一人称

 駅の雑踏は、いつだって巨大な怪物のようで…。


 行き交う人波、誰かの香水の匂い、頭をガンガンと鳴らす電子音。
 それらが全部、僕の薄い膜を突き破って脳に直接突き刺さってくる。

 

 今日はそれが、許容量をはるかに超えていた。




 乗り換えの階段を登りきったところで、世界がぐらりと歪む。


 呼吸が浅くなるのがわかる。
 肺が空気を拒絶して、喉の奥がヒリヒリと痛みだした。


 心臓が早鐘を打って、視界の端からだんだんと色が消えていく。
 あんなにうるさかった周りの音がもうほとんど聞こえない。



 ああ……まただ。
 ここには人が多すぎる。






 もう限界だ、と思ったとき。不意に視界の隅に、白い制服の影が差し込んだ。





「あの、大丈夫ですか?」





 瑞々しくて、芯の通った声。 

 僕の肩に小さな手がそっと添えられた。
 顔を上げると、制服姿の女子高生が心配そうに僕の顔を覗き込んでいる。



 見知らぬ男を目の前にしているのに、怯えがない。
 ただ純粋な気遣いだけがその瞳に浮かんでいた。





「……す…みま…せん…」





 呼吸が乱れて、まともに言葉にすらならなかった。
 過呼吸の波にのまれかけている僕を見て、彼女はガサゴソとバックから何かを取り出した。




「これ、食べてみてください。少し落ち着くと思いますから」





 差し出されたのは、銀紙に包まれた飴玉だった。
 震える手でそれを受け取り、口に放り込む。

 甘ったるいイチゴみるくの味が、パニックで張り詰めていた神経を少しずつ解いていく。




 続けて、彼女は未開封のペットボトルを僕の手のひらに押し付けた。



「これ、まだ飲んでないので。水、よかったらどうぞ。」



 冷たいペットボトルの感触が、現実と僕とを繋ぎ止めてくれる。


 何度かゆっくりと息を吐き出し、暴れていた心臓の音が、ようやく正常なテンポに戻り始めた。




 

 「……ありがとう。助かりました…。本当にありがとう」





 荒い息を整えて、ようやくちゃんとお礼が言えた。






 このまま別れたら、二度と会えないような気がした。

 名前を聞かなきゃ、今のうちに彼女が誰なのかを知らなきゃいけない。





「あの、あなたは……」





 僕が言葉を繋ごうとした瞬間、彼女は遠くの時計を見上げて「あ」と小さく息を漏らした。





「ごめんなさい。私、急がないと!お大事にしてください。では!」


 



 彼女は振り返ることもなく、人混みの中に駆け出していった。

 スカートの裾が翻り、あっという間に人並みにのまれて見えなくなってしまう。




 僕の手のひらには、まだ彼女から受け取った水の冷たさが残っている。






 駅の喧騒は先程までの棘々しさを失い、ただの日常の音に戻っていた。

 僕は彼女が消えていった方向を、しばらく、ぼんやりと見つめていた。






 名前も、学校も、何も知らない。


 ただ、あの白い制服の記憶だけが、今の僕の胸の奥で熱を帯びている。










 もう一度、会えるだろうか。





 いや、きっと会えるはずだ。
 これほどまでに鮮烈な出会いが、今日だけで終わるわけがない。





 僕はもう一度、深く呼吸をした。






 この街のどこかで、また彼女と巡り合うための運命が、静かに動き出したような気がした。