そして、時間の経過により運ばれてくるものがあった。虫だ。秋の虫、とでも言えば良いのか、虫たちが大勢鳴き出している。鈴を振ったような明るく細い鳴き声がすぐそばでしている。もしかしたら車の中にいるのではないかと疑ってしまうほどに、明瞭な鳴き声だ。それは空気を振るわせ、直接私の耳に届いているような気がしてくる。
 私は充電式の小型ライトを取り出して光を点け、ダッシュボートの上に置いた。キャンプ用品を作っている大手メーカーの出しているライトは、十分に私のいる車の内部を照らし出してくれる。反対に、外の世界がどんなふうになっているのか、それは視認しづらくなった。ごつごつと石がたくさん転がり、雑草が繁り、それでも車を停めるのには不自由しないという理由で整備を進めない職場の駐車場なのだが、他に誰もいないはずだ。他の車は全て帰宅するためにどこかへ走り去ってしまった後だが、どうにも私には、誰かがやってきて車の窓をこんこんとノックしてくるのではないかという不安が拭いきれない。その人物は煌々と照らされる車内の様子を見るともなく見ながら横を通り過ぎて行こうとした。だができなかった。私の普通ではない様子を見咎めて、窓を叩かずにはいられなくなるのだ。そうなれば厄介だ。私は一から一〇までをその人に話さなくてはいけなくなる。手間だし、決して理解されないだろう。ここで人の目につくのはまずい。誰かに見られてはいけない。だからこそ私は、人がいなくなった後の、この従業員用の駐車場でひっそり行動を起こした。そして今し方、手記を一つ完成させた。
 私はあくびをした。意識をずっと集中させて手記の作成に取り掛かっていたため、疲れてしまった。この乗用車の座席は長時間座って作業するために作らられていないのだから、当然の話だ。試しに姿勢を崩してみた。親の言いつけを守っている子供みたいに背筋を立てていたので、いくらか背中を丸め、座席にもたれかかってみる。すると自然に体は引っ張られるように下へ滑り落ちていく。ある程度滑ったところで、私は慌てて姿勢を正した。これ以上はいけない。これ以上、下へ深く進むのは危ない。私は何度か軽く咳き込んだ後、喉の辺りを手でさすった。もう一つの手記に手をつけなくては。少し眠気も出てきたが、眠ることさえ今の私にはできないのだ。とにかく書く。そして、その後に眠ろうじゃないか。
 右手を見やった。また、あの小さな蟻が人差し指の上を這いずっていた。それはダッシュボードに置かれたライトに照らされ、黒い影を私の指の上に投げかけている。実際よりも、蟻の姿は大きく感じられた。

『家族について』