君の前では隠せない。

 お昼過ぎになって、篠原さんが復活した。

 篠原さんの頭痛は『天気痛』というらしい。
 「雨が降ると楽になるんだよね」と言った通り、灰色の空からポツリポツリと水が落ちていた。このまま接客を続けてもいいと言われたけど、謹んで辞退させてもらう。

 「ごめん。衣装、俺なんかが着ちゃって」

 「全然大丈夫だよ。気にしないで」

 「……うん」

 「それにしてもびっくりした!メイクめっちゃ可愛いよ」

 「あ、ありがとう」

 篠原さんがメイク落としを貸してくれて、いつもの俺に戻った。洗面台の鏡をじっと見つめ、メガネとマスクを着ける。うん、やっぱりこれが落ち着く。

 廊下に出ると、渡が壁に寄りかかっていた。

 「あれ?休憩?」

 「うん、山崎さんに頼んで……古川くんもこのまま休憩行っていいって」

 「そうか……」

 さっきまでの格好を思い出すと、なんとなく気恥ずかしい。渡もそんな俺の様子に気づいたのか、廊下の奥に目を向けた。

 「古川くん、すごく可愛かったよ」

 「そうか?」

 「でも、思っちゃった。今」

 「……何を?」

 「いつもの古川くんが一番いいな、って」

 ……それ、ずりぃだろ。
 渡の言葉は、いつも俺をまるごと包んでくれるみたいに柔らかい。

 「お前って、たまにハズいこと言うよな」

 渡はいたずらっぽく笑う。

 「ハズいついでに言うけど、あいつに……川村に言い返したとき、めちゃくちゃかっこよかった」

 メガネ越しのアーモンド型の目が、俺の視線を捕らえる。急にいたたまれなくなって、くるっと後ろを向いた。

 『可愛い』に『かっこいい』
 今日は一生分の褒め言葉をもらった気分だ。どっちも最初にくれたのが渡だった。
 だからだ。
 特別な宝物みたいに、心の奥底にしまっておきたいと思えるのは。

 「……ありがとな。お前のおかげ」

 背中を向けたままの俺の顔を、渡が後ろから覗き込んだ。

 「古川くん、照れてる?」

 「……照れてねーし」

 あはは、と笑った渡が、俺に手を差し出す。

 「一緒に回るって約束したでしょ?行こう」

 俺はその手を見つめる。

 ……手、繋ぐってことか?そんなの無理だろ。

 「おう」

 照れ隠しに、パンッとその手を叩く。

 「お疲れ!」

 渡がメガネの奥で目を伏せた。

 「もう、また違ってる。……まぁ、いいや。時間なくなっちゃうよ」

 「そうだな」

 肩を並べて歩き出す。やっぱり不審者っぽくてちょっと笑えるけど、今日くらいは許してもらおう。



 一通り教室を回ってお腹がすいたころ、俺たちは階段を上がっていた。着いたのは屋上の手前、階段の踊り場。
 ドアからのぞくと、いつも俺が寝転んでるコンクリートには、あちこち水たまりができていた。さすがに今日は出られない。
 階段の一番上に腰かける。文化祭の喧騒から離れたこの場所は、ぷっかりと浮かび上がった船みたいだ。

 「うわぁ、こんなに食えんのかよ」

 ガサガサと袋を覗き込む。
 三年の廊下を歩いていたら、浮かれた先輩たちが何かとサービスしてくれた。ここに着くころには、二人してずっしりと重たい袋を下げていた。

 「まぁ、何とかなるでしょ」

 「そうだな」

 俺はともかく、背の高い渡はいっぱい食べる。まだ成長期らしい。羨ましすぎるんだけど。

 「食べよう。いただきます」

 「いただきます」

 二人とも素顔になった。

 俺はたこ焼き、渡は焼きそばのパックを開ける。

 「うん、おいしい」

 「労働のあとのメシはうまいな」

 「なんか……おやじくさいよ」

 「ほっとけ」

 渡が俺の手元を覗き込む。

 「ん?……ほら」

 串を差し出すと、素直に口を開ける。

 「え、お前食うの?」

 「うん、古川くんがくれるの待ってた」

 「待つなよ」

 「優しいから」

 「……あのなぁ」

 呆れつつ口の中に放り込む。渡は形のいい口をもごもごと動かした。

 「なんか犬みてー」

 「……わん」

 一瞬、時間が止まる。
 みるみる顔が赤くなる渡。自分で言って照れている。
 ……なんだそれ。
 思わず吹き出した。

 「あ、飲み物買うの忘れたね」

 渡が突然思い出したように手をたたく。俺たちしかいない階段に、その音が響いて消えていった。俺は笑いを堪えつつ、渡の肩に手を置いた。

 「俺買ってくるよ。何がいい?」

 「い、いいの?じゃあ、コーヒーで。無糖の」

 ……大人め。

 一つ下の階に下りたところの、すぐ横の自販機に行く。俺はオレンジジュース、渡にはコーヒーを買う。

 戻ると、渡は珍しくスマホをじっと見つめていた。俺の足音にも気づかないくらい、真剣な表情。薄暗がりの中で、スマホのライトがその横顔を映し出す。指が何度も画面を滑る。

 ……誰と連絡してるんだろ。

 ふと、映画館で会ったあの人の顔が浮かぶ。
 渡の元カノ。白いヒラヒラしたワンピースを着て、渡にお似合いのきれいな人だった。あれから仲直りでもしたのかもしれない。今日の文化祭に呼んだのかも……。

 そう考えた瞬間、胸の奥がチクリと痛んだ。外の雨まで重く見えてくる。
 ……なんでだよ。俺には関係ないはずだろ。

 「渡、お待たせ」

 思ったよりも低い声が出る。渡がハッとしたように顔を上げた。ちょっと気まずそうに目を泳がせる。

 なんだよ、その反応。俺が邪魔したみたいじゃんか。

 「ほら、コーヒー」

 「うん、ありがとう」

 お金を受け取って、隣に座る。渡は俺と反対側の床に、スマホを伏せて置いた。
 その仕草に、胸がざわつく。

 「何?誰かと連絡取ってんなら、別に遠慮しなくていいのに」

 なぜか、ぶっきらぼうな言い方しかできない。

 「え、違うよ」

 「ふーん。……もしかして今日、誰か誘ったのか?」

 「……誰かって、誰?」

 探るような視線に、最後のたこ焼きを一口で頬張る。
 なんでこんなにモヤモヤしてるんだよ、俺。
 ゴクンと飲み込むと、つかえたみたいに喉が苦しくなった。

 「例えば……元カノ……とか」

 口の中だけで呟く。

 俺、何言ってんだ?なんで渡のこと、責めたくなってるんだろう。
 ダメだと思うほど、勝手にこぼれだす言葉。

 「ずっと好きだったんだろ?だから……」

 そのとき、渡の薄い唇の端が、ゆるりと上がった。

 なに笑ってんだよ。

 ムッとして唇をとがらせる。渡は俺の顔をしばらく見つめると、へにゃりと目尻を下げた。

 「違うって。今はもうそういうんじゃないから。あのね……」

 渡はさっき伏せたスマホを持ち上げて、ロックを解除すると、俺に見えるように画面を突きだした。

 「ここ、行かない?」

 「ん?……ここって……」

 映し出されていたのは、海辺の水族館だった。
 たまにテレビで芸能人が行っている、まあまあ人気の場所。プラネタリウムも併設されていて、デートスポットとしても知られている。

 「前、古川くんの行きつけの服屋さん行こうって約束したでしょ?」

 「……うん」

 「でね、その後、行きたいなと思って。一緒に」

 「なんだよ。まさか、それ調べてたのか?俺、てっきり……」

 「てっきり?」

 こてんと首を傾げる渡。俺は目を合わせられず、顔を背けた。

 勝手に勘違いして、ハズすぎる。モヤモヤしてんのも意味不明だし。まさか、自分がこんなにねちっこいやつだったなんて。

 「なんか、ごめん……」

 ぺこりと頭を下げて、渡に向き直る。渡は両手で顔を覆って、肩をぷるぷると震わせていた。

 「おい、笑うなよ」

 脇腹をつつく。

 「……違う。笑ってない。噛み締めてるだけ」

 「いや、笑ってんじゃん」

 渡の口角が上がってるのが見える。

 「違うし」

 しばらく黙る。

 俺の顔の熱が冷めたころ、ようやく渡が顔から手を離した。

 「で?行ってくれるの?」

 ジトリとした目で俺を見る。

 「おう。行こうぜ」

 「やった」

 子どもみたいに笑う渡を見て、つられて俺も笑った。

 窓の外では、雨が静かに校舎を濡らしている。文化祭のざわめきはまだ続いているのに、この階段だけは別の時間が流れているみたいだった。
 空気に徹し、人と関わることを避けていた俺は、こんな文化祭になるなんて想像もしなかった。
 強くなれたわけじゃない。 変われたわけでもない。でも、一歩だけ前に進めた気がする。
 その隣には、ちゃんと渡がいた。