君の前では隠せない

待ち合わせを駅、しかも正午にしたのは、間違いだったのかもしれない―――

家の最寄り駅から乗ったときには、まばらに人がいるだけだったのに。
それが、あれよあれよという間に人が増え、今じゃほぼ満員電車だ。
まだ残暑の残る、九月下旬。
車内は冷房が効いているとはいえ、これだけ人が密集していると、さすがに暑い。
いつものように長袖のパーカーを着ている俺は、つい袖をまくりたくなるのを必死に堪えている。
長く伸ばした前髪と、マスクの下は汗をかいていた。
前髪、切ろうかな……
一瞬そんな考えがよぎったけど、すぐに首を振る。
いやいや、無理だってば。
俺の鉄壁の防御が崩れる。
メガネをグイグイと押し当てて、顔を上げる。
「はっ!」
思わず小さく叫んでしまった。
俺をじっと見つめる、まんまるな目があったから。
座っている俺の、目の前に立つ小さな女の子。
隣の母親らしき人と手を繋いで、それはそれは不思議そうに俺を見ていた。
うう……
そんなに純粋な目で見ないでほしい。
いたたまれなくなって、ますます身を縮こませる。
そのとき――
「この先、揺れますのでご注意ください」
車内アナウンスとほぼ同時に、電車が左右に揺れ、女の子の体がぐらりと傾いた。
間一髪、母親が腕を引っ張ったから、転ぶことはなかったけど。
……危ないな。
腕も、そんなに引っ張ったら痛いんじゃないかな。
なおも女の子は、じーっと俺を見ている。
ここは、俺のためにも女の子のためにも、席を替わるのが一番いい。
ぐっとリュックを掴む。
その瞬間、女の子の隣に立つスーツを着た男性が、さっと俺に視線を向けたのに気づいた。
立ち上がる気配を感じたのだろう。
俺が立った瞬間、その男性に席を取られるかもしれない。
きっと、休日出勤でお疲れなんだろうけど……
ごめんなさい。
俺は女の子に席を譲りたいんだ。
すー、はー、と小さく深呼吸する。
もう一度、ぐっとリュックを掴んだ。
「あ、あのっ!」
思ったより大きな声が出てしまい、女の子と母親、スーツの男性、両隣に座る人が、ぎょっとしたように俺を見た。
ああ、やめときゃよかった。
後悔が押し寄せたとき、渡の顔が浮かんだ。
あいつなら、きっと……
「その、電車揺れるんで、良かったら、子供さん座らせてあげてくださいっ」
一気に言って立ち上がる。
「あ、ありがとう」
女の子の母親は、ぎょっとした顔のまま、そう言った。
視線を感じながら人の間を縫って、ドア付近に立つ。
手にはじっとりと、変な汗をかいていた。
でも――
座った女の子が、母親を見上げて笑う。
その笑顔を見た瞬間、胸の奥がまた温かくなった。
……こんなこと、前の俺なら絶対しなかった。
「お互いを信じて動く」
ふと、あの約束が頭をよぎって、マスクの下で小さく笑った。

吐き出されるように電車から降りた。
人波に押されながら改札を抜ける。
そして、流されるままロータリーにたどり着く。
「あっつ……」
降り注ぐ日差しに目を細めたとき、この駅の象徴ともなっている時計台が見えた。
そこに向かうと、なにやら人だかりが出来ている。
その中心にいるのは、黒いサングラスにマスクを着けた、長身の男。
でも、どことなく見覚えがある。
まさか……
「渡?!」
唖然とする。
俺の後ろからきた女子高生が、「え、芸能人?」と言いながら、その人だかりに加わった。
どういうことだ?
あいつ、芸能人だったのか?
まぁ、そうだと言われても納得してしまいそうだけど……
一応、人だかりの一番外側に加わる。
「誰なの?」
「分かんないけど、スタイルいい〜」
「マスクとグラサン、取ってくれないかなぁ」
そんな言葉が飛び交う中、俺はおずおずと手を掲げた。
男はそれに気づいたようだ。
人波をかき分けながら、俺に向かってくる。
「ふ、古川くん!」
情けなく震える、か細い声。
やっぱり渡だった。
「お前、何やってるんだよ」
そう言いながら、とりあえず腕を引っ張る。
「渡、こっち!」
無我夢中で走り、たどり着いたのは駅ビルのトイレ。
幸いなことに、誰もいない。
さすがにここまでは追ってこないだろう。
二人してびっしょり汗をかいている。
メガネもマスクも外して、流れる汗を拭った。
「古川くん、ほんとにごめん」
呼吸が落ち着いたとき、渡が頭を下げた。
「別にいーけど。……お前って、もしかしてほんとに芸能人?」
ジトリ、と疑いの目を向けた。
渡は、ぷるぷると頭を振る。
「違うよ!めちゃくちゃ一般人」
「じゃあ、なんでグラサン?そのせいで誤解されたんじゃん」
「いや、人いっぱいいるんだろうなと思って。正直、びびっちゃった。……それに、ここ地元なんだよ」
「……は?それ、先に言えよ。そしたら現地集合で良かっただろ」
いや、そもそもちゃんと確認せず、待ち合わせに駅を指定したのは俺だった――
一週間とちょっと前、屋上で昼メシを食べていたとき。
「素顔で遊びに行きたい」と言う渡の提案に、俺はすんなり同意した。
話し合った末、「映画なら」ということで、今日の待ち合わせになったんだけど……
「ほんと、ごめん」
「だから、いいって。俺も悪かったし」
予想外だったけど、渡だけのせいじゃない。
「ごめん……」
「いいよ」
「いや、そうじゃなくて」
ふいに、渡が顔をそむけた。
走ったからか、まだ頬が赤い。
それだけじゃなくて、耳も首も真っ赤だ。
「なんだよ」
はっきりしない言い方に、眉を顰める。
「俺はいいんだけど。……むしろ、離したくないっていうか」
「何が?」
「その……手」
「手?」
言われて、自分の右手を見下ろす。
……あ。
追いかける人たちから逃げるのに必死で、いつの間にか渡の手を握っていた。
指と指がしっかり絡むほど強く。
「うわっ!」
慌てて離す。
心臓が、さっき走ったときとは比べものにならないくらい暴れ出した。
「わ、悪ぃ!」
「……ううん」
渡は何とも言えない表情で、自分の手を見つめている。
「……もう少し繋いでても良かったのに」
「え?」
「いや、なんでもない」
渡は曖昧に笑って、またサングラスをかけた。
……なんだよ、それ。
胸の奥がむず痒くなる。
さっきまで繋いでいた手の感触が、いつまでも指先に残って離れない。
ごまかすように、洗面台の水を出して、手を濡らした。
渡も俺にならって横に並ぶ。
鏡越しに目が合ったような気がするけど……分かんねぇ。
鏡に映る自分は、いつも通りだ。
地味すぎるほど地味な男。
長い前髪に白い肌、丸い顔。
それに、一番気に入らない、ぷっくりした唇。
隠すように噛みしめる。
「水色のパーカー、可愛いね」
「そうか?」
首を傾げる。
いつもパーカーなのは、首が隠れるのと、いざというとき被れるからだ。
それに、コーディネートに迷わなくていいし。
「うん、古川くんっぽい」
「俺っぽい?」
「優しい色。それに……」
渡は横を向いて、俺の足元を見た。
「黒のデニム、お揃いっぽくていいね」
なんだよ、お揃いって。
なんでそんなことでちょっと嬉しそうなんだよ。
……訳分かんねぇ。
「お前は、見た目だけなら芸能人っぽいよ」
まじまじと見る。
俺と同じようなダボっとしたデニムに、白いシャツ。
シンプルな服装が、渡のイケメンオーラをより際立たせていた。
髪型だって、いつもの無造作に下ろしただけのとは違う。
ちゃんとセットされて、いい感じに額が見えている。
これにサングラスなんかかけてるから、ハマりすぎなくらいだ。
こいつ、何でも似合うんだろうな。
だから大騒ぎになったんだけど……
「見た目だけって?」
今度は渡が首を傾げる。
「中身は渡だな。安心した」
渡は反対を向いて、ため息を漏らした。
「古川くん、そういうとこだよ」
「なんだよ、怒ったのか?」
「違うよ……」
小さく笑って、首の後ろをさする。
「そういう何気ない一言が、ずるいんだよ」
「……うん?」
「だから困る」
「何がだよ」
「古川くんは分かんなくていい」
それきり口を閉ざす。
俺は首を傾げたまま、自分の右手を握った。
……やっぱり、訳分かんねぇ。
またじわじわと熱くなってきた手に、冷たい水をかけた。