とうま…?
「あっ、僕冬眞っていいます」
彼が思い出したように身を乗り出しながら名乗った。
あっ、みかんくん冬眞っていうのか…
「あぇ、そこから!?」
「冬眞、さん…。今日もみかんで大丈夫ですか?」
「はい。」

「お連れ様は…、」
と恐る恐る聞くと、
「高瀬ですっ」
とはっちゃけた笑顔を向ける。

「高瀬さん…何にしますか?」
「じゃあ、ノンアルで俺のキャラと見た目の直感で好きそうなのってできる?」

ノンアルで、
キャラと見た目の直感…?

「お前薫さん困らせんなよ」
と冬眞さん。
「だってお酒わかんないしー、」
と唇を尖らせた。


まぁ、なんとなくこれかな。

グラスに氷を入れ、ジンジャーシロップをほんの一滴。

作業をガン見してくる高瀬さんを横目に緊張しながらトニックウォーターを注ぎ、薄切りライムを縁に添えた。

「どうぞ。ライムジンジャートニックです」

「おぉー!お酒っぽい!」
「ちゃんと、ノンアルです」

「いただきます!」
とグラスを持ち上げ、一口飲んだ。
「んぇうま!めっちゃおいしい!」
「ふふ、よかったです」

つい、笑みがこぼれてしまった。
おいしい、と言ってくれる人は多いが、ここまでオーバーリアクションしてくれる人は、かえって面白い。

そして冬眞さんの作業につく。

冷蔵庫から例の瓶を取り出し、みかんをグラスに入れる。そして多めの氷を入れ、ジンをほんの少し。香りがつく程度入れておく。

そしてソーダを注ぎ、一周ゆっくりと混ぜた。

「お待たせしました。ライト・ジントニックみかん入りです」

「ありがとうございます」
微笑みながら一口飲むと、
「やっぱり薫さんのお酒は別格ですね」
と言ってくださり、わかりやすく胸が跳ねる。

「色んな種類のお酒飲む冬眞でも?」
「色んな種類…?」
あれ、お酒あんまり飲まないって言ってなかったっけ、と違和感が通り過ぎる。
「あ、いや…その、」
と口をつぐんだ。
「え、違うの?」
と高瀬さんがキョトンとした顔を向けた。
「自分なりに、好みを探そうと思ったんです…」
と俯き、酔っているのかその顔が赤く見える。

「でも、ジンジャーエールとみかんが好きってしか情報がない薫さんの方が僕よりも僕の好みがわかっていて…その、」
ちらりとこちらに視線を向け、
「すごいな…って、」
グラスに視線を戻した。

「気に入ってもらえてるみたいでよかったです」
としか私は言えなかった。


◇ ◇ ◇


高瀬さんは、何故か帰ってしまった。
用事があるとかないとか。

「もう一杯、お飲みになりますか?」
「あ、大丈夫です。」
きっと彼は満足してくれたのだろう。
グラスを満天の笑みで持ち上げた。

グラスを洗い、磨く。
氷を割り、削る。

大した会話はしていないものの、気まずくはなかった。

ふと見ると、カウンターに伏せた彼は寝息を立てていた。

私も少し休憩しようと思い、彼の隣の席に座った。

「…ふぁ~ぁ。」
あくびをしながら時計を見ると25時を回ろうとしているところだった。

彼の寝顔を眺めているとほんの少し、眠くなってきた。

「…んあ、僕、寝ちゃってました?」
と彼が伸びをしながら言う。

「…はい、」

「なんか眠くなりますね、雰囲気というか…」
と言った後、迷いながら言われ、
「…僕を見て、何も思わないんですね。」
ドキリとする。
「何も、って…?」
「…なんでもないです。」

そっと目を逸らすと
「また来ますね」
と席を立った。


◇ ◇ ◇


薫さんは、僕をみても何も思わないみたい。
よかった。
知らないなら、知らないままでいいよ。

桐生冬眞っていうフィルターがない彼女は、きっと僕をジンジャーエールとみかんが好きな人だとしかみていない。

でもみかんのお酒以外にも、僕にも興味をもってくれたらなぁ、なんて。



そしてあの日から再び、Ortusを訪れた。

「こんばんは〜、」
薫さんは、いなかった。
わけではないが、僕が寝ていた席で、寝ていた。

そこに、あの男、誠が。
薫さんにブランケットをかけていた。
そして、目が合ってしまった。

「…あ、えっと…、」

え、何、この状況。
修羅場って、こういうことを言うのか。

「薫に用?」
用も何も、会いに来たんだけど…、

「お前さ、薫のこと好きなんだろ?」
「あぇ、いや…」

「俺、薫と付き合ってるから。薫に会うために来てんなら帰って。」

その一言は、僕の胸を突き刺すには十分だった。

薫さんの、静かに眠っているその顔は、誠の言葉を肯定するでも否定するでもなくて。

…ああ、そうか。
僕だけが勝手に期待してたんだ。

もう、ほんとに、行くのやめよう…。

絶望に溢れた感情で、店を後にするしかなかった。


◇ ◇ ◇


お酒ばっかり無理して飲む俺に、高瀬は心配してくれた。

こたつに突伏する僕に、
「冬眞元気だせよ〜」
と高瀬が背中をさする。

誠が現れて時点で、諦めればよかったんだ。

「…はぁ〜、」
諦められなかったのも事実。

でも、諦めるしかない。
薫さんが幸せなら、俺は…っ、
「…それでいいんだ…、」

こたつの上のみかんを、泣きながら剥き、口に放る。

なんで一目惚れした時点で彼氏いるかもって思わなかったんだろう。
それほど、浮かれていたのか。


◇ ◇ ◇


Ortusのカウンターに座り、頬杖をつく。

最近冬眞さんこないなぁ〜。
みかん試したいのに…。

「最近桐生さん来ませんね〜」
と凛さんが隣に座る。

桐生、さん…あぁ、冬眞さんのことか。

「凛さんがいない間来てくれたんだけど、それっきり全く。」

冬眞さんが来なくなったと同時に、誠が来ることが多くなった。

誠とは如何わしい関係ではない。
殴られることは減ってきたが、それでもびくびくすることが多い。

「誠さん、過保護ですもんね。」



ふと、ゴミ箱にくしゃくしゃにされた紙切れを見つけた。
拾って、胸のざわつきを感じながら恐る恐る開いてみる。

『冬眞です。いつでも連絡してください』
という文字の下に、黒く塗りつぶされた空間。

冬眞、さん…?
連絡してくださいって、連絡先書いてくれてたんじゃないの…?

黒いインクが紙を埋め尽くすように重なっていて一文字も読めない。

書いて、やめた…?
なんで…?


◇ ◇ ◇


もう行かないと決めていたのに。結局、来てしまった。
高瀬が、あのおしゃれな雰囲気で薫さんと二人きりなんて許せない。

店に入ろうとした時、ガチャ、とドアが開いたかと思えば、誠と、続くように焦った様子の薫さんが出てきた。
「これ、忘れてます…」
と怖気づいた様子で酒瓶を渡していた。
「あっそ」
と強引に奪うように受け取ると、じゃあ…と気まずそうに誠は去っていった。

「冬眞さん…来てくれたんですね」
と僕を見るなり微笑み、どうぞ、と中に案内してくれた。

「よかったです、もう来てくださらないのかと」
とこちらを振り返りながら僕らの前を歩く。

僕らがカウンターに座ってから
「常連さんですか?」
と高瀬が聞く。

「いえ、兄なんです…、一応…」
とグラスを磨いている。

「えっ、彼氏じゃ…」
「え?兄、ですよ…?」
その一言に、頭が混乱する。

「えと、どうして彼氏だと…?」
薫さんは手を止めて、眉をひそめた。

え、いやだって…

「誠さんが自ら彼氏って名乗ってて…もう来るな、って…」

本人が言ったら信じるじゃん…

「え、」
「嘘、だったってこと、?」
と高瀬。

「誠が勝手に嘘ついてしまって申し訳ないです、」
としゅんとした表情を浮かべる。

「…いや、全然」


「薫さーん。あ、」
と奥からもう一人の店員さん。

「桐生さん!来てくれたんですね!」
と握手をされる。

あれ、僕って名字名乗ったっけ…

「今日もみかんで大丈夫ですか?」
「あ、はい」
「高瀬さんは…」
「おまかせします!」
と親指を立てて言った。


薫さんは大きい氷をグラスに入れた。
そしてお茶と炭酸水を注ぎ、レモンを軽く絞った。

「どうぞ。クラフトビールです」
と高瀬の前に差し出した。

「え!ほんとにビールっぽい!」
と同時に僕の目の前にもグラスが置かれた。

白ワインが入ったグラスの中をみかんが浮かんだり沈んだりしている。

「白サングリアです」
と凛さんが説明してくださる。
「え、素敵ですね」
と思わず呟く。

一口飲むと、

「ふぇー、おいしい。軽いのにフルーツポンチみたいな甘さがありますね」
薫さんはそんな僕の顔を覗き込んだ。
「なるほど…!甘すぎますか?」
「いや、それがいいのかも…なんて。笑」

うんうんと頷きながらありがとうございますとメモに残していた。


「あ、そうだ…メモなんですけど…」
と恐る恐る彼女のポケットから出てきたのは、

『冬眞です。いつでも連絡してください』
と書かれたメモ。

その下には真っ黒に塗られた僕の連絡先。

「…っえ、なんで?」

なんで、黒塗りされてるの?

「ゴミ箱に捨ててあるのを見つけて…」
わけがわからない。

「どうして、塗りつぶしちゃったのかな…って、単に気になって、」
と俯きがちに言う。

「僕、塗りつぶしてないですよ。だって薫さんに連絡先渡したかったんですもん」

「完全に口説きにいってるね」
と隣で高瀬が声を潜めて囁いた。
「…うるさいっ、!」

「え、じゃあもしかして、誠…」
薫さんが目を見開き、口に手を添えた。
でもそもそも誠は兄なのにどうしてそこまで僕に干渉するんだろう。


「…ごめんなさい」

それだけ言って、薫さんは視線を落とした。
指先が小さく震えている。

「冬眞さんが書いてくださったのに…私の知らないところで、勝手に…」

言葉の途中で、目元の涙を拭っている。

「ほんとうに…申し訳ないです」
僕の目に真剣な眼差しを向けてそう言った。
「薫さんは、悪くないですよ。」

「それに、今、交換すればいい話でしょう?ほら」
とQRコードを差し出す。

「大丈夫です。どうしてもQRコードを書くわけにはいかなくて、困ってたんです」

「…誠は…っ、私を守ってくれてるんです」
まぁ、そうだろうな。守り方の問題であって、そのことには変わりないと思う。

「私が傷つかないように、でも、冬眞さんは…、傷つけるどころか、優しくしてくださった…、」

「連絡、してもいいですか…っ、?」
といつの間にか取り出したスマホでQRコードを読み取っていた。

「もちろん。」

というと、安心したのか、頬がすっと緩むのが見えた。

「でも、もう少し、みかんのお酒じゃなくて、僕自身に、こう、興味を持ってくれたらなぁ、なんて…笑」
と思わず口から溢れると
「…え、?」
と間抜けな顔をされる。
「あ、冗談です。気にしないでください」

冗談じゃない。
ほんとに、本気でそう思っている。

「…ほんとは、知りたいですよ…」
とほんの少し赤面して、言った。

胸の奥が、変な風にざわついた。

「え?」
「もっと、話してみたい…です…」

嬉しくて気持ちが追いつかなかった。

「ぇほんとに?僕なんでも喋っちゃいますよ」
と興奮気味に早口で喋ってしまう。

「ふふ、楽しみにしてます」
と微笑みながら言ってくれた。


◇ 次の一杯 ◇

「冬眞さんに、誠を重ねてしまって…」