*
蝉がジリジリと鳴き出す八月。大学の夏休みが始まってから二週間が経ち、週に一度の「空きコマのルーティーン」は、形を変えて僕たちの日常に溶け込んでいた。あの喫茶店のマスターに勧められた映画を観に行ってからというもの、僕の中で澄花という存在の輪郭は、より鮮明に、そしてどうしようもなく深いところまで染み込んできていた。
「ねえ、暁。今年の夏、花火大会行かない?」
いつもの特等席で、溶けかけたアイスコーヒーの氷をカラカラと鳴らしながら、澄花がそう言ったのは一週間前のことだ。
もちろん、断る理由なんてどこにもなかった。
待ち合わせ場所に指定された駅の改札前は、すでに信じられないほどの熱気と人で溢れかえっていた。色とりどりの浴衣をまとった若者たちや、手を繋ぐ家族連れ。その誰もがこれから始まる夜の祝祭に向けて、浮き足立った高揚感を全身から漂わせている。
人混みの波に押し流されそうになりながら、僕は何度もスマートフォンの画面を確認し、つま先立ちになって周囲を見渡した。
高校時代、周囲の女子生徒から「誰にでも等しく優しい」と言われ、時に「誰も踏み込ませない残酷な男」と評された僕が、今、これほどまでに一人の人間を待ち焦がれ、胸を焦がしている。その事実だけで、口の中がカラカラに乾くような緊張感を覚えていた。
すると突然
「おにーさん、私と一緒に美味しいもの食べに行かない?」
喧騒の隙間を縫って、あの鈴の音のように透き通った声の冗談が僕の耳を震わせた。
冗談には冗談をが僕たちのお決まりだ。
「僕にナンパなん、、」
思わず僕は息を呑み、そのまま言葉を失って立ち尽くした。
そこにいたのは、いつもと全く違う、息を呑むほどに美しい澄花の姿だった。
淡い藍色の地に、白やピンクの小さな花の柄があしらわれた浴衣。いつもは風にるんるんと揺れていた茶色のウェーブヘアは、今日は丁寧にアップにまとめられ、うなじの白い肌が夕暮れの細い光に照らされて、どこか儚げに輝いている。
「じゃーーーん! どうかな? 似合ってる?」
くるっと回って首を傾げる。いつもの、ニコニコした満面の笑顔だった。
僕は思わず
「うん、すごくよく似合ってる。綺麗だよ。」
と格好をつける余裕もなく、本音をそのまま口にすると、澄花は一瞬だけ丸い目をさらに丸くして驚いたような表情を見せた。
けれどすぐに、その白い頬を夕焼けよりも赤く染め、困ったように眉を八の字に曲げて笑った。困ったとき、あるいは想定外の言葉をかけられたときの、彼女の笑顔のグラデーション。それを見落とさない程度には、僕たちが出会ってからの時間は、確かに重なっていた。
「もー、暁ってば、そういうことサラッと言うんだから。……これでも、着付けるのすっごく大変だったんだからね?」
「あはは、ありがと。じゃあ、行こうか。はぐれないようにね」
歩き出した澄花の歩幅は、いつもよりずっと小さかった。慣れない下駄の音が、アスファルトの上でカラン、コロンと、どこか心地よいリズムを刻んでいく。僕は自然と、自分の歩幅を彼女のそれに合わせた。一人で歩く道は退屈で長いのに、澄花と並んで歩く時間は、世界のすべてがスローモーションになったかのように愛おしく、それでいて一瞬で過ぎ去ってしまうのではという予感に満ちていた。
会場近くの河川敷へと続く坂道は、時間が経つにつれてさらに密度を増していった。前を進む人の背中しか見えないほどの混雑の中、澄花の下駄が、心なしか不規則な音を立て始める。周囲の人波に押され、彼女の身体がわずかに揺れた。
高校時代の僕は、特定の誰かを特別扱いすることを恐れていた。誰か一人の独占欲に応えれば、平等の優しさは崩壊し、不誠実という刃に変わることを知っていたからだ。だからこそ、誰も僕の心の奥底には踏み込ませなかった。
でも、澄花は違う。
この人を守りたい。彼女が浮かべるすべての笑顔を、誰よりも近くで、僕だけのものとして守り続けたい。その強い独占欲が、僕の独りよがりな感情だとしても、もうブレーキをかけることはできなかった。
「澄花」
僕は思考よりも早く、右手を伸ばした。浴衣の袖から覗く、澄花の細くて白い手首を、そっと、けれど決して離さないように優しく掴む。
「あ……」
澄花が小さく声を上げ、振り返った。
「人混みがすごいから。……はぐれたら、僕が見つけられなくなっちゃうから」
言い訳のような言葉を口にしながら、手首から滑らせるようにして、彼女の手のひらを包み込んだ。澄花の手は、夏の夜の熱気の中でも、どこかひんやりとしていて、驚くほど小さかった。
澄花は、僕に握られた自分の手と、僕の顔を交互に見つめていた。その瞳には、夕闇が深まる空の色が映り込んでいる。拒絶されるかもしれないという恐怖が僕の脳裏をよぎった瞬間、澄花はきゅっと僕の手を握り返してくれた。
言葉にする代わりに、口角をきゅっと上げて、静かに、けれど深く噛み締めるような笑い方。本当に嬉しいとき、彼女が僕にだけ見せてくれる、あの特別な笑顔だった。胸の奥が、温かい何かで満たされていくのが分かった。
ようやく辿り着いた河川敷の芝生は、すでに無数のビニールシートで埋め尽くされていた。隙間を見つけて腰を下ろすと、川面を吹き抜ける夜風が、火照った僕たちの肌を優しく撫でていく。
「ぷはぁ、冷たい! 生き返るーー!」
途中の露店で買った冷たいラムネを口にし、澄花は「くーーっ!」と大げさに喉を鳴らした。ビー玉がカランと涼しげな音を立てる。
「ねえ見て、暁!今日の日のために私、ちゃんとこのノートに、花火大会のプログラムと、一番綺麗な花火!調べて書いてきたんだから!」
澄花は浴衣の袂から、あの愛用の旅行ノートを取り出した。薄暗い常夜灯の光の下で広げられた白いページには、黒くて可愛らしい文字で「一発目、スターマイン。大迫力!」「後半の仕掛け花火、絶対に見逃さないこと!」と、彼女のワクワクした熱量がそのまま弾むように書き込まれていた。
「本当に、澄花はノートに書くとき楽しそうだよね」
「だって、未来の楽しいことを考えてる時間って、一番幸せじゃない? あ、でもね、現実だと、ノートに書いた以上のことが起きちゃうかもね?」
澄花はそう言って、僕たちの間に置かれた、まだ少しだけ触れ合っている互いの手元に視線を落とした。そして、ニヤニヤとした実にわかりやすい悪戯っぽい笑みを浮かべて僕を覗き込んでくる。
「な、何だよ」
「ううん? 暁が、思ったより男らしくてびっくりしちゃったなーって思っただけ」
「からかうなよ……」
僕は赤くなる顔を隠すように、残ったラムネを一気に飲み干した。そんな僕の様子を見て、彼女は満足そうにケラケラと笑い声を響かせる。彼女と一緒にいるだけで、周りの空気までが弾け、世界の色彩が鮮やかになっていくようだった。
ーーそのときだった。
ドォン、という、お腹の底に響くような重々しい音が、夜の帳を切り裂いた。
一瞬の静寂の後、遥か上空で、パッと鮮やかな大輪の光が花開いた。赤、青、黄色。きらきらとした光の粒が、夜空という巨大なキャンバスの上に広がっては、静かに、けれど華やかにしだれて落ちていく。
「わあ……っ!」
澄花が歓声を上げ、ノートを閉じて夜空を見上げた。
次々に打ち上げられる花火は、河川敷をまるで真昼のように明るく照らし、次の瞬間には深い影を落とす。激しい光と影の明暗の中で、僕は花火を見上げる澄花の横顔から、どうしても目を離すことができなかった。
光の中に浮かび上がる彼女の顔は、言葉を失うほどに美しかった。
花火の色彩が、彼女の白い肌や、丁寧に結い上げられた髪の毛、そして浴衣の藍色を刻一刻と塗り替えていく。澄花は、本当に楽しそうに、子供のように目を輝かせて夜空を見つめていた。
激しい爆音とともに、連続して打ち上げられるスターマインが、夜空をゴールドの光で埋め尽くしたとき。周囲からは地鳴りのような歓声が沸き起こっていた。
しかし、その光と声の濁流の中で、僕はふと、あの映画館での出来事を思い出していた。
どんなに悲しいシーンでも、店長が太鼓判を押した泣ける物語でも、澄花は一滴の涙も流さなかった。泣くどころか、どこか穏やかに、優しく微笑みながら、白い指先でリズムを刻んでいた。
『ふふふ、人より涙腺が強いのよー』
いたずらっぽく笑った彼女の瞳の奥には、確かに、どこか遠くを見つめるような、寂しい気配が隠されていた。今、目の前で、これ以上ないほどのまばゆい光に照らされながら、満面の笑みを浮かべている澄花。
ーーこの笑顔の裏に、彼女は何を隠しているのだろう。
彼女の笑顔は決して作り物の仮面ではない。すべてが本物の、血の通った感情の表現だ。困った顔、驚いた顔、企む顔、そして心から楽しむ顔。けれど、僕はまだ、彼女の「涙」を知らない。
花火の凄まじい光が、一瞬、澄花の瞳の奥を強く照らし出した。その瞬間、彼女の瞳が一瞬だけ、きつく、哀しそうに細められたように見えたのは、僕の気のせいだったのだろうか。爆音にかき消されそうなほど小さな声で、彼女の唇が何かを呟いたように見えた。
「……澄花?」
僕が声をかけると、澄花は弾かれたようにこちらを振り返った。
そこにあったのは、いつもの、ニコニコとした満面の笑顔だった。
「すごかったね、暁! ねえ、次の仕掛け花火、いよいよ最大の見どころだよ!」
声を弾ませ、大きく身振りを交えてノートを指差す澄花。
その大げさなアクションが、僕には一瞬、何かを必死に覆い隠そうとするための、彼女なりの精一杯の防衛策のように思えてならなかった。
高校時代、僕は「誰も踏み込ませない」ことで自分を守っていた。でも、澄花は「すべてを笑顔にのせる」ことで、何かから自分を、あるいは僕を守ろうとしているのではないか。
最後の特大花火が夜空を焼き尽くすような純白の光を放ち、ゆっくりと消えていく。周囲に立ち込める火薬の匂いと、押し寄せるような大歓声。隣に座る澄花も、興奮した様子で「すごかったね!」とこちらに振り向いた。
僕の顔をじっと見つめた澄花は、すぐに口元を片方だけ持ち上げて、ニヤニヤとした実にわかりやすい企みの笑みを浮かべた。
「ねえ、暁。ちゃんと花火見てたー?」
「……見てたよ。綺麗だった」
「嘘だぁ! 私の横顔ばっかり見てたでしょ? 視線、すっごく刺さってたんだからね!」
そう言って、澄花はまたケラケラと楽しそうに笑い声を響かせた。
図星を突かれた僕は、またしても言葉に詰まってラムネの瓶を握りしめるしかなかった。
大混雑の河川敷を抜け、駅へと向かう人波とは逆の方向へ歩き出す。
周囲の喧騒が少しずつ遠ざかり、電灯がぽつぽつと並ぶだけの静かな夜道へと入っていく。
家まで送ろうと、暗い道を二人並んで歩く。
澄花は「ふんふん〜♪」と、今日の花火の余韻を楽しむように楽しげな鼻歌を歌っていた。
けれど、その足取りはどこかぎこちなく、いつもより少しだけ緊張しているのが僕にも伝わってきた。
不意に、ぷつっと鼻歌が聞こえなくなった。
澄花が少しだけ大きく息を吸い込む気配がして、僕たちの歩みが自然と緩む。
「そうだなー! 花火をちゃんと見られなかった可哀想な暁くんには、この澄花ちゃんが特別な花火を見せてあげよう! じゃじゃーーんっ!」
澄花はそう言うと、浴衣の袂から細長い小さな紙袋を引っ張り出した。中から覗いたのは、数本の線香花火だった。
「暁みたいなポエマーでロマンチストな男の子は、こういうの好きっしょー?」
伊織や山田が僕をからかうときに使う言葉をわざわざ引っ張り出してきて、澄花はニヤニヤと悪い企みの笑顔を浮かべた。
「近くに小さな公園があるの。行こ!」
案内されたのは、遊具が数個並ぶだけの、ひっそりとした街区公園だった。昼間の熱気がまだ砂場に残っているような、夏の夜の匂いのする場所。
ベンチに腰掛け、ライターで澄花の持つ線香花火の先端に火を灯す。
じ、じ、と紙が焦げる音がしたあと、パチパチ……と、繊細でどこか儚い、オレンジ色の火花が静かに散り始めた。
「……夏も、終わるね」
火花に照らされた彼女がぽつりと言った。
「そうだね」
僕は短く答えた。心臓の音が、耳の奥でうるさいくらいに脈打っている。
僕は今日、ある一言を言いたくてここに来た。
花火大会に行くという話が出たときから、ずっとタイミングを探していた。
今までにも伝えられる機会はいくらでもあったはずだ。毎週のように二人で並んで歩いた三十分の道のり。映画館の帰り道の夕暮れ。いつでも言えたはずなのに、どうしても言葉が喉の奥で引っかかって出てこなかった。
ーーこんなことを思っているのは、自分だけなのではないか。
澄花は、誰に対しても分け隔てなく、ひだまりのような暖かさを振りまく人だ。山田の入っているサークルの先輩を悪気なく玉砕させたように、彼女にとっては僕と過ごす週に一度の時間も、ただの「仲の良い友達としての楽しい時間」に過ぎないのではないか。
もし、僕がこの感情を口に出してしまったら。
これまでの心地よくて優しい、僕たちの関係まで壊れてしまうんじゃないか。
そんな不安が、ぐるぐると、頭の中で何度も渦を巻いていた。
散々、ドラマや映画で観てきたシチュエーションだ。一目惚れした男が、夏の終わりに告白するなんてベタな展開。「そんなこと、現実じゃあり得ない」と、いつも冷めた目でスクリーンを眺めていたのは、他でもない僕自身だった。
まさか僕自身が、こんなにも必死に、臆病に、一人の女の子に心を狂わされているなんて。
もし駄目だったら。もし、この告白のせいで彼女を困らせてしまったら。
だからこそ、僕は澄花の家の近くで伝えると決めていた。
どんな状況であれ、どんな結果になろうとも、女の子を夜道に一人で帰すような真似だけはしたくなかったから。それが、僕の最低限の覚悟だった。
パチ、パチ……。
線香花火の火花が徐々に小さくなり、最後に大きな火の玉がポトリと地面に落ちた。周囲が、一瞬で元の薄暗い闇に戻る。
今しかない。
電灯の青白い光だけが僕たちを照らす公園で、僕は人生で一番の勇気を振り振り絞って、彼女の名前を呼んだ。
「澄花。……聞いてほしいことがあるんだ」
澄花は、手元に残った花火の燃え殻を静かに見つめたあと、ゆっくりと顔を上げた。
彼女の表情からは、いつもの大げさなリアクションが消えていた。けれど、拒絶するような冷たさはどこにもない。彼女はただ、静かに、優しく、僕の次の言葉を待つようにして小さく頷いた。
「あの日、あの桜が満開の喫茶店で澄花を見かけた日。……僕は、君に一目惚れしたんだ」
言葉が、僕の胸の奥から溢れ出すようにして紡がれていく。
「最初は、なんて笑顔の素敵な人なんだろうって、ただそれだけだった。でも、毎週一緒に過ごして、君のことを知れば知るほど、その思いはどんどん強くなっていった。困ったように笑う顔も、企むようにニヤニヤする顔も、全部愛おしくて。……いつの間にか、澄花の笑顔を、これから先もずっと、誰よりも近くで守りたいと思うようになったんだ」
澄花は、僕の言葉を一つも聞き逃さないように、じっと僕の目を見つめていた。時折、恥ずかしそうに、困ったようにふふっと小さく笑いながら、それでも頷いて、視線をそらさずに聞いてくれている。
「今まで、ずっと言い出せなくてごめん。誰にでも優しい男だって、誰にも踏み込ませないって、特別扱いはしないって、周りからは言われてきたけど……僕にとって、澄花だけは最初から特別だった」
息を吸い込み、まっすぐに彼女の瞳の奥を見つめる。
「澄花のことが好きです。……僕と、付き合ってください」
静寂が、公園の空気を満たした。遠くで、かすかに虫の鳴く声だけが聞こえている。
澄花は、丸い目を少しだけ潤ませながら、僕の顔をじっと見つめていた。
そして、あの日バラバラに落とした小銭を一緒に拾ってくれたときと全く同じ、名前を呼んで振り返ってくれたときと同じ、浴衣姿を褒めたときと同じ、周囲のすべてを陽だまりで包み込むような、とびきりの満面の笑みを浮かべた。
「……ふふっ、待ってたよ」
澄花の声は、夏の夜風に乗って、心地よく僕の耳に届いた。
「私も、暁のことが好き。……こちらこそ、これからもよろしくね。」
目が合ったのは、ほんの数秒だった。
すぐに澄花は「うわーー、恥ずかしいっ!」と早口で叫ぶと、くるりと後ろを向いてしまった。アップに結い上げられた髪の隙間から覗くうなじが、電灯の光の下でも真っ赤に染まっているのがよく分かった。
「もう! 家、そこだから! 今日はここまで! バイバイ!」
そう言って、浴衣の裾を揺らしながら小走りで公園を飛び出していく澄花の後ろ姿。下駄のカランコロンという音が、心なしかさっきよりもずっと軽快に響いている。
澄花の後ろ姿は、今日も、世界で一番楽しそうだった。
遠ざかっていく藍色の浴衣を見送りながら、僕は自分の胸の奥に、これまでにないほど強くて温かい、確かな温度が灯っているのを感じていた。
蝉がジリジリと鳴き出す八月。大学の夏休みが始まってから二週間が経ち、週に一度の「空きコマのルーティーン」は、形を変えて僕たちの日常に溶け込んでいた。あの喫茶店のマスターに勧められた映画を観に行ってからというもの、僕の中で澄花という存在の輪郭は、より鮮明に、そしてどうしようもなく深いところまで染み込んできていた。
「ねえ、暁。今年の夏、花火大会行かない?」
いつもの特等席で、溶けかけたアイスコーヒーの氷をカラカラと鳴らしながら、澄花がそう言ったのは一週間前のことだ。
もちろん、断る理由なんてどこにもなかった。
待ち合わせ場所に指定された駅の改札前は、すでに信じられないほどの熱気と人で溢れかえっていた。色とりどりの浴衣をまとった若者たちや、手を繋ぐ家族連れ。その誰もがこれから始まる夜の祝祭に向けて、浮き足立った高揚感を全身から漂わせている。
人混みの波に押し流されそうになりながら、僕は何度もスマートフォンの画面を確認し、つま先立ちになって周囲を見渡した。
高校時代、周囲の女子生徒から「誰にでも等しく優しい」と言われ、時に「誰も踏み込ませない残酷な男」と評された僕が、今、これほどまでに一人の人間を待ち焦がれ、胸を焦がしている。その事実だけで、口の中がカラカラに乾くような緊張感を覚えていた。
すると突然
「おにーさん、私と一緒に美味しいもの食べに行かない?」
喧騒の隙間を縫って、あの鈴の音のように透き通った声の冗談が僕の耳を震わせた。
冗談には冗談をが僕たちのお決まりだ。
「僕にナンパなん、、」
思わず僕は息を呑み、そのまま言葉を失って立ち尽くした。
そこにいたのは、いつもと全く違う、息を呑むほどに美しい澄花の姿だった。
淡い藍色の地に、白やピンクの小さな花の柄があしらわれた浴衣。いつもは風にるんるんと揺れていた茶色のウェーブヘアは、今日は丁寧にアップにまとめられ、うなじの白い肌が夕暮れの細い光に照らされて、どこか儚げに輝いている。
「じゃーーーん! どうかな? 似合ってる?」
くるっと回って首を傾げる。いつもの、ニコニコした満面の笑顔だった。
僕は思わず
「うん、すごくよく似合ってる。綺麗だよ。」
と格好をつける余裕もなく、本音をそのまま口にすると、澄花は一瞬だけ丸い目をさらに丸くして驚いたような表情を見せた。
けれどすぐに、その白い頬を夕焼けよりも赤く染め、困ったように眉を八の字に曲げて笑った。困ったとき、あるいは想定外の言葉をかけられたときの、彼女の笑顔のグラデーション。それを見落とさない程度には、僕たちが出会ってからの時間は、確かに重なっていた。
「もー、暁ってば、そういうことサラッと言うんだから。……これでも、着付けるのすっごく大変だったんだからね?」
「あはは、ありがと。じゃあ、行こうか。はぐれないようにね」
歩き出した澄花の歩幅は、いつもよりずっと小さかった。慣れない下駄の音が、アスファルトの上でカラン、コロンと、どこか心地よいリズムを刻んでいく。僕は自然と、自分の歩幅を彼女のそれに合わせた。一人で歩く道は退屈で長いのに、澄花と並んで歩く時間は、世界のすべてがスローモーションになったかのように愛おしく、それでいて一瞬で過ぎ去ってしまうのではという予感に満ちていた。
会場近くの河川敷へと続く坂道は、時間が経つにつれてさらに密度を増していった。前を進む人の背中しか見えないほどの混雑の中、澄花の下駄が、心なしか不規則な音を立て始める。周囲の人波に押され、彼女の身体がわずかに揺れた。
高校時代の僕は、特定の誰かを特別扱いすることを恐れていた。誰か一人の独占欲に応えれば、平等の優しさは崩壊し、不誠実という刃に変わることを知っていたからだ。だからこそ、誰も僕の心の奥底には踏み込ませなかった。
でも、澄花は違う。
この人を守りたい。彼女が浮かべるすべての笑顔を、誰よりも近くで、僕だけのものとして守り続けたい。その強い独占欲が、僕の独りよがりな感情だとしても、もうブレーキをかけることはできなかった。
「澄花」
僕は思考よりも早く、右手を伸ばした。浴衣の袖から覗く、澄花の細くて白い手首を、そっと、けれど決して離さないように優しく掴む。
「あ……」
澄花が小さく声を上げ、振り返った。
「人混みがすごいから。……はぐれたら、僕が見つけられなくなっちゃうから」
言い訳のような言葉を口にしながら、手首から滑らせるようにして、彼女の手のひらを包み込んだ。澄花の手は、夏の夜の熱気の中でも、どこかひんやりとしていて、驚くほど小さかった。
澄花は、僕に握られた自分の手と、僕の顔を交互に見つめていた。その瞳には、夕闇が深まる空の色が映り込んでいる。拒絶されるかもしれないという恐怖が僕の脳裏をよぎった瞬間、澄花はきゅっと僕の手を握り返してくれた。
言葉にする代わりに、口角をきゅっと上げて、静かに、けれど深く噛み締めるような笑い方。本当に嬉しいとき、彼女が僕にだけ見せてくれる、あの特別な笑顔だった。胸の奥が、温かい何かで満たされていくのが分かった。
ようやく辿り着いた河川敷の芝生は、すでに無数のビニールシートで埋め尽くされていた。隙間を見つけて腰を下ろすと、川面を吹き抜ける夜風が、火照った僕たちの肌を優しく撫でていく。
「ぷはぁ、冷たい! 生き返るーー!」
途中の露店で買った冷たいラムネを口にし、澄花は「くーーっ!」と大げさに喉を鳴らした。ビー玉がカランと涼しげな音を立てる。
「ねえ見て、暁!今日の日のために私、ちゃんとこのノートに、花火大会のプログラムと、一番綺麗な花火!調べて書いてきたんだから!」
澄花は浴衣の袂から、あの愛用の旅行ノートを取り出した。薄暗い常夜灯の光の下で広げられた白いページには、黒くて可愛らしい文字で「一発目、スターマイン。大迫力!」「後半の仕掛け花火、絶対に見逃さないこと!」と、彼女のワクワクした熱量がそのまま弾むように書き込まれていた。
「本当に、澄花はノートに書くとき楽しそうだよね」
「だって、未来の楽しいことを考えてる時間って、一番幸せじゃない? あ、でもね、現実だと、ノートに書いた以上のことが起きちゃうかもね?」
澄花はそう言って、僕たちの間に置かれた、まだ少しだけ触れ合っている互いの手元に視線を落とした。そして、ニヤニヤとした実にわかりやすい悪戯っぽい笑みを浮かべて僕を覗き込んでくる。
「な、何だよ」
「ううん? 暁が、思ったより男らしくてびっくりしちゃったなーって思っただけ」
「からかうなよ……」
僕は赤くなる顔を隠すように、残ったラムネを一気に飲み干した。そんな僕の様子を見て、彼女は満足そうにケラケラと笑い声を響かせる。彼女と一緒にいるだけで、周りの空気までが弾け、世界の色彩が鮮やかになっていくようだった。
ーーそのときだった。
ドォン、という、お腹の底に響くような重々しい音が、夜の帳を切り裂いた。
一瞬の静寂の後、遥か上空で、パッと鮮やかな大輪の光が花開いた。赤、青、黄色。きらきらとした光の粒が、夜空という巨大なキャンバスの上に広がっては、静かに、けれど華やかにしだれて落ちていく。
「わあ……っ!」
澄花が歓声を上げ、ノートを閉じて夜空を見上げた。
次々に打ち上げられる花火は、河川敷をまるで真昼のように明るく照らし、次の瞬間には深い影を落とす。激しい光と影の明暗の中で、僕は花火を見上げる澄花の横顔から、どうしても目を離すことができなかった。
光の中に浮かび上がる彼女の顔は、言葉を失うほどに美しかった。
花火の色彩が、彼女の白い肌や、丁寧に結い上げられた髪の毛、そして浴衣の藍色を刻一刻と塗り替えていく。澄花は、本当に楽しそうに、子供のように目を輝かせて夜空を見つめていた。
激しい爆音とともに、連続して打ち上げられるスターマインが、夜空をゴールドの光で埋め尽くしたとき。周囲からは地鳴りのような歓声が沸き起こっていた。
しかし、その光と声の濁流の中で、僕はふと、あの映画館での出来事を思い出していた。
どんなに悲しいシーンでも、店長が太鼓判を押した泣ける物語でも、澄花は一滴の涙も流さなかった。泣くどころか、どこか穏やかに、優しく微笑みながら、白い指先でリズムを刻んでいた。
『ふふふ、人より涙腺が強いのよー』
いたずらっぽく笑った彼女の瞳の奥には、確かに、どこか遠くを見つめるような、寂しい気配が隠されていた。今、目の前で、これ以上ないほどのまばゆい光に照らされながら、満面の笑みを浮かべている澄花。
ーーこの笑顔の裏に、彼女は何を隠しているのだろう。
彼女の笑顔は決して作り物の仮面ではない。すべてが本物の、血の通った感情の表現だ。困った顔、驚いた顔、企む顔、そして心から楽しむ顔。けれど、僕はまだ、彼女の「涙」を知らない。
花火の凄まじい光が、一瞬、澄花の瞳の奥を強く照らし出した。その瞬間、彼女の瞳が一瞬だけ、きつく、哀しそうに細められたように見えたのは、僕の気のせいだったのだろうか。爆音にかき消されそうなほど小さな声で、彼女の唇が何かを呟いたように見えた。
「……澄花?」
僕が声をかけると、澄花は弾かれたようにこちらを振り返った。
そこにあったのは、いつもの、ニコニコとした満面の笑顔だった。
「すごかったね、暁! ねえ、次の仕掛け花火、いよいよ最大の見どころだよ!」
声を弾ませ、大きく身振りを交えてノートを指差す澄花。
その大げさなアクションが、僕には一瞬、何かを必死に覆い隠そうとするための、彼女なりの精一杯の防衛策のように思えてならなかった。
高校時代、僕は「誰も踏み込ませない」ことで自分を守っていた。でも、澄花は「すべてを笑顔にのせる」ことで、何かから自分を、あるいは僕を守ろうとしているのではないか。
最後の特大花火が夜空を焼き尽くすような純白の光を放ち、ゆっくりと消えていく。周囲に立ち込める火薬の匂いと、押し寄せるような大歓声。隣に座る澄花も、興奮した様子で「すごかったね!」とこちらに振り向いた。
僕の顔をじっと見つめた澄花は、すぐに口元を片方だけ持ち上げて、ニヤニヤとした実にわかりやすい企みの笑みを浮かべた。
「ねえ、暁。ちゃんと花火見てたー?」
「……見てたよ。綺麗だった」
「嘘だぁ! 私の横顔ばっかり見てたでしょ? 視線、すっごく刺さってたんだからね!」
そう言って、澄花はまたケラケラと楽しそうに笑い声を響かせた。
図星を突かれた僕は、またしても言葉に詰まってラムネの瓶を握りしめるしかなかった。
大混雑の河川敷を抜け、駅へと向かう人波とは逆の方向へ歩き出す。
周囲の喧騒が少しずつ遠ざかり、電灯がぽつぽつと並ぶだけの静かな夜道へと入っていく。
家まで送ろうと、暗い道を二人並んで歩く。
澄花は「ふんふん〜♪」と、今日の花火の余韻を楽しむように楽しげな鼻歌を歌っていた。
けれど、その足取りはどこかぎこちなく、いつもより少しだけ緊張しているのが僕にも伝わってきた。
不意に、ぷつっと鼻歌が聞こえなくなった。
澄花が少しだけ大きく息を吸い込む気配がして、僕たちの歩みが自然と緩む。
「そうだなー! 花火をちゃんと見られなかった可哀想な暁くんには、この澄花ちゃんが特別な花火を見せてあげよう! じゃじゃーーんっ!」
澄花はそう言うと、浴衣の袂から細長い小さな紙袋を引っ張り出した。中から覗いたのは、数本の線香花火だった。
「暁みたいなポエマーでロマンチストな男の子は、こういうの好きっしょー?」
伊織や山田が僕をからかうときに使う言葉をわざわざ引っ張り出してきて、澄花はニヤニヤと悪い企みの笑顔を浮かべた。
「近くに小さな公園があるの。行こ!」
案内されたのは、遊具が数個並ぶだけの、ひっそりとした街区公園だった。昼間の熱気がまだ砂場に残っているような、夏の夜の匂いのする場所。
ベンチに腰掛け、ライターで澄花の持つ線香花火の先端に火を灯す。
じ、じ、と紙が焦げる音がしたあと、パチパチ……と、繊細でどこか儚い、オレンジ色の火花が静かに散り始めた。
「……夏も、終わるね」
火花に照らされた彼女がぽつりと言った。
「そうだね」
僕は短く答えた。心臓の音が、耳の奥でうるさいくらいに脈打っている。
僕は今日、ある一言を言いたくてここに来た。
花火大会に行くという話が出たときから、ずっとタイミングを探していた。
今までにも伝えられる機会はいくらでもあったはずだ。毎週のように二人で並んで歩いた三十分の道のり。映画館の帰り道の夕暮れ。いつでも言えたはずなのに、どうしても言葉が喉の奥で引っかかって出てこなかった。
ーーこんなことを思っているのは、自分だけなのではないか。
澄花は、誰に対しても分け隔てなく、ひだまりのような暖かさを振りまく人だ。山田の入っているサークルの先輩を悪気なく玉砕させたように、彼女にとっては僕と過ごす週に一度の時間も、ただの「仲の良い友達としての楽しい時間」に過ぎないのではないか。
もし、僕がこの感情を口に出してしまったら。
これまでの心地よくて優しい、僕たちの関係まで壊れてしまうんじゃないか。
そんな不安が、ぐるぐると、頭の中で何度も渦を巻いていた。
散々、ドラマや映画で観てきたシチュエーションだ。一目惚れした男が、夏の終わりに告白するなんてベタな展開。「そんなこと、現実じゃあり得ない」と、いつも冷めた目でスクリーンを眺めていたのは、他でもない僕自身だった。
まさか僕自身が、こんなにも必死に、臆病に、一人の女の子に心を狂わされているなんて。
もし駄目だったら。もし、この告白のせいで彼女を困らせてしまったら。
だからこそ、僕は澄花の家の近くで伝えると決めていた。
どんな状況であれ、どんな結果になろうとも、女の子を夜道に一人で帰すような真似だけはしたくなかったから。それが、僕の最低限の覚悟だった。
パチ、パチ……。
線香花火の火花が徐々に小さくなり、最後に大きな火の玉がポトリと地面に落ちた。周囲が、一瞬で元の薄暗い闇に戻る。
今しかない。
電灯の青白い光だけが僕たちを照らす公園で、僕は人生で一番の勇気を振り振り絞って、彼女の名前を呼んだ。
「澄花。……聞いてほしいことがあるんだ」
澄花は、手元に残った花火の燃え殻を静かに見つめたあと、ゆっくりと顔を上げた。
彼女の表情からは、いつもの大げさなリアクションが消えていた。けれど、拒絶するような冷たさはどこにもない。彼女はただ、静かに、優しく、僕の次の言葉を待つようにして小さく頷いた。
「あの日、あの桜が満開の喫茶店で澄花を見かけた日。……僕は、君に一目惚れしたんだ」
言葉が、僕の胸の奥から溢れ出すようにして紡がれていく。
「最初は、なんて笑顔の素敵な人なんだろうって、ただそれだけだった。でも、毎週一緒に過ごして、君のことを知れば知るほど、その思いはどんどん強くなっていった。困ったように笑う顔も、企むようにニヤニヤする顔も、全部愛おしくて。……いつの間にか、澄花の笑顔を、これから先もずっと、誰よりも近くで守りたいと思うようになったんだ」
澄花は、僕の言葉を一つも聞き逃さないように、じっと僕の目を見つめていた。時折、恥ずかしそうに、困ったようにふふっと小さく笑いながら、それでも頷いて、視線をそらさずに聞いてくれている。
「今まで、ずっと言い出せなくてごめん。誰にでも優しい男だって、誰にも踏み込ませないって、特別扱いはしないって、周りからは言われてきたけど……僕にとって、澄花だけは最初から特別だった」
息を吸い込み、まっすぐに彼女の瞳の奥を見つめる。
「澄花のことが好きです。……僕と、付き合ってください」
静寂が、公園の空気を満たした。遠くで、かすかに虫の鳴く声だけが聞こえている。
澄花は、丸い目を少しだけ潤ませながら、僕の顔をじっと見つめていた。
そして、あの日バラバラに落とした小銭を一緒に拾ってくれたときと全く同じ、名前を呼んで振り返ってくれたときと同じ、浴衣姿を褒めたときと同じ、周囲のすべてを陽だまりで包み込むような、とびきりの満面の笑みを浮かべた。
「……ふふっ、待ってたよ」
澄花の声は、夏の夜風に乗って、心地よく僕の耳に届いた。
「私も、暁のことが好き。……こちらこそ、これからもよろしくね。」
目が合ったのは、ほんの数秒だった。
すぐに澄花は「うわーー、恥ずかしいっ!」と早口で叫ぶと、くるりと後ろを向いてしまった。アップに結い上げられた髪の隙間から覗くうなじが、電灯の光の下でも真っ赤に染まっているのがよく分かった。
「もう! 家、そこだから! 今日はここまで! バイバイ!」
そう言って、浴衣の裾を揺らしながら小走りで公園を飛び出していく澄花の後ろ姿。下駄のカランコロンという音が、心なしかさっきよりもずっと軽快に響いている。
澄花の後ろ姿は、今日も、世界で一番楽しそうだった。
遠ざかっていく藍色の浴衣を見送りながら、僕は自分の胸の奥に、これまでにないほど強くて温かい、確かな温度が灯っているのを感じていた。
