春風、君を待つ

*
そこに佇む墓石は、驚くほど綺麗に磨き上げられていた。周囲には雑草一つなく、手向けられたばかりの瑞々しいお花が、電灯しかない墓地でも鮮やかな色彩を放っていた。


どうやら、僕が来るよりも前、午前中のうちに純花の両親がここを訪れていたらしい。娘を想う親の深い愛情が、その美しく整えられた空間から静かに伝わってきて、胸の奥がじわりと熱くなった。澄花のお父さんとお母さんも、僕と同じように、いや、それ以上に澄花の不在を寂しがり、同時に彼女の安らかな眠りを祈っているのだ。


僕は鞄から線香を取り出し、静かに火をつけた。細い煙が、かすかな香りを漂わせながら、青い空へと向かってまっすぐに、揺らめきながら立ち上っていく。その線香を墓前の香炉へと供え、僕は両手を合わせ、そっと目を閉じた。


瞼の裏に浮かぶのは、やはり澄花の姿だった。今にも「遅いよー!」と怒りながら笑いかけてきそうな、そんな気がしてならない。僕は合わせた手に少しだけ力を込め、心の中で、そして少しだけ声に漏らしながら、彼女への語りかけを始めた。


「ねー澄花、ここにいるわけじゃないっていうのは、さっきたくさん聞いたから分かるよ」


僕は墓石を見つめながら、少しだけ苦笑いを浮かべて言った。先ほど伊織が熱唱してくれた曲の中には『お墓に私はいない』といった死生観を歌った有名な歌詞もあった。


「だからさ、澄花がこの冷たい石の下に閉じこもっているわけじゃないってことくらい、僕にだってちゃんと分かっているよ。澄花はさ、いつだって自由で、風みたいに軽やかで、きっと今は僕のすぐ近くにいるんでしょ? 」
そう言って、僕は誰もいない隣の空間をちらりと見た。もちろん、そこには誰もいない。ただ、冷たい、けれど優しい春の夜風が僕の肌を撫でていくだけだった。それでも、僕には分かっていた。澄花は間違いなく、今も僕の傍らで、この情けない僕の顔を覗き込んでいるのだと。


「でもさ、ここに来れば、より近くで君を感じられる気がして、こうして来てみたんだよ」
僕は一度、深く息を吐き出し、墓石の表面に刻まれた文字をじっと見つめた。


「今日でさ……澄花が家を出てから、ちょうど3年だね」
時の流れは、残酷なほどに早くて、同時に狂おしいほどに遅かった。彼女が「行ってきます」と笑顔でドアを開け、そのまま帰らぬ人となってから、もう丸三年もの月日が流れてしまったのだ。


「本当はさ、三回忌の時に、気持ちをちゃんと切り替えたかったんだ。いつまでもメソメソと泣いて、ずっと過去を引きずって前を向けずにいると、澄花も天国で心配するでしょ? 『いつまで立ち止まってるの!』って、呆れて怒るんじゃないかって、ずっと思ってた。だから、あの節目の時に、ちゃんと前を向いて歩き出そうって、自分なりに何度も決意しようとしたんだよ。でもさ……」


言葉が、一瞬だけ喉の奥につかえた。墓石を見つめる視界が、にじみそうになるのを必死で堪える。
「三回忌じゃ、だめだった。まだ、あの時の僕には、ちょっと早すぎたらしいんだ」


どんなに理屈で前を向こうと言い聞かせても、心がそれを拒絶していた。澄花のいない現実を完全に受け入れてしまうことが、彼女を本当に失ってしまうことのような気がして、どうしても怖かったのだ。時間が解決してくれるという言葉は、当時の僕には何の慰めにもならなかった。どれだけ月日が流れようとも、純花を失った穴はぽっかりと空いたままで、そこから冷たい風が吹き抜け続けていた。


「それでさ、結局今日という日まで、ずるずると引きずっちゃったんだよね」
僕は自分の不甲斐なさを笑うように、自嘲気味に呟いた。
この三年間、僕は生ける屍のように、ただ日々をやり過ごすことしかできなかった。


「だってさ、部屋にいるとさ、今でも時々、澄花の笑い声が聞こえるんだよ。リビングでテレビを見ている時、ふとキッチンの方から、楽しそうにケラケラと笑う声が耳の奥に響くんだ。本当に、本当にさ、また何事もなかったかのように帰ってくるんじゃないかって、そんな妄想ばかりしてた。今にもあの玄関のドアがバタンと開いて、『ごめーん! 遅くなったー!!』って、いつものように勢いよくドアを開けて、弾むような声で入ってくるんじゃないかって……。そんな風に部屋の隅を見つめては、澄花の影を探してたんだ。」


その光景は、あまりにもリアルだった。彼女の口癖、ドアを開ける時の乱暴なまでの勢い、すべてが記憶の中に鮮明に焼き付いて離れない。だからこそ、現実とのギャップに、毎夜毎夜、胸が張り裂けそうなほどの孤独感に襲われていたのだ。


「でもね、それも今日でやめるよ」
僕は声を一段と強くした。その言葉は、澄花に伝えるためであると同時に、自分自身の弱い心に楔を打ち込むためのものでもあった。


「もう、いつまでも過去に囚われて立ち止まっているのは終わりにする。今日はね、澄花に言いにきたんだ。あの日からずっと、僕の胸の奥に仕舞い込まれたまま、行き場をなくしていた言葉。ずっとずっと、君に伝えたかったこと」


僕は一歩、墓石へと近づいた。背筋を伸ばし、最愛の人の目を真っ直ぐに見つめるような気持ちで、墓石の正面に立った。風が僕の髪を揺らし、線香の煙が優しく僕を包み込む。今、世界には僕と純花の二人しかいないような、不思議な静寂が辺りを支配していた。


僕は深く、深く息を吸い込み、そして、ずっと言えなかったその言葉を、一文字ずつ噛み締めるように紡ぎ出した。
「澄花との出会いは、一目惚れだったんだよ」


胸の奥から、温かい記憶があふれ出してくる。
「初めて君を見たその瞬間のことを、今でも信じられないくらい鮮明に覚えている。世界中で、君の周りだけが特別に輝いているみたいだった。誰よりも楽しそうな笑顔を見せる澄花から、僕はどうしても目が離せなかった。あの一瞬で、僕の心は全部、君に奪われていたんだ」


思い出すのは、彼女と過ごした眩しい日々の断片だった。
「それからの日々はね、本当に、本当に楽しかった。言葉にできないくらい、毎日がキラキラしていたんだよ。澄花がそこにいてくれるだけで、ただ僕の隣で笑ってくれているだけで、僕はそれだけでどうしようもなく幸せだった。退屈だったはずの景色が、君と一緒にいるだけで全部特別なものに変わったんだ」


しかし、幸せであればあるほど、当時の僕は、自分という存在の小ささに臆病になってもいた。
「僕はさ……澄花からたくさんの幸せをもらった。でも、自分がもらった分だけ、澄花のことを同じように笑顔にできるかどうか、ずっと分からなかったんだ。君を世界一幸せにするんだって思っていても、心のどこかで、僕なんかでいいのかなって、自信がまだなかったんだよ」


僕は正直な胸の内を、初めて吐露した。完璧な人間なんかじゃない。不安で、頼りなくて、いつも澄花の明るさに引っ張られてばかりだった。


「でもね……!」
僕は声を張り上げた。自信のなさなんて、彼女への愛の大きさに比べれば些細なことだ。


「自信はまだないかもしれないけれど、これだけは絶対に約束できる。僕は、澄花がいつでも安心して、その背中を預けてもらえるような、そんな場所にはなれる。もし君が傷ついて、泣きたいときがあるなら、いつでも僕の背中を貸す。もし君が、悲しすぎて涙も流せないくらい辛いのなら、代わりに僕がボロボロになるまで泣く! 君を四六時中、楽しませ続けられるかは分からないけれど……それでも、ずっと隣で笑っていてほしいんだ」




僕は、自分の魂のすべてを込めて、最後の言葉を口にした。
「僕と、結婚してください」




その瞬間、堪えきれなくなった涙が、決壊したダムのように僕の目から溢れ出し、頬を伝って地面へと落ちていった。墓石に向かって、もうここにはいない彼女に向かってプロポーズを告げる僕の目は、涙でいっぱいで、視界は激しく歪んでいた。


どうして、この言葉を、彼女が生きて目の前にいる時に言ってあげられなかったのだろう。どうして、あの日、彼女が家を出る前に引き止めなかったのだろう。押し寄せる後悔と、澄花への愛おしさが混ざり合い、胸が引きちぎれそうに痛む。それでも僕は、目を逸らさなかった。必死に声を震わせ、涙を堪えながら、言葉をさらに紡ぎ続けた。言葉を途切れさせてしまえば、二度と伝えられない気がしたからだ。


「あの日さ……」
僕は震える手で、鞄のポケットを探った。
「あの日、澄花が帰ってきたらさ、この言葉と一緒に、これを送りたかったんだよ」
取り出したのは、あの小さなベルベットの箱だった。指先が小さく震える。僕はそっと、その箱の蓋を押し上げた。


パカッという小さな音とともに、中に収められていた指輪が、美しくきらめいた。中央には、透き通るような、美しい水色の宝石が埋め込まれている。


「二人でつける結婚指輪はさ、後から一緒に買いに行って、並んで選ぼうと思ってたからさ、これはね、僕が澄花のためだけに、世界でたった一人の君のためだけに選んだんだよ。気に入ってもらえるかは分からないけれど……この、澄んだ水色。これを見たとき、あまりにも澄花っぽいなーって思ってさ。これも、一目惚れだったんだよ」


指輪の宝石を見つめていると、澄花の真っ直ぐで、汚れのない澄んだ瞳が思い出された。それはまさに、彼女そのものの色だった。


僕は箱から指輪をそっと取り出すと、あらかじめ用意していたシンプルなチェーンを取り出し、その指輪をネックレスに通した。金属同士が触れ合う、かすかな高い音が静かな墓地に響く。指輪がチェーンの端へと滑り落ち、一つのネックレスとして完成した。


「こうやってさ、僕が代わりに持っとくからさ。澄花の代わりに、僕がこれをずっと胸に飾っておくよ。そうすればさ、これで僕がこの世界のどこにいても、君にもすぐ分かるでしょ。迷子にならずに、いつでも僕のことを見つけられるでしょ」
ネックレスを握り締めると、金属の冷たさが手のひらに伝わってきたが、それはすぐに僕の体温で温められていった。まるで、純花の魂がそこに宿ったかのように。


「それからね、澄花。僕さ、日本一周を続けるよ」
僕は涙を拭い、力強い目で墓石を見つめた。


「澄花が残してくれた、あの旅行ノート。あの中に書かれた君の文字や、行きたがっていた場所のメモを見ていたらさ、どうしても、どうしても行きたくなったんだよ。君が見たかった景色を、僕のこの目で全部見てみたいって、強く思ったんだ。だから、たくさんたくさん、写真を撮ってくるね。綺麗な景色も、美味しいご飯も、全部カメラに収めてくる。この指輪もさ、ネックレスにして一緒に連れて行ったら、澄花も一緒に行ってることになるよね? うん、そういうことにするね」
僕は涙混じりの笑顔を浮かべた。少し強引な理屈かもしれないけれど、そう思わなければ、一歩も進めない気がした。


「このノートと、この指輪があればさ、本当に澄花と一緒に旅をしているような、そんな気になれるんだよ。澄花との思い出、あの日で終わってしまったはずの思い出を、これからも僕が、僕たちの手でどんどん増やしていくよ」
そう、僕は心に決めたのだ。澄花との日本一周の旅を、ここで終わらせるのではなく、これからも続けていくのだと。


それが今、世界でいちばん、澄花を喜ばせることのできる方法だと信じて疑わなかった。彼女はきっと、僕がいつまでも部屋で塞ぎ込んでいるよりも、彼女のノートを携えて世界を飛び回る方を、何倍も、何十倍も喜んでくれるはずだ。


「それにね……僕自身もさ、旅をして、新しい景色を見るたびに、そこで純花をまた感じられるような、そんな気がしたんだよ。君が感動したであろう景色の中に、君の気配が残っているような気がして」
すべての想いを告げ終えたとき、不思議と胸の奥の重苦しさが消え去り、代わりに温かい光が満ちていくのを感じた。僕は墓石に向かって深く一礼し、手を合わせて最後の祈りを捧げた。
「行ってくるね、澄花」と心の中で呟き、僕はゆっくりとその場を離れた。墓地からの帰り道、僕の足取りは、来る時とは比べものにならないほど軽やかだった。


ほとんどもう朝日も昇るのではという頃、僕は自分の家へと戻ってきた。鍵をポケットから取り出し、ドアノブに手をかける。カチャリと音がして、ドアがゆっくりと開く。


靴を脱ぎ、静まり返った玄関に足を踏み入れたとき、ふと、あることに気がついた。
「そういえば……今日、行ってきますって言ってなかったな」


あまりにも慌ただしく山田が連れ出してくれたものだから、すっかり忘れていた。


澄花はあの日、行ってきますと言ったきり帰ってこなかった。だからあのときの自分は一言ずっと待っていた。




「ただいま」


その言葉が、誰もいない廊下に静かに染み渡っていく。
不思議な感覚だった。その一言を発した瞬間、ずっと三年前のあの日の玄関に取り残されたまま、時間が止まっていた過去の自分を、今の自分が優しく迎えに行けたような、そんな気がしたのだ。
「よく頑張ったね」「もう大丈夫だよ」と、過去の傷ついた自分を抱きしめてあげられたような、救われた気持ちが胸に広がっていった。


夜になり、今日もまた、僕はベッドへと向かう。
1人では広すぎるベッド。横たわると、隣にあるはずの温もりが存在しないことを、嫌でも思い知らされる。けれど、今夜の感覚は、これまでの三年間の地獄のような孤独とは少し違っていた。


ふと見ると、かつて澄花が使っていた部屋のドアが、少しだけ開いていた。そこから、夜の静寂を伴った春の風が、すうっと寝室へと入り込んでくる。その風はとても心地よく、僕の火照った頬を優しく撫でていった。


澄花のいない一年が、また明日から始まる。それは変わらない事実だ。彼女が戻ってくることはないし、僕の隣が空席であることも変わらない。


「でも、今度はやれそうだ」
僕は天井を見つめながら、小さく微笑んだ。これまでの三年とは違う。僕には、澄花のノートがあり、胸元できらめく指輪があり、大好きな彼女との約束がある。前を向いて生きていく、確かな理由ができたのだ。


「3回目、3番の挑戦は、絶対最後成功するんでしょ?」
僕はかつて二人で話したことや、彼女の口癖を思い出しながら、暗闇に向かって問いかけた。人生の挑戦において、三度目の正直というやつだ。僕たちのこの、形を変えた三度目の旅の挑戦は、きっと最高の結末を迎えられるはずだ。そう確信していた。


その時だった。
開け放たれたドアから吹き込んできた春の風が、ふわりと僕の耳元をかすめた。
ざわざわと揺れるカーテンの音に混ざって、風に乗るようにして、声がが聞こえた気がした。


『覚えてたんだー』
それは、紛れもない、純花の声だった。


驚いて目を見開く僕の耳に、さらに続けて、彼女の懐かしい声が響く。いつも僕のくだらない冗談や、的外れな言葉を聞いた時に彼女が見せていた、あのケラケラとした屈託のない笑い声。楽しそうで、愛おしくて、僕のすべてを包み込んでくれる、あの純花の笑い声が、確かに部屋の中に響き渡ったような気がした。


僕はそっと目を閉じ、胸元の指輪に手を当てた。
涙はもう出なかった。ただ、胸の奥が、これまでにないほどの温かさで満たされていた。春の風は、今も優しく、僕の部屋を吹き抜けている。