あの事故から、2ヶ月が経った。
あんなことがあっても、世界は何事も無かったかのように回り続ける。
私達は、そんな世界に置いていかれないように、ただ生きていくしかなかった。
朝ごはんを準備していると、伊月は眠たそうにあくびをしながら起きてきた。寝癖がはねていて猫みたいになっている。私はニュース番組を朝番組に切り替え、食卓に座った。
「今日も寝癖すごいねえ」
「ん?あ、ほんとだ、あはは」
鏡を覗き込みながら、伊月は気の抜けた笑い方をする。
「そういえば、柔軟剤がもう無くなりそうだよ」
「んー了解!今日帰りに買ってくるね」
「俺が日中スーパー行くからその時買ってこようか?」
「ううん!匂い系は、私が選ぶ!」
「そう?じゃあ頼むね、ありがとう」
「はーい!」
ごく普通の、朝の食卓。
忙しなく流れる毎日に必死にしがみつきながら、何も変わっていないフリをして、時間を共にする。
そうやって、あの日から今日まで生きてきた。
ただ、あの日を境にどうしても変わってしまったことがある。優秀な設計士だった彼は、今は家で仕事をしていること。少し前まで、歩いて5分のところにあるスーパーにさえ、ひとりで行くことができなかった。
そして、ドライブが大好きだった私たちの生活から、車が消えた。私は仕事に行く時に使うけれど、彼は全くハンドルを握ろうとしないし、私の横に乗ることもしない。
変わったことは本当にそれくらい。
たった、それだけのはず。
「いってきます」のハグをして、玄関を出て鍵をかけた後、私は駆け足で車に向かった。
職場は車で15分のところにある、出版社。車から降りると、慣れたように社員証を首から下げる。警備の人に朝の挨拶をして、指紋認証をした。
──8時26分 出勤
今日もギリギリだけど、間に合った。
「木下さんおはようございます!」
「おはよ〜ごめんね、いつもギリギリで」
半年前から私が指導してる後輩の佐伯ちゃんは、いつも明るく挨拶をしてくれる。
「木下ちょっといいかな」
朝イチで部長に呼ばれて会議室へ向かう。
こんなこと滅多にないから、何かやらかしてしまったのでは無いかと緊張が走った。
「来月からお前の担当作家替えようと思う」
「えっ……私何かやっちゃいました?」
「いや、作家の先生からのご指名なんだよ」
緊張の糸が切れて、肩の力が抜ける。
「え!指名?そんなの初めてです。嬉しい!」
「ちょっと癖がある作家だけど、相性はいいと俺目線では思うんだ」
「へぇ〜誰ですか?」
「佐倉徹先生だ。分かるよな?」
「分かるって言うか……うちの有名作家じゃないですか!あの佐倉先生の担当できるんですか私!」
佐倉徹先生。うちの出版社では、今1番キテいるミステリー作品で有名の先生。でも私のチームは青春恋愛を基本とした作家しか担当しないのに、どうしてだろう……。
「佐倉先生、恋愛もの書くんですか?」
「まあ、そういうことだ。だからうちのチームで担当することになった」
「わぁ……面白そう。頑張ります!指名貰えたのも初めてなのでやる気出ます!……あ、でも」
嬉しさのあまり、何も考えずに応えてしまった私の様子に気づいたのか、部長が私の肩に手を置いた。
「プライベートが大変なのは理解してるから、何でも頼りなさい。うちのチームは、幸いみんな心が優しい」
「……いえ、もう既に沢山頼らせてもらってますから、今回は私一人で頑張ります」
「そうか。まあ無理はするな。佐伯もアシスタントに回すから」
「はい。ありがとうございます」
会議室を出ると、チームのみんなが私をニヤついた顔でみていた。
「木下〜佐倉先生の担当なんて俺を差し置いてやるな〜」
「木下さん凄いです!私、支えます!」
「蘭ちゃんなら大丈夫だよ!」
「……悔しい。私佐倉先生のファンなのに。けどまあ仕方ないから今回は譲ってあげる」
部長と私含めて、男性2人、女性4人で形成されている小規模なチーム。
この会社の中はいくつかチームに別れているけど、うちのチームは人数が少なくて比較的仲がいい。
「ありがとうございます、頑張ります!」
みんなから拍手を貰う。顔を上げ、ガッツポーズをした。
昼休み、同期で同じチームの中原愛花と一緒に、屋上でお弁当を食べた。今日はとても天気がよくて心地いい気温。
窓を開けてお昼寝でもしたら、とても気持ちが良さそう。私は伊月にメールを送った。
「はぁ〜もう夏も終わりかな〜」
愛花はおにぎりを頬張りながら言った。愛花の手作りのおにぎりはいつも顔くらい大きい。何度見ても笑ってしまう。
「っ……もうすぐ11月だからね〜」
「そう思うと今年の夏って長かったよね。これ、もしかして秋ほとんどないんじゃ……」
「毎年減ってる感じするよね」
「するする〜秋が1番好きなのにな〜。蘭は?いつの季節が好き?」
「私は……」
改めて考えると、頭に浮かぶのは夏に伊月と行った沖縄旅行とか、オープンカーを借りたドライブだった。夏は好きだったけど、今はもう軽々しく好きなんて言えない。
だってあの事故があった日は、湿度の高い曇り空で、蒸し暑い夏の日だったから。
「蘭?」
「あっ、んー私は冬かな?」
「え〜冬なんて寒いだけじゃーん」
何も考えずにスラスラと話す愛花を、私はたまに羨ましく思ってしまう。私もほんの2ヶ月前までは、こんなにも気楽に話していたんだなと思うと、過去の自分ですら羨ましい。
「……伊月くん、最近どう?」
愛花は心配そうに私の顔を覗いた。
「……元気!まぁ、まだ不安定な部分もあるけど」
不安定なところだらけなのに、何故か強がってしまう。笑っている伊月を思い出して、歪んだ笑顔に気付かないふりをする。最近はそんな事ばかり。
「蘭は良くやってるよ。ほんと、尊敬する」
「尊敬?別に私何もやってないよ」
「彼こと支えて、仕事も手抜かずに頑張って、私が蘭の立場だったら逃げ出しちゃうよ」
「……支えてるって言っても、一緒に住んでるだけだけどね」
「それが、凄いんだよ!2人の間には愛があるよね、素敵だと思う」
そうだよ。好きだから、当たり前なの。
あんなことが起きたからって、伊月のことを愛しているのには変わりない。
だから支えるなんて、ごく普通で、ごく当たり前のこと。
そばに居ることなんて、私にとっては当たり前なの。
―16時30分 退勤
みんなに挨拶をして、急がなくてもいいことは分かっていても、足が勝手に駆け足をする。きちんと近くのスーパーで柔軟剤を買ってから帰宅した。
「ただいま〜」
伊月がリビングから顔を出した。
良かった。今日は凄く顔色が良さそう。
「昼寝した?」
「うん窓開けてしたよ。心地よくて爆睡した」
「ははは、それはよかった」
洗面所の高い位置に柔軟剤のストックを置こうとすると、伊月はふわりと香りを漂わせながら私の手を取った。
「高い所は、俺の仕事」
「……うん、ありがとっ」
伊月は背が高くて、体格も良い。そのうえユーモアもあるから、大学の頃、私たち後輩からは物凄く熱い視線を浴びていた。
いつも周りには男友達がいて、笑顔はとびっきり輝いていて。もちろん私も、そんな彼に憧れていた後輩の内の1人だった。
私が大学を卒業してすぐの頃、たまたまランニングをしている道で、伊月と再会をした。1度すれ違って私は直ぐに足を止めたけれど、伊月は気づいていなくて素通り。帽子を被らずに挑んだ5回目のすれ違いで、やっと伊月は足を止めた。
「あれ、蘭ちゃん?」
「!!はい!お久しぶりです伊月さん」
「わ〜2年ぶり?すっごい偶然、びっくりした〜」
「ね、びっくり〜!」
本当は再会して5回目だけど、その日が初めてということにした。伊月は大学の頃と何も変わっていなくて、むしろユーモアさが増して、昔よりも自然に会話ができた。
そうやって朝に会うようになった私達は、段々と立ち止まって話す時間が増えて、最後には待ち合わせをして並走するようになった。
*
2人で手を繋ぎながら、静かな夜を散歩していたら、そんな昔のことを思い出してしまった。
隣にいる伊月の腕をぎゅっと抱きしめる。伊月は「どうした?」と顔を覗き込んできた。
「ううん、幸せだなって思って」と私が言うと、伊月は微笑んだ。
夜に散歩をすることは、伊月にとって、とても効果的な事らしい。そう精神科医に言われてからは、伊月の調子がいい日だけ、なんの目的もなく歩いている。
通ったことのない道を歩くのも楽しいし、薄暗い裏道を通るのも新しい発見があって楽しい。
「こんな居酒屋ここにあったんだ」とか「何この変な落書き」とか。
「あ、いっくん、見てこれ!こんな所に……!」
私がそう口にした瞬間、突然近くからサイレンの音がした。止まっていた救急車が動き出したみたい。音はどんどん近づいてきて、私たちの横を通り過ぎた。
「……っ……はぁ……」
伊月は硬直したように立ち尽くし、呼吸が荒くなっている。
今のサイレンの音を合図に、
また、始まってしまった。
「あぁ……違う、違うんだ」
しゃがみこんで誰かに何かを訴える彼に、素早く駆け寄る。小さくなってしまった彼の体を、これでもかと腕を広げて、それはそれは強い力で抱きしめた。
「大丈夫だよ……大丈夫」
「……大丈夫……大丈夫」
震えている彼の背中を、宥めるように優しく撫でる。今はこれしか方法が分からない。
いや、これも正攻法ではないから、気休めでしかないんだけれど、私も伊月も今はこれに頼るしかない。
しばらくすると、糸が切れたみたいにフッと力が抜ける。これが終わった合図で、忘れてしまう合図でもある。
「ごめん、俺また……」
「ううん!ほら行こ!今は夜の散歩中で、帰り道!寒いからさっさと帰ろっか」
「うん……」
伊月の顔を見ないように、私は前を向いた。
何度かこの瞬間を2人で乗り越えてきたけれど、記憶が抜け落ちてしまった彼の顔は、どうしても見慣れない。
何も無くなった世界を見ているような瞳で、私もそっちの世界に吸い込まれそうになる。
それでも、好きだからこの瞬間も一緒に乗り越えたい。
好きだから、こんな彼を支えたい。
この気持ちは、ごく普通で、
ただの大きすぎる愛だと信じたい。
あんなことがあっても、世界は何事も無かったかのように回り続ける。
私達は、そんな世界に置いていかれないように、ただ生きていくしかなかった。
朝ごはんを準備していると、伊月は眠たそうにあくびをしながら起きてきた。寝癖がはねていて猫みたいになっている。私はニュース番組を朝番組に切り替え、食卓に座った。
「今日も寝癖すごいねえ」
「ん?あ、ほんとだ、あはは」
鏡を覗き込みながら、伊月は気の抜けた笑い方をする。
「そういえば、柔軟剤がもう無くなりそうだよ」
「んー了解!今日帰りに買ってくるね」
「俺が日中スーパー行くからその時買ってこようか?」
「ううん!匂い系は、私が選ぶ!」
「そう?じゃあ頼むね、ありがとう」
「はーい!」
ごく普通の、朝の食卓。
忙しなく流れる毎日に必死にしがみつきながら、何も変わっていないフリをして、時間を共にする。
そうやって、あの日から今日まで生きてきた。
ただ、あの日を境にどうしても変わってしまったことがある。優秀な設計士だった彼は、今は家で仕事をしていること。少し前まで、歩いて5分のところにあるスーパーにさえ、ひとりで行くことができなかった。
そして、ドライブが大好きだった私たちの生活から、車が消えた。私は仕事に行く時に使うけれど、彼は全くハンドルを握ろうとしないし、私の横に乗ることもしない。
変わったことは本当にそれくらい。
たった、それだけのはず。
「いってきます」のハグをして、玄関を出て鍵をかけた後、私は駆け足で車に向かった。
職場は車で15分のところにある、出版社。車から降りると、慣れたように社員証を首から下げる。警備の人に朝の挨拶をして、指紋認証をした。
──8時26分 出勤
今日もギリギリだけど、間に合った。
「木下さんおはようございます!」
「おはよ〜ごめんね、いつもギリギリで」
半年前から私が指導してる後輩の佐伯ちゃんは、いつも明るく挨拶をしてくれる。
「木下ちょっといいかな」
朝イチで部長に呼ばれて会議室へ向かう。
こんなこと滅多にないから、何かやらかしてしまったのでは無いかと緊張が走った。
「来月からお前の担当作家替えようと思う」
「えっ……私何かやっちゃいました?」
「いや、作家の先生からのご指名なんだよ」
緊張の糸が切れて、肩の力が抜ける。
「え!指名?そんなの初めてです。嬉しい!」
「ちょっと癖がある作家だけど、相性はいいと俺目線では思うんだ」
「へぇ〜誰ですか?」
「佐倉徹先生だ。分かるよな?」
「分かるって言うか……うちの有名作家じゃないですか!あの佐倉先生の担当できるんですか私!」
佐倉徹先生。うちの出版社では、今1番キテいるミステリー作品で有名の先生。でも私のチームは青春恋愛を基本とした作家しか担当しないのに、どうしてだろう……。
「佐倉先生、恋愛もの書くんですか?」
「まあ、そういうことだ。だからうちのチームで担当することになった」
「わぁ……面白そう。頑張ります!指名貰えたのも初めてなのでやる気出ます!……あ、でも」
嬉しさのあまり、何も考えずに応えてしまった私の様子に気づいたのか、部長が私の肩に手を置いた。
「プライベートが大変なのは理解してるから、何でも頼りなさい。うちのチームは、幸いみんな心が優しい」
「……いえ、もう既に沢山頼らせてもらってますから、今回は私一人で頑張ります」
「そうか。まあ無理はするな。佐伯もアシスタントに回すから」
「はい。ありがとうございます」
会議室を出ると、チームのみんなが私をニヤついた顔でみていた。
「木下〜佐倉先生の担当なんて俺を差し置いてやるな〜」
「木下さん凄いです!私、支えます!」
「蘭ちゃんなら大丈夫だよ!」
「……悔しい。私佐倉先生のファンなのに。けどまあ仕方ないから今回は譲ってあげる」
部長と私含めて、男性2人、女性4人で形成されている小規模なチーム。
この会社の中はいくつかチームに別れているけど、うちのチームは人数が少なくて比較的仲がいい。
「ありがとうございます、頑張ります!」
みんなから拍手を貰う。顔を上げ、ガッツポーズをした。
昼休み、同期で同じチームの中原愛花と一緒に、屋上でお弁当を食べた。今日はとても天気がよくて心地いい気温。
窓を開けてお昼寝でもしたら、とても気持ちが良さそう。私は伊月にメールを送った。
「はぁ〜もう夏も終わりかな〜」
愛花はおにぎりを頬張りながら言った。愛花の手作りのおにぎりはいつも顔くらい大きい。何度見ても笑ってしまう。
「っ……もうすぐ11月だからね〜」
「そう思うと今年の夏って長かったよね。これ、もしかして秋ほとんどないんじゃ……」
「毎年減ってる感じするよね」
「するする〜秋が1番好きなのにな〜。蘭は?いつの季節が好き?」
「私は……」
改めて考えると、頭に浮かぶのは夏に伊月と行った沖縄旅行とか、オープンカーを借りたドライブだった。夏は好きだったけど、今はもう軽々しく好きなんて言えない。
だってあの事故があった日は、湿度の高い曇り空で、蒸し暑い夏の日だったから。
「蘭?」
「あっ、んー私は冬かな?」
「え〜冬なんて寒いだけじゃーん」
何も考えずにスラスラと話す愛花を、私はたまに羨ましく思ってしまう。私もほんの2ヶ月前までは、こんなにも気楽に話していたんだなと思うと、過去の自分ですら羨ましい。
「……伊月くん、最近どう?」
愛花は心配そうに私の顔を覗いた。
「……元気!まぁ、まだ不安定な部分もあるけど」
不安定なところだらけなのに、何故か強がってしまう。笑っている伊月を思い出して、歪んだ笑顔に気付かないふりをする。最近はそんな事ばかり。
「蘭は良くやってるよ。ほんと、尊敬する」
「尊敬?別に私何もやってないよ」
「彼こと支えて、仕事も手抜かずに頑張って、私が蘭の立場だったら逃げ出しちゃうよ」
「……支えてるって言っても、一緒に住んでるだけだけどね」
「それが、凄いんだよ!2人の間には愛があるよね、素敵だと思う」
そうだよ。好きだから、当たり前なの。
あんなことが起きたからって、伊月のことを愛しているのには変わりない。
だから支えるなんて、ごく普通で、ごく当たり前のこと。
そばに居ることなんて、私にとっては当たり前なの。
―16時30分 退勤
みんなに挨拶をして、急がなくてもいいことは分かっていても、足が勝手に駆け足をする。きちんと近くのスーパーで柔軟剤を買ってから帰宅した。
「ただいま〜」
伊月がリビングから顔を出した。
良かった。今日は凄く顔色が良さそう。
「昼寝した?」
「うん窓開けてしたよ。心地よくて爆睡した」
「ははは、それはよかった」
洗面所の高い位置に柔軟剤のストックを置こうとすると、伊月はふわりと香りを漂わせながら私の手を取った。
「高い所は、俺の仕事」
「……うん、ありがとっ」
伊月は背が高くて、体格も良い。そのうえユーモアもあるから、大学の頃、私たち後輩からは物凄く熱い視線を浴びていた。
いつも周りには男友達がいて、笑顔はとびっきり輝いていて。もちろん私も、そんな彼に憧れていた後輩の内の1人だった。
私が大学を卒業してすぐの頃、たまたまランニングをしている道で、伊月と再会をした。1度すれ違って私は直ぐに足を止めたけれど、伊月は気づいていなくて素通り。帽子を被らずに挑んだ5回目のすれ違いで、やっと伊月は足を止めた。
「あれ、蘭ちゃん?」
「!!はい!お久しぶりです伊月さん」
「わ〜2年ぶり?すっごい偶然、びっくりした〜」
「ね、びっくり〜!」
本当は再会して5回目だけど、その日が初めてということにした。伊月は大学の頃と何も変わっていなくて、むしろユーモアさが増して、昔よりも自然に会話ができた。
そうやって朝に会うようになった私達は、段々と立ち止まって話す時間が増えて、最後には待ち合わせをして並走するようになった。
*
2人で手を繋ぎながら、静かな夜を散歩していたら、そんな昔のことを思い出してしまった。
隣にいる伊月の腕をぎゅっと抱きしめる。伊月は「どうした?」と顔を覗き込んできた。
「ううん、幸せだなって思って」と私が言うと、伊月は微笑んだ。
夜に散歩をすることは、伊月にとって、とても効果的な事らしい。そう精神科医に言われてからは、伊月の調子がいい日だけ、なんの目的もなく歩いている。
通ったことのない道を歩くのも楽しいし、薄暗い裏道を通るのも新しい発見があって楽しい。
「こんな居酒屋ここにあったんだ」とか「何この変な落書き」とか。
「あ、いっくん、見てこれ!こんな所に……!」
私がそう口にした瞬間、突然近くからサイレンの音がした。止まっていた救急車が動き出したみたい。音はどんどん近づいてきて、私たちの横を通り過ぎた。
「……っ……はぁ……」
伊月は硬直したように立ち尽くし、呼吸が荒くなっている。
今のサイレンの音を合図に、
また、始まってしまった。
「あぁ……違う、違うんだ」
しゃがみこんで誰かに何かを訴える彼に、素早く駆け寄る。小さくなってしまった彼の体を、これでもかと腕を広げて、それはそれは強い力で抱きしめた。
「大丈夫だよ……大丈夫」
「……大丈夫……大丈夫」
震えている彼の背中を、宥めるように優しく撫でる。今はこれしか方法が分からない。
いや、これも正攻法ではないから、気休めでしかないんだけれど、私も伊月も今はこれに頼るしかない。
しばらくすると、糸が切れたみたいにフッと力が抜ける。これが終わった合図で、忘れてしまう合図でもある。
「ごめん、俺また……」
「ううん!ほら行こ!今は夜の散歩中で、帰り道!寒いからさっさと帰ろっか」
「うん……」
伊月の顔を見ないように、私は前を向いた。
何度かこの瞬間を2人で乗り越えてきたけれど、記憶が抜け落ちてしまった彼の顔は、どうしても見慣れない。
何も無くなった世界を見ているような瞳で、私もそっちの世界に吸い込まれそうになる。
それでも、好きだからこの瞬間も一緒に乗り越えたい。
好きだから、こんな彼を支えたい。
この気持ちは、ごく普通で、
ただの大きすぎる愛だと信じたい。



