春風、君を待つ

*
ふーー。
深く、胸の奥に溜まったものをすべて吐き出すように、僕は息を整えた。
リビングの空気はひんやりとしていて、ついさっきまで頬を濡らしていた涙の熱が、急激に冷まされていくのを感じる。視界を遮っていた膜がゆっくりと取り払われ、見慣れた天井の木目や、机の上に置かれたままの小物が、にじむことなく静かにその形を主張し始めた。
涙は、一旦落ち着いた。
胸の動悸も、次第に規則正しいリズムを取り戻していく。孤独の淵に沈みかけていた心が、自らの意志によってゆっくりと、しかし確実に浮上してくる感覚があった。
このままではいけない。いや、このまま終わりたくない、という真っ直ぐな思いが、僕の右手を動かした。スマートフォンの画面が、暗闇を切り裂くように明るく灯る。そこに並ぶ名前を見て、僕は小さく唇を結んだ。
「よしっ」
自分自身に気合を入れるように、声に出して呟いた。その言葉は、静まり返った部屋に小さな波紋を広げ、僕の背中を優しく、力強く押してくれる。
画面をタップし、耳元に端末を当てる。
プルルルル、と規則的な電子音が鼓膜を震わせる。その数秒の沈黙が、まるで何時間にも感じられた。彼らは今、何をしているだろうか。僕を心配して、まだ近くにいてくれたのだろうか。それとも、もうそれぞれの日常に戻ってしまったのだろうか。不安と申し訳なさが交錯する中、電子音は唐突に途切れた。
ガチャ。
「もしもし伊織?」
「お一暁、どうした?」
受話器の向こうから聞こえてきたのは、いつもと変わらない、少し低めで落ち着いた伊織の声だった。その響きに、強張っていた僕の肩の力が、ほんの少しだけ抜ける。
「さっきはせっかく来てくれたのにごめんな。突然ごめんなんだけど……車出してくれない?」
一気に言葉を紡ぐ。申し訳なさと、それでも彼らを頼りたいという身勝手な願いが混ざり合った、震える声だったかもしれない。
言い終えた瞬間、受話器の向こうの時間がいっとき、完全に静止した。
はっと息をのむ音が、明瞭に受話器の向こうから聞こえてくる。
それは伊織一人のものではなかった。受話器の向こう側にある空間の広がりと、そこにもう一人の気配があることを、その密度の高い沈黙が教えてくれた。
2人分。
確信があった。だから、山田も一緒に聞いてくれてたのだろう。
僕が言葉を発した瞬間から、彼らは二人でスマートフォンの画面を覗き込み、僕の声の一言一句を、息を詰めて受け止めてくれていたのだ。その事実に気づいたとき、胸の奥がじんわりと熱くなった。
そして、スピーカーの限界を試すかのような、弾けるような大声が二つの喉から同時に放たれた。
「「待ってた!!!!」」
シンクロしたその声は、驚くほどきれいに重なり合い、受話器を通じて僕の部屋全体に響き渡った。あまりの音量と、そこに込められた圧倒的な熱量に、僕は少しだけ目を見開いた。
「今から行く。ちょっと待っててな」
伊織がそう言っている最中にも、受話器の向こうからはドタドタと、まるで嵐が起きたかのような騒がしい音が聞こえてくる。椅子を蹴り出す音、床を激しく踏み鳴らす足音、上着を引っ掴む衣擦れの音。彼らがどれほどの勢いで立ち上がり、僕の元へ向かおうとしているのかが、手取るように伝わってきた。
「もういけるぞ!」
背景から飛び込んできたのは、山田の、焦りと弾けるような喜びが混ざり合った大声だった。靴を履きながら叫んでいるのだろうか、少し遠く、けれど確実に僕の鼓膜へと届けられたその声を最後にして、通話はせっかちに切れた。
ツーツーという無機質な音が響く部屋の中で、僕はスマートフォンを握りしめたまま、ぽかんとしていた。
「待ってた」
彼らはそう言った。僕が心を閉ざし、一人で抱え込もうとしていたその時間を、彼らはただ見放すことなく、いつでも手を伸ばせる距離で、ずっとずっと待っていてくれたのだ。
ずっと見守ってて、やっと頼ってもらえて。
山田と伊織は、きっと今、飛び上がるほど嬉しいのだろう。


これまで一度も自ら助けを求めようとしなかった僕が、初めて彼らに向かって「車を出してほしい」と言った。その一言が、彼らにとってどれほどの意味を持つのか。
僕は窓の外を眺めた。どんよりとした雲の隙間から、ほんの少しだけ光が差し込んでいるような気がした。


時間が、まるで早送りのように進んでいく。
電話を切ってから、おそらくまだ十分も経っていない。時計の針を気にする余裕すら与えられないほどの速度で、我が家の呼び鈴が、けたたましく鳴り響いた。
ピンポーン、ピンポーン!
連打されるその音に、彼らの逸る気持ちがそのまま表れているようで、僕は思わず小さく吹き出してしまった。急いで玄関へ向かい、鍵を開けて扉を引く。
「あっきー迎えに来たぞ!」
扉の向こうにいた山田が、これ以上ないというほどの満面の笑み――まさに「ニカっと」という擬音が完璧に当てはまる弾けた笑顔を浮かべて、そこに立っていた。


彼の大きな体が、玄関の限られた視界を埋め尽くす。山田は僕の顔を見るなり、その太い腕で僕の肩を軽く叩くようにして、そのままの勢いで僕を外へと連れ出してくれた。言葉でぐずぐずと引き止める隙を与えない、優しくも強引な、彼なりの気遣いだった。
外に出ると、冷たい空気が肌を刺した。しかし、不思議と寒さは感じなかった。
アパートの前に停められた見慣れた車の運転席から、伊織が窓を開けて、こちらに向かってひらひらと手を振っていた。その仕草はいつも通り気怠げで、けれどその瞳は、僕をしっかりと捉えて安心させるように細められていた。
僕は山田に促されるまま、車の後部座席のドアを開け、滑り込むように乗り込んだ。
車内は、彼らの体温と、微かに漂う洗剤や芳香剤の香りで満たされており、一瞬にして僕を彼らの世界へと包み込んでくれた。


「急に悪かったな、本当にありがとう」
シートに深く身体を沈めながら、僕は前方の二人の背中に向けて、心の底からの言葉を口にした。突然のわがままに付き合わせてしまった申し訳なさが、どうしても言葉の端々に滲んでしまう。
すると、運転席の伊織がルームミラー越しに僕と目を合わせ、ふっと口元を緩めた。


「いーや、良いよ。俺ら頼ってもらえてすげー嬉しいし」
いつもの、ぶっきらぼうだけど温かい、伊織らしい声だった。
「あっきーから言ってくれるのなんてはじめてじゃん! やっと返せるー! と思ってさ」
助手席の山田が、身体を助手席のシートに押し付けるようにしてぐるりと後ろに振り返り、弾んだ声で言った。その目はキラキラと輝いていて、本当に心から喜んでいることが伝わってくる。今まで僕が彼らにしてきた何かを、彼らは「返したい」とずっと思い続けてくれていたのだ。僕にとっては当たり前の友人としての行動が、彼らにとっては、ずっと温めておいた恩返しの種になっていた。


「2人とも、、、!」
胸の奥から、熱いものが一気にせり上がってくるのを感じた。涙はさっき止まったはずなのに、視界がまた少しだけ潤みそうになる。言葉がうまく続かない。僕の喉を通り抜けたのは、震えるような感謝の響きだけだった。
「僕、2人と仲良くなれて本当に良かったよ」
偽りのない、僕の心の真ん中から出た言葉だった。
その言葉を聞いた瞬間、運転席の伊織と助手席の山田は、申し合わせたかのように同時に振り返った。
伊織は片手でハンドルを握りながらチラリと、山田は身体を大きく捻って正面から。
そして、二人は僕に向かって、息を合わせてビシッとピースサインをしてみせた。
くしゃっと笑う山田の顔と、少し得意げに眉を上げる伊織の顔。バックミラーと助手席の隙間から覗くその二つのピースサインが、頼もしすぎて、そして可笑しくて、僕は今度こそ本当に笑ってしまった。


「よし!行き先はまぁ分かってるけど一応聞いとくわ」
伊織が前方を向き直し、ギアを切り替えるような声のトーンで言った。お互いに口に出さずとも、僕が今、どこへ向かいたいのかは、彼らには最初から分かっていたのだろう。それでも、僕自身の口から言わせることが、僕の心を整理するために必要なプロセスだと知っているかのように、伊織は尋ねてくれた。


「澄花のお墓」


静かに、けれどはっきりとその名前を口にする。
彼女の名前が車内の空間に落ちた。けれど、そこに重苦しい沈黙が広がることはなかった。


「おっけー」
伊織の短く、けれど全てを引き受けるような返事とともに、車は出発した。目的地は決まった。僕たちの旅が、本格的に始まった。


車が市街地を抜けていく中、オーディオからは音楽が流れ始めた。
特定のアルバムではなく、シャッフル再生に設定されているようで、次にどんな曲が飛び出すか分からない、予測不能な旋律が車内を満たしていく。
2人は音楽をかけながら、まるで行楽地にでも向かうかのように、楽しそうに運転してくれた。僕に余計な気遣いをさせまいとする、彼らの精一杯の演出だ。


それにしても、この二人の車内カラオケは、いつも極端で面白い。
「〜〜♪」
助手席の山田が、流れてきたアップテンポな曲に合わせて歌い始めた。
山田は意外にも、と言うべきか、その大柄な体格から想像される通り、非常に歌が上手い。ブレのない澄んだ高音と、胸に響く豊かな低音。その声量もあって、彼の歌声には聴く者の心を揺さぶる圧倒的な力がある。感情の込め方も一級品で、歌詞の切なさが彼の声に乗ってダイレクトに伝わってくるため、助手席から流れるその独唱を聴いていると、たまに泣いてしまうときもあるほどだ。


一方、これまた意外にも、運転席の伊織は致命的なほどの音痴だ。
リズム感は悪くないはずなのに、どういうわけかメロディラインが独自のルートを辿ってしまう。僕たちの前では何の躊躇いもなく、気持ちよさそうに大声で歌ってくれるが、どうやらこの姿は僕たちの前だけの特権らしい。
他の集まりでカラオケに行くときは、伊織は絶対にマイクを持たず、最初から最後までタンバリン担当に徹しているのだそうだ。周囲の空気を読み、自分の役割を完璧にこなす。まあ、その「あえて歌わないクールさ」と「盛り上げ役に徹するスマートさ」が、彼のモテる理由になってるかもしれないが。


そんな、極端な歌唱力を持つ2人が、狭い車内で熱唱を始める。
シャッフル再生の神様は気まぐれだ。彼らのテンションに合わせるように、最初は背中を押してくれるような前向きな曲をかけてくれるのだが、たまに、どうしようもなく切ない別れの歌も入っていたりする。


イントロが流れた瞬間、僕は少し身構えた。
それは、あまりにも今の僕の状況にリンクしすぎる、有名なバラードだった。歌詞の全容を知らなくても、サビのフレーズを聴けば誰もが静粛になるような、そんな曲。
イントロが流れ出す。
あ、これは駄目かもしれない……


僕はそっと視線を落とした。もし今、山田のあの抜群に上手い独唱で、感情たっぷりにこの歌詞を歌い上げられたら、僕の涙腺は確実に崩壊していただろう。せっかく落ち着いた涙が、また堰を切ったように溢れ出し、お墓に着く前にボロボロになってしまう。


しかし、その瞬間、車内に響き渡ったのは、別の「声」だった。
「お墓の前でーー!! 泣かないでぇーー!!」
伊織だった。
いつもなら山田の歌声にハモろうとして(そして大体ズレて)一歩引いている伊織が、その曲が始まった瞬間に、山田の声を掻き消すほどの特大のボリュームで歌い出したのだ。もちろん、音程はいつも通りあちこちに迷子になっている。


「そこ、ちがうって! 音程迷子すぎるわ!」
山田が突っ込みを入れながら、負けじと声を張る。
しかし、伊織は前を向いたまま、真剣な顔で、さらに声を大きくして歌い続ける。


「風になってぇーー!!」
伊織が盛大に音を外しながら熱唱することで、曲が本来持っているはずの、胸を締め付けるような哀愁が、綺麗に、そして面白いくらいに中和されていく。おかしなメロディラインが車内に響くたびに、僕の胸を支配しようとしていた重苦しい悲しみが、ふっと霧散していくのが分かった。


本人は不本意だろう。本当はもっと格好良く歌いたいのかもしれないし、あるいは山田の美声に浸りたいのかもしれない。けれど、彼がいつもより明らかに声を大きく、喉を枯らすようにして歌ってくれているのは、他でもない、僕のためだった。
バックミラーに映る伊織の目は、真剣そのものだった。
助手席の山田も、最初は突っ込んでいたものの、すぐに伊織の意図を察したのだろう。伊織のズレた音程に合わせるようにして、自分の声量を少し落とし、けれど力強く、車内の空気をあえて賑やかに保ち続けた。


山田の優しさは、僕をそのまま包み込んでくれる温かさだ。
そして伊織の優しさは、不器用に見えて、僕の悲しみの先回りを防いでくれる盾のようだった。
二人の不揃いなハーモニーが、シャッフル再生の切ないメロディを塗り替えていく。僕は後部座席で、膝の上で握りしめていた手を少しだけ緩め、彼らの背中を見つめた。
ありがとう、と心の中で何度も繰り返しながら。
車窓の景色が、次第に緑の多い静かな風景へと移り変わっていく。坂道を登るにつれて、エンジン音が少しだけ高くなり、やがて車は、見慣れた霊園の駐車場へと滑り込んだ。


エンジンが切られ、車内に突然の静寂が訪れる。
さっきまであれほど賑やかだった2人も、車が停まった瞬間には、すっといつもの落ち着いた表情に戻っていた。道中、彼らは僕に対して「何があったのか」「どうして泣いていたのか」といった類の話は、一切口にしなかった。


ただ、僕が「車を出してほしい」と言ったから、ここへ連れてきた。
2人ともなにも聞かず、ただ僕を、このお墓まで送り届けてくれた。その適度な距離感が、今の僕には何よりも救いだった。根掘り葉掘り聞かれないことが、どれほど心を軽微にしてくれるか、彼らは本能的に理解しているのだろう。


「じゃあ、俺らここで待ってるから」
伊織が運転席から振り返り、静かな声で言った。その目は、「ゆっくり行ってこい」と僕の背中を押してくれているようだった。


「うん、行ってくる。」
僕は微笑み、車のドアを開けて外に出た。
冷たい風が頬を撫でる。けれど、車内で貰ったたくさんの温かさが、僕の身体の芯にはまだしっかりと残っていた。


「松浦さんによろしくなー!」
助手席の山田が、車の窓を大きく開けて、外に向かってぶんぶんと大きく手を振って送ってくれる。彼のその大きな動作と明るい声が、墓地という場所が持つ独特の寂しさを、一瞬で払拭してくれるようだった。


一歩、また一歩と、澄花が眠るお墓へと歩みを進める。
振り返ると、駐車場に停まった車の中から、山田がまだ小さく手を振っているのが見えた。その隣で、伊織がスマホを弄るフリをしながら、時折こちらを気にするように視線を向けているのも分かった。
良い友達だな、と改めて思うわけだ。


彼らがいてくれたから、僕は前を向いてここに来られた。一人で泣いていた部屋から、澄花の元へと一歩を踏み出せた。
僕は深く息を吸い込み、澄花の名前が刻まれた墓石の前で、静かに手を合わせた。胸の中にある感謝と、これからの決意を、彼女に伝えるために。