*
どうして澄花だったのか。その疑問が、あの日から今日に至るまで、僕の心の中から完全に消え去った日は一日たりともない。
もし仮に、あのとき彼女をはねたトラックの運転手が、ほんの少しでも前を向いていれば。ほんの少しでも危険な運転を慎み、ブレーキを踏むのが一瞬でも早ければ。そんな、いまさら考え
ても仕方のない「もしも」が、頭の中で何度も何度も、まるで壊れたレコードのように同じ場所を巡り続けている。不可抗力の事故だったのか、それとも防げたはずの悲劇だったのか。今となっては法的な結論がどうあれ、僕にとってはどちらでも同じことだった。
事故なら、ここまで引きずらなかったのだろうか。いや、そんなことはない。どんな理由があろうとも、彼女がもうこの世界にいないという厳然たる事実だけが、どこまでも苦しく、どこまでも僕の心を縛り付け、奈落の底へと引きずり込んでいくのだ。
責める先がないというのは、これほどまでに人間を蝕み、苦しめるものなのか。誰かを激しく憎むことができたなら、少しは楽になれたのだろうか。しかし、怒りをぶつけるべき対象を見失った僕の感情は、行き場をなくしてすべて自分自身の内側へと刃を向けていた。
テレビをつければ、ドラマや映画が流れてくる。僕はかつて、そうしたフィクションの中で描かれる、これ見よがしに「一目惚れ」をして、運命の恋だとはしゃぎ立てる男たちを、どこかで冷めた目で見ていた。そんなものは物語の中だけの都合の良いファンタジーであり、現実にはあり得ないと、心のどこかでバカにして生きてきたのだ。それなのに、自分自身が人生で初めて経験した恋は、あまりにも唐突で、あまりにも鮮烈な一目惚れだった。
あの日、大学の正門前で後ろ姿を見かけ、人違いかもしれないという理性のストッパーすら吹き飛ばして声をかけた、あの春の日。振り返った彼女の、驚いたような、けれどすぐに陽だまりのように温かく弾けたあの笑顔。それから始まった僕たちの時間は、かつて僕が冷笑していたどの物語よりも輝いていて、瑞々しかった。一目惚れなんかありえないと思っていたのに、自分が一番熱烈にその魔法にかかってしまったのだ。
付き合っていない男女が、あんなに短期間で仲良くなれるわけがない。そう思っていた過去の自分を、今の僕は鼻で笑うことしかできない。僕たちは驚くほどの速さですれ違う距離を縮め、互いの呼び名を変え、言葉を交わすたびに魂の深いところで結びついていった。あんなに愛おしく、奇跡のような日々を過ごせたのだから。そこまで深く僕たちの心を繋ぎ合わせるのなら、神様、どうか最後も合わせてほしかった。なぜ、彼女だけを連れ去り、僕だけをこんな中途半端な
世界に取り残したのだろうか。
恋愛ものの物語なら、ラストは決まってすべての困難を乗り越えた末の、大団円のハッピーエンドだ。もしどちらかが病気や不慮の事故でいなくなってしまう悲恋の物語であっても、そこには必ず、お互いの気持ちを確かめ合い、最後の言葉を交わすための「予兆」や「残された時間」というものがあるはずだった。余命宣告されて、残された時間をめいっぱい楽しむはずだ。お互いに覚悟を決め、思い出を整理し、涙を流しながらも「ありがとう」と言い合える時間が、物語
には用意されている。
だが、現実の死は、あまりにも容赦なく、唐突だった。何の予兆も、前触れもない。さっきまで笑ってメッセージを送り合っていたはずの人間が、次の瞬間には冷たい骸となってしまう。何もこんな唐突な別れじゃなくたって、もっと他に良い方法があったじゃないか。そう叫びたくなる夜が、これまで何度あったか分からない。
澄花が帰ってこなくなってからというもの、僕の一日はそのほとんどが暗い家の中で過ぎていくようになった。幸いにも、僕が就職した先は在宅ワークを強く推奨しているIT系の会社だったため、仕事そのものに大きな支障が出ることはなかった。パソコンの画面に向かい、淡々とコードを打ち込み、ミーティングをこなす。外に出る必要がないというのは、当時の僕にとって唯一の救いだった。なぜなら、外の景色を見ることは、澄花のいない世界を無理やり自覚させられる
ことに他ならなかったからだ。
部屋の中で一人、静寂に身を包んでいると、時折、玄関の鍵がカチャリと音を立てて、澄花が「暁、ただいま!」とひょいっと帰ってくるような気がしてならなかった。あの人懐っこい笑顔で、荷物を抱えて、何事もなかったかのように入ってくるんじゃないか。そんな淡い、そして残酷な幻影を、僕はいつだって捨てきれずに待っている。
澄花を待つのは、いつだって僕の方だ。デートの約束の時も、僕はいつも約束の15分前には待ち合わせ場所に到着して、彼女がやってくるのを今か今かと待ちわびていた。だから、今こうして彼女を待ち続けることも、僕にとってはごく自然な日常の延長線上にあった。出会った頃も、付き合ってからも、旅行だって全部そうだ。僕が計画を立てるのを楽しそうに見つめ、あるいは彼女が作ったノートを引っ提げて、いつだって僕たちは一緒にいた。
対して、澄花はいつも僕の言葉を待っている。僕が告白したときも
僕が次のデートの場所を提案したときも、最後の日だって、、、。彼女はいつだって僕の言葉を嬉しそうに、少しだけイタズラっぽく先回りして気付いて待っているのだった。
だから、僕が何も言わずに沈み込んでいる今も、澄花は僕が言葉を発するのを、僕が前を向くのを、彼方の国でずっと気付いて待っているのかもしれない。だから待たせてしまっているんだ、今も。僕のこの意気地のなさのせいで。
一週間のうち、金曜日はどうしてもお酒に頼ってしまう。翌日が休みだからという理由もあるが、何よりも、あの日は金曜日だったから、僕の孤独を際立たせるからだ。お酒を飲んでいる間だけは、胸を締め付ける鋭い痛みが、少しだけ麻痺して鈍くなってくれるような気がし
た。
しかし、お酒は強くない。むしろ弱い。でも、弱いからこそ、その酩酊感に縋り、頼ってしまうのだ。記憶を無くすほどに飲めば、その間だけは現実から逃避できる。
そして、今日。あの悪夢のようなあの日から、丸三年が経った。
「3」という数字が、僕の頭の中でずっと明滅していた。「3」のつくところで切り替えたら、きっとこれからの人生も上手くいく、成功するでしょって、澄花が言っていた。
だから、今日という日をどうにかして乗り越えなければならないと、僕の理性は必死に叫んでいた。
だが、心がそれに追いつかない。今日という日を迎える恐怖に耐えかねて、僕はいつもの金曜日の倍以上、信じられないほどの量のお酒を体に流し込んだ。そうでもしなければ、澄花のいない部屋で、たった一人で過ごす命日の夜なんて、到底耐えられそうになかったからだ。
これまでの命日は澄花の家族と一緒に過ごしていたから、みんなで彼女の思い出を語り合い、互いの痛みを分かち合うことで、なんとか正気を保っていられた。けれど、今年はあえて一人になる時間を選んだ。それが間違いだったのかもしれない。
案の定、翌朝目が覚めると、見事に記憶が飛んでいた。それどころか、お酒の激しい離脱症状のせいか、頭が朦朧として、一瞬、澄花が存在していたということすらも記憶の彼方に吹き飛んでいた。
自分の名前すら曖昧になるような、奇妙な空白。
しかし、視線を少し動かした瞬間、視界に飛び込んできた光景によって、心臓が冷や水を浴びせられたように凍りついた。
片付けられない澄花との、無数の思い出の品々だけが、部屋のいたるところに毅然として目に留まる。彼女が愛用していたマグカップ、一緒に買ったクッション、棚に並んだままの思い出の写真。それらが一気に押し寄せてきて、忘れていた記憶が濁流となって脳内を埋め尽くした。
「覚えていなきゃいけないことなのに、思い出したくない」
僕の頭は、激しい自己矛盾を起こして悲鳴を上げていた。彼女を忘れることなんて絶対に許されない。けれど、思い出すたびに胸を引き裂かれるようなこの痛みに、もうこれ以上耐えたくない。忘れたいと願う自分への嫌悪感と、失ったものの大きさに、頭痛とは違う激しい痛みが脳を支配した。
山田や伊織をはじめとする友達は、みんな僕のことを本当に心配してくれていた。あの日以来、完全に引きこもりがちになり、連絡も途絶えがちになった僕を、誰一人として見捨てることはしなかった。
特に二人は澄花のこともよく知っていたため、彼女の葬儀にも揃って参列してくれた。あの時、泣き崩れる僕の肩を支えてくれたのも、彼らだった。
それからも、「たまには美味いものでも食べに行こうぜ」とか「ドライブに付き合えよ」とか、ことあるごとに誘いの連絡をくれた。けれど、僕は上手く笑える自信がなくて、せっかくの温かい誘いも、そのほとんどを断り続けていた。楽しそうに笑う資格なんて、今の僕にはないと思い込んでいたのだ。
それでも、彼らは見捨てることなく、こうして時折、僕の家に顔を見せに来てくれる。その優しさがありがたく、同時に申し訳なくて、また心を閉ざしてしまうという悪循環の中にいた。
いま、僕は澄花の部屋にいる。
彼女の部屋は、あの日と何も変わっていない。彼女が使っていた当時のまま、時を止めたように保存されている。カーテンの色も、机の上の配置も、ベッドに置かれたままの小さなぬいぐるみも。まるで、さっきまで彼女がそこにいて、「ちょっとコンビニに行ってくるね」と出て行ったきりのような、奇妙な生活感が残っている。
僕は、机の上の一番下に眠っていた、一冊のノートを手に取った。
それは、未だ一度も開いたことのない、澄花の「旅ノート」だった。
実は、彼女が残した「日記」の類は、これまでに何度か読んだことがあった。日記は、どれほど切なくとも、すでに過ぎ去った「過去」の話だ。そこに書かれているのは、僕と過ごした楽しかった日々の記録であり、澄花の生きた証そのものだった。
日記を読むとき、僕は澄花の残した温かい影を追うような感覚になれた。過去の事実として、彼女が僕を愛してくれたという記憶に浸ることができたから、なんとか読むことができたのだ。
しかし、この「旅ノート」だけは、どうしても見ることができなかった。
なぜなら、このノートに書かれているのは、過去ではなく「未来」の話だからだ。彼女がこれから行きたかった場所、僕と一緒に見たかぅた景色、これから紡がれるはずだった、瑞々しい未来の計画。それを開いてしまうということは、これから先、そのどれ一つとして澄花と一緒に叶えることができないという残酷な現実を、これ以上ないほど生々しく突きつけられることに他ならなかった。このノートを開く強さは、これまでの僕には微塵もなかった。
でも、もう三年だ。
いつまでも過去の影だけを追いかけて、部屋の隅で膝を抱えているわけにはいかない。「3」という節目の今日、このノートを開くことができれば、何かが変わるかもしれない。ここで切り替えたら、僕はもう一度、人間としての人生を歩み直すことができるのではないか。澄花も、きっとそれを望んでいるはずだ。自分にそう言い聞かせ、言い訳をするようにして、僕は震える指先をノートの表紙にかけた。
窓から、サラリと柔らかな春風が吹き込んできた。 その風は、まるで三年前のあの日に僕たちの間を吹き抜けた春風と同じように温かく、どこか懐かしい香りがした。カーテンがふわりと揺
れ、僕の背中を優しく押してくれるような気がした。
「がんばれ、がんばるんだ、暁くん」
かつて彼女が僕の隣で、イタズラっぽく微笑みながら言ったあの声が、風に乗って耳元で再生
されたような錯覚を覚える。
勇気を出して、ページを捲る。
パラリ、と紙の擦れる音が静かな部屋に響いた。
そこには、以前僕が彼女の作業中にチラリと見せてもらったときにはなかった、鮮やかな色の付箋が、これでもかというほど大量に貼られていた。
それは、温かみのあるオレンジ色の付箋だった。
どのページをめくっても、そのオレンジ色の付箋が、まるで僕を導く道標のように、規則正しく、しかし熱量を持って貼られている。僕は息を呑み、そこに書かれた文字を凝視した。
『これは絶対に暁喜ぶ!』 『暁の好きな食べ物、ここにあり!』 『暁とここ行きたいな。絶対に楽しい!』
ページをめくる手が、ガタガタと大きく震え出した。 そこに書かれていたのは、彼女自身の行きたい場所だけではなかった。すべてのページ、すべての計画が、「僕(暁)」を喜ばせるため、僕と一緒に楽しむために考え抜かれたものだったのだ。
そんな僕のことが、小さな文字で、びっしりと、たくさん書かれていた。
「澄花......」
声にならない呟きが漏れる。どのページにも、漏れなくオレンジ色の付箋が貼ってある。 そう、47都道府県全部に。
彼女は、日本全国のすべての場所に、僕と一緒に行く未来を想像していたのだ。僕が何を食べてどんな顔をするか、どこを見て驚くか、そんな僕の反応を一つ一つ思い浮かべながら、るんるんと髪を揺らして、このノートを書いていたのだ。
その中に、いくつか、すでに二人で行ったことのある都道府県のページがあることに気付いた。 胸の鼓動が激しくなるのを抑えながら、その行ったことのあるページを開いてみる。そこには、黒いペンで書かれた『絶対に暁喜ぶ!』という澄花の文字の下に、見慣れない青いペンでの追記があった。
『喜んでくれた!満点!◎』
文字の筆跡は、間違いなく澄花のものだった。旅行から帰ってきたあと、僕の見ていないところで、彼女が嬉しそうにこのページを開き、青いペンで嬉々として書き込んだのだろう。僕が喜んだ姿を見て、彼女自身がそれ以上の喜びを感じてくれていたということが、その「満点!」という短い言葉と、大きな丸印から痛いほど伝わってきた。
視界が、急激に歪んだ。 ページの端が、ポツポツと濡れて、じんわりと滲んでいく。
やばい、と思ったときには、もう遅かった。目蓋の裏から溢れ出た涙は、堰を切ったように止まらなくなり、大粒の雫となってノートの上にボタボタと落ちた。
まるで、そこに本当に澄花がいるような気がした。 あの屈託のない笑顔で、「ね? 暁、楽しかったでしょ?」と話しかけてくる彼女の気配が、確かにその部屋に満ちていた。
こんなにも、自分のことを想ってくれていたのか。 自分がいない未来を恐れてノートを開けなかった僕の浅はかさに、胸が潰れそうだった。彼女が遺したのは、絶望ではなく、溢れんばかりの「生きた愛」だった。
何に泣いているのか、悲しいのか、嬉しいのか、それすらも分からなくなるくらい、ただただ涙が溢れて止まらなかった。澄花のいない澄花の部屋で、僕は子供のように声を上げて泣いた。
けれど、もう、どれだけ泣いても「暁また泣いてるー、仕方ないなぁ」と言って、優しいハンカチを差し出してくる人はもういない。その冷厳な事実が、鋭いトゲとなって、いまさらながら僕の胸に深く突き刺さる。痛くて、苦しくて、息ができない。
それでも、泣きながらノートをめくり続けるうちに、僕の心の中に、ある一つの確信が芽生え
ていった。
澄花が一番望んでいることは何だろうか。 僕がこうして、彼女の遺品に囲まれて、一生泣き暮らすことだろうか。そんなわけがない。彼女は、この47都道府県のノートを通じて、僕を喜ばせたい、僕に人生を思いっきり楽しんでほしいと、そう願っていたのだ。彼女が一番想っているのは、僕の笑顔なのだ。
だったら、僕は行かなければいけない。 澄花が僕のために遺してくれたこの未来の地図を携えて、彼女の代わりに、いや、彼女と一緒に、この場所を全部巡らなければいけない。そこで美味しいものを食べ、素晴らしい景色を見て、心から楽しまなきゃいけない。それが、残された僕にできる、唯一の、そして最大の澄花への恩返しであり、彼女の愛に応える方法なのだ。
「......一緒に行こう、澄花」
僕は袖で乱暴に涙を拭うと、床に深く頭を下げて、心の中で澄花に誓った。そう気合いを入れて、僕は濡れたノートを大切に閉じた。 そして、アルバムの中からあの旅行の計画を立てていたときのものだろうか、とびきり笑顔の澄花の写真を抜き取った。さらに、クローゼットの奥から、あの日、彼女に手渡すはずだった、永遠に指のサイズを合わせることの叶わなかった、小さな輝きを放つ指輪を取り出す。
旅行ノートと、とびきり笑顔の写真、そしてあの日の指輪。
それらすべてを、一つの悔いもないように、しっかりと自分の鞄の奥底へと詰め込んだ。
ジッと鞄のジッパーを閉める音は、僕の新しい旅立ちの号砲のようだった。 僕はもう一度だけ、澄花の部屋を見渡した。相変わらずあの日と何も変わらない部屋だったけれど、僕の心の中は、入ってきたときとは全く違う、温かい炎が灯っていた。窓から吹き込む最後の春風に背中を預け、僕はしっかりと前を向いて、その部屋を後にした。
どうして澄花だったのか。その疑問が、あの日から今日に至るまで、僕の心の中から完全に消え去った日は一日たりともない。
もし仮に、あのとき彼女をはねたトラックの運転手が、ほんの少しでも前を向いていれば。ほんの少しでも危険な運転を慎み、ブレーキを踏むのが一瞬でも早ければ。そんな、いまさら考え
ても仕方のない「もしも」が、頭の中で何度も何度も、まるで壊れたレコードのように同じ場所を巡り続けている。不可抗力の事故だったのか、それとも防げたはずの悲劇だったのか。今となっては法的な結論がどうあれ、僕にとってはどちらでも同じことだった。
事故なら、ここまで引きずらなかったのだろうか。いや、そんなことはない。どんな理由があろうとも、彼女がもうこの世界にいないという厳然たる事実だけが、どこまでも苦しく、どこまでも僕の心を縛り付け、奈落の底へと引きずり込んでいくのだ。
責める先がないというのは、これほどまでに人間を蝕み、苦しめるものなのか。誰かを激しく憎むことができたなら、少しは楽になれたのだろうか。しかし、怒りをぶつけるべき対象を見失った僕の感情は、行き場をなくしてすべて自分自身の内側へと刃を向けていた。
テレビをつければ、ドラマや映画が流れてくる。僕はかつて、そうしたフィクションの中で描かれる、これ見よがしに「一目惚れ」をして、運命の恋だとはしゃぎ立てる男たちを、どこかで冷めた目で見ていた。そんなものは物語の中だけの都合の良いファンタジーであり、現実にはあり得ないと、心のどこかでバカにして生きてきたのだ。それなのに、自分自身が人生で初めて経験した恋は、あまりにも唐突で、あまりにも鮮烈な一目惚れだった。
あの日、大学の正門前で後ろ姿を見かけ、人違いかもしれないという理性のストッパーすら吹き飛ばして声をかけた、あの春の日。振り返った彼女の、驚いたような、けれどすぐに陽だまりのように温かく弾けたあの笑顔。それから始まった僕たちの時間は、かつて僕が冷笑していたどの物語よりも輝いていて、瑞々しかった。一目惚れなんかありえないと思っていたのに、自分が一番熱烈にその魔法にかかってしまったのだ。
付き合っていない男女が、あんなに短期間で仲良くなれるわけがない。そう思っていた過去の自分を、今の僕は鼻で笑うことしかできない。僕たちは驚くほどの速さですれ違う距離を縮め、互いの呼び名を変え、言葉を交わすたびに魂の深いところで結びついていった。あんなに愛おしく、奇跡のような日々を過ごせたのだから。そこまで深く僕たちの心を繋ぎ合わせるのなら、神様、どうか最後も合わせてほしかった。なぜ、彼女だけを連れ去り、僕だけをこんな中途半端な
世界に取り残したのだろうか。
恋愛ものの物語なら、ラストは決まってすべての困難を乗り越えた末の、大団円のハッピーエンドだ。もしどちらかが病気や不慮の事故でいなくなってしまう悲恋の物語であっても、そこには必ず、お互いの気持ちを確かめ合い、最後の言葉を交わすための「予兆」や「残された時間」というものがあるはずだった。余命宣告されて、残された時間をめいっぱい楽しむはずだ。お互いに覚悟を決め、思い出を整理し、涙を流しながらも「ありがとう」と言い合える時間が、物語
には用意されている。
だが、現実の死は、あまりにも容赦なく、唐突だった。何の予兆も、前触れもない。さっきまで笑ってメッセージを送り合っていたはずの人間が、次の瞬間には冷たい骸となってしまう。何もこんな唐突な別れじゃなくたって、もっと他に良い方法があったじゃないか。そう叫びたくなる夜が、これまで何度あったか分からない。
澄花が帰ってこなくなってからというもの、僕の一日はそのほとんどが暗い家の中で過ぎていくようになった。幸いにも、僕が就職した先は在宅ワークを強く推奨しているIT系の会社だったため、仕事そのものに大きな支障が出ることはなかった。パソコンの画面に向かい、淡々とコードを打ち込み、ミーティングをこなす。外に出る必要がないというのは、当時の僕にとって唯一の救いだった。なぜなら、外の景色を見ることは、澄花のいない世界を無理やり自覚させられる
ことに他ならなかったからだ。
部屋の中で一人、静寂に身を包んでいると、時折、玄関の鍵がカチャリと音を立てて、澄花が「暁、ただいま!」とひょいっと帰ってくるような気がしてならなかった。あの人懐っこい笑顔で、荷物を抱えて、何事もなかったかのように入ってくるんじゃないか。そんな淡い、そして残酷な幻影を、僕はいつだって捨てきれずに待っている。
澄花を待つのは、いつだって僕の方だ。デートの約束の時も、僕はいつも約束の15分前には待ち合わせ場所に到着して、彼女がやってくるのを今か今かと待ちわびていた。だから、今こうして彼女を待ち続けることも、僕にとってはごく自然な日常の延長線上にあった。出会った頃も、付き合ってからも、旅行だって全部そうだ。僕が計画を立てるのを楽しそうに見つめ、あるいは彼女が作ったノートを引っ提げて、いつだって僕たちは一緒にいた。
対して、澄花はいつも僕の言葉を待っている。僕が告白したときも
僕が次のデートの場所を提案したときも、最後の日だって、、、。彼女はいつだって僕の言葉を嬉しそうに、少しだけイタズラっぽく先回りして気付いて待っているのだった。
だから、僕が何も言わずに沈み込んでいる今も、澄花は僕が言葉を発するのを、僕が前を向くのを、彼方の国でずっと気付いて待っているのかもしれない。だから待たせてしまっているんだ、今も。僕のこの意気地のなさのせいで。
一週間のうち、金曜日はどうしてもお酒に頼ってしまう。翌日が休みだからという理由もあるが、何よりも、あの日は金曜日だったから、僕の孤独を際立たせるからだ。お酒を飲んでいる間だけは、胸を締め付ける鋭い痛みが、少しだけ麻痺して鈍くなってくれるような気がし
た。
しかし、お酒は強くない。むしろ弱い。でも、弱いからこそ、その酩酊感に縋り、頼ってしまうのだ。記憶を無くすほどに飲めば、その間だけは現実から逃避できる。
そして、今日。あの悪夢のようなあの日から、丸三年が経った。
「3」という数字が、僕の頭の中でずっと明滅していた。「3」のつくところで切り替えたら、きっとこれからの人生も上手くいく、成功するでしょって、澄花が言っていた。
だから、今日という日をどうにかして乗り越えなければならないと、僕の理性は必死に叫んでいた。
だが、心がそれに追いつかない。今日という日を迎える恐怖に耐えかねて、僕はいつもの金曜日の倍以上、信じられないほどの量のお酒を体に流し込んだ。そうでもしなければ、澄花のいない部屋で、たった一人で過ごす命日の夜なんて、到底耐えられそうになかったからだ。
これまでの命日は澄花の家族と一緒に過ごしていたから、みんなで彼女の思い出を語り合い、互いの痛みを分かち合うことで、なんとか正気を保っていられた。けれど、今年はあえて一人になる時間を選んだ。それが間違いだったのかもしれない。
案の定、翌朝目が覚めると、見事に記憶が飛んでいた。それどころか、お酒の激しい離脱症状のせいか、頭が朦朧として、一瞬、澄花が存在していたということすらも記憶の彼方に吹き飛んでいた。
自分の名前すら曖昧になるような、奇妙な空白。
しかし、視線を少し動かした瞬間、視界に飛び込んできた光景によって、心臓が冷や水を浴びせられたように凍りついた。
片付けられない澄花との、無数の思い出の品々だけが、部屋のいたるところに毅然として目に留まる。彼女が愛用していたマグカップ、一緒に買ったクッション、棚に並んだままの思い出の写真。それらが一気に押し寄せてきて、忘れていた記憶が濁流となって脳内を埋め尽くした。
「覚えていなきゃいけないことなのに、思い出したくない」
僕の頭は、激しい自己矛盾を起こして悲鳴を上げていた。彼女を忘れることなんて絶対に許されない。けれど、思い出すたびに胸を引き裂かれるようなこの痛みに、もうこれ以上耐えたくない。忘れたいと願う自分への嫌悪感と、失ったものの大きさに、頭痛とは違う激しい痛みが脳を支配した。
山田や伊織をはじめとする友達は、みんな僕のことを本当に心配してくれていた。あの日以来、完全に引きこもりがちになり、連絡も途絶えがちになった僕を、誰一人として見捨てることはしなかった。
特に二人は澄花のこともよく知っていたため、彼女の葬儀にも揃って参列してくれた。あの時、泣き崩れる僕の肩を支えてくれたのも、彼らだった。
それからも、「たまには美味いものでも食べに行こうぜ」とか「ドライブに付き合えよ」とか、ことあるごとに誘いの連絡をくれた。けれど、僕は上手く笑える自信がなくて、せっかくの温かい誘いも、そのほとんどを断り続けていた。楽しそうに笑う資格なんて、今の僕にはないと思い込んでいたのだ。
それでも、彼らは見捨てることなく、こうして時折、僕の家に顔を見せに来てくれる。その優しさがありがたく、同時に申し訳なくて、また心を閉ざしてしまうという悪循環の中にいた。
いま、僕は澄花の部屋にいる。
彼女の部屋は、あの日と何も変わっていない。彼女が使っていた当時のまま、時を止めたように保存されている。カーテンの色も、机の上の配置も、ベッドに置かれたままの小さなぬいぐるみも。まるで、さっきまで彼女がそこにいて、「ちょっとコンビニに行ってくるね」と出て行ったきりのような、奇妙な生活感が残っている。
僕は、机の上の一番下に眠っていた、一冊のノートを手に取った。
それは、未だ一度も開いたことのない、澄花の「旅ノート」だった。
実は、彼女が残した「日記」の類は、これまでに何度か読んだことがあった。日記は、どれほど切なくとも、すでに過ぎ去った「過去」の話だ。そこに書かれているのは、僕と過ごした楽しかった日々の記録であり、澄花の生きた証そのものだった。
日記を読むとき、僕は澄花の残した温かい影を追うような感覚になれた。過去の事実として、彼女が僕を愛してくれたという記憶に浸ることができたから、なんとか読むことができたのだ。
しかし、この「旅ノート」だけは、どうしても見ることができなかった。
なぜなら、このノートに書かれているのは、過去ではなく「未来」の話だからだ。彼女がこれから行きたかった場所、僕と一緒に見たかぅた景色、これから紡がれるはずだった、瑞々しい未来の計画。それを開いてしまうということは、これから先、そのどれ一つとして澄花と一緒に叶えることができないという残酷な現実を、これ以上ないほど生々しく突きつけられることに他ならなかった。このノートを開く強さは、これまでの僕には微塵もなかった。
でも、もう三年だ。
いつまでも過去の影だけを追いかけて、部屋の隅で膝を抱えているわけにはいかない。「3」という節目の今日、このノートを開くことができれば、何かが変わるかもしれない。ここで切り替えたら、僕はもう一度、人間としての人生を歩み直すことができるのではないか。澄花も、きっとそれを望んでいるはずだ。自分にそう言い聞かせ、言い訳をするようにして、僕は震える指先をノートの表紙にかけた。
窓から、サラリと柔らかな春風が吹き込んできた。 その風は、まるで三年前のあの日に僕たちの間を吹き抜けた春風と同じように温かく、どこか懐かしい香りがした。カーテンがふわりと揺
れ、僕の背中を優しく押してくれるような気がした。
「がんばれ、がんばるんだ、暁くん」
かつて彼女が僕の隣で、イタズラっぽく微笑みながら言ったあの声が、風に乗って耳元で再生
されたような錯覚を覚える。
勇気を出して、ページを捲る。
パラリ、と紙の擦れる音が静かな部屋に響いた。
そこには、以前僕が彼女の作業中にチラリと見せてもらったときにはなかった、鮮やかな色の付箋が、これでもかというほど大量に貼られていた。
それは、温かみのあるオレンジ色の付箋だった。
どのページをめくっても、そのオレンジ色の付箋が、まるで僕を導く道標のように、規則正しく、しかし熱量を持って貼られている。僕は息を呑み、そこに書かれた文字を凝視した。
『これは絶対に暁喜ぶ!』 『暁の好きな食べ物、ここにあり!』 『暁とここ行きたいな。絶対に楽しい!』
ページをめくる手が、ガタガタと大きく震え出した。 そこに書かれていたのは、彼女自身の行きたい場所だけではなかった。すべてのページ、すべての計画が、「僕(暁)」を喜ばせるため、僕と一緒に楽しむために考え抜かれたものだったのだ。
そんな僕のことが、小さな文字で、びっしりと、たくさん書かれていた。
「澄花......」
声にならない呟きが漏れる。どのページにも、漏れなくオレンジ色の付箋が貼ってある。 そう、47都道府県全部に。
彼女は、日本全国のすべての場所に、僕と一緒に行く未来を想像していたのだ。僕が何を食べてどんな顔をするか、どこを見て驚くか、そんな僕の反応を一つ一つ思い浮かべながら、るんるんと髪を揺らして、このノートを書いていたのだ。
その中に、いくつか、すでに二人で行ったことのある都道府県のページがあることに気付いた。 胸の鼓動が激しくなるのを抑えながら、その行ったことのあるページを開いてみる。そこには、黒いペンで書かれた『絶対に暁喜ぶ!』という澄花の文字の下に、見慣れない青いペンでの追記があった。
『喜んでくれた!満点!◎』
文字の筆跡は、間違いなく澄花のものだった。旅行から帰ってきたあと、僕の見ていないところで、彼女が嬉しそうにこのページを開き、青いペンで嬉々として書き込んだのだろう。僕が喜んだ姿を見て、彼女自身がそれ以上の喜びを感じてくれていたということが、その「満点!」という短い言葉と、大きな丸印から痛いほど伝わってきた。
視界が、急激に歪んだ。 ページの端が、ポツポツと濡れて、じんわりと滲んでいく。
やばい、と思ったときには、もう遅かった。目蓋の裏から溢れ出た涙は、堰を切ったように止まらなくなり、大粒の雫となってノートの上にボタボタと落ちた。
まるで、そこに本当に澄花がいるような気がした。 あの屈託のない笑顔で、「ね? 暁、楽しかったでしょ?」と話しかけてくる彼女の気配が、確かにその部屋に満ちていた。
こんなにも、自分のことを想ってくれていたのか。 自分がいない未来を恐れてノートを開けなかった僕の浅はかさに、胸が潰れそうだった。彼女が遺したのは、絶望ではなく、溢れんばかりの「生きた愛」だった。
何に泣いているのか、悲しいのか、嬉しいのか、それすらも分からなくなるくらい、ただただ涙が溢れて止まらなかった。澄花のいない澄花の部屋で、僕は子供のように声を上げて泣いた。
けれど、もう、どれだけ泣いても「暁また泣いてるー、仕方ないなぁ」と言って、優しいハンカチを差し出してくる人はもういない。その冷厳な事実が、鋭いトゲとなって、いまさらながら僕の胸に深く突き刺さる。痛くて、苦しくて、息ができない。
それでも、泣きながらノートをめくり続けるうちに、僕の心の中に、ある一つの確信が芽生え
ていった。
澄花が一番望んでいることは何だろうか。 僕がこうして、彼女の遺品に囲まれて、一生泣き暮らすことだろうか。そんなわけがない。彼女は、この47都道府県のノートを通じて、僕を喜ばせたい、僕に人生を思いっきり楽しんでほしいと、そう願っていたのだ。彼女が一番想っているのは、僕の笑顔なのだ。
だったら、僕は行かなければいけない。 澄花が僕のために遺してくれたこの未来の地図を携えて、彼女の代わりに、いや、彼女と一緒に、この場所を全部巡らなければいけない。そこで美味しいものを食べ、素晴らしい景色を見て、心から楽しまなきゃいけない。それが、残された僕にできる、唯一の、そして最大の澄花への恩返しであり、彼女の愛に応える方法なのだ。
「......一緒に行こう、澄花」
僕は袖で乱暴に涙を拭うと、床に深く頭を下げて、心の中で澄花に誓った。そう気合いを入れて、僕は濡れたノートを大切に閉じた。 そして、アルバムの中からあの旅行の計画を立てていたときのものだろうか、とびきり笑顔の澄花の写真を抜き取った。さらに、クローゼットの奥から、あの日、彼女に手渡すはずだった、永遠に指のサイズを合わせることの叶わなかった、小さな輝きを放つ指輪を取り出す。
旅行ノートと、とびきり笑顔の写真、そしてあの日の指輪。
それらすべてを、一つの悔いもないように、しっかりと自分の鞄の奥底へと詰め込んだ。
ジッと鞄のジッパーを閉める音は、僕の新しい旅立ちの号砲のようだった。 僕はもう一度だけ、澄花の部屋を見渡した。相変わらずあの日と何も変わらない部屋だったけれど、僕の心の中は、入ってきたときとは全く違う、温かい炎が灯っていた。窓から吹き込む最後の春風に背中を預け、僕はしっかりと前を向いて、その部屋を後にした。
