春風、君を待つ

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桜の季節が終わり、キャンバスを彩る木々が鮮やかな新緑の葉を告げらせるようになっても、僕たちの約束は終わらなかった。週に1度のこの時間が訪れるたびに、僕たちはどちらかともなく、大学の正門付近で待ち合わせ並んで、あの喫茶店へと向かう。それが僕たち2人の間に、いつの間にか定着した言葉にしないルーティーンになっていた。


1人で歩いている時はただ退屈で長く感じられていた。アスファルトの道が角かと並んで歩くだけで、まるで特別な散歩道のように思えてくるから不思議だった。お店に到着するといつものように深みのある木に囲まれた1番奥の角の席に落ち着く、窓の外の桜はすっかり葉桜になり、青とした歯を風に揺らしていたが、あの店内に漂う世界で1番優しい空気感だけは少しも変わっていなかった。


「ねぇ、暁これ見てよ」
ある日の午後すみかが、いつものように、愛用のノートを机いっぱいに広げ、嬉しそうに僕の顔を覗き込んできた。


そのノートを見るのは、僕にとって密かな楽しみになっていた。見開きの白いページには、彼女のこだわりがこれでもかと詰め込まれている。黒くて可愛らしい文字でびっしりと書き、込まれた。旅行の計画。そこには単に行き先や電車の時刻が並んでいるだけではない「ここで行列ができる。プリンを食べる」「夕方、この展望台から夕日を見る。絶対に綺麗」と言った。彼女のワクワクした感情が、そのまま文字の弾みとなって伝わってくるようだ。熱量のある計画書だった。


いくつかのページには、雑誌の切り抜きや彼女自身がどこかで見つけてきたらしい。風景の写真が丁寧に貼り付けられていた。青い海、格式高そうな和風の旅館、色鮮やかなご当地グルメ、それらを指差しながら解説する角の髪は初めて出会ったあの日と同じように、リズムを刻むみたいに、ルンルンと左右に揺れている。


あぁ、本当に楽しそうだな


僕は彼女の解説を聞きながら、心の中で小さく微笑んだ。初めてこの喫茶店で彼女を見かけたとき、窓際の小さな席で熱心にペンを走らせていた彼女の姿が脳裏に蘇る。あの時も、彼女はこうして未来の旅に思いを馳せ、胸を踊らせていたのだろう。澄花のノート見ているこちらまで、まだ見ぬ旅路へ連れ出されるような不思議な高揚感を与えてくれる特別なものだった。


そんな風にすみかと過ごす時間はいつも明るい光に満ち溢れていた。けれど、ともに過ごす時間が重なるにつれて、僕の心の中にはある小さくて、けれど、どうしても無視できない違和感が芽生え始めていた。


澄花と言えば、誰もが思い浮かべるのはあのまぶしいほどの笑顔だ。彼女の笑顔は周囲の空気さえも、一瞬で明るくしてしまうような引力を持っている。僕もその笑顔に一瞬で心を奪われた一人だった。
しかし、ふと思ったのだ。僕は、まだ澄花の笑顔以外の表情を見たことがないのではないかと。


もちろん、彼女も人間だから感情の起伏はあるはずだ。悲しいこと、怒ること、退屈すること。それなのに、澄花といるときに、彼女が僕に見せるのは、いつだって完璧な愛嬌たっぷりの笑顔だけだった。


時折、彼女が会話の中で、大げさなほどのリアクションを見せることがあった。身振りを大きくしたり、声を弾ませてみたり、。
それは一見とても感情表現が豊かな女の子に見えるのだけれど、僕には時々それが何も感じていない。あるいは何かを隠そうとしている自分を覆い隠すための精一杯の防衛策のように思える瞬間があったのだ。


もっとも、本人には少し悪いが、澄花のその大袈裟なリアクションは客観的に見るとほとんど顔元の領域に達していた。真剣にその感情を表現しているのか、それとも僕を笑わせようとわざとやっているのか、そのギリギリのラインをついてくるのだ。
眉を大げさに動かしたり、口元をすぼめたりする。その必死な姿が、結局のところ、どうしようもなく、可愛らしくて僕はいつも笑わせてしまうのだけれど。


「ねぇ、今度の日曜日、もしよかったら映画見に行かない?」


ある日、僕は家を消して澄花を映画に誘ってみた。一緒に出かけたい。デートがしたいと言う純粋な下心ももちろんあったけれど、それ以上に僕は彼女の別の表情が見たかった。
映画と言う他者の人生のドラマを疑似体験する空間でなら、彼女の笑顔の仮面の下にある本物の感情が揺れ動く瞬間を見ることができるかもしれないと思ったからだ。


観る映画として選んだのは、僕たちがいつも通っている喫茶店のマスターから「これは本当に泣けるから若い2人にぜひ見てほしい」とお勧めされた、上映中の一本の映画だった。「とにかく泣ける作品だよ」と店長が太鼓判を押していた通り、それは切ない人間愛を描いたストーリーのようだった。


これなら、さすがの澄花も涙の一粒やふた粒は流すだろう


映画館のロビーで、ポップコーンを買い、薄暗い上映ホールの座席に並んで腰掛けたとき、僕は密かに、そんな期待を胸に抱いていた。


しかし、結果から言えば、それは僕の見事な惨敗に終わった。


館内の照明が落ち、巨大なスクリーンに映像が映し出されて、まもなくのことだ。美しい音楽ときめ細やかな心理描写で紡がれる物語は、映画付きの僕の涙腺を容赦なく、掻きむしった。
序盤主人公が小さな挫折を迎えるシーンの時点で、既に僕の目はじわじわと緩み始めていた。
中盤を過ぎる頃には、胸を締め付けられるような展開が続き、僕の目からは溢れる涙が止まらなくなってしまった。隣の澄花に気づかれないよう何度も袖口で目元を拭ったが、溢れる涙はとどまることを知らない。


そして、クライマックスのラストシーン、静かな感動と、切なさが最高潮に達したとき、僕の視界は涙で、完全に歪み、スクリーンが光の濁流にしか見えなくなっていた。喉の奥から嗚咽が漏れそうになるの。必死に噛み殺すだけで精一杯だった。


その間、隣に座る澄花の様子はどうだったかと言うと。
僕は涙でほとんど見えなくなった視界を必死に動かし、時折彼女の横顔を盗み見ていた。映画館のわずかな反射光に照らされた、彼女の顔には、涙の跡など少しもなかった。
泣くどころか、彼女はどこか穏やかに優しく微笑んでいるようにさえ見えた。劇中で美しいBGMが流れると、そのメロディーに合わせるように、彼女の白い指先が膝の上で楽しそうに小さくリズムを刻んでいた。その姿には悲しみに打ちひしがれている様子など微塵もなかった。


やがてスクリーンにエンドロールが流れ始め、場内がゆっくりと明るくなっていく。僕の顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃだった。そんな僕の様子を見て、澄子は驚くわけでもなく、ただ呆れたようなけれど、どこか愛おしそうな目を向けて、自分のカバンから1枚の清潔なハンカチをすると差し出してくれた。僕が誘ったにも関わらず、女の子からハンカチを差し出されて、涙を拭うという、なんとも情けない光景がそこに完成してしまった。


「ふふっ、暁めっちゃ泣いてたねー」


映画館を出た澄花は、いつものように、ケラケラと楽しそうに笑い声を響かせた。
「暁ってばさ、泣きすぎて顔から出るもん全部出るんじゃないか!って私途中で本当に心配になっちゃったよー」
「しょうがないだろーめちゃくちゃいい話だったんだから」
僕はまだ赤みが引かない目元を、恥ずかしそうに手で隠しながら拗ねたような声を返した。


「っていうか、なんで澄花は平気なんだよー、あんなの普通は絶対に泣くって、感動しなかったの?」
「私ってのは、人より涙腺が強いのよー」


澄花はいたずらっぽく笑い、それ以上の理由は語らなかった。ただその笑顔の奥にある彼女の瞳は、映画の余韻を静かに楽しんでいるようでもあり、同時にどこか遠くを見つめているようにも感じられた。


この人の涙を本気で泣いている姿を僕が見られる日は来るのだろうか


夕日に照らされる、彼女の横顔を見つめながら、僕はそんな答えのないと言う胸の奥に沈めた


「でもね、本当に面白い映画だったよー。特にあのお花良かったねー花言葉もすごく素敵だったし!ネモフィラだったっけ、私あれ好きー!」
澄花は、そう言って、映画館のパンフレットを胸に抱きしめた。


「そういえば、映画の話の中に出てきた押し花の栞劇場のグッズ売り場に売ってたよね。良い映画おすすめしてくれたマスターにお土産で買っていくー?」
「いいね。あの店長ならあの栞きっと喜ぶと思う」


僕たちは顔を見合わせ、今度は2人で自然に笑い合った。自分たちの秘密基地の主人への贈り物を決めたことで、僕の情けない大号泣の気まずさも少しずつ薄れていった。




映画館でのデートがあってからも、僕たちの週に一度の時間は続いた。そして何度も何度も彼女の笑顔を見つめ、同じ時間を共有していくうちに、僕は一つの大切な差に気がつくようになった。


笑顔しか見せない澄花。最初は「彼女が周りに気を遣いすぎるあまり、感情を押し殺して笑顔の仮面を顔に貼り付けているのではないか」と僕は本気で心配したこともあった。彼女の生い立ちや心の内にあるかもしれない暗がりに僕の優しさが届かないのではないかと焦るような気持ちもあった。
けれど、それは僕の未熟な思い込みに過ぎなかったのだ。彼女の笑顔は、決して、作り物の仮面などではなかった。どれもが、彼女の心の底から切れる本物の血の通った感情の表現だったのだ。


ただ、彼女は、その多様な感情を全て笑顔と言うキャンパスの上に表現する。少し不器用だけれど、とても繊細な人だと言うことがわかってきた。


例えば、何か困ったことや、思い通りにならないことがあったとき、罪か迷いを少しだけ眉を八の字に曲げて困ったように笑う。
思わぬサプライズに驚いたときには、その丸い大きな目をさらに丸く開いて、子供がいたずらを発見したときのような笑い方をする。
僕をからかおうとしたり、何か悪いことを考えているときには、口元を片方だけ上げて、ニヤニヤとした実にわかりやすい企みの意味を浮かべる。


そして、本当に嬉しいことがあったときには、言葉にする代わりに、口角をきゅっとあげて、静かにけれど、深く噛み締めるような笑い方を見せる。
何より心からその瞬間を楽しんでいる時、初めて名前を呼んで振り返ってくれたときのあの満面の笑みを浮かべる。


あぁ、なんて愛おしい人なんだろう、


彼女の笑顔のグラデーションに気づいたとき、僕の胸の底にはこれまで感じたことのないような暖かくて、強い感情が静かに綺麗と確かに広がっていた。


僕たちは、まだただの大学の同級生で、週に1度、喫茶店に通うだけの関係だ。付き合っているわけでも、約束をしているわけでもない。
それなのに、彼女のその一瞬、一瞬の表情を見つめていると、僕は心の底からこの人を守りたいと思ってしまうのだ。


彼女が浮かべる、様々な種類の笑顔をこれから先ずっと誰よりも近くで守り続けたい。その感情が僕の独りよがりな都合の良い優しさから来るものだとしても、もうこの思いを止めることはできなかった。


木漏れ日が揺れる。喫茶店の特等席で、アイスコーヒーの氷をカラカラと流しながら、澄花は今日も僕に向かってニコニコと愛おしい笑顔を向けている。僕はその姿をただ眩しそうに見つめ返すことしかできなかった。