君の前では隠せない。

 「やばいやばい!カチューシャの予備ってどこだっけ?」

 「なぁ、椅子足りなくね?」

 「松本ー!ちょっとここだけ直して!」

 開場45分前。
 女子は着替えとメイクのために別室にこもり、男子は配置や内装の調整をしている。ドタバタと走り回るクラスメイトに混ざって、俺もガムテープ片手に右往左往していた。

 「古川、こっち!」

 「次、テーブルのほう頼む!」

 なんだ、この忙しさは。昨日あれほどチェックして、「明日は余裕だね」なんて言っていたのに。

 誰もいない教室に入り、ガーランドが落ちていないことにホッとしたのも束の間。一時間半後にはこんな状態だ。

 松本に呼ばれて、屋台風カウンターの枠組みを直す。これは大道具班の遠藤のアイデアらしいけど……。なんで喫茶店なのに屋台なのかは謎だ。

 「うん、大丈夫そう」

 最後のガムテープを貼って、ふーっと息をついた瞬間――

 「千歳、こっち来て」

 ふいに聞こえた低い声に、ビクッと肩が跳ねた。振り返ると、撮影スポットの裏に座る雅人が、俺をじっと見上げている。

 心臓が一気に凍りつく。縄で縛られたみたいに、体が強張る。

 さっと教室内を見回すけど、渡も誰かに呼ばれたらしく、工具箱を持って黒板のほうに向かっていた。

 これじゃ、助けは呼べない。

 怖い……行きたくない……嫌だ……。
 でも――

 今はそんなこと言ってる場合じゃないだろ!

 俺は自分に喝を入れるように、そっと太ももをつねって、雅人のところに行った。

 「……ど、どこ?」

 雅人は一瞬目を見開いて、すぐに前を見る。

 「これ、危ない」

 覗いてみると、背景を支えている板がはがれかかっていた。

 「……あ、うん。じゃあ、補強するからちょっ
 と退いて」

 裏側は狭くて、壁との間には一人分くらいのスペースしかない。それなのに、雅人は少し横にずれただけだった。
 ……見てなくていいから、違うところに行ってほしいのに。でも、何も言えない。
 仕方なく、雅人のすぐ隣に座り込んで、作業を始める。雅人は俺の手元を見ていた。

 口を開いたら溺れてしまうような、そんな沈黙が続く。

 「千歳、これ……」

 突然、雅人が俺の耳元に口を寄せた。

 息がかかる。

 その瞬間、ぞわぞわとした寒気が背中を這い下りた。

 ほんとに嫌だ……やっぱり無理……。

 指先が冷たくなり、感覚がなくなっていく。

 すがるように、息をかけられたほうとは反対の耳朶をつまむ。

 「古川くん!」

 聞き慣れた声だった。
  反射的に顔を上げる。
  視界の向こうに立っていたのは、渡だった。

 「古川くん、緊急事態だよ!早く来て!」

 渡は俺の腕を引っ張って立たせると、ぎゅっと手を握った。

 「……冷たい」

 ぼそっと呟く声に、顔を俯ける。渡の手が、一瞬だけ震えたような気がした。

 「行こう」

 「……うん」

 手を繋いだまま進む。

 外は相変わらず薄暗くて、廊下の蛍光灯の明かりが、時間の感覚を奪った。何人か、振り返ってまで見てくるやつがいたけど、俺はそれどころじゃない。

 「……早く……渡……」

 小さな叫びに応じるように、渡は足を早めた。

 美術準備室につく。先に俺を中に入れた渡が、後ろ手で鍵を閉めて、素顔になった。

 「大丈夫?」

 「……あ……分かんな……っ」

 ちゃんと最後まで答えられなかった。俺の目からは、せきを切ったように涙が流れた。

 「古川くん!」

 渡が俺のメガネとマスクを剥ぎとる。そのまま引き寄せられ、胸元に顔をうずめる。視界が真っ暗になって、俺は渡の腕の中にいた。

 しばらくそうしていると、俺の涙は恐怖の色を失った。

 「……ごめん、もう大丈夫」

 渡の胸をそっと押す。渡は俺の背中に手を添えたまま、少し体を離した。

 「古川くん、教えて」

 「……渡」

 「俺、ほんとはずっと聞きたかった。いつか話してくれると思ってたけど……今日はもう、何も聞かないでいるなんて嫌だ」

 渡のサラッとした前髪が、俺の額に重なる。逃げ場のない視線が俺を捕らえた。

 「あいつと……川村と何かあったの?」

 何もかも渡に話したい。話して、情けなくすがりつきたい。そんな思いが溢れてくる。やっぱり俺は、逃げてばかりの弱いやつなんだ。

 固く閉ざした口は、背中を撫でる渡の手で緩んでいく。

 「……中二のとき、雅人に言われたんだ。『気持ち悪ぃ、女みてぇ』って。……それだけ」

 渡の目が大きく開いた。
 その目に俺はどんなふうに映っているんだろう。いつも偉そうに渡を守るようなことしてたのに。

 「馬鹿みたいだろ。たったそれだけのことなんだよ」

 背中を撫でる手が、ぎゅっと拳を握った。一度は止まった涙が、また滲んでくる。

 「それなのに……鏡を見るたびに、あのときの雅人の言葉が頭の中に響くんだ……あのときの雅人の視線を思い出すと、焼きつくみたいに痛くなるんだよ」

 渡がまた俺を抱きしめた。とめどない涙が胸を濡らしていく。

 「古川くんって強いよ」

 優しい、でもはっきりした口調に、胸の奥が締め付けられる。

 「……俺なんか強くないだろ。さっきだって、ほんのちょっと勇気を出したけど、結局は逃げ出した」

 「ううん、強いよ。古川くんってさ、人が困ってたら放っておけないじゃん。文化祭の準備だってそうだった。そういう人、俺は強いと思う」

 「でも……」

 「俺ね、英雄ってそういう人だと思う。敵を倒す人じゃなくて、誰かを守ろうとする人。だから俺にとって、古川くんは英雄なんだ」

 渡の言葉は、俺の内側を撫でるみたいに温かかった。

 「でも、英雄にだって支えてくれる相棒が必要でしょ?俺、古川くんにとってそんな存在になりたい。こんな俺じゃ頼りないかもしれないけど」

 腕の中で頭を振る渡の袖を強く握った。

 「俺、変わりたい。どんなに怖くても逃げようとしない、お前みたいに」

 「俺だって怖いよ」

 渡は恥ずかしそうに笑った。

 「だから一人じゃ無理。でも、古川くんとなら頑張れる」

 「……うん」

 「古川くんも、一人で頑張らなくていい」

 俺の傷はずいぶん治りが遅いらしい。でも、渡と一緒ならいつか薄らいでいく。そんな気がして、小さく笑った。



 教室へ戻る。
 俺たちの姿を見つけた遠藤が、一瞬泣きそうに顔を歪めた。

 「お前ら、どこ行ってたんだよぉ!こっちは大変だったんだぞ」

 「え!何かあったのか?」

 慌てて駆け寄る俺の腕に、ふわふわした衣装を着た山崎さんが横から飛びついた。

 「古川くん、お願い!みーちょんが頭が痛いって」

 「篠原さんが?!大丈夫なの?」

 「大丈夫。今は保健室で休んでる」

 良かった。文化祭当日に体調不良なんて、気の毒すぎるだろ。

 「でね……」

 うるうると懇願するように見上げてくる山崎さん。ものすごーく嫌な予感がするんだけど。

 「みーちょんの代わりに、コスプレしてほしいの!古川くんに!」

 「え……えぇー……」

 どうしよう。無理すぎる。でも……。

 俺のことを受け入れてくれて、今日まで一緒に頑張ってきたクラスメイトが困っている。

 チラッと後ろを振り返る。渡が静かに微笑んだ。

 「俺でいいの?」

 「もちろん!」

 「……分かった。顔隠したままでいいなら、やってみるよ」

 前までの俺だったら、速攻で断ってた。
 でも、今は渡がいるから。一人で頑張らなくていいって、言ってくれたから。

 「古川くん、ありがとう!こっちに来て」

 山崎さんが俺の腕を引っ張って、一歩踏み出したとき――

 「だめだ」

 低く鋭い声が響いた。その場にいた全員が、声のほうを向く。
 雅人がゆっくり立ち上がった。

 「千歳はそういうの、無理だろ」

 「で、でも……」

 山崎さんが戸惑ったように、俺と雅人の顔を交互に見つめる。

 「また変な目で見られるぞ。やめとけ」

 俺の肩に力が入る。

 怖いからじゃない。
 ムカつく……。
 なんで雅人に、勝手に決められなきゃいけないんだ。
 もう逃げたくない。過去からも、俺自身からも。

 「俺がどうするかは俺が決める」

 一度だけ雅人の顔をまっすぐに見る。

 「山崎さん、どこで着替えたらいい?」

 「えっと……こっち」

 指差したほうに向かって、俺は先に歩き出した。