*
バイトのシフトに入って、まだ数週間しか経っていなかった。
店のドアを開ける直前、ふと視線を感じて振り返ったけれど、通りには誰もいなかった。……気のせいだ、自分にそう言い聞かせて店に入った。
店は落ち着いていて、私はカウンターの内側で作業をしていた。
カラン、とドアベルが鳴る。
いらっしゃいませ、と顔を上げた瞬間、私は凍りついた。
そこに立っていたのは、例の彼だった。朝の駅や電車で、いつもじっと私を見つめてくるあの人。
どうして、この店を知っているの?
私が店に入るのを見ていたの? ずっと、尾行していたの……?
動揺で、手のひらがじわりと汗ばむ。彼は何も注文せず、一番端の席に座った。キョロキョロと誰を探しているんだろうか。
どうしよう、とパニックになりそうだったけれど、店長に「〇番テーブル、オーダー取って」と背中を押され、私は震える足で彼の元へ向かった。
顔を見ないようにして、メニューを差し出す。
「お冷や、お持ちしますね」
そう言って立ち去ろうとしたとき、彼が口を開いた。
「あの、以前……駅で助けてもらった者です。その節は、本当にありがとうございました」
その言葉を聞いた瞬間、霧が晴れるようにすべてが繋がった。
あの時、駅で助けた人。
毎日、電車で私を追いかけてくる人。
そして今、私がバイトしているこの店まで突き止めてきた人。
ああ、あの人だ。
あの日、ただの善意で手を貸しただけの、あの不気味な人。
心臓がドクンと嫌な音を立てた。
駅の階段で感じた、あの品定めするような粘り気のある視線が、今また私の上を這い回っている。
「……あ、いえ。ただ、お礼が言いたかっただけなんです。お礼と名前が聞きたくて、それだけ聞けたら帰りますので……失礼しました」
彼はあの日と同じように、心から感謝しているような、穏やかな笑みを浮かべていた。
その清廉潔白そうな表情が、何よりも恐ろしかった。
名前を言えば帰ってもらえるのだろうか。
私は逃げ出したい衝動を必死に抑え、胸の名札を指差した。
「……名前は、これです」
早く帰って。お願いだから、もう二度と私の日常に入り込まないで。
彼が名札の文字を凝視する。唇が微かに動き、私の名前を咀嚼しているのが分かった。
その姿を見たとき、確信した。この人は、私の親切を「始まり」だと勘違いしている。そして、その物語を終わらせる気なんて、微塵もないんだと。
バイトのシフトに入って、まだ数週間しか経っていなかった。
店のドアを開ける直前、ふと視線を感じて振り返ったけれど、通りには誰もいなかった。……気のせいだ、自分にそう言い聞かせて店に入った。
店は落ち着いていて、私はカウンターの内側で作業をしていた。
カラン、とドアベルが鳴る。
いらっしゃいませ、と顔を上げた瞬間、私は凍りついた。
そこに立っていたのは、例の彼だった。朝の駅や電車で、いつもじっと私を見つめてくるあの人。
どうして、この店を知っているの?
私が店に入るのを見ていたの? ずっと、尾行していたの……?
動揺で、手のひらがじわりと汗ばむ。彼は何も注文せず、一番端の席に座った。キョロキョロと誰を探しているんだろうか。
どうしよう、とパニックになりそうだったけれど、店長に「〇番テーブル、オーダー取って」と背中を押され、私は震える足で彼の元へ向かった。
顔を見ないようにして、メニューを差し出す。
「お冷や、お持ちしますね」
そう言って立ち去ろうとしたとき、彼が口を開いた。
「あの、以前……駅で助けてもらった者です。その節は、本当にありがとうございました」
その言葉を聞いた瞬間、霧が晴れるようにすべてが繋がった。
あの時、駅で助けた人。
毎日、電車で私を追いかけてくる人。
そして今、私がバイトしているこの店まで突き止めてきた人。
ああ、あの人だ。
あの日、ただの善意で手を貸しただけの、あの不気味な人。
心臓がドクンと嫌な音を立てた。
駅の階段で感じた、あの品定めするような粘り気のある視線が、今また私の上を這い回っている。
「……あ、いえ。ただ、お礼が言いたかっただけなんです。お礼と名前が聞きたくて、それだけ聞けたら帰りますので……失礼しました」
彼はあの日と同じように、心から感謝しているような、穏やかな笑みを浮かべていた。
その清廉潔白そうな表情が、何よりも恐ろしかった。
名前を言えば帰ってもらえるのだろうか。
私は逃げ出したい衝動を必死に抑え、胸の名札を指差した。
「……名前は、これです」
早く帰って。お願いだから、もう二度と私の日常に入り込まないで。
彼が名札の文字を凝視する。唇が微かに動き、私の名前を咀嚼しているのが分かった。
その姿を見たとき、確信した。この人は、私の親切を「始まり」だと勘違いしている。そして、その物語を終わらせる気なんて、微塵もないんだと。


