君の前では隠せない。

 元カノが現れてから二日。俺と渡はまだぎこちないままだった。

 渡は何も言わないけど、俺の態度が変なのは明らかだ。遠藤や山崎さんの心配そうな視線にも気づいている。

 でも、今までと同じじゃいられない。見つめた目から、触れた手から、気持ちが伝わってしまうんじゃないか。そんな錯覚から、俺はうまく話せなくなっていた。

 「おいおい、渡クン。あの美人、誰だよ」

 遠藤に肩をつつかれた渡は、ちょっと困ったように振り向いた。

 「誰って?」

 「とぼけんな。昨日、校門のところにいた子だよ」

 「あぁ」

 渡がふっと微笑む。そんなふうに笑う渡を見たくなくて、机につっぷした。

 あの子、昨日も来てたんだ……。渡のこと待ってたんだろうな。一緒に帰ったのかな。

 「幼馴染だよ」

 「幼馴染ぃー?ただの幼馴染がわざわざ迎えに来るかよ」

 「まぁ……」

 含みをもたせた『まぁ』
 遠藤が呆れたようにため息をつく。

 「なんだよ、俺はてっきり……」

 またこっちを見ているような気がして身をよじる。

 俺は元カノのことを聞けなかった。渡も何も言ってこない。聞きたくなんかない。それなのに、どうしようもなく寂しい。

 そんな俺の肩をトントンとたたく手があった。のっそりと体を起こし、前は見ないまま振り向く。

 「……雅人?」

 なんで、雅人が?

 「担任がプリント取りに来いって。千歳、日直だろ?」

 「あ、あぁ……」

 雅人に続いて歩き出す。ほんのちょっとだけど、今までみたいな怖さは和らいでいた。昨日、雅人の笑顔を見たからかな。

 「古川くん!」

 渡の声に振り返る。じっと見つめてくる瞳に、嫌でも熱が上がる。

 そっか。きっと俺を心配してくれてるんだな。やっぱり優しい。でも、大丈夫だよ。

 メガネのブリッジを押し上げる。それなのに――

 「古川くん、運ぶの手伝うよ」

 やけに必死な顔。

 なんでだよ。ちゃんと合図しただろ?『ほっとけ』って。

 そのとき、雅人が俺と渡の間に割って入った。

 「俺が手伝うから大丈夫」

 「……は?」

 眉を顰める俺に、雅人は慈しむような笑顔を浮かべる。それから、確定事項みたいに俺の肩を押した。

 渡の探るような視線に気づく。俺が小さく頷くと、渡も頷き返した。

 「行くぞ」

 「あ、うん」

 雅人のあとについて廊下に出る。しばらく押し黙っていた。

 「……あのさ」

 雅人の低い声が響く。

 「千歳、前よりも楽しそうだよな」

 「うん、楽しいよ」

 「良かった……」

 呟くように言った雅人の横顔は、懸命に白球を追っていたあのころと同じだった。

 「……俺、ずっと謝りたかった」

 「え?」
 「あの日、千歳に言ったこと」

 ずっと頭の中に響いていた言葉。最近は、思い出すことも少なくなっていた。俺の傷は、確実に薄れていた。

 「本当はあのとき、きれいだなって思った。白い肌も、唇も。……それなのに、俺はまだガキで。『気持ち悪い』は千歳じゃなくて、自分に言った言葉だったんだ」

 「雅人……」

 「夏休み明け、メガネとマスクを着けてきた千歳を見て、ものすごく後悔した。俺を見るたびに怖いって顔して……俺はなんてことを言ってしまったんだろうって」

 「違うよ。俺が……弱かったから」

 雅人は寂しそうに笑って、首を横に振った。

 「ごめん、千歳。……ごめん」

 俺が苦しんでいたのと同じように、雅人も苦しんでいた。俺は逃げてばかりいたから、それに気づけなかったんだ。

 「雅人。俺、もう大丈夫になったから」

 「……渡がいるから、だろ?」

 小さく頷く。

 「あーあ、ふられた」

 「それは……ごめん」

 雅人の肩をたたくと、ふわっと笑う気配がした。

 『気持ち悪ぃ』も『女みてぇ』も、全部渡が上書きしてくれた。俺をただ俺として受け止めてくれた。ちゃんと前を向くことを教えてくれた。誰にも見えていなかった俺を見つけてくれた。

 やっぱり隣にいたい。……だから、もう俺は逃げちゃだめなんだ。



 教室へ戻ると、渡が駆け寄ってきた。
 泣いているとでも思ったんだろうか。視線がせわしなく俺の顔の上を移動する。

 「古川くん、メガネとマスクは?」

 「うん……もういらない」

 俺が笑うと渡も笑った。

 「今度は逃げなかったね」

 肩に置かれた手の熱が、俺の中に入り込んでくる。
 呼応するように高鳴る胸。この感情はずっと前から知っていた。気づいたときには零れそうなほど満ちていた。

 「……あのさ、渡」

 「ん?」

 「話したいことがある。放課後、生首公園で待っていてほしい」



 学級日誌の最後に書いた『古川千歳』の文字。きっと、今までで一番上手に書けた。
 渡がすくい上げてくれた俺という存在が、今、確かにここにいる。

 「よし!」

 一人唱えて、リュックを背負う。

 初めて話した日、渡が「一緒に帰ろう」と誘ってくれたことを思い出して、鼻の奥がツンとなった。

 靴を履き替えて玄関を出る。何人かの生徒とすれ違うけど、知った顔はいなかった。こんなふうに見逃してしまったものが、俺にはたくさんあるんだろう。

 「あ!ねぇ、君」

 聞き覚えのある声に顔を向ける。

 「あ……」

 渡の元カノだ。

 今日も待ってたんだ。 でも、あいつはもう生首公園にいるはず……。どうやら行き違いになったらしい。

 「ちょっと話、いい?」

 「すみません、急いでて」

 「ちょっとだけだから!」

 「はぁ……」

 話があると言われたのに、たっぷり三分は経ってから彼女は口を開いた。

 「私のこと、聞いてる?」

 「前のことだったら」

 惚気話じゃないだろうな?今、どんな関係かなんて聞きたくもない。

 「そっか」

 「……」

 「あのね、私、後悔してるんだ」

 「……それって、あいつを信じてあげなかったことですか?」

 彼女は泣きそうな顔で首を振った。

 「噂を鵜呑みにしたわけじゃないの。でも不安でたまらなくて、それなのに純也に問いただすこともできなくて……一方的に別れを告げた」

 「あいつ、すごく傷ついたと思います」

 ずっと好きだったんだから。……もしかしたら、今も。

 「ちゃんと向き合えなかった。ぶつかれなかった。自分の気持ちをさらけだすのが怖くて、こんなドロドロの気持ち、引かれるんじゃないかって」

 さっきまで冷たかった手が、じわじわと熱を持つ。

 渡はちゃんと受け止めてくれたはず。あいつはそういうやつだ。俺が試すようなことを言っても怒らなかった。それどころか、いくらでも試していいと言ってくれた。
 俺がこれから言おうとしていることだって、きっと真剣に聞いてくれる。結果がどうであっても……。

 彼女のきれいな瞳から涙が落ちるのを、どこか冷めた気持ちで見つめた。

 それってやっぱり、あいつのこと信じてあげなかったってことじゃないか。

 「純也、変わったよね」

 少し責めるような口調にムッとする。

 「それは……」

 「あっ!」

 「え?…………うわぁ!」

 ふいに掴まれた手首が信じられないほど冷たくて、俺は思わず叫んでいた。

 「純也!」

 「え!わ、渡?」

 「……何してんの?」

 手と同じくらい、冷たい声。彼女を見つめる目は、鋭く細められている。

 「古川くんを傷つけるつもりなら……」

 「ちょっ!違う違う!そんなんじゃないから!」

 あまりの剣幕に、なだめるように渡の胸を押す。

 彼女が一歩、俺たちに近づいた。

 「純也、やっぱり変わった」

 震える声。彼女の目がみるみるうちに赤くなる。

 渡が俺の耳元に顔を寄せた。

 「ごめん、古川くん。今日はやっぱり先に帰って。話はまた明日にしよう」

 「で、でも」

 「……古川くん」

 渡がかけていないはずのメガネのブリッジを持ち上げる仕草をした。『放っておいて』の合図。ルール、守らないと……。
 それなのに、どうしても足が動かない。

 彼女がまた一歩近づく。

 「前はもっと優しかった。みんなにそうだったけど、私には特別優しかった。でしょ?そんな怖い顔する人じゃなかったのに。なんで?私のせい?私が傷つけたから?」

 彼女の目からポロポロと涙がこぼれる。

 行かないと……。渡がそれを望んでる。俺がここにいちゃいけない。俺にしてあげられることは何もない。でも――

 ぎゅっと目を瞑り、よろけそうになる足を踏ん張る。

 「ちょっ、ちょっといいですか!?」

 渡が驚いた顔で俺を見る。彼女が涙に濡れた瞳をパチパチと瞬いた。

 「古川くん?」

 「なんなの?あなた」

 「……た、確かに渡は優しいし、馬鹿みたいにお人好しだけど、それだけのやつじゃねーよ!」

 情けなく震える手で、コートの裾を握る。

 「ビビりだし、変なとこ頑固だし、そのくせ人のこと守ろうとして、ちゃんと弱いところも受け止めてくれる」

 そろっと目を開けるけど、誰の顔も見れない。目の奥から熱いものがこみ上げてくる。

 「もちろん傷つくし、泣くことだってあります。でも、こいつが変わったのはただ傷ついたからってだけじゃなくて、こいつ自身が変わろうとしたから。ちゃんと頑張ってるんです!そこを見てやってください」

 頬を流れる涙が、白いマフラーに染み込んでいった。

 俺が口を閉じると、一気に静まり返る。帰りがけの生徒たちが、驚いた顔で足を止めている。

 お、終わった……。何言っちゃってんだ、俺。

 カーッと顔が熱くなって、乱暴に頬を拭う。リュックの紐を思いっきり引っ張った。

 「じゃ、じゃあ、俺はこれで!」

 一歩、二歩と後ずさりし、くるっと背中を向けた俺の手首を、渡の手が掴まえた。さっきみたいに冷たくなくて、こんなときなのになぜかホッとする。

 「なみちゃん、ごめん」

 いつもの穏やかな渡の声だった。

 「昨日も伝えたけど、なみちゃんの気持ちには答えられない」

 渡に手を引かれて、トンと肩がぶつかる。

 「俺、心から大事にしたいと思える人ができたから」

 渡を見上げる。夕日に照らされたその顔は、信じられないほど強くて、また俺の心臓がうるさくなった。

 「純也……やっぱり変わった」

 彼女がふっと微笑む。乾き始めた涙が、頬の上でキラキラ輝いている。

 「努力、したんだね。私も変わらないとね」

 晴れやかな笑顔は今までで一番きれいだった。きっと、それが彼女の素顔なんだろうと思った。