*
それからというもの、彼女を電車で見かける機会は驚くほどに増えた。
学校へ向かう朝の登校時間はもちろん、所属している吹奏楽部の練習から帰る電車の中でも時々見かけるようになった。
まるで何かに導かれるようにして、僕は視線は彼女を探してしまう。
笑う笑顔、友達に話しかけるときの癖、窓の外を眺める横顔。
数日も経つ頃には、僕はもう、彼女のことが好きになっていた。
名前も知らないはずなのに、その存在が、僕の日常のすべてを塗り替えていく。
そして、またチャンスは突然にやってきた。
たまたま用事で訪れた街。
歩いていると、不意に見慣れた制服が目に入る。
間違いなく彼女だ。
胸が高鳴った。これはもう単なる偶然ではない。
運命だ_____
僕は彼女の背中を、そっと追いかけた。
彼女が小さなお店に入っていくのを確認して、僕は深く呼吸をする。
心臓の音がうるさいぐらいだ。
今度こそ、今度こそちゃんとお礼を言おう。そして名前を聞こう。
僕は意を決して、ドアを開けた。
カラン、と心地の良い音が鳴る。店内は落ち着いた雰囲気で、僕は端の席に座った。
メニューを手に取りながら、意識は店の奥に向いている。
ところがなかなか、彼女の姿が見つからない。
店員さんに声をかけようか迷っていると、不意に奥の扉が空いた。
「おまたせしました!」
エプロン姿の彼女が、トレーを持って出てきた。
あまりの展開のはやさに一瞬フリーズしそうになったけれど、僕は慌てて立ち上がる。
「あ、あの!」
僕の声に、彼女が足を止める。
彼女は「え?」と少し不思議そうな顔をして、僕の方をじっと見た。
その瞳には、かつて僕を助けてくれた時の記憶なんて、一片も残ってないように見えた。
…そっか。
あの日、僕を助けてくれたのは彼女にとっては数ある日常の、ほんの少しの些細な出来事でしかなかったんだ。
覚えてないのか。
僕が勝手に特別な運命だと思い込んで、一人で舞い上がっていただけなんだ。
喉の奥が、氷を飲み込んだみたいに冷えていくのを感じる。
それでも僕は、震える声で精一杯の言葉を紡いだ。
「あの、以前……駅で助けてもらった者です。その節は、本当にありがとうございました」
彼女はキョトンとした顔のまま、小首をかしげた。
…やっぱり覚えてないんだ。
僕の中では一生忘れられないほどの運命の出会いだったけれど、彼女にとっては、街中で見かけた困っている人助けただけの、数ある日常の一コマだったんだ。
恥ずかしさが込み上げてきて、僕は顔が熱くなるのを感じた。
「……あ、いえ。ただ、お礼が言いたかっただけなんです。お礼と名前が聞きたくて、それだけ聞けたら帰りますので…失礼しました」
僕は精一杯、誠実さが伝わるように言葉を選んだ。
彼女は一瞬、目を丸くして、それから少しだけ距離を置くように立ち止まった。
僕の突然の告白を、どう受け止めるべきか悩んでいるのだろう。
その真剣な眼差しが、彼女の誠実さを物語っているように思えた。
彼女は迷った末に、胸元にある手書きの名札を指先で弾くようにして、僕に示した。
「……これ、私の名前です。そんな、お礼だなんて……」
彼女は少しうつむき、着恥ずかしげに言葉を濁した。
名札に示されたその文字は、あの日からずっと探していたものだった。彼女が自分から名前を明かしてくれたのは、僕の誠実さがようやく彼女に届いたからに違いない。
「ありがとうございます」
彼女にとっては、ただの接客の一環かもしれない。
けれど、あの日すれ違っただけの僕たちに、ようやく決定的な接点が生まれた。
そのことだけで僕は満足だった。
次に合うときは、今日よりも少しだけ、距離を縮めることができるかもしれない。
名前を知っただけで、世界がこれほど色鮮やかに見えるなんて…。
これはきっと、偶然なんかじゃない。
最初から決まっていた、大切な物語の序章なのだ。
それからというもの、彼女を電車で見かける機会は驚くほどに増えた。
学校へ向かう朝の登校時間はもちろん、所属している吹奏楽部の練習から帰る電車の中でも時々見かけるようになった。
まるで何かに導かれるようにして、僕は視線は彼女を探してしまう。
笑う笑顔、友達に話しかけるときの癖、窓の外を眺める横顔。
数日も経つ頃には、僕はもう、彼女のことが好きになっていた。
名前も知らないはずなのに、その存在が、僕の日常のすべてを塗り替えていく。
そして、またチャンスは突然にやってきた。
たまたま用事で訪れた街。
歩いていると、不意に見慣れた制服が目に入る。
間違いなく彼女だ。
胸が高鳴った。これはもう単なる偶然ではない。
運命だ_____
僕は彼女の背中を、そっと追いかけた。
彼女が小さなお店に入っていくのを確認して、僕は深く呼吸をする。
心臓の音がうるさいぐらいだ。
今度こそ、今度こそちゃんとお礼を言おう。そして名前を聞こう。
僕は意を決して、ドアを開けた。
カラン、と心地の良い音が鳴る。店内は落ち着いた雰囲気で、僕は端の席に座った。
メニューを手に取りながら、意識は店の奥に向いている。
ところがなかなか、彼女の姿が見つからない。
店員さんに声をかけようか迷っていると、不意に奥の扉が空いた。
「おまたせしました!」
エプロン姿の彼女が、トレーを持って出てきた。
あまりの展開のはやさに一瞬フリーズしそうになったけれど、僕は慌てて立ち上がる。
「あ、あの!」
僕の声に、彼女が足を止める。
彼女は「え?」と少し不思議そうな顔をして、僕の方をじっと見た。
その瞳には、かつて僕を助けてくれた時の記憶なんて、一片も残ってないように見えた。
…そっか。
あの日、僕を助けてくれたのは彼女にとっては数ある日常の、ほんの少しの些細な出来事でしかなかったんだ。
覚えてないのか。
僕が勝手に特別な運命だと思い込んで、一人で舞い上がっていただけなんだ。
喉の奥が、氷を飲み込んだみたいに冷えていくのを感じる。
それでも僕は、震える声で精一杯の言葉を紡いだ。
「あの、以前……駅で助けてもらった者です。その節は、本当にありがとうございました」
彼女はキョトンとした顔のまま、小首をかしげた。
…やっぱり覚えてないんだ。
僕の中では一生忘れられないほどの運命の出会いだったけれど、彼女にとっては、街中で見かけた困っている人助けただけの、数ある日常の一コマだったんだ。
恥ずかしさが込み上げてきて、僕は顔が熱くなるのを感じた。
「……あ、いえ。ただ、お礼が言いたかっただけなんです。お礼と名前が聞きたくて、それだけ聞けたら帰りますので…失礼しました」
僕は精一杯、誠実さが伝わるように言葉を選んだ。
彼女は一瞬、目を丸くして、それから少しだけ距離を置くように立ち止まった。
僕の突然の告白を、どう受け止めるべきか悩んでいるのだろう。
その真剣な眼差しが、彼女の誠実さを物語っているように思えた。
彼女は迷った末に、胸元にある手書きの名札を指先で弾くようにして、僕に示した。
「……これ、私の名前です。そんな、お礼だなんて……」
彼女は少しうつむき、着恥ずかしげに言葉を濁した。
名札に示されたその文字は、あの日からずっと探していたものだった。彼女が自分から名前を明かしてくれたのは、僕の誠実さがようやく彼女に届いたからに違いない。
「ありがとうございます」
彼女にとっては、ただの接客の一環かもしれない。
けれど、あの日すれ違っただけの僕たちに、ようやく決定的な接点が生まれた。
そのことだけで僕は満足だった。
次に合うときは、今日よりも少しだけ、距離を縮めることができるかもしれない。
名前を知っただけで、世界がこれほど色鮮やかに見えるなんて…。
これはきっと、偶然なんかじゃない。
最初から決まっていた、大切な物語の序章なのだ。

