君の前では隠せない

予備のメガネを持っていて良かった。
俺とお揃いのメガネをかけた渡は、どこか上機嫌だった。
そんなこいつを見ていると、俺の頬もゆるむ。
やばい……
今、絶対変な顔してる。
メガネをぐいっと押しつけて、俺たちは歩き出した。

ひょこっと頭を出して覗く。
時計台の周りにあった人だかりは、すでに散り散りになっていた。
「よし、もういない」
「うぅ……」
渡はさっきから、俺のパーカーの裾を握っている。
「おい、引っ張んな。伸びる」
「ご、ごめん」
「いいから、行くぞ」
背筋を伸ばして、足を踏み出す。
待ち合わせらしい二人組の中年女性が、ひときわ高い笑い声をあげた。
チラッと後ろを見る。
渡は背中を丸めて、俺のすぐ後ろを影のように歩いていた。
いや、余計に怪しいから。
下手したら通報されるから。
幸い女性は話に夢中で、こっちに気づいていない。
「おーい、大丈夫か?」
「う、うん」
「無理なら無理って言えよ」
「……うん、ありがとう」
俺たちが乗る予定のバスが見えた。
出発まではまだ5分以上ある。
焦る必要なんてない。
でも……
たった数メートルの距離が、こんなに遠く感じたのは初めてだった。
駆け込むように一段目のステップを踏む。
運転手さんにギロッと睨まれたけど、会釈で返した。
俺たちは決して怪しいものじゃありません、という気持ちを込めて。
そのまま後方まで行って、渡を窓際に押し込む。
俺もリュックを前側に持ってきて、その隣に座る。
ようやく息を吐き出した。
「お前、ここが最寄り?いつもどうしてるんだよ」
ここは主要駅だから、平日の朝晩だって相当混んでるはずだ。
地味な制服に普通のメガネとマスクだったら、今日みたいな騒ぎにはならないにしても、人混みは通らないといけない。
さっきの歩いているときの姿を思い出すと、ちょっと面白い。
「いや、こんなことになったの初めてだから。いつも近所のスーパーくらいしか行かないし。……ほんっと、怖かった」
最後のやけに実感のこもった口調に、つい笑いがこみ上げる。
急に生活感出してくるのも。
「服とかどうしてるんだ?」
「ネットで、適当に買ってる」
「マジか……適当ってわりにお洒落だな」
「そう?」
渡は照れくさそうに笑った。
……こいつ、分かりやすいな。
「古川くんはどこで買うの?」
「あー、近所の服屋」
「え、俺も行きたい。今度一緒に行こうよ。で、俺の服選んでよ」
「いいけど、俺、普段パーカーしか買わないぞ」
「パーカー好きだし。それで、俺が古川くんの服選ぶ」
「……んー」
少し考える。
渡が選ぶものなら、着てみてもいいかな。
「じゃあ、行くか」
そう言うと、渡が俺に向かって拳を突きだした。
「……何それ」
「約束」
「子どもか」
呆れながら拳を合わせる。
「ほら、約束」
顔を見合わせて笑う。
どことなく気恥ずかしくて、リュックのファスナーを意味もなくいじった。
「……ところでさ」
「ん?」
「駅でって言ったのは俺だけど、遠回りだったんじゃないのか?言ってくれれば良かったのに」
渡は俺の顔色を伺うようにじっと見つめてから、小さく口を開いた。
「だって、迎えに行きたかったから」
……なんだよ、それ。
今日はただ、友達同士で遊びに行くだけだろ。
それじゃ、まるで……
いやいや、ないない。
ていうか俺の心臓、また変になってるんだけど。
「お、俺は人がいても平気だし、別に迎えなんかいらなかったのに」
我ながら子どもっぽい言い方だな、と思う。
渡はそんな俺を見つめて、ふっと笑った。
「いいんだよ。俺のわがままなんだから」
「……それ、どういう……?」
言葉の意味を考える間もなく、人がどっと乗ってきた。
二人して口を噤む。
最初のほうに乗った乗客たちが、次々と後方へ押し込まれていく。
ほとんど満員だ。
俺の隣に立った外国人の腹に肩を押されて、渡のほうに体が傾いた。
腕がぴったりくっついて、顔の距離が近くなる。
「わ、悪ぃ」
見上げると、柔らかく細められた瞳と視線がぶつかった。
まただ……
また心臓が暴れ出す。
「いいよ」
照れたように窓の外に向けられた横顔から、俺は目を離せなかった。

「古川くんはどれがいい?」
「うーん」
上映作品の案内板を前に腕を組む。
コメディにアニメ、SF、ファンタジー……
「これは?『俺の席に座るな』……あ、恋愛ものだった」
「タイトル詐欺だろ。パスだな」
「ふふ、即答」
「恋愛ものってなんであんなに遠回しなんだ?」
「それがいいんじゃない?」
「俺には難しい」
「じゃあ、アニメは?」
「あー、わりと好き。お前は?」
「俺も好き」
渡、アニメ好きなんだ。
意外だ。
「あ、これ!」
渡が指差したのは、少し前にSNSで話題になった医療ものの洋画だった。
「いいじゃん。……あ、ダメだ」
時間を確認してガックリとうなだれる。
もう上映開始時間を三十分も過ぎていた。
次の回は夜だ。
ふと、一つの作品に目が留まる。
昨日公開されたばかりのもので、前から観たいと思っていた。
でも――
ぶつぶつと呟いている渡を横目で見る。
渡はすぐ俺の視線に気づいて「ん?」と顔を寄せてきた。
「俺、実は気になってるのあるんだけど」
「どれどれ?」
「いや、たぶん渡はダメだと思う」
「俺がダメなやつ?……って、もしかしてこれ?」
渡がちょっとだけ震えながら指差す。
……当たり。
『ゴースト・チェイサーズ』
文字通り、ホラー映画だ。
でも、怖いだけじゃなくて笑えるところもあるらしいから、渡でもいけるかなと思ったけど……
あ、やっぱり無理そう。
渡の顔が分かりやすく青ざめる。
怖がり、って前にちょろっと言ってたもんな。
「いや……」
「ダメだよ、嘘つかないでよ」
「まだ、何も言ってねぇだろ」
「俺がダメそうなのって、これしかないじゃん」
「だから無理だろ」
「無理じゃない!これにする!」
「はぁ?」
押し問答を繰り広げていると、通りすがりの人にじーっと見られていることに気づいた。
渡の腕を掴んで、劇場入り口の大きな観葉植物の影に隠れる。
「絶対あれにするから。他のだったら観ない」
渡って、こんなに頑固だったんだ。
ていうか、俺に合わせてくれてるんだよな?
こいつは優しさで損するタイプだ。
「ほんとに大丈夫なのかよ。俺は他のでもいいし、無理して付き合う必要ねぇぞ」
頭をかいて、小さくため息をつく。
「……勢いで言ってねぇ?」
「そうなのかも……だけど、チャレンジしたい」
そんなの、する必要ないだろ。
わざわざ自分が苦しむほうを選ばなくてもいい。
見たくないものは見なくていいんだ。
そのほうが絶対楽なのに。
「なんで?」
疑問じゃなくて、少し責めるみたいな言い方。
渡は考えるように目を伏せてから、また俺を見た。
「変わりたいと思ったから」
その声は、さっきのように震えてはいなかった。
はっきりした意思を感じる、力強い声。
……『変わりたい』か。
やっぱりすごいやつだ。
それなのに俺は……
あの夏の日から、一歩も前に進めていない。
雅人の言葉は、今でも胸の奥に刺さったままだ。
逃げて、隠れて、空気になって、自分を守ることしかできない。
でも、渡はどんなに怖くても、傷ついても、自分からは逃げようとしない。
いつでも真っすぐに立っている。
だから――逃げ道を作るのは、俺の役目だ。
「……分かった。でも無理すんな。怖かったら俺にひっついてればいーよ」
「ほんと?俺、遠慮しないよ?」
「しなくていいけど、ほどほどにな」