君の前では隠せない

「困ったら助ける。でも、勝手には助けない」
渡の言葉に、俺は首を傾げた。
「勝手には?」
「助けられたくないときもあるんでしょ?」
「……ある」
「だから合図を決めよう」
「じゃあ……助けてほしいときは耳を触る、っていうのは?」
「それ、いいね。逆にほっといてほしいときはこう」
渡はメガネのブリッジを指で押し上げた。
「それなら分かりやすい」
「じゃあ決まり」
「……合図がないときは?」
「そのときは、お互いを信じて動く」
「なんだそれ」
「同盟なんだからさ」


そんな会話をしながら帰った翌日。
いつもと同じ教室の景色が、昨日とは違って見えた。
「一緒にいると目立つから、教室ではつるまない」
そう言ったのは俺。
だから、俺は相変わらず空気だし、渡は陰キャのお人好しだ。
それでも、視線が交わる度に、マスクの下で勝手に口角が上がる。
高校に入学してから――いや、あの夏の日から、こんなに心が浮き足立つことはなかった。
心だけじゃない。
今日の俺は、地面から0.05センチくらい浮いてると思う。

二時間目の休み時間。
次はニ限続きの美術だ。
教室を移動するため、一人廊下を歩いていると、何やら喚いている声が聞こえた。
「――いいじゃん、頼むよぉ」
遠藤が廊下の壁に手をついて、もたれるように寄りかかっている。
その前で足止めをくらっているあの背中は……
渡だ。
「俺じゃ黒板の一番上まで届かねぇからさぁ」
渡が何か言っているのかは分からない。
顔を俯けて、がっくりと肩を落としている。
黒板、と聞いてピンときた。
遠藤は今日、日直なんだ。
おおかた、黒板消しの仕事を、渡に押しつけるつもりなんだろう。
「その身長活かせるだろ?無駄にデケェんだから」
遠藤だって、俺から見れば『無駄にデケェ』だ。
俺ですら、黒板には手が届くぞ。
余裕、とまではいかないけど。
「なぁ、俺と渡クンの仲だろ?」
ただ、面倒事を押しつけてるだけじゃないか。
そんなことを考えながら、2人の横をわざとゆっくり歩く。
通り過ぎざま目をやると、顔を俯けたままの渡と視線がぶつかった。
渡は一瞬ニヤッと笑い――口元は見えないから、俺がそう感じただけだけど――それから、おもむろに耳朶を触った。
きた!
助けてほしいの合図だ。
返事の代わりに、俺は目を細める。
一歩、二歩、三歩。
進んだところで、足を止める。
次の瞬間、両手で抱えていた教科書やら、スケッチブックやらを、床に叩き落とした。
ついでに缶ケースを落としたから、「ガッシャーン」と派手な音を立てて、何本もの鉛筆が転がった。
「あっ!」
ここまでするはずじゃなかったのに。
「うわっ!なんだよ、ビビった!」
弾かれたような遠藤の声が聞こえる。
廊下にいる人たちからも、「え、何?」とか「やばっ」とか声が上がる。
予定よりも多くの注目を集めてしまい、カーッと顔が熱くなった。
まぁ、いいや。
この隙に逃げてくれよ。
そう念じながら腰をかがめたとき――
「古川くん!」
背中から呼びかけられたと思ったら、渡が俺の隣にしゃがんだ。
「は?」
つい非難めいた声が出る。
なんで来るんだよ……
渡はそんな俺に構わず、素早く鉛筆と教科書を拾い集めて立ち上がった。
「大丈夫?」
「お、おい」
思わず文句を言おうとしたとき、渡の後ろから歩いてくる雅人と目が合った。
鋭い目。
心臓がひやりとする。
その口がゆっくり開く。
何か言われる――
そう思った瞬間、無意識に渡の腕を掴んでいた。
「どうしたの?」
「……なんでもない、行こう」
そのまま遠藤にも雅人にも背を向けて歩き出す。
早くここから立ち去りたい。
それなのに、足がうまく動かない。
気持ちばかりが焦って、渡の腕をぐいぐい押した。
「なんだよ、お前ら」
後ろから、面白くなさそうな声が飛んでくる。
「陰キャがつるんだって、陰が濃くなるだけだろーが」
遠藤のくせに上手いこと言ってんじゃねぇよ。
心の中で捨て台詞を吐いて、とうとう廊下を駆け出した。

美術準備室に駆け込んで鍵を閉めると、ふーっと大きく息を吐き出した。
振り返ると、俺の荷物まで抱えている渡が、顔を隠すように下を向いている。
「渡。俺、耳触ってねーけど」
肩を上下させながら、浅い息を吐く。
渡は少し顔を上げて、「ごめん、つい」と、か細い声で言った。
「別にいーけど。助かったし」
合図がないときは、『お互いを信じて動く』
昨日、そう決めたばかりだった。
でも、さっきは……
合図を出す間もなく、渡は俺のところに来た。
てことは、やっぱり善意で助けたんだろう。
こいつ、困ってるやつをほっとけないんだ。
「お前、お人好しすぎ。俺なんか置いて、さっさと逃げりゃーよかったんだよ」
渡から自分の荷物を受け取る。
「そんなことできないよ。それに、遠藤くんの頼みはちゃんと断ったし」
「断りきれてねーから、あんなにしつこいんだろ?それに、あれは頼みじゃなくて、パシリだ」
ピシャリと言うと、ぐっと言葉に詰まる渡。
少しの間、薄暗い美術準備室に、気まずい沈黙が下りる。
渡が何か言おうとして口を開いた。
でも、言葉は出てこない。
「……ぷっ……あははっ」
沈黙を破ったのは俺だった。
そもそも俺は今日、0.05センチ浮いてるんだ。
なんか知らないけど、めちゃくちゃ笑える。
合図だのルールだの真面目に決めたくせに、二人とも全然守れてないし。
どれもこれも、初日でぐちゃぐちゃだ。
「あはははは!ちょっ、待っ、俺ら、アホすぎだろ」
渡はぽかんとして俺を見つめていたけど、やがてつられるように笑い出した。
「古川くん、笑いすぎ」
「お前のせいだろ!」
「俺?」
「助けろって言っといて助けに来るし!」
「古川くんだって豪快に落としすぎだよ!」
「あれは事故!」
「事故なんだ」
「事故だ!」
2人してメガネを外し、息も絶え絶えだ。
「はぁ〜、面白かった」
目尻を拭う。
二人とも笑い疲れて、しばらく何も話さなかった。
外から聞こえる足音が増えてきた。
もうすぐ始業のチャイムが鳴るんだろう。
「……なんか、久しぶりにこんな笑った」
「俺も」
「古川くん、笑うと結構うるさいね」
「は? お前もだろ。ていうか、そろそろ行かないと。メガネ、かけろよ」
そう言って、メガネを持った右手を持ち上げる。
その俺の手に、渡の手が重なった。
俺と同じくらいか、それよりも熱い。
前にも感じたその熱は、不思議と心まで温かくなる。
やっぱり、こいつに触られるのは嫌じゃない。
渡は、今度は真剣な表情で見つめてきた。
あまりにも真っすぐな眼差しに、目をそらすことができない。
「古川くんの笑った顔、マスクなしで見たかったな」
心臓がどくんと跳ねる。
「……俺も」
無意識に口に出していた。
渡がふっと解けるように笑う。
それなのに、俺の手を包み込む手にはぎゅっと力が入った。
「顔が見たい」なんて何度も言われてきた。
でもそれは、ただの好奇心。
怖いもの見たさとも言う。
傷があるとか、痣があるとか、人前に出せないほど酷いとか。
そいつらが期待しているのは、そんな残酷なもの。
でも「笑った顔が見たい」と言われたのは初めてだ。
渡は他の誰とも違う。
その響きは、俺の内側にそっと触れてくるような、そんな柔らかさだった。