春風、君を待つ

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澄花の三回忌の法要が無事に執り行われてから、早くも半年という月日が流れていた。
季節は巡り、世間の景色は色を変えていくというのに、暁の部屋の空気だけは、あの冬の日の朝から凍りついたように止まったままだ。未だに、澄花がいなくなったという現実を受け入れられていない。受け入れられるわけがないのだ。朝、目を覚ますたびに「すべては質の悪い悪夢だったのではないか」と淡い期待を抱き、隣の空白に触れては、冷たい現実に引き戻される。そんな終わりのない絶望のループの中で、暁はただ息をしていた。
そんなある日のこと、静まり返った部屋に一通の電話がかかってきた。


画面に表示された名前は「佐々木実紅」
澄花の幼馴染で親友であり、暁も澄花を通じて何度か顔を合わせたことがあるがまだよく知らない。
ただ、受話器の向こうから聞こえる彼女の声は、どこか緊張で強張っており、それでいて強い決意を秘めているように感じられた。


実紅は、澄花との間に交わした「ある約束」を果たすため、どうしても暁の家に行きたいのだという。唐突な申し出ではあったが、澄花に関わることであれば、暁に拒む理由などなかった。


「お邪魔します……。急に無理を言って、本当にすみません」
数日後、約束の日に現れた実紅は、玄関のドアを開けるなり、申し訳なさそうに肩をすくめて深々と頭を下げた。その表情には、どこか張り詰めた影が落ちている。


「いえいえ、お気になさらないでください。どうぞ、中へ入ってください。……アイスコーヒーで大丈夫ですか?」
暁は努めて明るい声を意識しながら、彼女をリビングへと迎え入れた。


「はい。すみません、お気を使わせてしまい……」
実紅は恐縮しながらソファの端に腰を下ろし、差し出されたグラスを両手で包むように持った。結露した水滴が、彼女の指先を濡らしていく。


「良いんですよ、僕も澄花の話、聞きたかったですし……。それに、情けない話、僕はまだ、ずっと待ってるんですよ」




暁は自嘲気味に微笑み、自分の手元を見つめた。グラスの中で、氷がカランと寂しげな音を立てる。
「……何かしていないと落ち着かなくて、仕事はできるんですが。どうにも、まだ受け入れられなくて……。待ってたら、いつかひょこっと返ってくるんじゃないかなって、そんな馬鹿なことを、今でも本気で考えてしまうんです」


内に溜め込んでいた泥のような本音が、堰を切ったように言葉になって溢れ出していく。三回忌が過ぎ、半年が経ってもなお、自分の魂は澄花を追いかけたまま帰ってこない。
「周りのみんなは、まだ切り替えられなくてもいいって言ってくれますけど、僕自身が、この立ち止まったままの自分が嫌で……。すみません、せっかく来ていただいたのに、こんな湿っぽい話をしてしまって」


暁が慌てて頭を下げると、実紅は首を静かに横に振った。
「全然……。私も一緒ですよ……」


そう言って、実紅は視線を窓の外の、果てしなく広がる青い空へと向けた。その瞳には、暁が抱えているものと同じ、底知れない喪失の痛みがみえた。親友を失った彼女もまた、時計の針を止められたままの旅人なのだ。
実紅はアイスコーヒーを一口含み、喉を潤すと、意を決したように背筋を伸ばした。
「それで、先日のお電話でもお伝えしたんですが、今日来たのは、澄花との約束を守るためなんです」


「はい、承知してます。ちなみに、約束って、具体的にどんなのか、聞いても良いですか」
暁が尋ねると、実紅の唇の端が、懐かしむようにわずかに歪んだ。


「んー……澄花って、冗談が主食みたいな人間だったじゃないですか。それで、昔からよく言われてたんです。『私が死んだら、実紅、あとは頼むね』って」


「冗談が主食」──その表現があまりにも澄花らしくて、暁の胸にちくりとした痛みが走る。いつもふざけて、周囲を笑わせることばかり考えていた彼女の顔が、鮮明に脳裏に蘇る。


「私たち、付き合いが本当に長いので、お互いの『誰にも見られたくないもの』とかを全部共有してて。もしどっちかが先に死んだら、残されたほうが責任を持って消そうね、って冗談混じりで話してたんです。でも……まさか、本当にその日が来るなんて思わなくて。しかも、こんなに早く……」


実紅の声が、微かに震え始める。彼女は涙を堪えるように、ぎゅっと膝の上のスカートを握りしめた。
「ほんとは、もっと早く来たかったんです。でも、自分の心の整理が全然できなくて……。それに、もしかしたら暁さんに拒否されるのかなって、ずっと不安だったんです。そりゃそうですよね、澄花の生きた証を消す、なんて言ってるんですもんね。だから……暁さん、許してくれて、本当にありがとうございます」
実紅はソファから立ち上がり、暁に向かって、壊れてしまいそうなほど深々と頭を下げた。
彼女にとっても、遺品を処分する行為が、暁を傷つけるのではないかと、長い間一人で葛藤し続けていたのだろう。


「頭上げてください。それが澄花の願いなのであれば、僕は喜んで差し出します。それに、それがきっかけで佐々木さんが少しでも前を向けるなら……、僕が断る理由なんてありませんよ」


暁の言葉に、実紅はゆっくりと顔を上げた。その赤くなった目元に、ようやく少しだけ、救われたような穏やかな微笑みが浮かんだ。
「ありがとうございます」


「2人きりのほうが良いですよね。部屋はその角部屋です。あの日から、部屋の様子は殆ど変わっていません。好きに探しちゃってください。あの、部屋は……」
暁が部屋をあまり変えずにそのままにして置いてほしいという旨を伝えようとすると、実紅は遮るように、小さく笑って首を振った。


「大丈夫です。場所の検討はついています。なるべく動かさないようにしますね」
「ありがとうございます」
「では」
実紅はそう言い残し、静かな足取りで角部屋へと向かい、部屋の扉をパタンと閉めた。
一人リビングに残された暁は、ただ静かに佇んでいた。
しばらくすると、閉め切った扉の向こうから、微かに実紅の声が聞こえてきた。それは、クスクスという笑い声のようでもあり、同時に、激しくしゃくり上げる泣き声のようでもあった。泣いているのか、笑っているのか、もう後半になると暁にはよく判別がつかなかった。
親友の遺品を前にして、実紅はきっと、澄花と二人だけで秘密の対話をしているのだろう。あの部屋には、澄花の生きた体温がまだ残っている。


時計の針がゆっくりと進み、30分ほどの時間が経過した頃、ようやく部屋の扉が静かに開いた。
出てきた実紅の顔を見て、暁は息を呑んだ。彼女の顔はひどく涙に濡れており、目元は真っ赤に腫れ上がっていた。けれどその表情には、どこか晴れ晴れとした、吹っ切れたような光が宿っていた。


「……見てください」
実紅は泣きながら、けれど愛おしそうに破顔して、自分の手のひらを暁の前に差し出した。そこにあったのは、小さなブレスレットだった。


「澄花、準備が良いと思ってたけど……ここまでだとは思わなかったです。箱の一番上に、あいつ『実紅ありがとう!』って書いた付箋と一緒に、これを入れておいたんですよ。さすがにやり過ぎ。これはもう、敵わないや……」
実紅はそう言うと、「あはは」と声を上げて笑い出した。


大粒の涙を頬に伝わせながら、心の底からおかしそうに笑っている。
自分が死んだ後、親友が泣きながら秘密の箱を開けることを、澄花は最初からすべてお見通しだったのだ。そして、残される親友が悲しまないように、いつもの調子で「ありがとう」の言葉と、ブレスレットを仕込んでおいた。


「澄花らしいな、澄花らしすぎるな……」
澄花の徹底した悪戯心と、不器用な優しさが可笑しくて、愛おしくて、暁も堪えきれずにつられて笑ってしまった。二人の笑い声がリビングに響き渡り、部屋の空気が、ほんの少しだけ温かさを取り戻していく。


「あと、これ……暁さんに」
実紅はカバンの中から、二冊の古いノートを取り出し、机の上にそっと置いた。


「他のは結構こじらせてたので、私が責任を取って処分しますが。この2冊だけは、暁さんが持っておくべきだと思います。私もさっき、数ページ見ただけで、ちゃんと読んではいません。澄花は勝手に見られて怒るだろうけど……そしたら、私が責任を取ります! だから、持っていてください。無理に、すぐに読まなくてもいいですから」
実紅がくれたのは、暁も何度か見覚えのある、二人で出かけた時の旅行ノート。そしてもう一冊は……表紙の擦り切れた、澄花の日記帳だった。


実紅は、これから消されるべき運命にあるノート数冊を大きなカバンにしっかりと仕舞い込んだ。そして、澄花から贈られた大切なブレスレットを宝物のように大事に握りしめ、玄関へと向かった。


「今日は、本当にありがとうございました。これでようやく、澄花に顔向けできます。それじゃあ、また。」
そういってドアを向いた実紅だったが、去り際にもう一度振り返り


「あっきー、今度は飲みながら、澄花の話、いっぱいしましょう! ……あれ、お酒弱かったんだっけ?」


「あはは」と元気な笑い声を響かせて、実紅は嵐のように帰っていった。


彼女が去った後の玄関には、また元の静寂が戻ってきた。けれど、机の上には、彼女が置いていった二冊のノートが、確かな質量を持って鎮座している。


全く……あっきーなんて呼ばれたことないしお酒弱いなんて言ってないし、全部、澄花の仕業だな


暁はぽつりと呟き、ソファに深く腰掛けた。あいつは自分が死んでからもなお、こうして実紅を動かし、僕の元に言葉を届けにくる。どこまで計画通りなのだろう。


明日は、日曜日だ。仕事もない。実紅が残していったあの嵐のような勢いに、今はただ、身を任せてみようと思った。


暁は机の上のノートに手を伸ばした。澄花の生きた証、その内側が、そこにある。すぐには読まなくてもいいと言われたけれど、読まなければいけない気がしていた。澄花が遺した日記を、明日、ゆっくりと読むことにした。暁の時間はまだ止まったままだが、そのノートのページを開くことで、何かが変わるのだろうか。窓の外では、夜の帳が静かに降りようとしていた。