君の前では隠せない。

 水槽から少し離れた場所。俺たちは人だかりの後ろで身を潜めていた。

 「ふ、古川くん、いっぱい人いるね」

 「だな……」

 そこそこ人気の水族館。しかも休日。潮風を受けて意気揚々と入館したはいいものの、あまりの人の多さに圧倒されていた。

 「やっぱりメガネとマスク、着ける?」

 不安そうに揺れる言葉。一瞬だけバッグの金具を触る。渡は無意識なのか、耳朶をもむように触った。
 それは『助けて』の合図……。
 逃げてしまおうか。そんな考えを振り切るように、渡の手を取った。

 「いや、行くぞ」

 離れないようにきつく指を絡める。渡がそっと握り返してきて、ようやく俺の足が前に出た。
 人波を縫って進む。

 「あ、すみません」

 途中、子どもを連れたお父さんらしき人にぶつかったけど、水槽に夢中で全然気づいていない。
 俺たちのことなんか誰も見ていないんだ。そんなことは分かってるんだけど、染み付いた自意識は簡単には消えてくれない。

 「うわ!でっかいカニ!見て見て、古川くん」

 水槽の前に出た。
 隣で渡がはしゃいだ声を出して、強張っていた体が一気にほどける。口を半開きにした横顔は子どもみたい。

 「すごいな。うまそう」

 「感想、それで合ってるの?」

 「間違ってはないだろ」

 渡が笑って、繋いだままの俺の手をぐいっと引いた。トン、と肩がぶつかる。

 「古川くんって、やっぱり頼りになるね」

 「そうか?」

 「そうだよ」

 いつの間にか人の目が気にならなくなって、二人してはしゃぎながら歩く。

 楽しい……。こんなに楽しいの、久しぶりかもしれない。

 サメやらクマノミやらを見て、海中トンネルに入った。360度、水に囲まれた青い世界。悠々と泳ぐ魚たちを下から眺める。

 「こいつらも人に見られるとストレスを感じるらしいぞ」

 「へぇ、そうなんだ」

 「だから人間側の照明を暗くして、カモフラージュするんだってさ」

 人の視線は時々残酷だ。さっき俺がカニを見て「うまそう」って言ったのだって、カニからすればとんでもない脅しだろう。
 そうやっていろんな視線にさらされて、怯えながら生きていく。狭い水槽の中は安全だけど、逃げられない。

 「古川くん、あるマンボウの話なんだけどね」

 イワシの群れを目で追いながら、渡が言った。青い光に照らされた顔は、慈しむような微笑みを浮かべていた。

 「その子、水族館にお客さんが来なくなったら、エサを食べなくなっちゃったんだって」

 「なんで?」

 「寂しくなったみたい」

 「そうなのか?そのマンボウはどうなったんだ?」

 「どんどん弱っちゃったみたいだよ」

 いつしか離れていた手を、どちらからともなく繋ぎ直す。青い光に包まれた俺たちは、水の中に溶けてしまいそうだ。

 俺もそのマンボウみたいに、渡がいなくなったら弱っていくのかもしれない。渡のいない水の中は、ちゃんと呼吸ができるのだろうか。

 「行こう」

 今度は渡が俺を引っ張って、トンネルを抜けた。

 「古川くん、見て!クラゲ」

 半透明のクラゲが、小さな水槽の中を上へ下へと泳いでいる。

 「えへへ、可愛い」

 「渡ってなんでもかんでも可愛いって言うよな」

 「だって、ふわふわしてて古川くんみたいだなって」

 だから俺、そんなキャラでやってきてないんだってば。優しいとかふわふわしてるとか、渡の中で俺のイメージってどうなってるんだろう。とんでもなく美化されているのかもしれない。

 「クラゲって毒があるんだぞ」

 「古川くんの毒だったら刺されてもいいかも」

 「お前ってマゾ?」

 「違うよ」

  渡が少し笑う。

  「古川くんの毒なら、平気ってこと」

 「やっぱりマゾじゃん」

 渡がぷくっと頬を膨らませて、思いっきり手を握る。それなのに全然痛くないから不思議だ。俺も負けじと握り返して、二人して吹き出した。

 「ねぇ、あの人かっこいい。パーカーの」

 ふいに若い女性の声が聞こえて、動きが止まる。

 「隣の子、恋人かなぁ」

 ヒュッと吸った息が、そのまま逃げ場を失う。当たり前のように手を繋いでたけど、他人からどう見えるかなんて考えてなかった。
 慌てて離す。それなのに――

 渡は逃さないみたいに俺の手首を掴んだ。アーモンド型の澄んだ目が見つめてくる。どうやら俺は、これにとことん弱いらしい。

 「大丈夫だよ」

 「……うん」

 「古川くん、そろそろプラネタリウム行かない?」

 黙って頷いた俺に、渡はくらげみたいなふわふわの笑顔を向けた。俺も渡の毒だったら刺されてもいいかも。そんなことを考えて、こっそり笑った。



 水族館よりもっと暗い劇場内。足元の照明を頼りに、指定されたシートに着く。
 プラネタリウムも同じく人気の場所で、ほとんどの席が埋まっていた。
 でも、さっきまでの賑やかさとは違う。静かなざわめきが広がっていて、星の声を聞いてるみたいだな、なんて柄にもなく思う。

 「水族館、楽しかったね」

 隣から囁くような声が聞こえた。
 腕がぴったりくっつくような感覚に、鼓動がちょっとだけ早くなる。

 「そうだな」

 「服屋さんも」

 「うん」

 「今日、全部楽しかった」

 「俺も」

 「また一緒に来ようね」

 やがてBGMとナレーションが始まって、完全に暗闇に包まれた。
 宇宙に放り出されたような、そんな錯覚に肩を震わせる。渡の手が、そっと俺の手に重なった。その手の温もりが、俺を地上に繋ぎ止めてくれる。

 「ちょっとだけ怖いから、こうしててもいい?」

 「……いいよ」

 映画館で俺が言った言葉、まだ有効なのかよ。

 頭の上いっぱいに、星の光が瞬いた。小さく笑って、照らし出された渡の横顔を見る。

 最初は俺と同じだと思っていた。でも違ったんだ。

 こいつは俺よりずっと前を向いていて、危なっかしくて、守ってやらなきゃって。それなのに気づいたら守られていて、支えになってくれて。
 俺は空気でいい、一人で生きていくんだと、ずっと思っていたのに。肩を並べて歩けるのが嬉しくて、触られるとくすぐったくて、どうしようもなく恥ずかしくなる。

 この気持ちに名前をつけることは、今はまだできない。それでも、ずっと一緒にいたいって思ってもいい?