*
三回忌の法要が終わり、親族たちがそれぞれの生活へと戻っていく中、澄花の実家には、耳が痛くなるほどの静寂が戻ってきていた。
六畳間の和室に敷かれた座布団を重ね、湯呑みを盆にまとめながら、暁は小さく息を吐き出す。畳のい草の香りと、微かに残る線香の匂いが、鼻腔の奥にツンと残っていた。窓の外を見やれば、陽の光はすでに西へと傾き始め、庭の植え込みに長い影を落としている。
澄花の実家は、東京の自宅から電車を乗り継いで2時間ほど揺られた先にある。のどかな田舎町だ。公共交通機関が無いわけではない。けれど、最寄り駅からこの家までは、さらに車で2十分ほど走らなければならない距離にある。
「暁くん、そんなの、もう手なんか動かさなくていいから。こっちに座って休んでちょうだい」
台所から戻ってきた澄花の母親が、僕の背中に優しく声をかけた。その手には、新しく淹れ直した緑茶が載った盆がある。
「いえ、これくらいはやらせてください。お母さんもお父さんも、今日はずっと立ちっぱなしで大変だったでしょう」
暁は努めて穏やかな声を意識しながら、最後の座布団を押し入れの隅へと収めた。
振り返ると、母親の顔には隠しきれない疲労と、それ以上の深い哀切が刻まれている。澄花が旅立ってから、早くも二年の月日が流れた。世間一般で言う「三回忌」という節目。しかし、僕にとっての時間は、あの日の朝から一歩も進んでいない。時計の針は無理やり動かされている。けれど、自分という存在の核は、未だに冷たい冬の底に置き去りにされたままだ。
「本当に、暁くんには頭が上がらないわねえ……。葬儀の時も、一回忌の時も、こうして今日も。自分のことだけでも精一杯のはずなのに、いつも私たちのことまで気にかけて動いてくれて」
母親は座卓に湯呑みを置きながら、細い肩を落として微笑んだ。その笑みは、どこか申し訳なさそうに揺れている。
「そんなこと、当然です。僕と澄花は、同棲を始める前にお二人に挨拶に伺いました。あの時から、僕はここの家族の一員にさせてもらったつもりでいますから」
自分の言葉が相手の負担にならないよう、慎重に言葉を選んで返した。
実際、暁と澄花の両親は、これまでに何度も顔を合わせ、言葉を交わしてきた。初めてこの家に「彼氏」として挨拶に来た時の、あの張り詰めたような、けれど温かい空気。
あの時、ご両親はひどく緊張しつつも、破格の温かさで暁を迎えてくれた。後から澄花に聞いたことだが、澄花が家にボーイフレンドを連れてきたのは、長い人生の中で暁が初めてだったらしい。それどころか、親友の佐々木実紅以外の友達をこの家に招くことすら滅多になかった澄花が、「大切な人」として連れてきたのが暁だった。だからこそ、両親は「この人を絶対に大事にしなきゃいけない」と心に誓ってくれたのだという。
籍を入れる前に、澄花は逝ってしまった。義理の息子ですらない。言ってしまえば、戸籍上はただの「赤の他人」だ。それなのに、二人の関係が恋人のままで終わってしまった今でも、両親は僕のことを、まるで本当の息子であるかのように温かく扱い、頼りにしてくれる。その優しさが、僕にとっては痛いほどありがたかった。
だからこそ、葬儀の際も、その後の法要でも、暁は「ただの客」として座っていることなどできなかった。何かをしていないと、自分が崩れてしまいそうだったという側面もある。けれどそれ以上に、澄花が愛した両親を支えることこそが、今の自分にできる唯一の「澄花への愛の証明」だと思いつつ、必死に動いていただけなのだ。
居間の襖が静かに開き、澄花の父親が入ってきた。喪服の上着を脱ぎ、白いワイシャツ姿になった父親は、少し日焼けした顔に深い皺を刻みながら、僕の正面へと腰を下ろした。
「暁くん、本当にありがとうな。いつもいつも、君に甘えてばかりで」
父親の声は低く、誠実さに満ちていた。
「お父さん、お疲れ様でした。駅までの送り迎えも、毎回すみません」
頭を下げると、父親は決まり悪そうに頭を掻いた。
そう、今日もそうだった。この家に赴く際、毎回澄花の父親は、最寄りの駅まで自家用車で迎えに来てくれる。電車を降り、改札を出ると、必ずそこには見慣れた車と、運転席でそわそわと待っている父親の姿があった。
「いや、何、大した距離じゃないさ。駅からここまで、バスも本数が少ないしな。君をあんなところで待たせるわけにはいかないだろう」
父親はそう言って笑うが、暁には分かっていた。そうでもしなければ、父親自身が落ち着かなかったのだろう、ということを。
最寄り駅で僕の姿を確認し、車に乗せ、自分の手でこの家まで連れてくる。その一連の動作を行うことで、父親は「娘が愛した人」である僕との繋がりを確かめ、同時に、澄花を失ったという厳然たる現実から、ほんの少しだけ気を紛らわせようとしていたのではないか。車内での、他愛のない世間話。天ける切り出し、最近の仕事の様子、電車の混み具合。そんな、あえて核心に触れない会話を交わす二十分間こそが、父親にとっての、そして暁にとっての、静かな心の準備期間になっていたのだ。
差し出された湯呑みを両手で包み込んだ。温かい熱が、冷え切った指先からじんわりと伝わってくる。
実は、今日、心の中で密かな覚悟を決めていた。
今日で、三回忌。3という数字がつく、一つの区切りだ。だから……少しだけでも、今日という日を境に、気持ちを切り替えられたら。前を向くきっかけにできたら……
そんな風に、自分自身に言い聞かせるようにして、この実家の門を潜ったのだ。
いつまでも立ち止まったままでは、天国の澄花も悲しむかもしれない。周りの友人たちはまだ切り替えられなくていいと言ってくれたけれど、自分自身がこの停滞に耐えられなくなりつつあった。仕事はこなせる。日常生活のルーティンも型通りにできる。
けれど、内面は空っぽのままだ。何かが決定的に変わるわけではないとしても、この「三回忌」という法要を終えることで、ほんの1ミリでもいいから、明日へ進むためのスイッチを切り替えたい。そう願っていた。
しかし。
いざ法要が終わり、親族たちの啜り泣きを聞き、澄花の遺影と正対してしまうと、そんな決意は脆くも崩れ去った。
切り替える? どうやって? あんなに笑っていた澄花が、もうどこにもいないのに。どうして僕だけが、3という数字の並びに背中を押されて、勝手に進もうとしているんだ?
胸の奥が、締め付けられるように痛む。お茶の表面に浮かぶ自分の顔は、情けないほどに迷いと苦悩に満ちていた。やはり、まだ無理なのだ。時間は流れても、自分の時計は壊れたままだ。
「暁くん」
父親が、湯呑みをテーブルに置き、真っ直ぐに僕のことを見つめた。その瞳には、深い温かみと、それと同じくらいの切なさが宿っている。
「……はい」
「君がこうして、澄花の三回忌が終わっても、変わらずに僕たちを助けてくれること、本当に、言葉にできないくらい感謝しているんだよ。母さんも、いつも君が来てくれるのを、寂しさと嬉しさが混ざったような気持ちで待っているんだ」
父親は一度言葉を切り、視線の落とした。畳の目をなぞるようにして、ゆっくりと言葉を紡ぎ出す。
「でもな……同時に、心配にもなるんだ。私たちは、君をこの場所に、澄花という過去に、縛り付けてしまっているんじゃないかって」
「え……?」
僕は思わず顔を上げた。予想もしなかった言葉に、胸がどくっと跳ねる。
「お父さん、そんな、縛り付けられているだなんて、思ったことは一度も──」
「分かっているよ」
父親は、言葉を遮るように、優しく手を振った。
「君が自発的に、心から澄花を想って、私たちのために動いてくれているのは分かっている。澄花があれほど一途に、君から想ってもらえていたことは、親としてこれ以上ない喜びだ。あの子は、本当に幸せ者だよ。それは間違いない」
隣で聞いていた母親も、静かに目元をハンカチで押さえながら、何度も深く頷いている。
「だけどね、暁くん。君の人生は、この先まだまだ長いんだ。君と澄花は、籍を入れることも叶わなかった。言ってしまえば戸籍上は赤の他人で、君はこれからの未来がある若者なんだよ。それなのに、いつまでもこの田舎の、もう娘のいない家に君を呼び寄せて、手伝いをさせて……そんなことを繰り返していると、君が新しい一歩を踏出す邪魔を、私たちがしてしまっているんじゃないかと、そう思えてならないんだ。まるで本当の息子みたいに甘えてしまっている自分が、申し訳なくなるんだよ」
父親の言葉は、胸に鋭く突き刺さった。それは拒絶ではない。あまりにも深い、暁への思いやりと、親心ゆえの「心配」だった。彼らは、暁の誠実さを知っているからこそ、その誠実さが僕自身を苦しめる鎖になっているのではないかと、恐れているのだ。
「そんなことはありません」
声を絞り出した。喉の奥が熱い。
「僕は、澄花のことを忘れたいなんて思ったことはありませんし、ここに、この家に、この場所に来ることは、僕にとっても……澄花との繋がりを感じられる、大切な時間なんです。縛られているなんて、そんな風に思わないでください」
「ありがとう、暁くん」
父親は弱々しく微笑んだ。
「そう言ってもらえると救われるよ。でもね、君がそうやって無理をして、前を向こう、切り替えようと必死に戦っているのも、なんとなく伝わってくるんだ。今日だって、君は少し、いつもより強張った顔をしていたからね」
見透かされていた。僕は言葉を失い、ただ指先を握りしめることしかできなかった
静まり返った居間に、柱時計の規則正しい刻みの音が響く。カチ、カチ、という音だけが、三人分の呼吸の間に挟み込まれていく。
父親は、背後の仏壇に目を向けた。そこには、生前と変わらない、満面の笑みを浮かべた澄花の遺影がある。悪戯っぽく、けれどどこか周囲を包み込むような、優しい笑顔。
「暁くん。君が知っている澄花は、いつもどんな子だった?」
父親が、不意にそんな問いを投げかけてきた。
暁は、記憶の引き出しをそっと開ける。そこにいるのは、いつだって太陽のように明るい彼女だ。
「……いつも、ニコニコしていました」
暁の声が、少しだけ和らぐ。
「どんなに辛いことがあっても、仕事で失敗しても、僕の前にいる時の澄花は、冗談ばかり言って、いつも楽しそうに笑っていました。彼女の笑顔に、僕は何度も救われました。僕が落ち込んでいる時も、澄花が笑ってくれるだけで、大丈夫だって思えたんです。本当に、太陽みたいな人でした」
その言葉を聞きながら、父親は愛おしそうに遺影を見つめ、それから小さく息を吐いた。
「そうか。やっぱり、君の前でもそうだったんだな。あの子はね、ずっと、そういう子だったんだよ。でもな……あの子がどうして、いつもそんな風にニコニコしていたのか、その理由を君に話したことはあったかい?」
「理由、ですか……?」
暁は首を傾げた。性格が明るいから、いつもポジティブだから。それが澄花の天性なのだと、暁は疑いもなく思っていた。
「実はね」
父親は、懐かしむように目を細めた。
「澄花がまだ、小学校四年生くらいの話だ。あの頃の澄花はね、今とは全然違って、すごく人見知りで、気が弱くて、すぐに泣いてしまうような子だったんだよ。学校でちょっと嫌なことがあると、家に帰ってきては、私の後ろや、母さんのスカートの陰に隠れて、ずっとメソメソ泣いているような、そんな静かな子だったんだ」
暁は驚いた。自分の知っている澄花、あのエネルギーに満ち溢れた彼女からは、到底想像もつかない姿だったからだ。
「ある日ね、学校で友達と上手く喋れなかったとか、そんな些細なことで、澄花がまた大泣きして帰ってきたことがあってね。私はその時、少し仕事で疲れていたこともあって、つい強い声で言ってしまったんだ。『いつまでもメソメソ泣いてばかりいたら、周りの人も困ってしまうぞ。楽しい時だけじゃなくて、困った時こそ、笑っていなさい。笑顔でいれば、きっと良いことが向こうからやってくるし、周りの人もみんな幸せな気持ちになれるんだから』ってね」
父親は、自分の大きな手をじっと見つめた。その手は、少し震えているようにも見えた。
「親としては、ただの励ましのつもりだったんだ。泣いてばかりいる娘に、少しでも強くなってほしい、前を向いてほしいという、軽い気持ちからのアドバイスのつもりだった。……でもね、あの子はそれを、本当に生真面目に、文字通りに受け止めてしまったんだよ。私が無理をさせてしまったんだ……」
父親は顔を伏せ、自責の念に声を詰まらせた。自分が娘に重い鎧を背負わせてしまったのではないかと、ずっと心に引っかかっていたのだろう。
すると、隣でそっと涙を拭っていた母親が、父親の肩に優しく手を置き、諭すように、けれどとても温かい声で言った。
「お父さん、そんなことないわよ。あの時の言葉があったから、澄花はこんなに良い人たちに恵まれたんじゃない。暁くんみたいな素敵な人にも出会えた。……良かったね、澄花」
母親は、仏壇の中の澄花の遺影を見つめ、涙の滲んだ目で優しく語りかけた。その言葉には、父親への救いと、娘が築いた絆への心からの誇りが満ちていた。
父親は、妻の言葉に救われたように小さく息を吐き、再び僕のことを見た。
「大きくなってからも、その癖は抜けなかったんだね。あの子が冗談を言って、いつもふざけていたのは、周囲の空気を明るくしたいという気持ち半分と、自分の繊細な部分、傷つきやすい部分を隠すための鎧でもあったんだよ。だから、暁くん。君の前でいつもニコニコしていた澄花は、もちろん君と一緒にいて心から幸せだったから笑っていたのも事実だけど……同時に、君に心配をかけたくない、君をいつも笑顔にしていたいという、あの子なりの必死の『優しさの表れ』でもあったんだ」
父親と母親の話を聞き終えた時、視界は、いつの間にか涙で激しく滲んでいた。
澄花……君は、そんな風にして、僕の前で笑ってくれていたのか……
胸が押し潰されそうだった。「太陽のようだった」と信じて疑わなかった彼女の笑顔の背景には、そんな幼少期からの健気な決意と、周囲への果てしない気遣いがあったのだ。自分は、彼女のその笑顔に甘え、救われ、その裏にあるかもしれない小さな震えに、どれだけ気づけていただろうか。
「だからね、暁くん」
父親の声が、耳に優しく届く。
「君が今、澄花を失って、これほどまでに苦しんで、立ち直れずにいるのを見て、あの子が天国でどう思っているか。きっとね……『私のせいで、暁くんをこんなに悲しませちゃって、どうしよう』って、あの顔で、オロオロしながら心配していると思うんだよ。君を笑顔にしたくてずっと頑張ってきた子だからね。君がずっと泣いていると、あの子自身が、自分の笑顔が足りなかったんじゃないかって、悔やんでしまうかもしれない」
「無理に、今すぐ切り替えろなんて言わない。そんなの、できるわけがないんだ。私たちだって、未だに夜中にあの子の名前を呼んでしまうことがあるくらいだからね。だけどね、暁くん。いつか、本当にいつかでいい。君がまた、自分の人生を歩んで、心から笑える日が来ること。それこそが、澄花が一番望んでいることなんだよ。あの子のあの笑顔は、君を縛るためのものじゃない。君を幸せにするためのものだったんだから」
父親はそう言うと、僕の肩にそっと手を置いた。その手の温もりが、喪服越しに伝わってくる。
「……はい」
頷くことしかできなかった。涙がポロポロと落ちて、畳に小さなシミを作っていく。
今日、この三回忌を境に、少しだけでも気持ちを切り替えられたら。そう思っていた自分の浅はかさが、気恥ずかしくもあり、同時に、救われたようでもあった。
こんな話を聞かされた後に、すぐに「はい、分かりました」と切り替えられるわけがない。
澄花の笑顔の本当の意味を知ってしまった今、彼女への愛おしさと、失った喪失感は、むしろ何倍にも膨れ上がってしまっている。
僕の時計は、まだ止まったままだ。カチカチと音を立てる周囲の時間の流れに反して、彼の内なる針は、完全に固定されている。今日という日を経ても、明日になっても、きっとこの寂しさが劇的に癒えることはないだろう。
けれど、その「止まったままでいる自分」を、澄花の両親は否定しなかった。戸籍の繋がりなんて関係なく、ただ娘が愛した一人の男として、僕の痛みに寄り添い、澄花の過去を分け合ってくれた。
「ゆっくりでいいんだよ、暁くん。本当に、ゆっくりでな」
母親が、ハンカチを暁に差し出しながら、温かい声で言ってくれた。
「……ありがとうございます。本当に、ありがとうございます」
何度も頭を下げた。
外の光はすっかり落ち、部屋の中には、夕闇が静かに広がり始めていた。澄花の遺影の笑顔が、薄暗がりの中で、心なしかいつもより少しだけ、柔らかく、包み込むように見えた。
時計の針は止まったままでいい。未だに受け入れられなくてもいい。ただ、澄花が残してくれた笑顔の温もりと、両親のこの優しい言葉を、胸の奥の、一番大切な場所に仕舞い込んだ。
三回忌の法要が終わり、親族たちがそれぞれの生活へと戻っていく中、澄花の実家には、耳が痛くなるほどの静寂が戻ってきていた。
六畳間の和室に敷かれた座布団を重ね、湯呑みを盆にまとめながら、暁は小さく息を吐き出す。畳のい草の香りと、微かに残る線香の匂いが、鼻腔の奥にツンと残っていた。窓の外を見やれば、陽の光はすでに西へと傾き始め、庭の植え込みに長い影を落としている。
澄花の実家は、東京の自宅から電車を乗り継いで2時間ほど揺られた先にある。のどかな田舎町だ。公共交通機関が無いわけではない。けれど、最寄り駅からこの家までは、さらに車で2十分ほど走らなければならない距離にある。
「暁くん、そんなの、もう手なんか動かさなくていいから。こっちに座って休んでちょうだい」
台所から戻ってきた澄花の母親が、僕の背中に優しく声をかけた。その手には、新しく淹れ直した緑茶が載った盆がある。
「いえ、これくらいはやらせてください。お母さんもお父さんも、今日はずっと立ちっぱなしで大変だったでしょう」
暁は努めて穏やかな声を意識しながら、最後の座布団を押し入れの隅へと収めた。
振り返ると、母親の顔には隠しきれない疲労と、それ以上の深い哀切が刻まれている。澄花が旅立ってから、早くも二年の月日が流れた。世間一般で言う「三回忌」という節目。しかし、僕にとっての時間は、あの日の朝から一歩も進んでいない。時計の針は無理やり動かされている。けれど、自分という存在の核は、未だに冷たい冬の底に置き去りにされたままだ。
「本当に、暁くんには頭が上がらないわねえ……。葬儀の時も、一回忌の時も、こうして今日も。自分のことだけでも精一杯のはずなのに、いつも私たちのことまで気にかけて動いてくれて」
母親は座卓に湯呑みを置きながら、細い肩を落として微笑んだ。その笑みは、どこか申し訳なさそうに揺れている。
「そんなこと、当然です。僕と澄花は、同棲を始める前にお二人に挨拶に伺いました。あの時から、僕はここの家族の一員にさせてもらったつもりでいますから」
自分の言葉が相手の負担にならないよう、慎重に言葉を選んで返した。
実際、暁と澄花の両親は、これまでに何度も顔を合わせ、言葉を交わしてきた。初めてこの家に「彼氏」として挨拶に来た時の、あの張り詰めたような、けれど温かい空気。
あの時、ご両親はひどく緊張しつつも、破格の温かさで暁を迎えてくれた。後から澄花に聞いたことだが、澄花が家にボーイフレンドを連れてきたのは、長い人生の中で暁が初めてだったらしい。それどころか、親友の佐々木実紅以外の友達をこの家に招くことすら滅多になかった澄花が、「大切な人」として連れてきたのが暁だった。だからこそ、両親は「この人を絶対に大事にしなきゃいけない」と心に誓ってくれたのだという。
籍を入れる前に、澄花は逝ってしまった。義理の息子ですらない。言ってしまえば、戸籍上はただの「赤の他人」だ。それなのに、二人の関係が恋人のままで終わってしまった今でも、両親は僕のことを、まるで本当の息子であるかのように温かく扱い、頼りにしてくれる。その優しさが、僕にとっては痛いほどありがたかった。
だからこそ、葬儀の際も、その後の法要でも、暁は「ただの客」として座っていることなどできなかった。何かをしていないと、自分が崩れてしまいそうだったという側面もある。けれどそれ以上に、澄花が愛した両親を支えることこそが、今の自分にできる唯一の「澄花への愛の証明」だと思いつつ、必死に動いていただけなのだ。
居間の襖が静かに開き、澄花の父親が入ってきた。喪服の上着を脱ぎ、白いワイシャツ姿になった父親は、少し日焼けした顔に深い皺を刻みながら、僕の正面へと腰を下ろした。
「暁くん、本当にありがとうな。いつもいつも、君に甘えてばかりで」
父親の声は低く、誠実さに満ちていた。
「お父さん、お疲れ様でした。駅までの送り迎えも、毎回すみません」
頭を下げると、父親は決まり悪そうに頭を掻いた。
そう、今日もそうだった。この家に赴く際、毎回澄花の父親は、最寄りの駅まで自家用車で迎えに来てくれる。電車を降り、改札を出ると、必ずそこには見慣れた車と、運転席でそわそわと待っている父親の姿があった。
「いや、何、大した距離じゃないさ。駅からここまで、バスも本数が少ないしな。君をあんなところで待たせるわけにはいかないだろう」
父親はそう言って笑うが、暁には分かっていた。そうでもしなければ、父親自身が落ち着かなかったのだろう、ということを。
最寄り駅で僕の姿を確認し、車に乗せ、自分の手でこの家まで連れてくる。その一連の動作を行うことで、父親は「娘が愛した人」である僕との繋がりを確かめ、同時に、澄花を失ったという厳然たる現実から、ほんの少しだけ気を紛らわせようとしていたのではないか。車内での、他愛のない世間話。天ける切り出し、最近の仕事の様子、電車の混み具合。そんな、あえて核心に触れない会話を交わす二十分間こそが、父親にとっての、そして暁にとっての、静かな心の準備期間になっていたのだ。
差し出された湯呑みを両手で包み込んだ。温かい熱が、冷え切った指先からじんわりと伝わってくる。
実は、今日、心の中で密かな覚悟を決めていた。
今日で、三回忌。3という数字がつく、一つの区切りだ。だから……少しだけでも、今日という日を境に、気持ちを切り替えられたら。前を向くきっかけにできたら……
そんな風に、自分自身に言い聞かせるようにして、この実家の門を潜ったのだ。
いつまでも立ち止まったままでは、天国の澄花も悲しむかもしれない。周りの友人たちはまだ切り替えられなくていいと言ってくれたけれど、自分自身がこの停滞に耐えられなくなりつつあった。仕事はこなせる。日常生活のルーティンも型通りにできる。
けれど、内面は空っぽのままだ。何かが決定的に変わるわけではないとしても、この「三回忌」という法要を終えることで、ほんの1ミリでもいいから、明日へ進むためのスイッチを切り替えたい。そう願っていた。
しかし。
いざ法要が終わり、親族たちの啜り泣きを聞き、澄花の遺影と正対してしまうと、そんな決意は脆くも崩れ去った。
切り替える? どうやって? あんなに笑っていた澄花が、もうどこにもいないのに。どうして僕だけが、3という数字の並びに背中を押されて、勝手に進もうとしているんだ?
胸の奥が、締め付けられるように痛む。お茶の表面に浮かぶ自分の顔は、情けないほどに迷いと苦悩に満ちていた。やはり、まだ無理なのだ。時間は流れても、自分の時計は壊れたままだ。
「暁くん」
父親が、湯呑みをテーブルに置き、真っ直ぐに僕のことを見つめた。その瞳には、深い温かみと、それと同じくらいの切なさが宿っている。
「……はい」
「君がこうして、澄花の三回忌が終わっても、変わらずに僕たちを助けてくれること、本当に、言葉にできないくらい感謝しているんだよ。母さんも、いつも君が来てくれるのを、寂しさと嬉しさが混ざったような気持ちで待っているんだ」
父親は一度言葉を切り、視線の落とした。畳の目をなぞるようにして、ゆっくりと言葉を紡ぎ出す。
「でもな……同時に、心配にもなるんだ。私たちは、君をこの場所に、澄花という過去に、縛り付けてしまっているんじゃないかって」
「え……?」
僕は思わず顔を上げた。予想もしなかった言葉に、胸がどくっと跳ねる。
「お父さん、そんな、縛り付けられているだなんて、思ったことは一度も──」
「分かっているよ」
父親は、言葉を遮るように、優しく手を振った。
「君が自発的に、心から澄花を想って、私たちのために動いてくれているのは分かっている。澄花があれほど一途に、君から想ってもらえていたことは、親としてこれ以上ない喜びだ。あの子は、本当に幸せ者だよ。それは間違いない」
隣で聞いていた母親も、静かに目元をハンカチで押さえながら、何度も深く頷いている。
「だけどね、暁くん。君の人生は、この先まだまだ長いんだ。君と澄花は、籍を入れることも叶わなかった。言ってしまえば戸籍上は赤の他人で、君はこれからの未来がある若者なんだよ。それなのに、いつまでもこの田舎の、もう娘のいない家に君を呼び寄せて、手伝いをさせて……そんなことを繰り返していると、君が新しい一歩を踏出す邪魔を、私たちがしてしまっているんじゃないかと、そう思えてならないんだ。まるで本当の息子みたいに甘えてしまっている自分が、申し訳なくなるんだよ」
父親の言葉は、胸に鋭く突き刺さった。それは拒絶ではない。あまりにも深い、暁への思いやりと、親心ゆえの「心配」だった。彼らは、暁の誠実さを知っているからこそ、その誠実さが僕自身を苦しめる鎖になっているのではないかと、恐れているのだ。
「そんなことはありません」
声を絞り出した。喉の奥が熱い。
「僕は、澄花のことを忘れたいなんて思ったことはありませんし、ここに、この家に、この場所に来ることは、僕にとっても……澄花との繋がりを感じられる、大切な時間なんです。縛られているなんて、そんな風に思わないでください」
「ありがとう、暁くん」
父親は弱々しく微笑んだ。
「そう言ってもらえると救われるよ。でもね、君がそうやって無理をして、前を向こう、切り替えようと必死に戦っているのも、なんとなく伝わってくるんだ。今日だって、君は少し、いつもより強張った顔をしていたからね」
見透かされていた。僕は言葉を失い、ただ指先を握りしめることしかできなかった
静まり返った居間に、柱時計の規則正しい刻みの音が響く。カチ、カチ、という音だけが、三人分の呼吸の間に挟み込まれていく。
父親は、背後の仏壇に目を向けた。そこには、生前と変わらない、満面の笑みを浮かべた澄花の遺影がある。悪戯っぽく、けれどどこか周囲を包み込むような、優しい笑顔。
「暁くん。君が知っている澄花は、いつもどんな子だった?」
父親が、不意にそんな問いを投げかけてきた。
暁は、記憶の引き出しをそっと開ける。そこにいるのは、いつだって太陽のように明るい彼女だ。
「……いつも、ニコニコしていました」
暁の声が、少しだけ和らぐ。
「どんなに辛いことがあっても、仕事で失敗しても、僕の前にいる時の澄花は、冗談ばかり言って、いつも楽しそうに笑っていました。彼女の笑顔に、僕は何度も救われました。僕が落ち込んでいる時も、澄花が笑ってくれるだけで、大丈夫だって思えたんです。本当に、太陽みたいな人でした」
その言葉を聞きながら、父親は愛おしそうに遺影を見つめ、それから小さく息を吐いた。
「そうか。やっぱり、君の前でもそうだったんだな。あの子はね、ずっと、そういう子だったんだよ。でもな……あの子がどうして、いつもそんな風にニコニコしていたのか、その理由を君に話したことはあったかい?」
「理由、ですか……?」
暁は首を傾げた。性格が明るいから、いつもポジティブだから。それが澄花の天性なのだと、暁は疑いもなく思っていた。
「実はね」
父親は、懐かしむように目を細めた。
「澄花がまだ、小学校四年生くらいの話だ。あの頃の澄花はね、今とは全然違って、すごく人見知りで、気が弱くて、すぐに泣いてしまうような子だったんだよ。学校でちょっと嫌なことがあると、家に帰ってきては、私の後ろや、母さんのスカートの陰に隠れて、ずっとメソメソ泣いているような、そんな静かな子だったんだ」
暁は驚いた。自分の知っている澄花、あのエネルギーに満ち溢れた彼女からは、到底想像もつかない姿だったからだ。
「ある日ね、学校で友達と上手く喋れなかったとか、そんな些細なことで、澄花がまた大泣きして帰ってきたことがあってね。私はその時、少し仕事で疲れていたこともあって、つい強い声で言ってしまったんだ。『いつまでもメソメソ泣いてばかりいたら、周りの人も困ってしまうぞ。楽しい時だけじゃなくて、困った時こそ、笑っていなさい。笑顔でいれば、きっと良いことが向こうからやってくるし、周りの人もみんな幸せな気持ちになれるんだから』ってね」
父親は、自分の大きな手をじっと見つめた。その手は、少し震えているようにも見えた。
「親としては、ただの励ましのつもりだったんだ。泣いてばかりいる娘に、少しでも強くなってほしい、前を向いてほしいという、軽い気持ちからのアドバイスのつもりだった。……でもね、あの子はそれを、本当に生真面目に、文字通りに受け止めてしまったんだよ。私が無理をさせてしまったんだ……」
父親は顔を伏せ、自責の念に声を詰まらせた。自分が娘に重い鎧を背負わせてしまったのではないかと、ずっと心に引っかかっていたのだろう。
すると、隣でそっと涙を拭っていた母親が、父親の肩に優しく手を置き、諭すように、けれどとても温かい声で言った。
「お父さん、そんなことないわよ。あの時の言葉があったから、澄花はこんなに良い人たちに恵まれたんじゃない。暁くんみたいな素敵な人にも出会えた。……良かったね、澄花」
母親は、仏壇の中の澄花の遺影を見つめ、涙の滲んだ目で優しく語りかけた。その言葉には、父親への救いと、娘が築いた絆への心からの誇りが満ちていた。
父親は、妻の言葉に救われたように小さく息を吐き、再び僕のことを見た。
「大きくなってからも、その癖は抜けなかったんだね。あの子が冗談を言って、いつもふざけていたのは、周囲の空気を明るくしたいという気持ち半分と、自分の繊細な部分、傷つきやすい部分を隠すための鎧でもあったんだよ。だから、暁くん。君の前でいつもニコニコしていた澄花は、もちろん君と一緒にいて心から幸せだったから笑っていたのも事実だけど……同時に、君に心配をかけたくない、君をいつも笑顔にしていたいという、あの子なりの必死の『優しさの表れ』でもあったんだ」
父親と母親の話を聞き終えた時、視界は、いつの間にか涙で激しく滲んでいた。
澄花……君は、そんな風にして、僕の前で笑ってくれていたのか……
胸が押し潰されそうだった。「太陽のようだった」と信じて疑わなかった彼女の笑顔の背景には、そんな幼少期からの健気な決意と、周囲への果てしない気遣いがあったのだ。自分は、彼女のその笑顔に甘え、救われ、その裏にあるかもしれない小さな震えに、どれだけ気づけていただろうか。
「だからね、暁くん」
父親の声が、耳に優しく届く。
「君が今、澄花を失って、これほどまでに苦しんで、立ち直れずにいるのを見て、あの子が天国でどう思っているか。きっとね……『私のせいで、暁くんをこんなに悲しませちゃって、どうしよう』って、あの顔で、オロオロしながら心配していると思うんだよ。君を笑顔にしたくてずっと頑張ってきた子だからね。君がずっと泣いていると、あの子自身が、自分の笑顔が足りなかったんじゃないかって、悔やんでしまうかもしれない」
「無理に、今すぐ切り替えろなんて言わない。そんなの、できるわけがないんだ。私たちだって、未だに夜中にあの子の名前を呼んでしまうことがあるくらいだからね。だけどね、暁くん。いつか、本当にいつかでいい。君がまた、自分の人生を歩んで、心から笑える日が来ること。それこそが、澄花が一番望んでいることなんだよ。あの子のあの笑顔は、君を縛るためのものじゃない。君を幸せにするためのものだったんだから」
父親はそう言うと、僕の肩にそっと手を置いた。その手の温もりが、喪服越しに伝わってくる。
「……はい」
頷くことしかできなかった。涙がポロポロと落ちて、畳に小さなシミを作っていく。
今日、この三回忌を境に、少しだけでも気持ちを切り替えられたら。そう思っていた自分の浅はかさが、気恥ずかしくもあり、同時に、救われたようでもあった。
こんな話を聞かされた後に、すぐに「はい、分かりました」と切り替えられるわけがない。
澄花の笑顔の本当の意味を知ってしまった今、彼女への愛おしさと、失った喪失感は、むしろ何倍にも膨れ上がってしまっている。
僕の時計は、まだ止まったままだ。カチカチと音を立てる周囲の時間の流れに反して、彼の内なる針は、完全に固定されている。今日という日を経ても、明日になっても、きっとこの寂しさが劇的に癒えることはないだろう。
けれど、その「止まったままでいる自分」を、澄花の両親は否定しなかった。戸籍の繋がりなんて関係なく、ただ娘が愛した一人の男として、僕の痛みに寄り添い、澄花の過去を分け合ってくれた。
「ゆっくりでいいんだよ、暁くん。本当に、ゆっくりでな」
母親が、ハンカチを暁に差し出しながら、温かい声で言ってくれた。
「……ありがとうございます。本当に、ありがとうございます」
何度も頭を下げた。
外の光はすっかり落ち、部屋の中には、夕闇が静かに広がり始めていた。澄花の遺影の笑顔が、薄暗がりの中で、心なしかいつもより少しだけ、柔らかく、包み込むように見えた。
時計の針は止まったままでいい。未だに受け入れられなくてもいい。ただ、澄花が残してくれた笑顔の温もりと、両親のこの優しい言葉を、胸の奥の、一番大切な場所に仕舞い込んだ。
