君の前では隠せない

この感じ、懐かしい。
入学したてのころ、見慣れない景色の中。
知らないクラスメイトと、馴染まない椅子の上で、ただひたすら気配を消していた。
今じゃそれが、当たり前に身に付いている。
……はずだったのに。
もう、いい加減ほっといてくれないかな。
俺はマスクの内側で、小さく息を吐き出した。
メガネに隠されている目を、じっと自分の指先に集中させる。
「おい、古川ぁ。昨日ホームルームさぼって何してたんだよ〜」
振り返った遠藤に顔を覗き込まれても、何も答えなかった。
「センセーに呼び出されたとか、ウソじゃん」
クラスメイトがチラチラと見ているのが分かる。
「せっかく渡クンかまってあげてたのにさぁ」
やたら声がでかい。
それがこいつなりの自己主張なんだろう。
恥ずかしいやつ。
「陰キャ同士でいちゃいちゃしてんじゃねーよ」
見つめる指先を、ぎゅっと握った。
目だけ動かして、前髪の隙間から斜め前を見る。
渡は席にいない。
いなくていい。
あいつのことだから、俺を助けようとする。
そんな気がしたから。
また、自分の指先に集中する。
……あいつ、やっぱり馬鹿だろ。
こんなん無視するに限る。
まともに相手してたら、自分を守れない。
遠藤は「なんか言えよ」と舌打ちしながら、俺の視線の先をたどった。
その視線がピタッと止まると、面白いものでも見つけたみたいに口角を上げる。
嫌な予感がした。
「古川、お前さぁ……白すぎ」
遠藤が笑う。
「人形みてー」
放たれた言葉が脳に届く前に、遠藤の骨張った手が、俺の手首を掴む。
その瞬間、手首から背中へと、ぞわぞわとした寒気が走った。
「……や、めろ……っ!」
腕を思いきり引いて、その手から逃れる。
けれど、遠藤の動きは素早かった。
もう一度俺の手首をつかまえると、反対の手で袖を撫で上げようとする。
ダメだ!
それは人の目にさらしてはいけないものなのに。
また「気持ち悪い」なんて言われたら……
逃げようとすればするほど、掴む手に力が入る。
ギリギリとした痛み。
不快な熱が這い上がってくる。
「うわっ、マジで……」
遠藤が何か言おうとしたとき、戻ってきた渡と目が合った。
表情は分からないけど、ハンカチを持った手がピクッと動く。
やめろ!
助けるな!
俺が昨日、あんなことした意味がなくなるだろ。
目をぎゅっと瞑ったそのとき―――
「おい、遠藤」
聞き覚えのある、低い声だった。
息が止まる。
背筋が冷たくなる。
手首を掴まれた痛みよりも、肌を這う不快感よりも、体の奥底から湧き上がる恐怖に支配される。
遠藤は動きを止めて、舐めるようにそいつを見上げた。
「なんだよ、雅人」
楽しいゲームを邪魔されたみたいな、不機嫌な声。
でも、俺や渡に話しかけるときとは違う、どこか怯えたような声。
俺は後ろを振り返ることもできず、ただ体を固くしていた。
「こんなやつ、どうでもいいだろ。それより、こないだの話どうなったんだよ。女子大生と合コンするってやつ」
遠藤は俺への興味を失ったらしい。
「おー、それがさぁ」
あっさりと俺の手首を離し、立ち上がった。
そのまま机の横を通り過ぎ、雅人と教室を出て行った。
少しだけ、肩の力が抜ける。
赤くなった手首。
袖を直しながら、そっと撫でる。
渡は何か言いたげに、顔だけ俺に向けたまま席についた。
頼むから何も言うなよ。
その目から逃れるように顔を背ける。
渡にはこんな姿、見られたくなかったのに。


日差しが降り注ぐ屋上。
まだ夏の気配はそこかしこに残っていて、生温い風と、青空に浮かぶうろこ雲が、曖昧なコントラストを作っている。
「あー、清々する」
うっとおしいメガネとマスクをはぎとる。
熱くなったコンクリートの上に、大の字で寝転んだ。
長く伸ばした前髪が、汗でべっとりと額に張り付いている。
それでも、背中から伝わる熱が、今はむしろ心地良い。
立ち入り禁止の屋上には、俺の他に誰もいない。
一人で静かに過ごせる場所を探して、上へ上へと拠点を移動していた。
そんなある日、屋上の鍵が壊れていることに気づいた。
それ以来ここが、校内で自分をさらけだせる唯一の居場所になっている。
それに、この日差しは俺にとって、願ってもないものだ。
ちょっとは日焼けできるはず。
寝転がったまま、袖をまくる。
ついでにズボンの裾もまくって、生白い足をさらした。
「焼けろ〜、焼けろ〜」
呪文のように唱える。
目を閉じると、校庭の喧騒も、久しぶりに聞いた雅人の声も、何もかもが遠ざかった。
ああ、最高に気持ちいい。
「――みぃつけた!」
うつらうつらしていた俺の顔に降り注いだ声。
最初は夢を見たんだと思った。
でも、その声に妙な違和感を覚えて……
パッと目を開けると、目の前にはメガネとマスクが浮いている。
「え?……渡?」
そう言うと、そいつはにっこり笑った。
と言っても、逆光のせいでほとんど見えないんだけど。
ただ、そんな気がしただけ。
「お昼誘おうと思ったのに、古川くん、どこにもいないからさ」
のっそりと起き上がった。
俺の傍らであぐらをかいている渡の顔が、ぐっと近くなる。
「なんだよ、びっくりした」
「探しながら階段上がってきたら、ちょっとドアが開いてたから」
「ああ…」
「まさか、こんなとこにいたなんてね」
渡は立ち上がり、伸びをするように両手を広げた。
「あー、いい気持ち」
だよな。
それは俺も同感。
青空に溶けていくみたいなそのシルエットが眩しくて、目の前に手をかざす。
そのとき、初めて気づいた。
「……やべぇ」
掠れた声しか出せないまま、自分の顔をペタペタと触る。
心臓がゴトンと、変な音を立てた。
「メガネとマスク!」
這いつくばるようにして、キョロキョロと見回す。
「どこだ?!……あっ」
なんてことはない。
お弁当箱の隣にちゃんと置いてあった。
手を伸ばして引き寄せる。
と、その手をそっとすくい上げる、別の手があった。
顔を上げた先には渡。
いつの間にか、俺のすぐ前にしゃがみ込んでいる。
すくい上げた俺の手を、自分の口元まで持っていく。
メガネの奥の目が、じっと俺を見つめていた。
時間が止まる。
あ、こいつの目、いい形してるじゃん。
アーモンド型ってやつか。
それに、きれいな二重。
頭の中だけがうるさい。
渡がふっと息を吐き出して、俺の時間もやっと動き出した。
「……ごめん、勝手に見ちゃって。そんなつもりじゃなかった」
申し訳なさそうに眉を寄せる。
急に恥ずかしくなって、顔を俯けた。
「いいよ、別に。俺も、油断してたから」
渡が俺の手の中から、メガネとマスクを取り出して、脇に置いた。
「もう見ちゃったし、今さら隠さなくても良くない?」
そう言った声がやけに艶めいていて、俺はコクンと喉を鳴らした。
「で、でも……!」
「ん?」
「……ちょっとハズい、っていうか」
屋上を吹き抜ける風が、俺の前髪を揺らす。
渡は一瞬だけ、眩しそうに目をそらした。
「俺も、見せるからさ。顔」
そう言って、離れかけた俺の手をそのまま包み込む。
……なんでだろう。
遠藤に触られたときは、鳥肌が立つほど嫌だったのに。
渡だったら不思議と嫌じゃない。
それに、思いがけず素顔を見られてしまった。
丸裸にされたような気分なのに、今はもっと見てほしいなんて思ってしまっている。
雅人に見つめられたあの日とは、全然違っていた。
怖くてたまらないはずなのに。
それでも―――
今はこの手を離したくなかった。