*
バイトの終わりが、いつもより遅くなってしまった。
駅までの道も、その先の家までの帰り道も、街灯が虫食いのようにまばらに灯っているだけ。自分の足音だけが、コンクリートを叩くたびに大きく響く。
ふと、背後で気配がした。
誰かいる。そう思った瞬間、私は小走りで路地を曲がった。
心臓が耳元で鳴っている。お願い、ただの通りすがりであって。そう願いながら、街灯の光が途切れる暗がりに足を踏み入れたときだった。
「……やっと、二人きりになれましたね」
闇の中から声がした。
聞き覚えのある、店で、駅で聞いたあの清潔で誠実な声。
暗がりの中から彼がすっと現れ、私の行く手を塞ぐように立ちふさがった。
いつもは見慣れていたはずの、あの服。
今、街灯の薄明かりに照らされたそれは、どう見ても高校生の学ランなんかじゃなかった。
色あせた教師用のスーツ。袖口にはチョークの粉の跡。
彼が纏っていたのは、少年のような爽やかさではなく、長く教師という権威に浸かっていた人特有の、湿り気を帯びた執着だった。
「やっと、運命の続きができます」
彼の右手が、ふわりと持ち上がる。
街灯の光が、その手に握られた鈍い銀色の刃を切り取った。
それは家庭科の調理実習で使うような、無骨な包丁。彼がその刃を愛おしそうに撫でる仕草は、まるで繊細な楽器を調律する時のそれと重なった。
……吹奏楽部の顧問
ふと、電車の中で友人が言っていた言葉が、残酷な真実となって脳裏を突き刺した。
あの人は高校生じゃない。私よりもずっと年上の、大人だ。
彼の顔の半分が影に飲まれる。
彼は満足そうに、心から幸せそうに笑っていた。その笑顔は、かつて駅で私が水を差し出した時よりも、ずっと純粋で、ずっと残酷だった。
近づいてくる足音が、重い。
少年が駆け寄る軽やかな音ではない。獲物を追い詰め、決して逃さないと決めた大人の、確実な足取り。
「あの日、名前を教えてくれたでしょう。あれが、僕への『招待状』だったんですよ」
彼が包丁を握り直す。
彼の視線が、私の首筋から、震える指先にまで粘りつくように這い回る。
私は声を出そうとしたけれど、喉が引きつって音にならない。
彼にとって、この夜道はロマンチックな物語のクライマックスなんだ。
私の恐怖なんて、彼には「愛を育むためのスパイス」にしか見えていない。
逃げ場のない暗闇の中で、彼の吐息がすぐそばまで迫る。
私はただ、銀色に光る刃から目を逸らせなかった。
あの日、駅で足を止めてしまった自分の親切心が、今、この男の異常な愛を完成させようとしている。
彼がゆっくりと、恍惚の表情で、私との距離を零へと縮めていった。
なんであのとき声をかけちゃったんだろう。
バイトの終わりが、いつもより遅くなってしまった。
駅までの道も、その先の家までの帰り道も、街灯が虫食いのようにまばらに灯っているだけ。自分の足音だけが、コンクリートを叩くたびに大きく響く。
ふと、背後で気配がした。
誰かいる。そう思った瞬間、私は小走りで路地を曲がった。
心臓が耳元で鳴っている。お願い、ただの通りすがりであって。そう願いながら、街灯の光が途切れる暗がりに足を踏み入れたときだった。
「……やっと、二人きりになれましたね」
闇の中から声がした。
聞き覚えのある、店で、駅で聞いたあの清潔で誠実な声。
暗がりの中から彼がすっと現れ、私の行く手を塞ぐように立ちふさがった。
いつもは見慣れていたはずの、あの服。
今、街灯の薄明かりに照らされたそれは、どう見ても高校生の学ランなんかじゃなかった。
色あせた教師用のスーツ。袖口にはチョークの粉の跡。
彼が纏っていたのは、少年のような爽やかさではなく、長く教師という権威に浸かっていた人特有の、湿り気を帯びた執着だった。
「やっと、運命の続きができます」
彼の右手が、ふわりと持ち上がる。
街灯の光が、その手に握られた鈍い銀色の刃を切り取った。
それは家庭科の調理実習で使うような、無骨な包丁。彼がその刃を愛おしそうに撫でる仕草は、まるで繊細な楽器を調律する時のそれと重なった。
……吹奏楽部の顧問
ふと、電車の中で友人が言っていた言葉が、残酷な真実となって脳裏を突き刺した。
あの人は高校生じゃない。私よりもずっと年上の、大人だ。
彼の顔の半分が影に飲まれる。
彼は満足そうに、心から幸せそうに笑っていた。その笑顔は、かつて駅で私が水を差し出した時よりも、ずっと純粋で、ずっと残酷だった。
近づいてくる足音が、重い。
少年が駆け寄る軽やかな音ではない。獲物を追い詰め、決して逃さないと決めた大人の、確実な足取り。
「あの日、名前を教えてくれたでしょう。あれが、僕への『招待状』だったんですよ」
彼が包丁を握り直す。
彼の視線が、私の首筋から、震える指先にまで粘りつくように這い回る。
私は声を出そうとしたけれど、喉が引きつって音にならない。
彼にとって、この夜道はロマンチックな物語のクライマックスなんだ。
私の恐怖なんて、彼には「愛を育むためのスパイス」にしか見えていない。
逃げ場のない暗闇の中で、彼の吐息がすぐそばまで迫る。
私はただ、銀色に光る刃から目を逸らせなかった。
あの日、駅で足を止めてしまった自分の親切心が、今、この男の異常な愛を完成させようとしている。
彼がゆっくりと、恍惚の表情で、私との距離を零へと縮めていった。
なんであのとき声をかけちゃったんだろう。


