夜空が深い藍色をしているのは、その果てが有限だからだ。
そんなことを考えた事も無かった。
この絶望的な世界から、逃げたいと思っていても、いずれ壁に突き当たる。
つまり、言い換えれば、どこまで逃げたとしても、捕まえられてしまう。
無窮を指し示していると思っていた、北斗の針から、境界線を描くように星が流れている。
夏だというのに涼しいくらいの風が、腫れた頬を撫でていくなか、私はそんなどうでもいい事を考えていた。
波の音と風の声が交じり合い、過ぎていく。
沈む、と思ったのは、一瞬だった。
***
極大を迎えたペルセウス座流星群を、観測しようと思って、深夜に家を出た僕は、坂を下りた先に広がる浜辺へと急いでいた。
昨年奮発して購入した天体望遠鏡を片手に。
夏の夜の海は、どこまでも静かで、ただ僕と同じようなモノ好きな人間の影がいくつも見える。
家族連れだったり、恋人同士だったり。
まあ、僕は残念ながら一人なんだけれど。
看護師をしている母は夜勤中で家にいないし、父親は単身赴任中。
兄弟姉妹は居ない、一人っ子。
だから、こうやって深夜に家を抜け出すことはわけがない。
とはいえ、僕自身は、夜中に煙草をふかして原チャリでうろつくような、いわゆる不良予備軍の男子高校生ではなく、ごくごく一般的な男子高校生だ。
昨年入学した地元の高校では、天文部が無かったから、吹奏楽部を選ぼうと思ったのだが、うちの学校は公立では珍しく、吹奏楽に弦楽をプラスしたオーケストラ部がそれに該当する。
運動するのはあまり好きではないし、かといって絵を書いたり、パソコンに向かってプログラミングをするのも向いていない。
父が学生時代に、やはり吹奏楽部で使用していたというトランペットを譲り受けたため、なんとなく放課後の居場所として、部活を選んだと言っても過言ではない。
凡人という言葉が、まんま僕をあらわしている。
主人公にはけしてなれない、けれども物語には必要不可欠な脇役、といったところだろうか。
まあ、僕的にはあまり自分の立場みたいなものに、不満を感じているわけでもなく、ただ唯々諾々と日々を過ごしていた。
特別な悩みも無いし、唯一の趣味は天体観測だけれど、これはだれかと共有するような趣味では無いから、僕の世界は僕だけで完結していたといっても過言ではない。
そう、去年の八月。
夏休み中の、あの日。
流星群が流れる夜空の下で、あの光景を見なければ。
僕は、自分の見る世界に対して、なんの疑問も感じなかっただろうし、誰にも言えない秘密の重苦しさに、胃がひりつくような感覚を覚えることもなかったと思う。
レンズ越しに、ただ見ている事しか出来なかった。
暗い波間へと、躊躇いもなく足を踏み入れていく彼女の、あまりにも細い背中を。
足がすくんで、声が出なかった。
僕が安全なレンズのこちら側で震えている間に、不意に視界の端から弾丸のように飛び出していった影があった。
水しぶきが上がり、波の中から彼女を強引に引きずり出したその男は、およそ人を助けたと思えないくらいの無表情だった。
それが僕にとっては、最高にホラーだったのだ。
彼は他人の目など一切気にせず、ただ淡々とヒロインを連れ去っていく。僕の耳には救急車のサイレン音が響き、なぜか後ろめたくなって家までの坂を走って駆けあがる。
息が切れる。
足がもつれる。
夏の夜の生ぬるい空気が、肺を焼くように痛かった。
振り返ってはいけない気がした。
あの感情が完全に抜け落ちた男の横顔が、そして波間に沈んでいこうとした彼女の蒼白な顔が、脳裏にこびりついて離れない。
「……なんだよ、今のあれ」
誰にともなく吐き出した声は、自分でも驚くほど震えていた。
僕には、何もできなかった。
ただ望遠鏡という安全な壁の向こうから、彼女の絶望を消費していただけだ。
対して彼は、彼女を救うためなら世界がどうなろうと構わないというような、純度百パーセントの異常さで海へ飛び込んだ。
僕と彼との間にある決定的な違い。
それは正義感や勇気なんかじゃない。
もっと恐ろしくて、狂おしい『何か』だ。
空を見上げると、ペルセウス座の輻射点から、また一つ星が流れた。
それが、すべての嘘の始まりだった。
僕が永遠の傍観者に成り下がった、どうしようもなく残酷で、美しい夏の夜の出来事だ。
***
そんなことを考えた事も無かった。
この絶望的な世界から、逃げたいと思っていても、いずれ壁に突き当たる。
つまり、言い換えれば、どこまで逃げたとしても、捕まえられてしまう。
無窮を指し示していると思っていた、北斗の針から、境界線を描くように星が流れている。
夏だというのに涼しいくらいの風が、腫れた頬を撫でていくなか、私はそんなどうでもいい事を考えていた。
波の音と風の声が交じり合い、過ぎていく。
沈む、と思ったのは、一瞬だった。
***
極大を迎えたペルセウス座流星群を、観測しようと思って、深夜に家を出た僕は、坂を下りた先に広がる浜辺へと急いでいた。
昨年奮発して購入した天体望遠鏡を片手に。
夏の夜の海は、どこまでも静かで、ただ僕と同じようなモノ好きな人間の影がいくつも見える。
家族連れだったり、恋人同士だったり。
まあ、僕は残念ながら一人なんだけれど。
看護師をしている母は夜勤中で家にいないし、父親は単身赴任中。
兄弟姉妹は居ない、一人っ子。
だから、こうやって深夜に家を抜け出すことはわけがない。
とはいえ、僕自身は、夜中に煙草をふかして原チャリでうろつくような、いわゆる不良予備軍の男子高校生ではなく、ごくごく一般的な男子高校生だ。
昨年入学した地元の高校では、天文部が無かったから、吹奏楽部を選ぼうと思ったのだが、うちの学校は公立では珍しく、吹奏楽に弦楽をプラスしたオーケストラ部がそれに該当する。
運動するのはあまり好きではないし、かといって絵を書いたり、パソコンに向かってプログラミングをするのも向いていない。
父が学生時代に、やはり吹奏楽部で使用していたというトランペットを譲り受けたため、なんとなく放課後の居場所として、部活を選んだと言っても過言ではない。
凡人という言葉が、まんま僕をあらわしている。
主人公にはけしてなれない、けれども物語には必要不可欠な脇役、といったところだろうか。
まあ、僕的にはあまり自分の立場みたいなものに、不満を感じているわけでもなく、ただ唯々諾々と日々を過ごしていた。
特別な悩みも無いし、唯一の趣味は天体観測だけれど、これはだれかと共有するような趣味では無いから、僕の世界は僕だけで完結していたといっても過言ではない。
そう、去年の八月。
夏休み中の、あの日。
流星群が流れる夜空の下で、あの光景を見なければ。
僕は、自分の見る世界に対して、なんの疑問も感じなかっただろうし、誰にも言えない秘密の重苦しさに、胃がひりつくような感覚を覚えることもなかったと思う。
レンズ越しに、ただ見ている事しか出来なかった。
暗い波間へと、躊躇いもなく足を踏み入れていく彼女の、あまりにも細い背中を。
足がすくんで、声が出なかった。
僕が安全なレンズのこちら側で震えている間に、不意に視界の端から弾丸のように飛び出していった影があった。
水しぶきが上がり、波の中から彼女を強引に引きずり出したその男は、およそ人を助けたと思えないくらいの無表情だった。
それが僕にとっては、最高にホラーだったのだ。
彼は他人の目など一切気にせず、ただ淡々とヒロインを連れ去っていく。僕の耳には救急車のサイレン音が響き、なぜか後ろめたくなって家までの坂を走って駆けあがる。
息が切れる。
足がもつれる。
夏の夜の生ぬるい空気が、肺を焼くように痛かった。
振り返ってはいけない気がした。
あの感情が完全に抜け落ちた男の横顔が、そして波間に沈んでいこうとした彼女の蒼白な顔が、脳裏にこびりついて離れない。
「……なんだよ、今のあれ」
誰にともなく吐き出した声は、自分でも驚くほど震えていた。
僕には、何もできなかった。
ただ望遠鏡という安全な壁の向こうから、彼女の絶望を消費していただけだ。
対して彼は、彼女を救うためなら世界がどうなろうと構わないというような、純度百パーセントの異常さで海へ飛び込んだ。
僕と彼との間にある決定的な違い。
それは正義感や勇気なんかじゃない。
もっと恐ろしくて、狂おしい『何か』だ。
空を見上げると、ペルセウス座の輻射点から、また一つ星が流れた。
それが、すべての嘘の始まりだった。
僕が永遠の傍観者に成り下がった、どうしようもなく残酷で、美しい夏の夜の出来事だ。
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