鏡を見る度、『女みてぇ』と吐き捨てた雅人の声が頭の中に響く。目立たない鼻、ぽってりした唇、ほとんど伸びていない身長。
あの夏の日以降、俺は人前で顔をさらすのをやめた。それは高校に入っても変わらなかった。
わざと前髪を伸ばして、マスクに伊達メガネをかける。どんなに暑くても、半袖は着ない。
色白に拍車をかけていることは分かっていた。でも、自分の白い手足を見るたびに、嫌悪感がせり上がってくる。
当然、クラスメイトからは遠巻きにされている。今じゃ空気みたいな存在だ。いてもいなくても変わらない。俺一人いなくなっても、誰も気づかないんじゃないか?
それが今の俺。
チラッと右斜め前を見る。
窓際の一番前の席。背中を丸めて、顔を伏せているが、その存在感は消せない。あの高身長じゃ、マスクとメガネをかけているほうが、逆に目立っている。
渡純也。
ニ年になって初めて、その存在を知った。
俺と同じく、顔を隠している。俺と同じなのかもしれない。なんて勝手に思っているけど、夏休みが明けてもまだ一回も話したことがなかった。
その肩を、ちょんちょんとつつくやつがいた。
始業式後の席替えで、渡の後ろの席になった遠藤だ。
俺とは一年のときも同じクラスだった。いわゆる陽キャってやつなんだろう。誰にでも遠慮なく話しかけて、教室の真ん中で馬鹿笑いしているような男だ。
今は隣の席のお仲間と、ニヤニヤと笑っている。そいつらのすぐ後ろにいる俺にはよく見えた。やけに鼻につく。
「渡ぃ〜、ちょっとこっち向けよ」
周りにわざと聞かせているような声。ああいうやつって、「俺、調子に乗ってまーす」って宣言したくてしょうがないんだろうな。その証拠に、黒板の前で固まる女子たちが忍び笑いを漏らしている。
渡は振り向かないまま、イヤイヤをするように首を横に振った。
あーあ、俺だったらそのイヤイヤですらしないのに。そうすれば、あいつらの興味はそのうち薄れる。
実際俺も、入学したてのころはよく絡まれた。「マスク取れ」だの「不細工なんだろ?」だの。余計なお世話すぎる。とことん無反応を貫いたら、そのうち飽きたらしいけど。
……渡ってなーんか、お人好しっぽいんだよな。
「おい、シカトすんなよ〜」
「そ、そんなことは……」
か細い声。
聞こえているのかいないのか、遠藤が渡のマスクのゴムに手をかけた。
「なんで真夏にこんなもん着けてるんだよ。よっぽど変な顔してんのか?」
「それは……。ほんと、やめて」
渡は取られまいと必死に押さえている。遠藤はなおも、執拗にゴムを引っ張っている。
さすがにやりすぎだ。
さっきまで笑っていた女子たちが、固唾を飲んで見守っているのに気づいた。
『俺には関係ない』
そう思っているはずなのに、椅子を引きずる音が鳴る。俺は無意識に立ち上がっていた。
「渡、先生が呼んでた。こっち」
教室中の視線が一斉に集まった気がして、じわじわと頬が熱くなるもうすでに後悔し始めていたけど、口から出た言葉は取り消せない。
遠藤の手が緩む。
渡がハッとして、マスクを押さえたまま立ち上がった。
「う、うん」
そのまま俺の席までくる。俺は渡の腕をとって、教室を出た。
その直前、「なんだよ、あいつ」と言った遠藤の声が聞こえた。俺だって、なんでそうしたかなんて分からない。
特に目的もなく廊下を歩き、たどり着いたのは埃っぽい美術準備室だった。内側から鍵を閉めてドアに寄りかかると、張り詰めていた空気が緩む。
「……ありがとう」
掠れた声で言う渡。俺はそのメガネの向こうの目を見据えた。
「お前さ、あーいうときは無視するんだよ」
「え?」
困惑したように瞳が揺れる。
「あいつらは反応を楽しんでるだけ。嫌がったり抵抗すればするほど、エスカレートするんだから」
腕を組み、日の当たらない床を見つめながら続ける。
「俺みたいに空気になりゃいいんだよ。そうすりゃそのうち飽きる」
人前で顔をさらし、何かを言われる恐怖から比べれば、空気のほうがよっぽどマシ。
渡はしばらく黙ってから、首を横に振った。
「それは、できない」
「はぁ?なんでだよ、そのほうが楽だろ」
「だって……」
その声は少しだけ震えている。
「無視したら、俺がここにいる意味が本当になくなっちゃう気がして」
胸の中にズドンと鉛が落ちてきたようだった。
いてもいなくても変わらない。俺はそれでいいと思っていた。
でもこいつは……必死に自分を守ろうとしながらも、この世界から自分の存在が消えるのを拒んでいる。怯えて閉じこもっていた俺とは違う。
「お前、馬鹿正直すぎるだろ」
その言葉は渡に言ったのか、自分に言ったのか……
「でも」
渡が一歩、俺に近づいた。
「助けてくれて嬉しかった。古川くん、ありがとう」
そう言って細めた目の奥が、キラッと光ったような気がして、目をそらした。
教室へ戻ると、ホームルームはとっくに終わっていた。
今はまばらに人が残っているだけ。遠藤たちの姿もない。あれだけ絡んできたくせに、さっさと帰るんだな。俺たちなんて、その程度の存在なんだろう。
「古川くん、電車?」
「おう」
「じゃあ、一緒に駅まで行かない?」
リュックを持ち上げようとした手が止まる。
自慢じゃないが、顔を隠すようになってから、俺に『一緒に行こう』なんて言うやつはいなかった。あれこれ理由を聞いてくるやつはいたけど、俺が黙っていると、みんな離れていったし。
ムズムズする背中にリュックを背負う。
「……好きにすれば」
少しだけマスクを浮かせて答えると、渡は「うん」と言ってついてきた。
俺の一歩後ろを歩く。
下駄箱で靴を履き替えて、玄関を出るころには、肩が横に並んだ。
「古川くんって、いつからそれなの?」
それって……?
横目で渡を見ると、両手を使って自分のメガネとマスクを指差す。その仕草がなんだかおかしくて、口元に手の甲を当てた。
「俺は、中二から」
聞かれたから答える。ただそれだけだった。他のやつだったら絶対言わないのに。
「そっか。俺は高校から」
軽い調子で答える。
渡は俺と同じく長袖のワイシャツを着ているが、ひじまで袖をまくっている。
ほどよく日焼けした腕。筋と血管が浮いている。実際、さっき教室で触れたときも、硬い張りを感じた。
俺よりも頭一つ分、上にある顔を見つめる。
俺がいつか手に入れられると思っていたものを、こいつは当たり前みたいに持っている。なんでそんなやつが……
「……なぁ、なんでお前……」
言いかけて口を噤む。
踏み込まれたくないやつが他人に踏み込んじゃダメだろ。そもそも、俺には関係ないし。
「何?」
「……いや、なんでもない」
それだけ答えると、渡が話題を変えた。わざと変えたのかもしれない。
「古川くん、視力悪い?」
「いや、これ、度は入ってない。渡もだろ?」
「うん、よく分かったね」
「まぁ……」
改札を通った先で、渡が振り向いた。
「古川くん、明日も一緒に帰らない?」
俺はマスクの位置を直しながら、ふっと顔をそらす。
「……気が向いたらな」
そう答えて背を向けた。
不思議と、胸の奥の鉛が少しだけ軽くなっているのを感じる。鏡の中の自分は大嫌いなままだし、雅人の言葉が消えたわけじゃない。
それでも――
明日学校に行くのが嫌じゃないと思う自分がいた。
あの夏の日以降、俺は人前で顔をさらすのをやめた。それは高校に入っても変わらなかった。
わざと前髪を伸ばして、マスクに伊達メガネをかける。どんなに暑くても、半袖は着ない。
色白に拍車をかけていることは分かっていた。でも、自分の白い手足を見るたびに、嫌悪感がせり上がってくる。
当然、クラスメイトからは遠巻きにされている。今じゃ空気みたいな存在だ。いてもいなくても変わらない。俺一人いなくなっても、誰も気づかないんじゃないか?
それが今の俺。
チラッと右斜め前を見る。
窓際の一番前の席。背中を丸めて、顔を伏せているが、その存在感は消せない。あの高身長じゃ、マスクとメガネをかけているほうが、逆に目立っている。
渡純也。
ニ年になって初めて、その存在を知った。
俺と同じく、顔を隠している。俺と同じなのかもしれない。なんて勝手に思っているけど、夏休みが明けてもまだ一回も話したことがなかった。
その肩を、ちょんちょんとつつくやつがいた。
始業式後の席替えで、渡の後ろの席になった遠藤だ。
俺とは一年のときも同じクラスだった。いわゆる陽キャってやつなんだろう。誰にでも遠慮なく話しかけて、教室の真ん中で馬鹿笑いしているような男だ。
今は隣の席のお仲間と、ニヤニヤと笑っている。そいつらのすぐ後ろにいる俺にはよく見えた。やけに鼻につく。
「渡ぃ〜、ちょっとこっち向けよ」
周りにわざと聞かせているような声。ああいうやつって、「俺、調子に乗ってまーす」って宣言したくてしょうがないんだろうな。その証拠に、黒板の前で固まる女子たちが忍び笑いを漏らしている。
渡は振り向かないまま、イヤイヤをするように首を横に振った。
あーあ、俺だったらそのイヤイヤですらしないのに。そうすれば、あいつらの興味はそのうち薄れる。
実際俺も、入学したてのころはよく絡まれた。「マスク取れ」だの「不細工なんだろ?」だの。余計なお世話すぎる。とことん無反応を貫いたら、そのうち飽きたらしいけど。
……渡ってなーんか、お人好しっぽいんだよな。
「おい、シカトすんなよ〜」
「そ、そんなことは……」
か細い声。
聞こえているのかいないのか、遠藤が渡のマスクのゴムに手をかけた。
「なんで真夏にこんなもん着けてるんだよ。よっぽど変な顔してんのか?」
「それは……。ほんと、やめて」
渡は取られまいと必死に押さえている。遠藤はなおも、執拗にゴムを引っ張っている。
さすがにやりすぎだ。
さっきまで笑っていた女子たちが、固唾を飲んで見守っているのに気づいた。
『俺には関係ない』
そう思っているはずなのに、椅子を引きずる音が鳴る。俺は無意識に立ち上がっていた。
「渡、先生が呼んでた。こっち」
教室中の視線が一斉に集まった気がして、じわじわと頬が熱くなるもうすでに後悔し始めていたけど、口から出た言葉は取り消せない。
遠藤の手が緩む。
渡がハッとして、マスクを押さえたまま立ち上がった。
「う、うん」
そのまま俺の席までくる。俺は渡の腕をとって、教室を出た。
その直前、「なんだよ、あいつ」と言った遠藤の声が聞こえた。俺だって、なんでそうしたかなんて分からない。
特に目的もなく廊下を歩き、たどり着いたのは埃っぽい美術準備室だった。内側から鍵を閉めてドアに寄りかかると、張り詰めていた空気が緩む。
「……ありがとう」
掠れた声で言う渡。俺はそのメガネの向こうの目を見据えた。
「お前さ、あーいうときは無視するんだよ」
「え?」
困惑したように瞳が揺れる。
「あいつらは反応を楽しんでるだけ。嫌がったり抵抗すればするほど、エスカレートするんだから」
腕を組み、日の当たらない床を見つめながら続ける。
「俺みたいに空気になりゃいいんだよ。そうすりゃそのうち飽きる」
人前で顔をさらし、何かを言われる恐怖から比べれば、空気のほうがよっぽどマシ。
渡はしばらく黙ってから、首を横に振った。
「それは、できない」
「はぁ?なんでだよ、そのほうが楽だろ」
「だって……」
その声は少しだけ震えている。
「無視したら、俺がここにいる意味が本当になくなっちゃう気がして」
胸の中にズドンと鉛が落ちてきたようだった。
いてもいなくても変わらない。俺はそれでいいと思っていた。
でもこいつは……必死に自分を守ろうとしながらも、この世界から自分の存在が消えるのを拒んでいる。怯えて閉じこもっていた俺とは違う。
「お前、馬鹿正直すぎるだろ」
その言葉は渡に言ったのか、自分に言ったのか……
「でも」
渡が一歩、俺に近づいた。
「助けてくれて嬉しかった。古川くん、ありがとう」
そう言って細めた目の奥が、キラッと光ったような気がして、目をそらした。
教室へ戻ると、ホームルームはとっくに終わっていた。
今はまばらに人が残っているだけ。遠藤たちの姿もない。あれだけ絡んできたくせに、さっさと帰るんだな。俺たちなんて、その程度の存在なんだろう。
「古川くん、電車?」
「おう」
「じゃあ、一緒に駅まで行かない?」
リュックを持ち上げようとした手が止まる。
自慢じゃないが、顔を隠すようになってから、俺に『一緒に行こう』なんて言うやつはいなかった。あれこれ理由を聞いてくるやつはいたけど、俺が黙っていると、みんな離れていったし。
ムズムズする背中にリュックを背負う。
「……好きにすれば」
少しだけマスクを浮かせて答えると、渡は「うん」と言ってついてきた。
俺の一歩後ろを歩く。
下駄箱で靴を履き替えて、玄関を出るころには、肩が横に並んだ。
「古川くんって、いつからそれなの?」
それって……?
横目で渡を見ると、両手を使って自分のメガネとマスクを指差す。その仕草がなんだかおかしくて、口元に手の甲を当てた。
「俺は、中二から」
聞かれたから答える。ただそれだけだった。他のやつだったら絶対言わないのに。
「そっか。俺は高校から」
軽い調子で答える。
渡は俺と同じく長袖のワイシャツを着ているが、ひじまで袖をまくっている。
ほどよく日焼けした腕。筋と血管が浮いている。実際、さっき教室で触れたときも、硬い張りを感じた。
俺よりも頭一つ分、上にある顔を見つめる。
俺がいつか手に入れられると思っていたものを、こいつは当たり前みたいに持っている。なんでそんなやつが……
「……なぁ、なんでお前……」
言いかけて口を噤む。
踏み込まれたくないやつが他人に踏み込んじゃダメだろ。そもそも、俺には関係ないし。
「何?」
「……いや、なんでもない」
それだけ答えると、渡が話題を変えた。わざと変えたのかもしれない。
「古川くん、視力悪い?」
「いや、これ、度は入ってない。渡もだろ?」
「うん、よく分かったね」
「まぁ……」
改札を通った先で、渡が振り向いた。
「古川くん、明日も一緒に帰らない?」
俺はマスクの位置を直しながら、ふっと顔をそらす。
「……気が向いたらな」
そう答えて背を向けた。
不思議と、胸の奥の鉛が少しだけ軽くなっているのを感じる。鏡の中の自分は大嫌いなままだし、雅人の言葉が消えたわけじゃない。
それでも――
明日学校に行くのが嫌じゃないと思う自分がいた。



