君の前では隠せない。

 数日前から舞っていた風花が、今年の初雪の便りを届けてくれていた。

 12月に入ったばかりの今日。
 キーンと冴え渡る放課後の空気の中に、チラチラと白いものが混ざっている。手のひらに落ちたそれは、あっという間に溶けてなくなった。儚くて、きれいな雪だった。

 「渡ー!雪ー!」

 渡を待っていた美術準備室には窓がない。玄関を出て初めて、校庭がうっすら白くなっていることに気づいた。

 「うわぁ、ほんとだぁ」

 後から来た渡が子どもみたいな声を上げる。

 「はぁー、どうりで寒いと思った」

 「積もるかなぁ」

 「いや、すぐ溶けそー」

 「積もったら一緒に遊びたいね」

 のほほんと言うその顔には、もうメガネもマスクもなかった。

 なんで隠すのをやめたのか、渡に聞いても「だって古川くんがいるから」としか言わない。
 俺がいつでも守ってやれると思ってるんだろうか。言っとくけど、そんなに万能じゃないぞ。

 一方の俺。
 温度差で曇ったメガネを、一旦外して頭の上に乗せる。マスクのゴムを外すと、ふわっと白い息が浮かんだ。
 学校の外ではこんなふうに顔を出せるようになったけど……。まだ俺には鎧が必要みたいだ。雅人の氷のような視線が刺さる教室では、特に。

 「今日は後輩だった?」

 「うん、まぁ」

 俺がわざと軽い調子で聞くと、渡は困ったように眉尻を下げた。その顔はいつもより少し大人っぽくて、なぜだか目が離せなかった。

 「……返事、どうした?」

 「断ったよ」

 あれから渡は、連日のように女の子から呼び出されている。先輩、同級生、後輩……。『すぐ終わるから』と言われ、美術準備室で待つのが俺の日課になっていた。
 長くても30分。本を読んでいればすぐだ。それを過ぎると集中力が切れる。
 早く来いよ、と思いながら、パラパラとページを弾く。
 今のところは全部断ってるらしい。今のところは、だけど。

 「今日の子は泣き出しちゃって、ちょっと大変だったかも」

 「……そうか」

 泣くほど好きなんだな。こいつお人好しだから、断るのしんどかっただろうな。

 ふいに渡の涙を思い出す。
 なんでだろう。あのときは、何も感じなかったのに。今ごろになって思い出しては、ヒリヒリ痛くなる。
 マフラーの端をくしゃっと握るけど、雪の冷たさが心の中にまで染みてくるようだった。

 「ふふ……指、真っ赤だよ。手袋しないの?」

 「あぁ。欲しいんだけど、いまいち気に入るの
 がなくて」

 かじかむ指先を見つめていると、ポスッと手のひらに何かが乗った。

 使い捨てカイロだ。

 「それあげる。古川くん用だから」

 「いいのかよ。渡の分は?」

 「ちゃんとあるよ」

 渡はコートのポケットから手袋をはめた右手を出して、さらさらとカイロを振った。

 「左手は古川くんにあっためてもらうから」

 「……何言ってんだよ」

 ふっと笑う。
 左のポケットに収まったその熱は、渡みたいに優しい。冷めてほしくないな。ずっと温かいままでいてくれよ。

 校門を出て、駅のほうに向かう。
 そのとき、聞き慣れない名前と、いやに高い声が耳に届いた。

 「純也!」

 俺の足がピタリと止まるのと、渡が振り返るのがほぼ同時だった。

 制服の上に着たダッフルコート。ふんわり巻かれたラベンダー色のマフラー。ウェーブがかった長い髪は、映画館で見たときと変わっていない。

 渡の元カノだ……。
 校門の端、俺が林先輩に迫られた壁際。雪の妖精さながらたたずむ姿は、通り過ぎる男子生徒の目を、これでもかというほど惹きつけていた。

 「久しぶり」

 迷いのない足取りで歩み寄ってくる。隣にいる俺を一瞥すると、懐かしさと甘えるような熱を含んだ瞳で渡を見上げた。

 「純也、会いたかった」

 鈴を転がすような声は、幼い子どもみたいに無邪気だ。

 彼女がまた一歩近づく。
 二人が並び立つ姿は、パズルのピースみたいにぴったりで、なんの違和感もない。俺の存在なんて、空気みたいに透きとおっていく。そんな感覚に、左ポケットのカイロを強く握りしめた。

 「なみちゃん、どうしたの?」

 渡の声は、驚くほど冷静だった。映画館であれほど体を強張らせ、青ざめた顔をしていたのに。なんの合図も出せず、『相手を信じて動く』というルールのもと、俺が逃がした渡はもういなかった。

 「あのね……」

 彼女がチラッと俺を見る。渡もその目線に気づいて俺を見た。

 「ごめん、古川くん。いつものところで待ってて」

 気遣うような言い方が、逆に痛い。

 俺は一歩、後ずさった。

 「ごめん、渡。……俺、帰る」

 それだけ言って歩き出す。

 「古川くん?!」

 渡の呼びかけに、振り返ることも足を止めることもしなかった。

 「純也!待って!」

 彼女のすがるような声が聞こえて、とうとう走り出す。

 俺はまた逃げた。渡からも、渡の隣にいることからも。
 心のずっと深いところで叫んでいた何かが、ゆっくり浮上してくるのを感じた。



 朝の教室は眩しい光が差し込み、昨日の雪なんてなかったみたいにカラッとしている。
 完全武装した俺の頭には、いつもの声が降ってきた。

 「古川くん、おはよう」

 一瞬の沈黙。

 「……はよ」

 「昨日、大丈夫だった?ちゃんと帰れた?」

 「なんでだよ、子どもじゃねーんだから」

 「雪で滑らなかったかなーって」

 「だから子どもかって」

 いつもと変わらない、からかい混じりの会話。でも、俺だけがどこかよそよそしかった。
 渡が俺の前の席に座った。

 「だって、連絡しても返事くれないから」

 「あー、悪ぃ。寝てた」

 逃げるように帰ったあと、俺は夕飯も食べず、泥のように眠った。渡と彼女が並んで笑い合う、そんな夢ばかり見ながら。

 「え、具合悪かったの?」

 「いや、全然」

 夢見が悪くて、ちょっと頭が痛いだけ。ズキズキするこめかみをもむと、渡が心配そうに俺を見た。

 「はい、これ」

 渡が俺の手をとって、カイロを乗せた。

 「古川くん用だから」

 昨日のカイロはとっくに冷めてしまった。
 いつまでも温かくいてくれなんて、そんなの無理に決まってる。でも、また戻ってきた。両手で持って、マスクの上から頬に押し当てる。

 「……あったかい」

 呟くように言うと、渡が顔をそらした。

 「あー、やばい。ふいうち」

 ……なんだよ。やっぱり意味分かんねぇ。
 渡の赤くなった耳を見ていると、俺まで熱が上がってくる。
 それと同時に、胸の奥が甘く疼いた。
 意味分かんねぇのは俺の方だ。

 「古川くん、今日は一緒に帰れる?」

 「どうせ今日も呼び出しだろ?俺、先に帰る」

 チャイムが鳴って、渡が自分の席に戻った。

 相変わらず斜め前にある背中。夏よりずいぶん背筋が伸びている。その背中が少し寂しそうで……。ずっと寂しそうだったらいいのにな、なんて考えて、自分の太ももを痛いくらいつねった。

 ただ隣にいられればいいと思ってた。そうすれば、俺は強くなれるから。でも、そんな優しい気持ちじゃなかった。

 渡の隣にいるのは俺だけがいい。他の人に明け渡したくなんてない。俺の心のずっと奥底に潜んでいたのは、そんな勝手すぎる願いだった。

 この気持ちに、ようやく名前がついた。
 いつからかなんて分からない。きっと、ずっと前から。

 俺、気づくの遅すぎだろ。自覚した途端、失恋したかもしれないなんて。ごまかしようのないほど痛い心臓が、俺の渡への想いを叫んでいた。



 放課後。
 渡は呼び出された視聴覚室へ。俺は玄関に向かうべく、リュックを背負って廊下に出た。

 「千歳」

 ガヤガヤする廊下に、はっきり響いた低い声。
 肩がビクッと跳ねる。さすがに気づかないふりはできなかった。リュックのひもを握りしめて、おずおずと振り向く。

 教室のドアの近く。何も持たない雅人が、足を一歩出した状態で止まっていた。
 まさか、俺を追いかけてきた?何か話があるのか?

 雅人は一度だけ周りを見回すと、また俺に視線を戻す。ゆっくりとその手が上がった。ぎこちない笑顔を浮かべて、「バイバイ」と手を振る。

 いつも冷たい視線を向けてくるのに。その笑顔は少しだけ懐かしくて、なんだか泣きそうになった。

 ……なんで、こうなっちゃったんだろう。

 あの夏の日までは、俺と雅人は普通の同級生として他愛ない話をすることもあった。

 夏休み明け、変わってしまった俺を見て、雅人はどう思ったんだろうか。
 俺が顔を隠さなければ。あんな言葉、笑って聞き流せれば。自分の弱さに、後悔の波が押し寄せる。今さらそんなことを考えても仕方ないって分かってる。

 自分でも気づかないうちに、耳朶をもんでいた。
 『助けて』の合図。

 助けてほしいわけじゃなかった。でも、ここに渡がいてくれたら、どうしようもない過去とも向き合える気がした。

 渡は今ごろ、告白の言葉を聞いているんだろう。当然、来るはずなんてなくて……。俺もいい加減、自分でどうにかしないと。

 震える手を必死に持ち上げる。そして、横に動かした。

 「バ……バイバイ」

 大きく見開かれた雅人の目が、次の瞬間には柔らかく細められていた。