私はこう叫びたかった。配達員の家に住んで、そうすれば、私のこの苦しみも無くなるのではないかと本気で一瞬、考えた。この人ならわかってくれる。この人なら、ひとまず私の話に傾聴してくれるのではないかという可能性を見た気がした。だがそんなこと、口が裂けても言えない。走り去っていく原付をただ、私はぼんやりと眺めているしかできなかった。あとのことは、もはや書くまでもあるまい。私は父に蹴られ、母に蔑んだ視線をこれでもかと向けられ、内心生きた心地がしなかった。終わるとしたら、今日ではないかという予感にも包まれた。幸いなことに、『説教』はその日の夜だけで終了した。翌朝からは、両親ともまるで何事もなかったように私に接していた。なんだか気味の悪いことのように感じられた。
 そのH町に住んでいる間中、つまり一年間ほど、私の盗みという悪癖はちっとも改善されなかった。またしてもDの家から本やおもちゃなんかを盗み出し、一人で楽しめば良いものを弟に「手に入れてきたぞ」など自慢して見せていたのである。
「どこで買ってきたの」
 弟は無邪気に問う。私はうまく嘘をつけずしどろもどろになり、わずか五歳の弟に「ああ、兄は悪いことをしたのだ、僕たちの母と父には言えない方法を持ってこれを手に入れたのだな」と勘づかれ、一時は彼の言いなりの下僕のようなことさえした。例えば弟が、鳩の羽を拾ってきて「食べろ」と言われたら、私は窃盗の後ろめたさからそれを食べたのだ。食べなければ盗んだことを言うぞ、と彼は一丁前に兄に脅しもかけてきた。思えば、この頃かすでに私の人生は狂い始めていたのではないかと、そう思わずにはいられない。

 手記を書く手を止めて、私はうなじのあたりが痒いのに思い当たった。何かが移動しているような気配があって、手で触れて顔の前ま持ってくると、蟻だった。私のうなじを蟻がせせっていたのだ。今度は左手の肘あたりが痒くなった。目視してみると、やはり蟻だった。私の肉体は、実は蟻なのではないかと言う白痴の想像が脳を駆け巡った。いや、流石に人が蟻になるのはあり得ない。私は人間なのだ、こんな黒い点のような虫になんてならない。でも案外これは名答かもしれないな。私は、元々蟻だ、そこらを歩いていて気がつかないうちに踏み殺してしまっているような、あの蟻なのかもしれない。そう思えば、これまでの私の生きてきた全てに説明がつくような気がしてきた。想いを寄せたAを取られたのも、逆にDやそのほか友人の所有物を取ってきたのも、全ては私が人の理の中に生きられない存在であるからなのかもしれない。これが熊だとしても道理だし、蜂でも蛇でも構わない。だがこうして眼前に証拠を突きつけられていて、その限りでは私は蟻なのだ。訳のわからない幻覚めいた妄想が頭をもたげた。このまま体を掻きむしれば、私は大量の蟻の姿に分解されてしまうのだろうか。