春風、君を待つ

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あの日、桜の木の下で交わした、約束とも呼べないような淡い約束。それから今日でちょうど一週間が経った。


待ちに待ったその曜日、僕は先週よりも少しだけ早く大学を出ることにした。どうしても、胸のドキドキが抑えきれず、待ちきれなかったからだ。


大学の正門へ向かって歩いていると、少し前方に、見覚えのあるゆるくウェーブかかった茶髪が、春風に揺れているのが見えた。
心臓がドクンと大きく跳ねる。まさか、まさか彼女も同じ大学の生徒だったのか。いや待て、ただ後ろ姿が似ているだけの別人かもしれない。もし人違いだったら大恥だ。そんな理性のストッパーなんて、今の僕にはお構い無しだった。僕は大声で彼女の後ろ姿に向かって声を張り上げた。


「あの!この前の!今からあの喫茶店に行きますか!よかったら、一緒に行きませんか!」
心の動揺を隠すようにして、勢いで一気にそこまで言い切った。


前を歩いていたら彼女は、ビクッと目に見えて肩を跳ね上げ、「え、私?」という困惑の表情を浮かべながらゆっくりと振り返った。


その顔を見て、僕は心の底から安堵した。間違いなく、あの喫茶店で出会った彼女だった


「良かった、、合ってた。」
僕がホッと胸を撫で下ろしながらそう呟くと、彼女は呆気にとられたような驚いた表情から一転、プッと小さく吹き出して、それからケラケラと楽しそうに笑い出した。


「あはは!びっくりしたー!ねぇ、本当に私のこと確認する前に呼んだの??」


よほど僕の焦りっぷりがツボに入ったのか、彼女はお腹を抱えるようにして、ずっとケラケラ笑っている
その屈託のない、陽だまりのような姿を見ているうちに、僕の緊張もみるみる溶けていき、つられて僕も思わず吹き出してしまった。


ひとしきり二人で笑いあったあと、僕は呼吸を整えて改めて彼女に向き直った。
「いきなり大声を出しちゃって、びっくりさせちゃってごめんなさい。改めて、、先週、あの喫茶店でお会いしましたよね?」
「はい!先週ぶりですー」
「もし、今からあの喫茶店行くところだったら、良ければ一緒に行きませんか?」
「ぜひぜひー、行きましょう!」
彼女はずっと楽しそうにニコニコと弾ける笑顔を僕に向けてくれていた。




大学から歩いて30分ほどのところにある、あの桜に囲まれた喫茶店への道のり。
一人で歩いた先週よりも、二人で並んで歩く今週の道は、何倍、いや何十倍にも短く感じられた。歩幅を合わせながら歩く時間がたまらなく愛おしい。


他愛のない会話を交わしていくうちに、少しずつ彼女のことが分かってきた。彼女の名前は「松浦澄花」。僕と同じ大学の経済学部に通う二回生、つまり同い年だった。
あの喫茶店には、美味しいと評判のプリンを食べに、先週初めて足を運んだらしい。彼女は旅行が趣味で、先週あの席で熱心に作業していたのは、次の長期休みに行く旅行の計画をノートに書き込んでいたからだそうだ。なるほど、通りであんなに楽しそうに、るんるんと髪を揺らしていたわけだと、妙に納得がいった。


「あの、お名前、なんて呼んだら良いですか?」
少し緊張しながら尋ねると、彼女はニコニコと僕の目を見つめて
「澄花でお願いします!、、うん、呼び捨てで!それとね、私たち同い年だし、できれば敬語も外してくれると嬉しいんですけど、急に馴れ馴れしすぎますか、?」


上目遣いで少し不安そうに聞いてくる澄花。
馴れ馴れしいなんて、とんでもない。むしろ、彼女の方から僕たちの距離をぐっと近づけようとしてくれていることが、心から嬉しかった。


「馴れ馴れしくなんて全然ないです!敬語、僕も外してもらって大丈夫。ええと、お名前は、、呼び捨て、頑張ります、、」
僕がそう口にすると、澄花はまたふふっと楽しそうに笑った。


というのも、僕はこれまでの人生で、女の子の名前を呼び捨てで呼んだことなど、ほぼ皆無に等しかったのだ。小さいときは名前に「ちゃん」付けだったし、中高は苗字に「さん」を付けて呼ぶのが当たり前だった。どれだけ仲の良い女子相手でも、せいぜい苗字を呼び捨てにするのが限界だった。高校時代に一人だけ付き合っていた子がいたが、その時も相手の強い希望で、名前に「ちゃん」付けで呼んでいたのだ。
だから、出会って間もない女の子を「名前の呼び捨て」で呼ぶというのは、僕にとって未知の領域への大挑戦だった。しかも相手は、自分が一目惚れした特別な人間だ。これはあまりにもハードルが高すぎる。


そんな風に、僕が頭の中で「どうしよう、どう呼べば自然か」とうんうん唸りながら歩いていると、澄花は僕の様子を面白そうに眺めながら
「がんばれー!がんばるんだー暁くん!ほら、試しに一回呼んでみてよ」
とはやし立ててきた。そうして楽しそうに笑いながら、彼女は僕よりも半歩前に進みでる。


「ええー、、。澄花、?」


「はーい!」
そう言って満面の笑みで振り返る澄花の姿は、もう、僕の乏しい語彙力では言い表せないくらい、圧倒的に綺麗だった。


春の柔らかな風に舞う茶色の髪の毛、背景には、満開を過ぎて、もう葉桜になりつつある淡いピンクと緑のグラデーションの桜並木。その中央で、世界でいちばん幸せそうにニコニコと笑っている澄花を見つめていると、彼女は現実の人間ではなく、絵本やおとぎ話の中からそのまま飛び出してきたか妖精か何かではないだろうかと錯覚してしまうほどだった。


あまりにも僕が言葉を失って、呆然と彼女のことを見つめるものだから、さすがの澄花も照れてしまったらしい。わずかに頬を赤らめ、気まずそうに視線をふいっと斜め下にそらしてしまう。


「じゃあ、私はなんて呼んだら良いー?」


少し早口で尋ねてくる彼女に、僕は少し格好をつけて答えた。さっきの仕返しだ。
「えっとそうだな、、、暁で。お互い、呼び捨てでいこう。」


「うん、分かったー」
澄花はすぐにいつもの調子をとりもどして頷いた。


「せっかくだから、僕のことも今、呼んでみてよ」
「えー、仕方ないなぁ、いくよー?暁!」


しまった、と思った。つい調子に乗って「呼んでみて」なんて要求してしまったけれどら実際に彼女の口から不意打ちで自分の名前を呼び捨てで呼ばれるのは、想像以上に破壊力が大きすぎた。返事をしようにも、喉が引きつってほとんど声など出なかった。


「、、はい、、」
「あはは!返事ちっちゃーい!!」


情けない僕の反応を見て、澄花はまたお腹を抱えてケラケラと笑い出した。
どこまでも明るくて、一緒にいるだけで周りの空気まで弾けさせてしまうような、本当に楽しそうな人だなと、僕は改めて彼女の魅力に深く沈み込んでいくのを感じていた。