「Aのこと、好きだったんだろ」と、Cは言った。「ずっと気になってたんだろ、そうなんだろ」
 私は首を横に振った。
「違う、そういうのじゃない」
「嘘つくなって。お前がしょっちゅうあいつと目を合わせて、話をしようとしていたのを知っている。俺だけじゃない、他の連中だって察しはついている。お前がAのことを気にかけているということくらい」
 嘘だ、と私は呟いた。呟いたつもりだった。果たしてそれが実際に口から放たれたかどうかには自信が持てなかった。もう平静を保っていられる余裕もない。
「Aのことを取ったという事実については、俺も悪かったと思っている。でもこれは現実だ、俺はあいつに告白してオーケーをもらった、それだけだ。言わなくともわかっていると思うが」
 そこで一旦言い淀んで、Cは背後を一瞥した。振り向いた顔が一瞬にやけていた。顔を戻すと同時、にやけを押し殺し、こう続けた。
「もうAのことは諦めろ、いいな。新しい恋を探すんだ」
 この時の私は、どこも見ていなかった。床のタイルを睨んでいたかもしれないし、もしかすると通行人をただそれとなくぼんやり、眺めていたのかもしれない。あの瞬間の光景というものが、全く思い出せないのだ。私の魂胆が、企みが、あっけなく見破られていたという事実、そしてAが(おそらくは二度と)手に入らないのだという現実を突きつけられた。そんなことくらい、昨日のうちに理解して納得していたというのに、どうしてここに来てまた強調されなくてはならないのか、そのわけがよくわからなかった。Aはもう誰かの恋人になった。私も次の恋を、新しい恋を探さなくてはならない。
 総身に冷や水をかけられたような、という手垢に塗れた文章表現をここで用いることにする。私はこの時ばかりは、身体を自由に動かすのも叶わなかった。背筋に冷たいものが流れ、水の中にいるときのように、世界の音が一つ残らず遠ざかっていく心地がした。目を開けていたいのに、開けていられない状態になった。これが、私を取り巻く現実なんだ、嘘偽りのない事実なのだ。何度も反芻し、その度に眩暈がしてくる。今後私はAに、いやそれだけではなく職場の人間たちにどんな顔をしていけば良いのか。皆目見当がつかない。先に行ってしまったCを追いかけるように、元の場所に戻った。
 Cはこれからアルバイトだから、博物館講座には参加できないと言った。私たちが二人でいることについては、「一緒にいたい人といるのは構わないさ」と、大人ぶった意見を述べた。
「楽しんでこいよ」