君の前では隠せない

水族館に行ってから、早くも2週間。
季節は本格的な冬に突入していた。
周りの人たちもマスクをつけはじめていて、俺たちも浮くことなく過ごせるようになったのに。
それに反比例するように、渡は学校でもマスクを下げていることが多くなった。
マスクの内側が結露するのが嫌らしい。
そんな渡を女子たちが放っておくはずがなく……
「渡くんってあんなにイケメンだったんだ」
「なんで顔隠してたんだろうね。もったいない」
「私、話しかけてみようかな」
そんな声がちらほら聞こえ始めた。
そして今日、とうとう隣のクラスの女子に呼び出された。
「古川くん、放課後すぐ終わるから待っててよ」
「お前、大丈夫なのかよ」
呆れ半分、心配半分。
今もマスクを顎まで下げて、メガネなんてもうとっくに外している。
「大丈夫だよ」
俺の前の席に、向かい合うように座る渡。
不思議なことに、同じクラスの女子だけは、渡の素顔を知っても態度を変えない。
それどころか、生温かく見守るような視線を感じることが増えた。
ほら、今も。
「だって『お互いを信じて動く』でしょ?」
渡が上目遣いで俺を見る。
……うっ。
お前、その顔ずりぃんだよ。
自分の可愛さ、分かっててやってるだろ。
こうなっても、同盟を解散するなんて考えはないらしい。
「分かってるよ。でも、無理すんなよ」
「やっぱり古川くんは優しいね」
「……あっそ」
机の下で、足をせわしなく組み替える。
「それに言ったでしょ?俺、今は誰にでも優しいわけじゃないって。……ちゃんと大事なものだけ掴んでおきたいから」
渡が俺の前髪に手を伸ばす。
教室の前のほうから「きゃあ」なんて悲鳴が上がって、渡の手がピクッと跳ねた。
そっちに視線を向けるけど、女子たちは一斉に天井を見上げている。
虫でもいたのか?
行き場を失った渡の手は、そのまま自分の後ろ髪を梳いた。
じんわり赤くなった耳。
なんでだろう。
ドキドキする。
「おーい、お前ら」
遠藤の顔が横から現れて、「ひゃっ」なんて変な声が出る。
だから、心臓に悪ぃんだって!
「なんだよ、びっくりした!」
遠藤の目が、うらめしそうに俺と渡の間を行き来する。
「教室でやめろよ。女子が喜んでる」
「何をだよ!」
喚くように言うと、遠藤の視線が渡の顔の上に固定された。
「古川ってより、渡クンですけどねー」
渡はなぜかまた顔を赤くしてはにかんだ。
今の、笑うところか?
「で?何か用かよ」
吐き捨てるように言うと、遠藤は待ってましたとばかりに椅子を引き寄せて座った。
「前、古川に相談のってもらったじゃん?」
ん?そんなことあったけ?
答えを求めて、遠藤の頭上を見つめる。
「おい、なんで忘れてるんだよぉ!恋愛相談!思い出して!」
遠藤が俺の肩を掴んで揺さぶった。
その腕を静かに押さえる渡。
遠藤を見る目がちょっとだけ怖いような……
気のせいか。
「あ、悪ぃ、渡クン」
いや、謝るの俺にだけどな?!
別にいいけど。
「それがどうしたんだよ」
「いやぁ、実はあのときの子と付き合うことになってさぁ。一応、報告っつーか」
「マジで?良かったじゃん」
遠藤は照れたようにこめかみをかいている。
基本的に嫌なやつのはずなのに、不思議と嬉しさがこみ上げてくる。
『優しすぎる男はどうなんだ』とか『危険を感じさせる男になりたい』とか。
いろいろ聞かれたけど、はたして俺の意見は参考になったんだろうか。
「どうやったの?男として意識してもらうために」
渡が突然興味をそそられたように身を乗り出した。
そういえば俺にも聞いてたな、それ。
また胸の奥が締め付けられる。
まぶたの裏に白いワンピースがちらついた。
「あのとき古川言ってただろ?言わなきゃ伝わんねーって。だからすぐ告白したんだよ」
「そしたら?」
「一回目はふられた。でも諦められなくて、五回目の告白でオッケーもらえたんだよ」
「へぇ」
渡は感心したように言って、遠藤をまじまじと見つめている。
「それ、怖くなかったの?今の関係がなくなるかもしれないでしょ?」
「そりゃ怖かったに決まってんじゃん。でも、好きだから」
堂々と言い放った遠藤が少しだけ眩しい。
渡の視線が一瞬だけ俺に向けられた。
「遠藤くんってすごいんだね。俺にはまだそんな勇気ないかも」
「何それ……」
思わず呟く。
「ん?」
「いや、なんでもない」
今の話、参考になったのか?
参考にしてほしくない。
手をぎゅっと握ると、爪が手のひらに食い込んだ。
「だから頑張れよ、渡クン」
自分の席に戻る遠藤の背中を見つめる。
今の言い方……
「お前、遠藤になんか相談してんの?」
ホームルームのチャイムが鳴った。
渡は俺の頭にポンと手を乗せて、「さぁね」と言いながら立ち上がった。
なんでだ。
胸がざわざわする。
渡が俺以外のやつに相談してるっぽいのもそうだけど。
もっと、心のずっと深いところで何かが叫んでいるような、そんな気がする。
それが浮き上がってこないように、俺は長く細く息を吐き出した。

放課後、教室に残った渡を、校門の外で待つ。
渡には校舎内で待つよう言われたけど、俺が嫌だった。
メガネが曇ってしまい、外して頭の上に乗せる。
首元を吹き抜ける風に、白いマフラーを引き寄せた。
すぐ終わるって言ってたのに。
まだかな。
早く来てくれないかな。
そわそわと落ち着かない指先は、すっかり冷え切っている。
マスクを顎まで下げて、白い息を吹きかけた。
「あれ?」
呼びかけられた声に、バッと振り向く。
渡じゃなかった。
でも、見覚えのある顔。
「えっと……林先輩?」
「うっそ!君、猫喫茶の子だよね?」
「あっ……」
油断してた。
あっさりバレてしまった。
シークレットだったはずなのに。
山崎さん、せっかくかばってくれたのに、ごめん。
ルールを作ってくれた遠藤も、それを守ってくれたクラスメイトも。
心の中で、いろんな方面に頭を下げる。
「やっぱり男の子だった。化粧してなくても可愛いね。名前、教えてよ」
「えーっと……それは……」
「え、だめ?じゃあ、連絡先教えて」
名前も連絡先も、同じことじゃないか?
「それもちょっと……」
今さら遅いけど、マスクを引き上げる。
「いいじゃん。ていうか、なんで隠すの?可愛い顔、もっと見せてよ」
この人、なんでこんなグイグイくるんだよ!
可愛いなんて言われても、一ミリも嬉しくないんだけど。
先輩が無遠慮に俺のマスクに手をかける。
爪が俺の頬を掠めて、ジンジンと痛くなった。
それでも、マスクを取られるのだけは嫌だ。
「ちょっ、やめてください」
押さえる俺の指を、先輩のガサガサした手が捕まえる。
笑ってる目の奥が怖い。
背中がゾクリと冷たくなる。
「ちょっとだけ、ね?」
壁際に追い詰められ、とうとうマスクを剥ぎ取られる。
先輩の口からチロっと赤い舌が覗いて、生温い息がかかる。
「やっぱ可愛い」
なんなの、この人。
怖すぎるんだけど。
「やだ……助けて……」
渡……!
喉が絞られたように狭くなって、声がうまく出ない。
目をぎゅっと瞑る。
渡……助けて……
「お前なんかが触るんじゃねぇ!」
ガツン、という鈍い音とともに、俺を押さえていた手が離れた。
「いってー!何すんだよ!」
ハッとして目を開ける。
一粒の涙が、下まぶたを滑った。
渡が立ちふさがるように俺の前に立っている。
肩で息をして、その腕にはいつも背負っているリュックを抱えている。
先輩が地面に尻もちをついて、頭の横を押さえた。
「あ、お前、あのときのやつだろ!」
渡はその言葉を無視して、俺を振り返る。
こんなに怒ってる顔、初めて見た。
リュックを背負うと、俺の手を強く握った。
俺と同じくらい震えている。
「走るよ!」
それを合図に、俺たちは足をもつれさせながら駆け出した。

息を切らして逃げ込んだのは、生首公園だった。
いつも荒れ果てていて、だから人がいなくて、学校帰りによく渡と話をする。
俺にとっては隠れ家みたいな場所。
木々は緑から茶に移り変わり、夏のような勢いはなくなっている。
それでも、一歩踏み入れると、ホッと肩をなでおろした。
走ってきたから二人ともしばらく口をきけず、膝に手をつく。
しばらくして、渡が俺の手を引いた。
いつものベンチに肩を並べる。
「古川くん、大丈夫?」
「渡、助けてくれてありがとう」
渡は辛そうに眉を寄せて、首を横に振った。
「俺が遅くなったから、古川くんをあんな目に合わせた。……ごめん」
今度は俺が首を振る。
「違うよ。お前のせいじゃない。俺が教室で待ってれば良かったのに……」
間違っても見たくなかった。
こいつが告白されるところなんて。
「怖かったよね」
「渡が来てくれたから、もう大丈夫」
「ほんと?」
「……うん」
あのとき、渡の背中が見えて、どんなに安心したか。
先輩の笑っていない目の奥を思い出して、また身震いする。
「あ!赤くなってる」
ふいに俺の頬に添えられた渡の手。
渡だったらちっとも怖くないのに。
温かい手に撫でられたくて、すり寄るように頬を寄せる。
その瞬間、ピリッとした痛みが走った。
触ると、頬にミミズ腫れのようなこんもりした膨らみがあった。
空を握った渡の手が白くなっている。
俺はそこに自分の手を重ねて、包みこんだ。
「大丈夫だから」
なんだよ……
なんで渡が泣きそうな顔してるんだよ。
胸の奥が苦しくなる。
「あいつ、絶対許さない」
雅人といい、林先輩といい、渡の『あいつ』呼ばわりの基準は、きっと俺なんだろうな。
「先輩さ……」
渡を落ち着かせるように、静かな声を出す。
「俺のこと、化粧してなくても可愛いって言ってた」
「あいつの言ったことなんか、気にしないでよ」
「分かってるって。……でも、渡だって俺のこと可愛いってよく言うよな?」
「それは……」
言葉が続かない。
渡は唇を引き結んで、自分の靴の爪先なんか見ていた。
「なぁ、俺ってやっぱり『女みてぇ』?」
ハッとした渡の顔が、少し滲んで見える。
渡が否定してくれることを前提にした質問。
俺、ずりぃかな。
でも、今だけは傷つきたくない。
渡は言いかけた言葉を飲み込むように、喉を上下させた。
「古川くんは古川くんだよ。かっこいいも可愛いも、古川くんだから言うんだよ」
答えは否定でも肯定でもなかった。
胸のつかえがとれていく。
全身に血が巡るように、渡の言葉が俺の指先まで温める。
でも、渡のほうはちょっと怒ったらしい。
唇をとがらせて、俺をジトリと睨む。
「俺、他の人には絶対言わないから。あいつと一緒にしないでよ」
「ご、ごめん……」
素直に頭を下げる。
渡がふっと笑って、俺の手に指を絡めた。
「分かってるよ。俺のこと試していいから。それで古川くんが安心できるなら、いくらでも」
そんなつもりじゃなかった。
でも、俺は試してたんだ。
渡はそれを責めることなく、全部分かってるみたいに受け止めてくれた。
また一つ、渡を信じてみようと思えた。