春風、君を待つ

*
大学の講義棟を繋ぐ渡り廊下には、じっとりとした湿気を含んだ熱気が滞留していた。初夏の強い日差しがコンクリートの床に白い反射をつくり、歩くだけで額に薄い汗がにじんでくる。 お昼時を迎えたキャンパスは、一限から解放された学生たちの喧騒で膨れ上がっていた。

「なーあっきー!おれらに言ってないことあるんじゃなーい?」
背後から、鼓膜を容赦なく震わせる大きな声が降ってきた。振り返るよりも早く、太い腕が僕の首にギリギリと回される。 にやにやとした、品性の欠片もない笑みを浮かべて僕の顔を覗き込んできたのは、中学時代からの腐れ縁である山田だった。

短く刈り込んだ髪に、日に焼けた健康的な肌。Tシャツの袖を無造作にまくり上げたその姿は、相変わらず「声の大きい元気な山田!!」という彼のキャッチコピーをそのまま体現しているようだった。
とにかく元気で、底抜けに良いやつなのだが、こういう時の嗅覚だけは妙に鋭いのが玉に瑕だ。

「……何のことだよ、急に」
僕は山田の腕をほどこうともがくが、部活で鍛え上げられた男の力には到底敵わない。

「おーそうなの? 俺知らないんだけど」
僕のすぐ横を歩いていた長身の男が、他人事のように、けれど楽しそうに視線をこちらへ向けた。 伊織だ。
彼とは大学に入ってからの付き合いだ。 一八〇センチを超える高い身長に、涼しげな目元。整った顔立ちは、キャンパス内のどこにいても自然と女子学生の目を引く。いわば「モテの具現化」のような男だった。
ただ、口を開けば少し格好つけたがりな癖があり、どこか締まりがない。俗に言う「残念なイケメン」という枠に、彼は見事に収まっていた。
僕たちは普段から、この三人で行動をともにすることが多かった。性格も、これまでの生い立ちも全く違う三人だったが、なぜか居心地がよく、大学の緩い空気の中にうまく馴染んでいた。
「いやー、おれ見たんだよ! 最近、昼間っから大学の女の子と嬉しそうに出かけてるっしょ!」
山田は首に回していた腕を外すと、今度は僕の目の前に回り込んで、人差し指を突きつけてきた。その目が、完全に獲物を見つけた猛獣のそれになっている。

「うわー、暁ちゃん、平日の昼間から女の子と逢瀬なんて、そんな不純な真似は感心しないなぁ。お母さん泣いちゃう、、!」
伊織がわざとらしく胸に手を当て、芝居がかったトーンで首を振る。

「っるせー! そんなんじゃないって。ただ、行きつけの喫茶店に一緒に行ってるだけだって!」
僕は歩調を早めながら、むっとした声を返した。顔が少し熱くなるのを感じたが、それは決して初夏の日差しのせいだけではなかった。

「へえ、喫茶店ねぇ」山田がさらにニヤニヤを深くする。
「洒落てんなぁ! でもおれ、知ってるよあの子。文学部の松浦さんでしょ。松浦、澄花さん」

その名前が山田の口から飛び出した瞬間、僕は思わず足を止めそうになった。心臓がドクンと嫌な音を立てる。

「なんっで知ってんの?! すご……っていうか、こわ!」
「おれの交友関係を舐めんなって!」
山田はこれでもかというくらいに胸を張り、鼻の穴を膨らませた。
彼の「人類みな友達」のネットワークは、時に僕の想像を遥かに超える範囲まで網羅しているらしい。
「でもさ、松浦さんって、ぶっちゃけ結構人気なんだよなー」
山田は少し声を落とし、内緒話をするように顔を近づけてきた。

「おれの入ってるサークルの先輩がさ、こないだ鼻息荒くしてナンパしに行ったんだけど、見事に玉砕したって泣いてたよ」

山田の言葉を聞きながら、僕は心の中で、あの喫茶店での澄花の笑顔を思い出していた。 確かに、澄花はモテるだろう。誰に対しても分け隔てなく、ひだまりのような暖かさを振りまくあの笑顔。あんな表情を不意に向けられたら、男なんて簡単に骨抜きにされてしまう。そのサークルの先輩とやらも、きっと澄花の放つ引力に抗えずに吸い寄せられ、そして彼女の「悪気のない壁」に阻まれたに違いない。

「へえ、暁がそんなマドンナと仲良くしてんだ。意外だなー。お前、そういうのあんまり興味ないのかと思ってたわ」
伊織がポケットに両手を突っ込んだまま、値踏みするような視線を僕に送ってくる。

「そりゃ、伊織ほどじゃないけど、男として興味くらいあるよ」 僕は肩をすくめて見せた。

伊織はその端正なルックスと、誰にでも調子よく合わせられる軽い口調のせいで、学内では「女遊びが激しい」だの「常にキープがいる」だの、真偽の定かではない噂が絶えない男だった。
本人もそれを否定するどころか、どこか楽しんでいる節があるため、僕も定期的にこうやって弄るのがお決まりになっていた。

だが、僕は知っている。伊織が実は、初恋の幼馴染の女の子のことを、今でも一途に想い続けているということを。
その事実を本人から聞かされた時、僕は「こいつ、めちゃくちゃ可愛い奴だな」と心の底から思ったものだ。まあ、だからといって、日頃の軽薄な態度を弄るのをやめるつもりは少しもないが。
押し合うようにして辿り着いた大学の学生食堂は、熱気と脂の匂いで満ちていた。 大ボリュームの唐揚げ定食やカレーライスをトレイに載せた学生たちが、席を求めてせわしなく行き交っている。

運よく窓際の四人掛けのテーブル席を確保した僕たちは、それぞれ注文したメニューを机に並べた。 プラスチックの椅子に深く腰掛け、水を一杯飲み干したところで、山田が思い出したようにポンと手を叩き、食堂の喧騒に負けない音量で声を上げた。

「そうだよ! だってあっきー、そういや『女泣かせの暁』の異名持ちだもんな!」
「あ、ちょ、おい……!」
僕は慌てて身を乗り出し、山田の口を片手で塞ごうとしたが、時すでに遅かった。

山田の声量は、賑やかな駅の構内であっても遠く離れた相手を振り返らせるレベルだ。この騒がしい食堂の中であっても、そのキーワードは周囲の数席にまで確実に響き渡っていた。

「なにそれ、ちょー面白そう。詳しく聞かせてよ」
案の定、伊織の目がキラリと意地悪く輝いた。彼は箸を持ったまま、身を乗り出してくる。 山田の口から手を退け、僕は大きなため息をついた。ここで下手に隠そうとすれば、かえって山田が話を大きくして面白おかしく吹聴するのは目に見えている。僕は諦めて、冷めかけたうどんの汁をすすった。
「あれは高校の時だったかなー」
山田は待ってましたと言わんばかりに、嬉々として語り始めた。

「あっきーってさ、気が利くし、優しいじゃん? それは昔からだったんだよ。だから女子から結構モテてさ、高二の時とかマジで無双してたわけだ。おれみたいな非モテ族は、隣でいつも指くわえて泣きべそかいてたわけ」
山田は両手を上げて、お手上げだというジェスチャーをしてみせる。

「それでさ、男子とは、こうやって馬鹿騒ぎするし、口調だって男子全開じゃん? なのに、一人称が『僕』なのがえろいんだってさー。あ、違うわ、女子の言い方だと『めろい』だっけ?」
伊織と山田が顔を見合わせ、ガハガハと下品に笑い転げる。

食堂の隣の席の女子学生が、一瞬こちらを不審そうに見た。僕はただただ、勘弁してくれという思いで頭を抱えるしかなかった。一人称が「僕」なのは、単に幼い頃からの癖が抜けないだけで、そこに他意も計算もあるはずがない。
「でもさ、おれは女子から完全に『恋愛対象外の男友達』として見られてたから、恋バナに混ぜてもらうことが結構あったんだよね」
山田は少し真面目な顔になり、顎をさすった。

「そしたらさ、みんな言うわけよ。『あっきーが全然振り向いてくれない』って。『みんなに優しいあっきーが好きになったはずなのに、好きになればなるほど、自分を特別視してくれないそのあっきーを否定しちゃうんだ』って。大袈裟じゃなく、ローテーションで毎日誰かしら女子が泣いてたぞー」
「あらら、そりゃ泣いちゃうわな」
伊織が、今度は少し同情を交えたような、けれどやっぱり面白がるような目をして僕を見た。

「でもそれって、暁が誰かを特別扱いすることなく、みんなに等しく優しく接してたからだろ? 期待させといて、誰も踏み込ませない。お互い仕方ねーよなぁー、それじゃあ女の子も狂っちゃうわ」
そう言って、伊織は僕の背中をバシバシと力任せに叩いてきた。
僕自身には、周りの人間に優しくしようなどという殊勝な意図は一切なかった。当然、誰かを「みんな等しく」扱うことでキープしようなんていう器用な計算もない。

ただ、目の前に困っている人がいれば手を貸し、声をかけられれば普通に応じる。自分にとってはごく自然な、ごく当たり前の振る舞いをしているだけだった。 ただ、気づいたら周囲から「優しいね」と感謝してもらえる。高校生の頃の僕は、正直に言えば、自分のそういう「要領の良さ」や「人当たりの良さ」を、それほど嫌いではなかった。自分は人間関係を円滑にこなせる人間なのだと、どこか自惚れてさえいたかもしれない。

しかし、山田が言う通り、その「誰にでも優しい」という性質のせいで、結果として多くの人間関係に摩擦を生み、僕自身もかなり苦労することになった。好意を寄せられるのはありがたいが、その好意が「自分だけを特別に見てほしい」という独占欲に変わった瞬間、僕の平等の優しさは、相手にとって「最も残酷な不誠実」へと姿を変えるのだ。そのことを、僕は高校時代の苦い経験から嫌というほど学んでいた。
「でもさ、あっきー、確か女バスのエースの子と付き合ったことあったよね? あれはどうだったわけ?」
山田がさらに過去を穿り返してくる。
「あー、あったね、そんなことも……」僕は箸を止め、遠い目をした。

「でも、結局すぐに振られちゃったよ。『なんで私と付き合ってるのか分かんない!』って、泣きながら怒られてさ」
「それってやっぱり、暁が周りの女子に優しくしすぎたから?」伊織が興味深そうに尋ねる。
「……僕、そんなつもり全くないんだけどな。誰かを傷つけようと思って優しくしてるつもりなんて、本当にないんだよ」

これは本心だった。付き合っている以上、その子のことを一番大切に思っていたつもりだった。けれど、僕が他の女子生徒からの相談にこれまで通り乗ったり、落とした物を拾って笑顔で手渡したりするたびに、彼女の心は削られていったらしい。「私への優しさと、他の子への優しさの、何が違うの?」と言われた時、僕はうまく答えることができなかった。
「おれはあっきーの、そういうクソ真面目で不器用なとこが好きだよ! おれはな!」
山田がグッと親指を立てて笑う。
「俺も俺もー。その、無自覚に人を傷つける天然タラシな感じ、最高にエロいと思うよ」
伊織も乗っかってくる。
二人が揃ってガハガハと豪快に笑う姿を見ていると、自分の過去のトラウマが馬鹿らしく思えてくるから不思議だ。彼らのこういう、良くも悪くも大雑把なところに、僕は何度も救われてきた。
「うーん、じゃあさ」
伊織がふと悪戯っぽい目を細め、身を乗り出してきた。
「今回はどうなんだよ。暁はその松浦さんっていうマドンナに目をつけられたわけ? 向こうからアプローチされて、断りきれずに喫茶店デートって流れ? もしそうなら、すげーじゃん。また新しい伝説の始まり?」
伊織の言葉に、僕は小さく首を振った。そして、胸の奥にある、あの日からの熱い感情を、自分でも驚くほどはっきりとした口調で言葉にした。

「いや……違うよ。僕が一目惚れして、僕から声をかけたんだ」
一瞬、食堂の僕たちのテーブルだけが、しんと静まり返ったような錯覚に陥った。
山田の口が半開きになり、伊織の持っていた箸がピタリと止まる。二人は同時に目を見開き、信じられないものを見るような顔で、お互いに顔を見合わせた。
「「一目惚れ?!! あっきー(暁)から?!?!!!」」
今度こそ、二人のハモった大声が食堂中に響き渡った。
周囲の席の学生たちが、何事かと一斉にこちらを振り向く。
「ちょっと、声がでかいって……!」
僕は真っ赤になって周囲にペコペコと頭を下げながら、二人を睨みつけた。

「いや、だって驚くよそりゃあ! だって、あの暁だぞ??」
伊織が興奮を抑えきれない様子で、机をバンと叩いた。
「女子相手でも、どんな美女相手でも、絶対に自分のペースを崩さず、一歩引いたところで『みんなに優しい僕』を崩さなかったあの暁がだよ?? 自分から一目惚れして、自分からアプローチしたなんて……。暁、がんばったねぇ、俺感動しちゃったよ」

「あっきーえらいぞぉ! 自分から女の子に行くあっきーなんて、おれ中学からの付き合いだけど初めて見たわ!」

山田と伊織が、まるで歴史的な偉業を成し遂げた我が子を称えるかのように、左右から僕の頭をクシャクシャと力任せに撫で回してきた。

「大袈裟だな……やめろよ、恥ずかしいだろ」
僕は頭を引っ込め、髪を整えながらぶつぶつと文句を言ったが、不思議と嫌な気分ではなかった。むしろ、彼らがそこまで驚き、そして自分のことのように喜んでくれているのが、内心かなり嬉しかった。それだけ、澄花という存在が、僕のこれまでの殻を破らせるほどに特別だということを、友達の反応を通して再確認できた気がしたからだ。
食事を終え、食器を返却口に戻した僕たちは、購買の前のオープンスペースへと移動した。自動販売機でそれぞれ缶コーヒーを買い、備え付けのベンチに腰掛ける。
「あ、そういやさ、バイト先でカラオケの割引クーポンもらったんだけど、今日この後みんなで行かない?」
山田がポケットから、少し折れ曲がった紙のクーポン券を引っ張り出してきた。

「あー、俺はパス。悪い」
伊織がすぐに右手を上げて断りの意を示した。
「ん? 伊織、また自動車学校か?」
僕が缶コーヒーのプルタブを引きながら尋ねると、伊織は待ってましたと言わんばかりに、自慢げに顎を突き出した。 「そ。そろそろ卒検なんだよね、おれ。これでついに、長年の夢だった『ドライブデート』への切符が手に入るわけ。いいかお前ら、車に乗ったらな、常に余裕のあるスマートな男を心がけるんだ。やっぱ、モテを極めるなら車だろ。ドライブデートこそが至高」
伊織は、まだ見ぬ助手席の彼女を妄想しているのか、実に満足そうな、けれど客観的に見ればかなり締まりのない笑みを浮かべている。
僕は思わず呆れて、ため息を漏らした。
「……あのさ、この街、公共交通機関がめちゃくちゃ発達してるから、ぶっちゃけ車なんて生活に全く必要ないけどな」
「形が大事なんだよ、形が! 機能性なんて二の次!」
伊織が熱弁を振るう。

「女の子を助手席に乗せて、夜景の見えるスポットまでエスコートする。その一連の流れ、ストーリーが重要なんだって!」
「よ! 我らがロマンチスト代表!」
山田がヤジを飛ばすように手を叩く。
「どうもどうも」
伊織は恭しく頭を下げる仕草をしてから、不敵な笑みを僕に向けた。

「でもさ、暁も大概。俺に負けず劣らずのロマンチストだけどな」
「……僕?!」
予期せぬ方向からの飛び火に、僕はコーヒーを吹き出しそうになりながら声を上げた。

「えー、あっきー、それもしかして無自覚なの?」
山田が心底呆れたような目を僕に向けてくる。

「自分の胸に手を当てて考えてみなよ。一目惚れした女の子と、一週間後にまた会えるって聞いて、それを一週間ずっと指折り数えて待ってたんだろ? やってることが完全に少女漫画の主人公じゃん!!」

「そうそう。暁の場合は、おれみたいな分かりやすいロマンチストじゃなくて、もっとこう……『ポエマー』ってのが近いんじゃない?」 伊織が我が意を得たりと指を鳴らす。

「それだ! ポエマーロマンチスト! あっきー、今度その喫茶店で松浦さんと何喋ったか、ノートに詩の形式で書き留めておいてよ。おれが査定してあげるから」

「うるさいよ。そんなつもり全くないって。ただ、普通に……」
散々な言われように、僕は残りのコーヒーを胃袋に流し込んだ。 ポエマーだのロマンチストだの、自分ではこれっぽっちも思っていない。ただ、あの喫茶店に流れる空気や、窓の外の桜が葉桜へと変わっていく景色の移り変わり、そして何より、澄花が見せる一瞬一瞬の表情のグラデーションが、僕の心を少しだけ、本当に少しだけ、特別な形に震わせているだけだ。それを人はロマンチストと呼ぶのかもしれないが、僕にとっては、それが澄花という人間に向き合うための、ごく真摯な態度なのだ。
「まぁ、冗談は置いといてさ」
伊織が缶をゴミ箱に投げ入れ、綺麗な弧を描いて吸い込まれるのを見届けた後、少しだけ真面目なトーンで言った。
「暁がそこまで本気になってる女の子なら、俺らも応援するよ。その松浦さんって子、お前の平等の優しさを、本当の意味で『特別』に変えてくれる人だといいな」
横でその通りと言わんばかりに山田が頷く。

「……うん。ありがと」
僕は少し照れくさくなって、視線を自分の足元に落とした。
昼休みの終わりを告げる予鈴が、キャンパスのスピーカーから鳴り響く。

ベンチから立ち上がった山田が
「よし、じゃあおれはクソ眠い経済学の講義に行ってくるわ!」と大きく背伸びをした。
「俺は自動車学校。じゃ」
伊織が僕の肩をポンと叩き、スマートな足取りで正門の方へと歩き出す。
「じゃあな、また明日」
それぞれの方向へと歩き出す二人の後ろ姿を見送りながら、僕は自分の胸の中に、先ほどまでとは違う、少しだけ温かくて確かな温度が残っているのを感じていた。 女泣かせだの、ポエマーだの、散々好き勝手に弄られたけれど、彼らは僕のことを誰よりもよく知っていて、そして誰よりも不器用に心配してくれている。 いい友達だなと、僕は改めて思うわけだ。
空を見上げると、初夏の青空がどこまでも高く広がっていた。 来週のあの曜日、あの時間。 僕はまた、あの世界で一番優しい喫茶店で、彼女の笑顔を待つ。今度は、友達に背中を押された自分として、もう少しだけ強い気持ちで、彼女の隣に並べるような気がしていた。