それが、あなたの幸せだとしても

久しぶりの息抜きだったのに、雨は降るし、愛花の言葉にも躓いて、どんよりとした気分で家に帰った。
玄関を開けると、見た事のある靴が丁寧に揃えてある。

「お義母さん……!」
「あら蘭ちゃん!おかえりなさいっ」

伊月のお義母さん。来るなんて聞いていないけれど、唐突な訪問でも私は嬉しかった。

「来てたんですね!」
「ごめんなさいね、急に来ちゃって……お詫びに夜ご飯作ってあげる!」
「わーい!私お義母さんのご飯好きですー!って、あれ……?」

リビングに伊月の姿がない。お義母さんを1人にして、こんな雨の日に出かけるわけはないし…

「お義母さん、いっくんは……」
「今ね、寝てるの」
「あ〜昼寝してるんだ」
「ううん、違うの。蘭ちゃん、ちょっとお話いいかしら」
「……?はい……」

お義母さんは、慣れた手つきでお茶を入れてくれた。
お茶っ葉が置いてある場所、教えたことあったっけ?

「伊月のこと、いつも支えてくれてありがとうね」
「いえ当たり前のことです、恋人ですから」
「ありがとう。でも私ね、負担になってないか心配で。ほらあの子、しょっちゅう発作が起きるようになったじゃない?だから、蘭ちゃんもお仕事あるし、実家に戻って来てもいいんじゃないかって、思うのよ」
「……?えっと、しょっちゅう……ですか。確かに発作は多くなりましたけど、ほんとここ数日って感じで……」

お義母さんは、私の言葉に目を見開いている。なんで知らないんだ、と言われているようだった。

「ほら、蘭ちゃんが仕事に行ってる日中とか……聞いてない?伊月から」
「……は、はい。えっと……え?」
「あの子ったら……蘭ちゃんにも話してるって言ってたから、私てっきり……」
「もしかして、私が仕事で居ない日中に、お義母さんうちに来てました……?」
「ええ。蘭ちゃんが居ない時間は、時々頭がおかしくなるって。だから最近は、不安な気持ちが始まったら連絡が来て、私が駆けつけるようになってた」

先程のお茶っ葉の疑問が、簡単に解けてしまった。

「知らない……いっくんがそんな風に不安な気持ちになってたとか、知らなかったです」
「あの子なりに心配かけないようにしたのかも……今思うと、症状が落ち着いたらすぐ帰らされてたし……蘭ちゃんに気づかれないようにしてたのね」

心配かけないようにって……
こんな事実を知らない方が、よっぽど嫌だよ。
私に連絡してくれたらいいのに。
やっぱり私じゃ、頼りないの……?
お義母さんに連絡って……
いっくんを支えてるのは、私だけじゃなかったんだ。


眠っている彼の髪をそっと撫でる。
泣いた跡が見える頬。傷が残ってしまった眉毛。

「私たち、どうしたらいいんだろうね」

気づいたら、無意識にそう呟いていた。
事故さえなかったら、今頃結婚していたかもしれないね。
事故さえなかったら、愛花からあんなふうに、離れて生きていく選択肢を仄めかされることも無かったよ。
事故さえなかったら、いっくんは、私なんかよりもずっと先を歩いて、こんな辛い思いとは無縁の人生だっただろうに。

支えたいって、守りたいって思うことは、そんなにダメかな……それとも。
これはもう、愛じゃないのかな……
自分の人生を後回しにするのって、そんなにいけないことかな……。

私はそのまま、お義母さんに起こされるまで伊月の隣で眠ってしまった。起きた時、私と伊月は手を繋いだままで、それだけで安心してしまっている自分がいた。





「うーん……ベッド大きすぎたか?」

同棲初日。
組み立て終わったベッドを目の前に、伊月は首を傾げていた。

「そう?……1回寝てみる?」

ふたりで寝転がってみた。
隙間が空いて、たしかに狭くはないと思った。「寝相悪い人〜」私がそう言うと、伊月は首を振った。

「私も寝相悪くないから……若干?大きいかもね」
「だよな〜でもまあ、こうやって寝ればいっか!」

伊月が私に抱きついてきた。

「……っ!ちょっと重たいよ〜」
「愛の重さだよ〜」
「ただの体重じゃん〜」

私が伊月を軽く叩き、ふたりで目を合わせて笑い合う。

「将来どんな家に住みたい?」
「引越して初日にその話する〜?」
「いいじゃん!ほら理想の家ないの?」

伊月は起き上がりながら、私の方を振り向いた。

「うーん……強いて言うなら〜」

私も起き上がり、リビングに行く。
伊月は私の後ろをパタパタと足音を鳴らしながらついてきた。

「システムキッチンがいいのとー、リビングは全体的にもう少し広さが欲しいでしょー、天井は吹き抜けてて欲しいしー、広いお庭で野菜とか育ててみたい!あとは、洋服だけのお部屋とかも欲しいなー!」

振り返って伊月をみると、満面な笑みでこちらを見ていた。

「いや、強いて言うなら〜とかのレベルじゃないじゃん!めっちゃちゃんと理想あった……!やば、びっくりした〜!」
「あははは、ありましたっ」
「その理想、俺が叶えてあげる!」

伊月は得意げな顔をして、手を広げた。

「え〜?大丈夫?それって結婚するってことだよ?ずっと一緒にいるってことだよ?」

私は彼の腕の中に飛び込み、口を尖らせながらそう言った。すると伊月は、私の頭を撫でながら、「ずっと一緒にいようよ〜」って、優しい声で言うもんだから、私は安心して目を瞑り笑った。
私は彼と結婚して、子供を産んで、おじいちゃんおばあちゃんになっていくんだろうなと、簡単に想像がつくくらいこの時は本当に幸せだった。





目の前の伊月は、居心地の悪そうな顔をしている。隠していたことがバレて、母親に怒られる前の子供みたい。
私が伊月に怒るなんてこと、あるわけないのに。

「お義母さんが、実家に戻ってきたらって言ってた。いっくんはどう思ってる……?」
「俺は……っ蘭ちゃんと一緒に居たい……」
「うん、分かった。良かった!私も同じだよ」

私は伊月に手を伸ばした。すると彼はゆっくり握り返してくれる。温かくて大きな手なのに、どこか頼りなく感じる。

「これからは、私にも話してくれる?……発作の事とかさ」
「うん。言わなくてごめん。仕事の邪魔したくなくて……」

彼は、手を少し強く握りしめた。

「最近忙しくしちゃってたから、気にしてくれたんだよね、ありがとう。でも、知らない方が嫌だよ。寂しい」
「うん。これからは正直に話す」
「うん。それが1番嬉しいです」
「わかった」

私たちは互いに頷く。
想いが通じている気はちゃんとする。大丈夫。

「……よし、お義母さんが作ってくれたご飯食べよっか!」

沢山作ってくれた料理を温め直す。私たちは、何も無かったかのように夕食を食べた。テレビを見て笑って、お風呂に入ってアイスを食べる。その後に、いつものように一緒にストレッチをして、バルコニーに出て星を見た。

こんなふうに、何事も無かったかのように過ごすことに、私たちは慣れてしまった。
これが、私たちの明るい未来に繋がっていると、今は信じていたい。この先も、一緒にいる未来だけを考えたい。
愛花は、ああやって言っていたけど、どう考えたって伊月がいない人生は考えられないから。
これが私の愛し方だから。



会社の忘年会が、少し早めに行われることになった。
クリスマス前に忘年会なんて、変な感じ。社員はもちろんのこと、作家も呼ぶと、かなり大規模な食事会になった。

『1次会で帰るから、また連絡するね』
『久しぶりだしもっと楽しんでおいでよ!飲みすぎだけ注意!』
『分かった!でも24時までには帰るから!』
『了解〜楽しんでね』
『うん!ありがとう!』

伊月と連絡を取ったあと、レストランに着いた私は身なりを確認してお店に入った。なかなかお目にかかれない作家さん達に圧倒されながら、自分のチームのメンバーを探す。

「木下さん!こっちこっち!」

佐伯ちゃんが手を挙げた。

「ごめん遅くなってー!」
「ったく、木下はいつもギリギリだなぁ」
「スミマセン……」

有名な作家を抱えているうちの会社は、居酒屋では飲み会はしない。こうやってきちんとした正装をして、忘年会というパーティーをする。普段一緒にいるチームのメンバーの正装姿は、新鮮さがあってワクワクするから、こういう会社の飲み会は好きなほうだ。
私は、伊月に選んでもらったワンピースを身にまとい、伊月に貰ったピアスを付けてきた。いつもと違う自分にもワクワクする。

「佐倉先生だ……!」

先輩の声で振り向くと、普段の姿からは想像がつかないくらいのオーラを纏った佐倉徹がいた。いつも打ち合わせで会う時は、顔は綺麗だけど寝癖がついていたり、スウェット姿ばかりだったから、まるで別人みたい。先生は、迷うことなく真っ直ぐ私達の元へ歩いてきた。

「佐倉先生お疲れ様です!」
「お疲れ様です。すみません、遅くなりました」
「いえ、私もさっき来たところなので!」
「蘭さんいつもと雰囲気違いますね。メイクかな……」
「わぁすごい!いつもよりちゃんとしてるからかと!先生もかなり雰囲気違いますね!」

先生は、少し照れた様子。
きっと、着慣れないスーツがむず痒いんだと思う。ふと、ネクタイが曲がっているのが目に付いた。
そういえば、伊月も昔、仕事に行く時に曲がってて、私が直したっけ。
それ以来、わざと曲げてアピールしてきたりしてたな。
過去を思い出して、ついクスッと笑ってしまう。

「ん?どうしました?」
「いえ!ちょっと先生、失礼します」

私は慣れた手つきでネクタイを直す。
先生の場合は着慣れていないから、きっとネクタイを閉めるのが緩かったんだと思う。ついでに襟元も直して、顔を見上げると、先生はとても驚いた表情を浮かべていた。

「はい!出来ました……って先生?」
「いえ……あ、ありがとうございます」

先生は動揺している様子で、その場を離れてしまった。その様子に、自分が馴れ馴れしくし過ぎたと気づく。
担当だからって、距離感は守らないといけないのに、やってしまった。

「なーに、今の」

愛花がすかさず話しかけてきて、私の分のシャンパンを手渡ししてくれた。

「いや、ただ曲がってたから直しただけで」
「ふーん?ま、蘭は伊月さん一筋だから、ないか」
「ないかって、何がよ!私には伊月がいるし、あとその前に、佐倉先生は私の担当の先生だから」
「だよね〜あまりにいい感じだったからつい〜」

そんなことを話していると、社長が登場し、忘年会がスタートした。今まで関わったことの無い編集の人や、作家の先生などに挨拶をして、とても有意義な時間。
私は携帯を気にしながら、楽しくお酒を飲み、おいしい料理を食べて満足する時間を過ごした。


同じ会場で二次会が行われることになった。私はお酒がそんなに強い方じゃないから、もうそろそろ帰るねと、伊月に連絡を入れた。

「蘭さん、いつまでいます?」
「佐倉先生!私はそろそろ帰ろうかなって」
「じゃあ僕も帰ろうかな」

先生は腕時計を見て、窮屈そうに襟元を触った。

「もしかしてこういう会、苦手ですか?」
「……得意ではない。このスーツも、正直早く脱ぎたい」

先生からタメ口が出てきたのはこれが初めてな気がする。見ると顔が少し赤い。お酒に酔って出てしまったタメ口だとすぐに分かった。

「ふふ、先生酔ってます?」
「ん?いや、大丈夫……今のところは」
「分かりますよその気持ち、私もお酒あまり得意じゃないんで、自分のキャパ超える前に帰りたいですよね」

二次会は、さっきと比べてより盛り上がっていた。お酒が得意な人たちは次々と乾杯をしている。愛花を見るととても楽しそうにグラスを持っていた。
彼女はお酒が強いから、きっとこの後もどこかへ飲みに行くんだろうと思う。周りを見渡して、そろそろ先輩達に声をかけて帰ろうかなと思った時だった。

「っ……!」
「わ!すみません!」

誰かにぶつかられてしまった。きっとうちの会社の人だけど面識はなく、相当お酒に酔っている様子だった。

「大丈夫ですか?!」

隣にいた先生が慌てて声をかけてくれる。

「ああもう全然大丈夫です!……あ……」

濡れた感触があって足元を見ると、ワンピースに、よりにもよって赤ワインがかかってしまっていた。

伊月に選んでもらったお気に入りのワンピースなのに……。

と、心の中でしょんぼりしていると、先生がいきなり跪いて、ハンカチで拭いだした。

「先生?!いいですいいです!」
「良くない。落ちなくなるよ……来て」

先生は跪いたと思ったらすぐ立ち上がり、私の手を引っ張った。向かった先は化粧室で、目の前にある椅子に私を座らせた。
化粧室に消えていったと思えばすぐに出てきて、水を含ませたハンカチで、汚れた部分を拭う。
跪いて、私に、いやワンピースに親身になってくれる姿は、ほんの少しだけ王子様に見える。

「本当に、そこまでしてくれなくても大丈夫ですよ。クリーニング出しますから」
「女性のお召し物が汚れたら、こうするのが当然だと思います。……違う?」

真っ直ぐすぎる瞳に、あまりにも誠実な考え。
これで恋をしたことがないなんて、恐ろしく勿体ない。

「いえ、違わないですけど……。でももう本当に大丈夫ですよ!ありがとうございます」
「そうですか……?」

先生は渋々立ち上がり、自分の膝を2回はらった。

「蘭ちゃん……!」

聞き覚えのある声がした。
入口の方を見ると、伊月の姿がみえた。

「え!いっくん?!どうしたの?!」
「いや、迎えに……きただけだけど……」
「……!ちょうど帰ろうと思ってた」
「えっと……」

伊月も先生も、お互いを見ている。
先生は伊月の存在を知っているけど、伊月には先生のことを話したことがない。

「あー……恋人の伊月です。こちらは、私が担当してる佐倉徹先生」

小説の一件があったから、先生に伊月を会わせたくなかった。伊月が迎えに来てくれたのは嬉しいのに、複雑な気持ちになる。

「蘭がお世話になっております」
「いえ、こちらこそ。……君が伊月さんか……」

案の定、先生は伊月のことをじっくり見つめている。
興味がある目。獲物を見る目だった。もし、今書いている小説の話でもされたら、大変だ。私は慌てて伊月の腕を握った。

「では、先生!私はここで失礼しますね!また打ち合わせよろしくお願いします!」
「ああ、はい。また」
「行こう、いっくん」
「……ああ」

背中に視線を感じながら、私は慌ててお店を出た。


私達は手を繋ぎながら、当然のように歩いて帰る。伊月は自動車に乗れないから、歩くしか帰る方法がない。自宅から離れた場所なのに、伊月は歩いて迎えに来てくれた。

「迎えに来てくれるなんて思わなかった!遠かったでしょ」
「ううん、ちょっと外の風にあたりたかったし、丁度いい距離だったよ」
「ありがとう。嬉しい」

伊月が迎えに来てくれたのはいつぶりだろうか。
前はよく飲み会があると迎えに来てくれてたけど、あの事故の後は1度もなかった。わざわざ歩いて来てくれたのが、私は凄く嬉しい。

「あ、佐倉徹って……もしかしてあの佐倉徹?!」

伊月の言葉に、私は一瞬身体が固まった。この話、しないようにしていたのに。

「あーそうそう、今担当してて」
「蘭ちゃんすごいね!出世じゃん」
「ううん、そんなのじゃないよ、たまたまだよ……あ、コンビニでアイス食べたい!買ってこ!」

私は急いで違う話をした。あの小説の一件に触れたくないからじゃない。私の、成功している話をしたくなかった。
田所先生に、「成功話はプレッシャーになる場合がある」と昔に言われたからだ。だから私はあまり仕事の話は伊月にしないようにしてきた。今日、先生と伊月が会ってしまったことは、私にとってはかなりの誤算。

コンビニでアイスを選んで、ふたりで食べながら歩く。ふと足元のワインのシミに目がいった。
……あんな風に誰かに跪かれたのは初めてだったな。
少し汚れたくらいで、あんなに急いでくれて、先生ってもしかして尽くすタイプなのかな。

……あれ、伊月はこの汚れに気づいてくれた?
いつもとメイクが違うのも、伊月は気づいてくれたのかな。
誰かに尽くされて、関心を持ってもらえるって、あんなにも心地がいいことなんだ。
支えられる側の景色はあんな風に見えるんだ。

いや違う。支えられる側の心地よさは、前から知っていたじゃない。
誰かに尽くされるのも、関心を持たれるのも、愛される安心感も。
だって、前の伊月はそうだったから。
私が支えられる側だったから。
前は私の少しの変化に気が付いてくれた。
けど、今は……。
少し前を歩く伊月の背中を見ながら、ほんの少しだけ、胸が苦しくなった。





忘年会があった日から、私たちはどこかよそよそしくなった。私からじゃない。確実に伊月から、無意識に距離を取られているのを感じる。何かしてしまったかと、振り返ってみたけれど思い当たらない。
強いて言うなら、あの佐倉先生を担当しているという成功話を、知られてしまった事だ。言わなかったことが気に障っているのかもしれない。
私だって発作のこと、何も言われなくて寂しかったじゃない。伊月にも同じ思いをさせてしまったに違いない。私は謝ろうと、タイミングを伺う日々を送った。

そんな中、今年最後の大事な日がやってきた。クリスマス当日に毎年行われる作家の表彰式。これはうちの出版社独自の取り組みで、この日のために編集者は頑張ってきていると言っても過言ではない。自分の担当している作家の紹介と、本年に出した単行本の紹介、そして、売り上げ報告。
また、現在執筆している来年度に出す本の紹介などをした上で、社長などの上層部が本年度の顔である作家を決める。

これに担当している作家が選ばれるということは、編集者としては今年一年の仕事を大いに評価されているのと同じこと。それなりの報酬も給料に加算される。選ばれた作家も、賞金が貰えるし、来年から、広報の売り出し方も変わる。
なのでこのイベントは、うちの出版社に所属している作家、編集者にとってはかなり意味のあるものだ。

15時から始まった表彰式。
私と佐倉先生の出番は大腿16時くらいだから、あと40分後。

「緊張してます?」

先生は私の顔を覗きながら、キョトンとした顔をしている。

「はい……何回やっても慣れなくって」
「大丈夫ですよ、僕は今年、ミステリーでしか出してないですし、選ばれなくても蘭さんの編集者としての能力は関係ありせん。蘭さんは今執筆しているものの紹介だけすればいいんですから、そんなに気負わず」
「そ、そうですけど、先生のミステリーでの本も、私好きなので。選ばれてほしいんです」
「はは、ありがとう。でも、僕より緊張しないで」
「…ですね!」

時間を確認するために、手首のスマートウォッチを見る。
伊月からの着信履歴があった。

「先生、電話を一本してきてもいいですか」
「ええ、もちろん」

会場を出てすぐのところで、伊月に電話をかける。
いつもなら、折り返すとすぐ出るのに、なかなか出てくれない。不在着信になってしまい、チャット画面を開く。

『電話、なんだった?』

少し待ってみるけど、既読にならない。
もう一度電話をかけるも、また不在着信。

もしかしたら、何かあったのかもしれない。
また発作が起きて、また、自分を傷つけるようなことをしていたら。
次こそは本当に、身体を傷つけていたら。
……取り返しのつかないことになってしまっていたら。

今までの出来事が、よくないところまで想像させる。
体が震え、息が浅くなった。

「何かありました?」

後ろから佐倉先生の声がする。

「先生、私行かないと」
「え?蘭さん?!」

先生を残し、私は会社を飛び出した。
今日はクリスマス当日。道路は混んでいる。
オフィスに車の鍵を取りに行く時間も惜しい。私はコートも着ずに、必死に走った。
赤信号が妙に長く感じる。じっとしていられない。走って走って、家についたころには、寒さなんて感じないほど体は火照っていた。

急いでルームパスワードを打ち込む。
手の震えで一度失敗をし、もう一度打ち直している時、内側からドアが開き、何事もなかった表情の伊月が出てきた。

「……っ、」

息が切れて、喉に血の味を感じる。
伊月の姿に安心して、大粒の涙がこぼれた。

「なんで、電話でないのっ……」
「どうしたの、表彰式は?」

伊月は私の姿に、ただ驚いて、身動きが取れなくなっていた。

「電話っ、出ないからっ、何かあったのかなって……よかった、よかった……」

伊月の身体に、顔を埋めた。涙が、彼のグレーのパーカーに染みる。私が強く抱きしめると、彼も抱きしめ返した。
泣いている私を宥めるように、小さい子どもをあやすように、背中を優しく叩く。
家の中から、シチューの匂いがした。彼は私からの電話に気が付かず、ただ夜ご飯を作っていただけだった。


私が用意した表彰式用の原稿は、佐倉先生自らが読み上げたらしい。先生が、「木下さんにはどうしても外せない急用ができた」と、機転を利かせて社長に報告してくれて、私は編集者をクビにならずに済んだみたいだった。
夜、私の荷物を家まで持って来てくれた先生は、事の運びを淡々と説明してくれた。なぜ戻ってこなかったのかと聞かれるかと思ったけれど、先生は何も言わなかった。
ただ、帰り際にこう言った。

「自分を犠牲にするあなたの考えは、やはり理解できないし、したくもない。でも、僕の方を振り向かずに走って行った姿は、かっこよくも見えました。これが蘭さんの愛のカタチなんですね」

私はその言葉に、ただ真っ直ぐ頷いた。そして、

「ちなみに、今年の顔には選ばれませんでした。悔しいので来年、今の作品で絶対取ります。だから蘭さんもそのつもりで」

そう言って先生は帰って行った。
先生は正しく、純粋で、強い人だと思った。

この日の夜は突然の豪雨に見舞われ、家の中にあるクリスマスツリーの光が、とにかく眩しかった。眩しすぎて、目を背けてばかりいると、伊月がライトのコンセントを抜いた。

「眩しいから」

彼はただそう言っていて、私と同じだと思った。
今日の出来事で、私たちはお互いに同じことを思っただろう。
何食わぬ顔で映画を見ている彼の腕は、私の肩を抱かなかった。
これが彼の出した、私達の未来の姿で、答えだと思った。