よって、私たちが結果まで行き着いた事象について、『原因』と『結果』の双方をうまく探し出すのには大変な苦労を強いられる。あるいは、間違ったビー玉を手に取って「これが正解なのだ」と勘違いし、喜んだままになってしまうかもしれない。それだけ世の中の物事というものは煩雑としている。ただ煩雑なのではなく、稠密でもあるのだ。稠密と書くと表現がいささか適当でないかもしれないが、それでも、ぎっしりと集合している。もちろん、このぎっしり集まっているのは一つの事象に関連する物事たちだ。人は原因と結果を求める時には、関連性の低い他の物事を排除したくなる。だがそれがどうしてもできない。その意味での稠密だ。さんざん噛んだ後のガムを貼り付けられたみたいに、事象に関係のない物事は、事象に関係のある物事にくっついている。鬱陶しいと、私は感じている。これのせいで私たちは、本来は関係のない物事を掬い上げて注視しなくてはいけないのだから。掬い上げたものが求めていたものか、ジャッジをしなくてはいけなくなる。
 これから私の思い出を二つ、振り返ろうと思う。これをもし読んでいる者がいたのなら、ここまで書いた私の、ビー玉の訳のわからない文章について一度、思考をしてみてほしい。私の書いたこの考え方は、妥当だろうか。それとも全く見当違いで、世の中の人たちには私のように世界を捉えている者など一人もないのだろうか。
 いや、そうでもなく、私のこの考えは、理解されないどころか受け入れる余地もないほど滑稽で、珍妙で、奇異なものなのだろうか。おそらくこの問いに答えてくれる人間などいないはずだ。私は、投げた質問に返球してくれる友人を持たないのだから。
 外は晴れている。私のこの手記を書く右手の人差し指に、蟻が一匹這いずっている。

『愛について』

 私には三年ほど前に、愛した女がいた。愛した、と今記したが、より正確に表現すると違う。『愛そうとした』いや、これも違うかもしれない。『心を寄せていた』これか。これだろう、これが一番、実際に即している。
 そう、心を寄せていた相手というのがあったのだ。確かに彼女は現実に存在して、手を伸ばせば触れることができて、しかし最後まで触れることは叶わなかった。ただの一度も、彼女の手に、彼女の頬に、彼女の唇に触れるのは叶わなかった。私は、失恋した。俗人らしい、ただの失恋だった。
 きっかけになったのは職場での出来事だ。私は当時二二歳、専門学校を卒業して就職し、二年の社会人経験を積んでいた。相手になったのは私と同い年、二二歳の女性だった。彼女は県内の芸術大学を卒業し、私の働いている職場までやってきた。