シュレディンガーの三重奏

「別に、いつも通りやってくれば良いんじゃないの」

たった30分前に言われた言葉なのに、感情のない仄暗さをまとい始めていた。

駅へと向かう、いつもの道。
激込の、毎日乗っているはずの満員電車。

すべて、いつもと同じ。

ただ、ちがっているのは、降りる駅がJR根岸駅じゃなくて、横浜駅だってことだけ。

電車に乗っている時間が、いつもよりたった15分長いってことだけ。

そして……今日が大学入試当日ってことだけ。

(別にいつもと一緒じゃん……! 頑張れ、わたし)

『伊勢山皇大神宮』と書かれた赤いお守りを、右手でぎゅうと握りしめる。

歩いている人たちからは見えない。

だって制服のポッケの中で、静かに握りしめているから。

バスはきっと受験生でいっぱいだろうと思い、横浜駅から歩くことに決めていた。ただし、途中まで。途中からバスに乗ろうと決めていた。

先週ママと一緒に歩いた道を、記憶を辿るかのように……一歩一歩、踏みしめる。

ローファーとコンクリートの奏でる無機質な音が、わたしの鼓動を速くした。

(絶対、大丈夫)
(あれだけ練習したじゃん。大丈夫。大丈夫)

わたしと同じように、制服で坂を上る人たちが、ちらほらと目に入るようになってくると、いよいよ心臓が口から出そうなって、息が苦しくなる。

(絶対、受験生だよね……あの人たち)

できるだけ表情を見ないように、わたしはうつむき加減で後ろ歩いた。

目を上げると、背筋を丸めながら歩く人や、スマホをじっと見ながら歩く人たち。

どこか自信なさげに見えて、わたしは改めて背筋を伸ばす。

「門をくぐる時から、見られてると思えよ」と、昨日先生に言われたことを、急に思い出したから。

事前に決めていたバス停からバスに乗り込むと、思ったよりもバスは混んでいなくて「横浜駅から乗れば良かったかな」と、ちょっとだけ後悔しながらつり革をつかんだ。

ガゴン、と大きく車体を揺らしながら、急な坂道を上る。この坂があるから、途中からバスに乗ることに決めていた。

目に入ってくる景色には、何の感情も乗ってこない。ふわふわと宙に浮いている感じがして、ブンブンと頭を数回振ってみる。

(はあー……)

吐く息の音が、周りに聞こえないように、音を殺しながら……細く、そして長く息を吐く。何度も。何度も。

(やっぱ緊張してんな、わたし)

バスを降りて、カバンから取り出したのは受験票。
……大切にしまっておいたはずなのに、いつの間にか四隅がヨレていた。

(9時40分……よし!)
(さ、いこう!)

パン、とおでこを軽く叩いて、わたしは正門をくぐった。

最後にもう一度、「はあ」と大きく息を吐き出してから。

みんなの想いが乗った受験票を、軽く握りしめながら――。