春風、君を待つ

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あれから、さらに7年の月日が流れた。 あの日、澄花の墓前で「日本一周の旅を続ける」と固く誓ってから、僕はその約束を果たすためだけに生きてきたと言っても過言ではなかった。仕事の忙しい合間を縫っては、彼女が遺してくれたあの擦り切れた旅行ノートを片手に、全国各地へと足を運び続けた。 日々のデスクワークや人間関係に追われ、心身ともに疲れ果ててしまうような夜でも、鞄の奥に大切に仕舞い込んだノートの感触を確かめるだけで、僕の心には再び温かい灯がともるのだった。「澄花、次はどこへ行こうか」――心の中でそう語りかけることが、僕にとっての救いであり、生きる糧になっていた。会社の有給休暇を必死にやりくりし、週末のわずかな時間を利用しては、僕は新しい景色を求めて、そして彼女の消えない気配を追い求めて、駅へと、あるいは空港へと向かう列車に飛び乗った。
旅の形は、基本的には1人で行くことが多かった。1人で静かに列車に揺られ、車窓を流れる見知らぬ街並みや、季節ごとに色を変える山々の景色をただ眺めている時間は、僕にとって澄花と無言の対話をするための、何にも代えがたい大切なひとときだった。 胸元で静かに揺れる、あの澄んだ水色の宝石が嵌め込まれた指輪のネックレス。それを衣服の上からそっと手のひらで包み込むたび、手の熱が金属へと伝わり、まるで彼女の体温がそこに戻ってきたかのような錯覚を覚える。「ほら、澄花。約束通り、また新しい場所に来たよ。君が見たかった世界は、こんなにも広いよ」と心の中で語りかける。1人で歩く異郷の道は、時に孤独を感じさせることもあったし、ふと見かける仲睦まじいカップルの姿に胸が締め付けられることもあったけれど、決して孤独に押しつぶされることはなかった。ノートを開けば、そこには彼女の手によって書かれた、少し丸っこくて生き生きとした文字が並んでおり、まるで澄花がすぐ隣を歩きながら、僕の手を引いてナビゲートしてくれているかのように感じられたからだ。
けれど、いつも1人きりの静かな旅ばかりだったわけではない。時々、僕たちのことを学生時代からずっと見守り続け、あの悲劇のあとも変わらずに寄り添い続けてくれた大切な友人たち――山田や唯斗、そして実紅を誘って、賑やかな大人数で行くこともあった。そうして集まった仲間たちとの旅は、いつも賑やかで、どこへ行っても笑い声が絶えなかった。車を走らせ、お互いの仕事の近況やくだらない世間話を報告し合いながら、ご当地の美味しいものを食べ、お腹が痛くなるほど笑い転げる。彼らと過ごす時間は、僕の中に鉛のように溜まっていた過去の哀しみや喪失感を、少しずつ、けれど確実に外へと連れ出し、溶かしていってくれた。みんな、僕のことを心配してくれているのだ。直接的な慰めの言葉にはしなくても、僕を外の世界へと連れ出し、一緒に同じ景色を見て、同じ時間を共有してくれる彼らの不器用な優しさが、痛いほど胸に染みた。夜、旅館の畳の上で雑魚寝をしながら、「お前、本当に前より良い顔になったよ」と山田に肩を叩かれたとき、僕は涙が出そうになるのを必死に堪えて笑った。
さらに、友人たちだけでなく、澄花の両親を誘って旅に出ることもあった。 一人娘を突然の凄惨な事故で失い、深い絶望の淵に立たされて、一時期は生きる気力さえ失いかけていたお義父さんとお義母さん。最初の頃は、僕が旅行に誘うのもどこか遠慮がちで、「私たちのような年寄りがついていっても邪魔になるだけじゃないかしら」と拒まれることもあったけれど、回を重ねるごとに、お二人の表情にも穏やかな、心からの笑顔が戻ってくるようになった。 「こうして澄花が歩きたがっていた場所を、あなたと一緒に歩けるなんてね……。まるで、あの子も一緒にここを歩いているような気がするのよ」 お母さんは、僕が手渡した旅行ノートのコピーを、まるで壊れ物を扱うように愛おしそうに見つめながら、観光地のベンチでぽつりと呟いたことがあった。お父さんも、普段は寡黙で滅多に感情を表に出さない厳しい人だけれど、旅先で美味しい地酒や名産品を見つけると、「おい、これを澄花にも供えてやろう。あいつは食い意地が張っていたからな」と、少し照れくさそうにグラスを傾けてくれた。澄花が愛し、澄花を愛した人たちと一緒に旅をすること。それは僕にとっての自己満足ではなく、彼女の存在をこの世界に確かに繋ぎ止め、みんなで彼女の生きた証を共有し続けるための、とても大切な、神聖な時間だったのだ。
あれから7年、そして、あの運命の事故から数えれば、早くも10年という、あまりにも膨大な歳月が経っていた。 10年という月日は、世間一般にとっては過去の出来事として風化させるのに十分な時間かもしれない。けれど、僕にとっては、一日一日が爪で壁を削るような、あまりにも長くて、重たい時間の積み重ねだった。最初の3年間は完全に暗闇の中で立ち止まったまま、ただ過去の後悔に苛まれ、涙を流すことしかできなかった。もしあの時、自分が一緒にいれば。もしあの時、彼女を引き止めていれば。そんな不毛な仮定を何万回も繰り返し、自責の念で胸をかきむしっていた。 けれど、旅を始めてからの7年間は違かった。彼女の遺してくれたノートが、僕の羅針盤となってくれた。ノートに導かれるようにして、僕はどうにか人間としての生を取り戻し、絶望の泥沼から這い上がり、自分の足で人生を前に進めることができたのだ。 少し時間はかかってしまったけれど、これが最後だ。 胸の中で、冷たくも熱い、確かな決意が形を成していく。ノートに書かれた数々の場所を巡り、北は北海道の湿原から南は沖縄の離島まで、彼女が見たがっていたであろう景色をほとんどすべて、この目で確かめ、カメラに収めてきた。そして今、僕の目の前には、残された最後の場所が迫っている。そう、この旅の最終地点は、僕がこの長い、長い日本一周の旅を始める前から、いや、澄花のお墓の前で誓いを立てたその瞬間から、最初から決めていたのだ。
それは、ノートのいちばん最後のページだった。 これまでのページとは、明らかに熱量が違っている、異質なページ。これまでの書き込みは、行きたい場所の候補や、美味しそうなご当地グルメの専門店の名前が可愛らしいイラストと共に箇条書きで並んでいる程度だった。けれど、その最後のページだけは、澄花の強い想い、何が何でもここへ行きたいという、執念のようなものすら感じられるほど、太いペンで細かく書き込みがなされていたのだ。 目的地の詳細な名前だけでなく、そこにたどり着くための具体的なルート、展望台の位置、さらには「絶対にこの時間じゃなきゃダメ! 遅れたら怒るからね!」と、太陽の動きに合わせた分単位での時間まで赤ペンで指定してあるのだ。 澄花がそこまでして僕に見せたかった景色。彼女が人生の最後に、僕と一緒に共有したかったと願った、最高で最大の瞬間が、そこには眠っているはずだった。その答えを確かめるために、僕は今、ここに立っている。
僕は今、その指定された目的地へと向かうため、山麓の駅から出発するロープウェイへと乗り込んでいた。 ガタリと大きな金属音と振動を立てて、ロープウェイの搬器がゆっくりと動き出す。澄花に導かれるようにして、僕は窓ガラスの外に広がる景色を見つめながら、うええと上がっていく。 周囲の緑豊かな山々が、高度が上がるにつれてどんどん小さくなっていく。眼下に広がる街並みや、遠くに見える水平線が、夕方の光を浴びてキラキラと黄金色に輝いていた。ガラス越しに差し込む西陽が、僕の顔を強く照らす。 腕時計に何度も目を落とす。澄花がノートに書き残した指定時刻までは、あとわずか数分。 「このまま行けば、ぴったりにつけるな……」 完璧なタイミングだった。まるですべての流れが最初から計算されていたかのように、電車の遅延もなく、ロープウェイの待ち時間もなく、僕の歩くペースすらも、すべてがその「一瞬」に向けて収束していくような不思議な感覚があった。澄花が、天国から目に見えない手で僕の背中を押し、時間を細かく調整してくれているのではないか。そんな根拠のない、けれど確信に近い想いが、胸の中に波のように湧き上がってくる。心臓の鼓動が、静かに、けれど耳の奥でドクドクと激しく高鳴り始めていた。手が少し汗ばむのを感じながら、僕は胸元のネックレスを握りしめた。
やがて、ロープウェイが山頂の駅へと静かに滑り込み、ぷしゅーという音を立てて扉が開いた。 標高が高いせいか、ひんやりとした涼しい高原の空気が、一気に僕の顔と身体を包み込む。僕は深く息を吸い込み、一歩、踏み出すようにして、ロープウェイから降りてしっかりと地面に足をつける。土の感触が靴底を通じて伝わってくる。 ノートの指示に従い、展望が一気にひらけるという丘の方へと、吸い寄せられるように歩みを進めていく。緩やかな斜面を登り切り、視界を一気に遮るものがなくなった、まさにその瞬間だった。
眼の前に広がる光景に、僕は言葉も出ずに立ちすくんでしまった。
それはあまりにも___あまりにも美しく、圧倒的で、世界のすべてがその色彩だけで塗りつぶされたかのような、この世のものとは思えない奇跡のような光景だった。
視界の終わりが見えないほど広大な丘の一面に、満開のネモフィラが広がっていたのだ。何万、何十万、あるいは何百万もの小さな、可憐な花々が、大地を埋め尽くす果てしない絨毯のように咲き誇っている。その澄んだ、吸い込まれそうなほどに美しい青い花弁が、高原を吹き抜ける優しい風を受けて、まるでひとつの巨大な生き物のように、さざ波を立てて可憐に揺れていた。足元から地平線の彼方、空との境界線に至るまで、視界のすべてがその鮮やかな青色で染め上げられている。 そして、澄花がノートに指定した時刻は、ちょうど日没の瞬間だった。 太陽が遠くの山の端へと沈みゆくその刹那、空は燃えるような暁色に、煌々と光り輝いていた。黄金色、鮮やかなオレンジ色、 tenderな赤と、天頂に向かって広がる深い紫色のグラデーションが天を覆い、その圧倒的な夕焼けの光が、地上の青いネモフィラ畑へと容赦なく降り注いでいる。空の情熱的な赤と、大地の静謐な青が交わるその景色は、言葉を失うほどに幻想的だった。夕陽の光を浴びた青い花弁は、紫や琥珀色に怪しく、そして美しくきらめき、現実の景色とは思えないほどに神聖な美しさを放っていた。世界が、その二つの色だけで完全に支配されていた。
「ああ……」 声にならない、掠れた吐息が、僕の唇から漏れた。あまりの美しさに、肺の空気がすべて押し出されてしまったかのようだった。 「澄花は……僕にこれを見せたかったのか」 胸の奥から、言葉では到底表現しきれないほどの巨大な感情の波が押し寄せてくる。 この澄んだ水色の花。それは、あの日僕が彼女のお墓に捧げ、今も僕の胸元で静かに揺れている、あの指輪の宝石と一寸の狂いもない同じ色だった。彼女は最初から知っていたのだ。この場所で咲き誇るネモフィラの青が、夕暮れの光を浴びたときにどれほど美しく、どれほど人の心を救うかを。そして、自分が何よりも大好きだったこの景色を、いつか僕に見せてあげたいと、心から願っていたのだ。あの日、手渡せなかった指輪の色を、彼女はここで待たせていたのだ。
満開のネモフィラと、燃えるような夕焼けを見つめていると、僕の脳裏には、いろんな澄花の姿が、走馬灯のように次々と映し出されていった。 初めて大学のキャンパスで出会ったとき、周囲の視線を一瞬で釘付けにするような、向日葵のような笑顔を見せていた澄花。 初めてのデートの最中、お洒落なカフェで美味しいパンケーキを食べて「もう幸せすぎて死んじゃいそう!」と両頬を押さえて大騒ぎしていた澄花。 僕がちょっとした言い間違いや、くだらない失敗をしたとき、お腹を抱えて「何それ!」とケラケラと楽しそうに笑っていた澄花。 旅の計画を立てながら、リビングのこたつで熱心にノートにペンを走らせていた、あの愛おしい後ろ姿。 オフィスワークの合間に送られてきた、「今度の休みはここに行こうね」というたくさんのメッセージと笑顔の写真。 そして、あの運命の日、玄関のドアの前で「じゃあ、行ってきます! お土産楽しみにしててね!」と元気いっぱいに手を振った、彼女の最後の、最高の笑顔――。 そのすべての澄花が、今、目の前で風に吹かれて可憐に揺れる一枚一枚の青い花弁の中に、優しく溶け込んでいるかのように感じられた。彼女は死んで完全に消え去ってしまったのではない。この美しい世界の一部となって、形を変えて、今も僕のすぐ隣で、僕のことを見守り続けてくれているのだ。そう思わずにはいられなかった。
目の前に広がるこの光景は、まるで、僕がこれまで必死に生き抜いてきた10年という苦難と涙の道のりを、そのすべてを全肯定してくれているかのように思えた。 「よくここまで、諦めずに頑張って生きてきたね」 「私のノートを大切にしてくれて、ここまで歩いてきてくれて、本当にありがとう」 何百万もの花々が風に揺れて擦れ合う微かな音が、澄花のあの優しく包み込むような声となって、僕の傷つき、ひび割れていた心の奥底に、深く深く染み渡っていく。それだけではない。この圧倒的な美しさは、僕がこれから歩むべき未来、彼女のいない現実という名の「次の人生」を、心から応援し、力強く背中を押してくれているかのようでもあった。過去の悲劇に縛られ、自分を責め続けるのはもう終わりだ。この素晴らしい世界で、あなたはあなたとしての幸せを、もう一度掴み取らなければならない――。花たちの無言の囁きが、僕の魂を救い上げていく。
まるでこれまでの歩みを肯定し、次の人生を応援しているかのような花々を前に、涙を抑えるなんて、僕にはどうしてもできなかった。 視界が激しく歪み、大粒の涙が次から次へと溢れ出し、頬を伝って地面の土へと流れ落ちていった。けれど、その涙は3年前にお墓の前で流したような、絶望や後悔、怒りに満ちた冷たい涙ではなかった。胸いっぱいに広がる感謝と、澄花への尽きることのない愛おしさ、そして前を向いて生きていこうという、清々しい決意に満ちた温かい涙だった。僕は涙を拭おうともせず、ただひたすらに、澄花が遺してくれた人生最大の、最高のプレゼントをこの目に焼き付けようと、激しく視界を曇らせながらも、その景色をじっと見つめ続けた。涙の膜を通して見る暁の光は、さらに美しく、プリズムのようにきらめいていた。
ネモフィラの花言葉は、可憐。 その名の通り、小さくも力強く、過酷な環境でも美しく咲き誇るその青い姿は、僕の最愛の恋人である澄花そのものだった。僕はそっと腰を落とし、一枚の青い花弁に指先で触れてみた。シルクのように柔らかく、どこかひんやりとした感触が指先を通じて伝わってくる。鼻を近づけてみても、薔薇や百合のような強い芳香があるわけではない。ただ、優しくどこか青臭い、生命力に満ちた大地の匂いが鼻腔をくすぐった。その飾り気のない実直さもまた、彼女がこの花を愛した理由なのだろうと得心がいく。 でも、確か、昔……澄花とまだ付き合い始めたばかりの過、初めて一緒に映画館で観た小さな洋画の中で、登場人物の老人が言っていたのを思い出した。彼女もその映画のそのシーンが妙にお気に入りで、「ねえ、あのセリフ、すごく素敵だと思わない?」と、帰り道の夜道で嬉しそうに何度も僕に語りかけていたっけ。当時の僕は「そうだね」と適当に聞き流してしまっていたけれど、その記憶が、今、この瞬間に鮮烈な色彩を伴って脳裏に蘇ってきた。
ネモフィラには、もう一つ、別の花言葉がある。
太陽が完全に山の向こうへと沈みきり、暁色の空が少しずつ、深い藍色の夜の帳へと移り変わっていく。マジックアワーの短い静寂の中、高原の風が一段と強く吹き抜け、丘全体の青い花弁が一斉に波打ってざわめいた。その音は、まるで彼女が僕のすぐ耳元で、あのいつもの悪戯っぽい、いたずらな笑みを浮かべながら囁いた声のように、確かに聞こえた。
別の花言葉は_____
「ずっと成功」


そうだ。澄花は僕に、これからの人生、何があってももう立ち止まらずに、前を向いて歩み続け、自分自身の幸せを掴み取ってほしいと願っていたのだ。僕がこれから歩むすべての道、新しく始めるすべての挑戦の「成功」を、彼女は誰よりも、天国から祈ってくれている。 僕は胸元の指輪のネックレスをこれ以上ないほど強く握り締め、誰もいない、けれど確かに彼女の巨大な愛が満ちている空に向かって、静かに、けれど心の底から強く微笑んだ。
「ありがとう、澄花。僕はもう、本当に大丈夫だよ。ちゃんと前を向いて、自分の足で生きていくからね」 胸元の宝石が、夕闇の中で最後の残光を反射して一瞬だけ強くきらめいた。まるで、僕の言葉に応えてくれたかのように。 彼女が遺してくれた旅行ノートは、このページで完全に終わりを迎え、白紙の裏表紙へと行き着く。けれど、僕たちの形を変えた人生の旅、そして僕自身の物語は、ここからまた新しく紡がれていくのだ。これからは、僕自身の手で、新しいページの文字を書き加えていかなければならない。澄花から受け取ったたくさんの幸せな思い出と、この世界がくれた最高の景色、性能「ずっと成功」という力強いエールをしっかりと胸に抱いて、僕は夜の気配が満ち始めた丘を後にし、輝かしい未来へ向けて、確かな、力強い一歩を踏み出した。