俺たちの素顔同盟。

山崎さんの手が離れた。
俺は重たいまぶたを、おずおずと持ち上げる。
ほぅ、というため息が聞こえて、少しだけ怖くなる。
でも、後悔なんて一ミリもなかった。
これは俺が決めたことだから。
「山崎さん、ありがとう」
「ううん、こちらこそありがとう。衣装、大丈夫そう?」
ゆっくり立ち上がる。
鏡の前に立つと、俺じゃない知らない人がこっちを見返しているみたいだった。
篠原さんが着るはずだった、ブラウンのチェック柄ドレス。
少し小さいけど、キツイってほどじゃない。
確かめるように裾を揺らすと、ふわふわとしたペチコートが俺の太ももを撫でた。
スカートからは、俺の骨張った膝が見えている。
スースーして全然落ち着かない。
足首までの靴下にはレースがついていて、なんかチクチクした。
「変な感じするけど、大丈夫だよ」
紫の猫耳カチューシャに手を伸ばす。
俺の長い前髪が垂れ下がってこないように、上手いこと押さえてくれている。
長年隠れていた額は、何を塗ったのか、キラキラとした光が踊った。
まぶたが重かったのは、目が1.5倍くらい大きくなってるからか。
それから、俺の嫌いだった唇。
今は甘そうなピンク色に染まっている。
「すごい。器用なんだな」
「えへへ、よく妹のやってあげてるんだ」
「いいじゃん」
「じゃあ、行こうか。みんな待ってる」
山崎さんが俺の背中を軽く押す。
俺は自分で、衣装部屋となっている空き教室のドアを開けた。

教室に入って、一番最初に目が合ったのは遠藤だった。
「は?……お前、え?誰……」
遠藤が最後まで言い終わらないうちに、あちこちから歓声が上がる。
「え!古川くんだよね?」
「めちゃくちゃ似合ってる!」
「えー!マジで可愛いんだけど!」
「古川くんの顔、初めて見た!」
誰も笑わなかった。
誰も『気持ち悪い』なんて言わなかった。
少しだけ、殻を破れたような気がした。
駆け寄ろうとする女子たちより先に、渡が俺の隣に立つ。
「古川くん、顔……」
「うん、やっぱり隠さないことにした。せっかくきれいな衣装だから」
じっと見下ろす瞳は、すぐにへにゃへにゃと溶けてしまいそうなほど柔らかくなった。
「……ど、どうかな?」
「反則でしょ」
「え?」
「可愛すぎる」
その一言だけで、俺の顔に熱が集まる。
『可愛い』なんて、俺にとっては褒め言葉じゃないはずなのに。
渡に言われた『可愛い』は、心の中にすんなり納まった。
後ろから入ってきた山崎さんが、俺たちの肩をポンとたたいた。
「感動の対面はそのへんにして。ほら、仕事だよ」

開店と同時に次々とやってくるお客さん。
息つく暇もなく、注文されたものを運ぶ。
この際、自分がどんな格好をしているかは、一旦忘れることにした。
でも、これだけは忘れちゃいけない――
「お待たせしました……にゃ、にゃん。アイスティーとカルピスです……にゃん……」
やべぇ。
羞恥心で死ぬかもしれない。
あくまでも猫喫茶。
コンセプトは守るのが鉄則……
カーッと熱くなる顔に、必死の笑顔を貼りつける。
幼稚園くらいの女の子がまんまるの目で俺を見上げた。
電車で会ったあの子を思い出す。
「にゃんにゃん、ぴんくのおくち。きらきらちてるの〜」
唇のことを言われて、ちょっとドキリとする。
俺の一番のコンプレックス。
でも今のは……褒めてくれてるんだよな?
「ありがとう……にゃん」
ついでに頬の横で手を握って、おじぎするように動かす。
猫のマネ、これで合ってるのか?
分かんないけど、「かぁい〜」と笑ってくれたからよしとする。
「えぇー!君、誰?」
隣のテーブルから話しかけてきたのは、同じ制服を着た男子だった。
先輩?後輩?
いや、同級生かも。
「そ、それは、内緒です……にゃん」
「林先輩、この子はシークレットですにゃー」
山崎さんの知ってる先輩だったらしく、通りすがりに助け舟を出してくれた。
『古川の正体は他クラスにバラさない』
いつの間にかそんなルールができていた。
発案者は遠藤らしい。
マジでありがたい。
あいつ、基本的に嫌なやつだけど、時々いい奴になる。
「うわぁ、マジでタイプなんだけど。声からして男?骨格しっかりしてるし。こんな可愛い子いたの?」
……男だって見破られた。
それに『骨格がしっかりしてる』って。
変なところでちょっとだけ喜んでしまった。
「あの、ありがとうございます……にゃん」
ぺこりと頭を下げて立ち去ろうとすると、いきなり手首を掴まれた。
「お、おい!」
思わず地声が出てしまい、慌てて口を噤む。
先輩はケラケラと面白そうに笑った。
「ねぇ、写真は撮ってもいいんでしょ?」
「はぁ、SNSに晒さなければいいですけど……」
これもルールだ。
「よっしゃ!じゃあ、あっちで撮ろ」
立ち上がった先輩が指差したのは、俺たち美術班が作った渾身の撮影スポット。
ほとんどのお客さんがそこで写真を撮っていく。
俺は嬉しくなって、笑顔で先輩を見上げた。
「はい!…………にゃん」
危ない危ない。
一瞬、コンセプトを忘れかけてた。
先輩は急に真顔になったかと思うと、今度は俺の肩に腕を回した。
ぞわっと鳥肌が立つ。
でも……
一応、お客さんだ。
それに女の子ならともかく、男のくせにこれくらいで騒ぐのもどうなんだ。
抵抗するのをやめた俺を、先輩はそのままグイグイと撮影スポットまで押していく。
「いだっ!」
先輩が変な声を出して、俺の肩がふわっと軽くなった。
振り返ると……
「わ、渡!」
「お客さん、うちはお触り禁止ですよ」
「いたたたた!痛い!」
渡が先輩の手をひねり上げたらしい。
先輩は痛みに顔を歪めている。
メガネとマスクをつけて不自然に笑う渡は、妙な威圧感があった。
「だめだ!やめろ!」
渡がつけている黒いエプロンの胸元を、なだめるように軽くたたく。
「はぁーい」
あっさりと手を離すと、先輩は逃げるように出て行った。
その後ろ姿を見送って、渡に向き直る。
「もう!あの人、先輩なんだからな。変に目つけられたらお前が困るだろ?」
「だって、古川くんが合図くれないから」
「びっくりしただけだ。変に騒ぎ立てるな」
怒られた犬みたいに、しょぼんと肩を落とす渡。
ちょっと可愛い……って、いやいや。
俺は何考えてるんだよ。
「違う……俺が嫌だった」
「……え?」
「ねぇ、古川くん。顔出したからって、同盟は解散しないよね?」
なんでそんな不安そうな顔するんだ?
一方的に素顔をさらしたから?
ちょっと悪いことをしてしまったかもしれない。
でも、俺だって同盟を解散するのは嫌だ。
「するわけないだろ。顔出すのは今日だけだから」
安心させるように笑顔を見せる。
それを見て、渡もほころぶように笑った。
さっき先輩に見せた笑顔とは全然違っていた。
「あのー……」
「うわぁ!」
横から遠藤の顔が現れて、慌てて離れる。
……心臓に悪すぎる。
「いちゃいちゃしてるとこ悪いんすけど、仕事してもらっていいっすか?」
「いちゃいちゃなんて!」
恥ずかしさをごまかすように振り向いて、その光景に驚く。
さっきよりもお客さんが増えて、てんやわんやの大騒ぎになっていた。
「お、俺、仕事に戻るから!」
「うん、頑張ってねぇ」
ひらりと手を振った渡。
いや、のんびりしてないでお前も頑張れ。
ふと、遠藤の後ろ、少し離れたところから雅人が見ているのに気づく。
俺が反発したときは、たぶん怒ってた。
今はいつも通りの無表情で、何を考えているのか分からない。
背筋がゾクリとする。
雅人を怖いと思う気持ちはなくならない。
でも、俺の心臓が凍りつくことはなく、足もちゃんと動いた。
渡は俺を英雄だと言ったけど、いきなり強くなんてなれないって分かってる。
それでも――
俺は一人じゃない。
俺の隣には渡がいて、今はクラスのみんなもいてくれるから。